1-9
携えたワインとチーズの効力か、それとも、二度会ったことにより知人程度には認識されているのか、アルフレドは侯爵家のサロンに無事に通された。
品よく整えられた調度品は居心地よくも、慎ましく侯爵家の財力を主張している。下品にならないように威厳を漂わせるというのは、案外難しいものだ。
ルシエンテス侯爵は本日も大変麗しい様子だ。赤い布張りのひとり用の椅子に腰かけ、脚を組み、ひじ掛けに両ひじを置くというなんの変哲もない姿が絵画のように様になっている。
アルフレドは意を決して切りだした。
ベルガミン子爵夫人の下に足繁く通ううち、噂になっている。人嫌いの侯爵が未亡人の手練手管で陥落されたと。
「どちらも見目麗しいから、格好の噂の餌食にされるのでしょう」
あまり人前に出ないルシエンテス侯爵が、というのも好奇心を集める一端となった。
「秘密というのはそれだけ人の耳目を集めやすいものですから」
侯爵は呆れたように鼻を鳴らす。
「隠しておきたいことを暴き立てようなどとは下種の勘繰りというものではないか」
「人は隠されると知りたがるものなのです」
隠すのはそうするだけの価値があるのではないか、良いものだから、独占しようとするのではないかという心理が働く。
「君のところのワインと同じだな。手に入らないとなると欲しくなる」
そうやって付加価値をつけることで成功を収めたセブリアン家の三男はしばし口を閉じた。ルシエンテス侯爵の敬語は先だって見舞いに訪れた時から取れている。少しはアルフレドという存在に慣れ親しんでくれているのだろうか。そうだったら嬉しい。
「なにかおかしいことでも?」
「いえ、ちょっと別のことを考えていたのです」
ルシエンテス侯爵はカップを手にとり、茶を飲む。優雅にお茶会をしている気になるから不思議だ。
「ベルガミン子爵夫人の義弟はどうやらわたしの事業の敵対者と関わりがあるようだ」
アルフレドも茶を飲もうとしたが、聞き捨てならない言葉に手を止める。侯爵は唇に笑みを乗せる。
「案の定、夫人にあれこれと吹き込んでいたよ。夫が亡き後、不安が募り、縋る相手がほしかった夫人は義弟を無碍に扱うことができなかった」
侯爵は夫人の現状を見ぬき、なんとか義弟から離そうとした。
「君が以前教えてくれた妖精犬はね、子爵の弟が夫人に黒い犬を見せて、不吉の印だと吹き込んだのだよ」
「では、夫人が見たのは子爵の死後ということでしょうか?」
「そうだ。怯えて混乱しきった子爵夫人は、夫の死の直前にも見たような気になった」
侯爵もまた子爵邸で見たのだという。
「仔牛ほども大きいとされているが、普通の犬程度の大きさしかなかったよ。目はどうやって赤くさせるんだろうね」
「犬も人間と同じように目が充血することがあるそうですよ。病の一種です」
「なるほど。そういう犬を連れてきたんだろう」
侯爵は得心がいったという風に頷く。
「おそらく、敵対者はわたしの情報を入手するなり邪魔をするように指示したのではないかな」
「それで、ベルガミン子爵の弟御は侯爵が子爵夫人の元を訪れた機会に、妖精犬に見立てた犬を見せつけたのですね」
今度はアルフレドが首肯する。
「わたしはそういった迷信は信じないのだから、無駄足だったがね」
蒸気機関という動力によって科学の発展が押し上げられつつある昨今、魔法や妖精、呪いなどが原因とみなされてきた不思議な出来事たちは論理的な解釈の元、その実態を徐々に明るみにされつつある。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、まさしくベルガミン子爵夫人は義弟によってこの境地に陥っていた。
まだ解明されていない部分も多くあり、ちょうど、科学と幻想が入り混じり、混然一体となっている世の中でもあった。
「ベルガミン子爵家は破産間近だと聞きますが、どうして侯爵はそこまで?」
「子爵とは事業に関するのとは別の契約を取り交わしていてね。子爵の死は、物品を譲り受けその対価を渡す、というところまで漕ぎつけた矢先のできごとだったのだよ」
アルフレドは話を聞くうち、ルシエンテス侯爵は事業に関して自身で采配をふるっているのだと知った。
「セブリアン・ワインも手掛けてみたいものだ」
有難いことに、セブリアン伯爵家のワインはブランドとして名を馳せつつある。
「ぜひお願いします」
「そうだな。では、まず、その口調から改めようか」
「無作法で———」
「いや、先だって馬車を取り囲んだ子供たちにはざっかけない話し方をしていた。そちらが君自身の話し方だろう?」
アルフレドは思わず絶句する。どうして自分の周りにいる成功者はこう礼儀作法を取っ払わせようとするのか。実際にそうしたとして、周囲からしたらアルフレドが礼儀知らずの若造に見える。
「侯爵はわたしに礼儀を知らない者のように振る舞えと?」
「わたしは経験が浅い」
唐突な言葉に面食らう。
「だから、ベルガミン子爵夫人の手管にもやすやすと惑わされる」
アルフレドは即答を避けた。
どこまでやっちゃったんですかなどと、他の友人らにするようには、麗しい侯爵に聞くことは出来なかった。
「わたしには友もいないのだから」
「あ、えーと、その、光栄です」
遠回しに友人になりたいと言われて、アルフレドは赤面した。
「ひい爺さんがあちこちの神殿にも人脈があって、色々な知識を拾ってきてはぶどう畑を増やしてワインを製造した。爺さんはそれを引き継いだんだ。家督を譲った今もうちのワイン製造は爺さんが主流だ」
アルフレドは持参して来たワインがそそがれたグラスを掲げ、窓から差し込む光に透かして見た。良い色合い、揺らぎ具合だ。これほどまで艶やかな色味、高貴な振る舞いはないと思っていた。ルシエンテス侯爵の容姿や仕草はそれに匹敵する。
心からの実感であり、アルフレドの最大限の称賛ではあったが、祖父に負けないワイン莫迦であるとの自覚はなかった。
「今度は君が曽祖父と祖父の築き上げたものを引き継いでいるんだな」
「どうかな。まあ、言われるがままにするってのも芸がないから、あれこれ試してはいるがね。衝突することもある」
そこで新たな友はふっと呼気に紛れて笑った。様になる。
「兄貴たちにはあの爺さんとよく口喧嘩できるなって呆れられているよ。おやじでさえも爺さんには頭が上がらないのさ」
あの曾祖父に薫陶を受けた祖父だ。
「ご壮健なのだな」
「元気も元気。あっちで大雨があったと聞いたらすっ飛んで行って、こっちで強風が吹いたと聞いたら駆け付ける」
自然の脅威は偉大である。古には雨や風の威力に大いに感じ入り、そこに神の存在を見ていた。
「伯爵家の当主の頃からそうだったからさ、ぶどう畑やワイナリーの人間はすっかり仲間意識が根付いているんだ。これはとんでもない財産だ。おやじや兄貴たちはあまり解っていないけれど、伯爵家の強い切り札だ。それを爺さんの代で終わらせてしまうのは勿体ないだろう?」
それが分かるからこそ、そしてそれを継承していこうとするからこそ、祖父はアルフレドを対等に扱ってくれるのだ。単なるお世話係ではないはずだ、多分。
「牧場の方もさ、専門でやるところをもっと増やすのと同時に混合農業の出来物をもっと商品として流通させたいんだ」
そのためには、一定以上の品質を保つことが必要とされる。
「流通とか販売ルートはこっちでなんとかすれば良い」
一般庶民は自然や動物を相手にするので精いっぱいだ。
「お爺様がご壮健のうちにそれらの基盤を作っておこうというのか」
「爺さんがいるうちなら、聞く耳もあるだろうからな。ならば、そのうちになんとか基礎だけでも整えておきたい」
アルフレドは自身の考えを読まれて驚きつつも、ごまかさずに敢えてにやりと笑う。
「伯爵家のためにもなるしな。というか、ワインと一緒に売れるものだ。爺さんも分かっているから文句は言ってこないさ」
アルフレドはワインの味に合うチーズを作ることや、バターのレシピを考案しているのだと話す。様々な取り組みを語るうちに熱が入る。
「母方の伯父がなかなかの食通でな。舌が肥えているんだ。なんとか巻き込めないかと思っている」
「だったら、正攻法で行けば良い。様々なワインと多様なチーズを持って行ってどれになにが合うかを試食してもらえば良いだろう」
考案するところから関与させてしまえば良いというルシエンテス侯爵にアルフレドは表情を明るくする。
「良いな、それ! 伯爵御墨付きという触れ込みで噂を流せば良いし、お得意様にも勧めやすい」
「得意先用にも試飲や試食を用意したらどうだ?」
「そうだな。味には自信があるから、上手くいきそうだ」
今までは秘匿することで価値を高めた。これからはその品質を広めていきながらも勿体ぶってやろう。
そう言うと、侯爵は噴き出した。そんな姿さえ麗々しいものだった。
蒸気機関の仕組みは二千年前くらいからあったそうです。
本作の舞台は産業革命前ですが、
その原動力となった蒸気機関はその前から様々な発明がなされてきました。
ルシエンテス侯爵家は鉱山を持っているので
その排水などで蒸気機関が使われていたかもしれません。