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※本日三回目の更新です。

 ご注意ください。


 



 エリアスの献身的な励ましもあって、ベルガミン子爵夫人はあやふやな降霊術に頼ることはしないと明言した。その代わりの依存先をルシエンテス侯爵へと定めた。毎日のように手紙が届けられ、涙ながらに綴られている。やや崩れた文字は気持ちが弱まっているのを表しているかのようで、エリアスは何度となく足を運ぶことになった。

 エリアスしか縋る者がいないのだと言われて身体を投げ出すようにされれば、その柔らかく頼りなげな風情に、どうにもすげなく捨て置けない。


 ベルガミン子爵のタウンハウスはこぢんまりとしていた。訪ねると決まって狭いサロンに通されふたりきりになる。

 その日、ふたり掛けのソファに腰かけたエリアスの隣に座りなおしてひたと見上げて来る。

「わたくし、実は、」

 重大な秘密を打ち明けるように囁く。

 夫が亡くなる直前に、妖精国の犬を見たという。

「あの伝承に出てくる妖精犬ですか?」

 問いながら、アルフレドが言っていた通りだなと内心考える。

「そうですわ」


 黒く大きく、燃えるような赤い目を持ち、不気味だったという。毛が逆立っているのかと思いきや、陽炎のように身体中を黒い炎が覆っていたのだそうだ。

「四肢は太く、とんでもない速さで走るのですわ」

 言って、身を震わせ、エリアスにしがみつく。


 従順な犬は人の良き友として傍らに在った。貴族は狩りの供とし、庶民は番犬に使う。だが、黒い犬は不気味な魔物に位置づけられている。死の予言をするという俗信が伝えられてた。だから、子爵夫人もそんなことを言い出したのだろう。

 しかし、エリアスは疑問を持った。

 走っているのを見たのか? どこからどこまで? 自分の方に向かってきたのなら、なぜ今、無事なのか?

 そういった事柄が次々に脳裏に浮かんだが、口に出して質問することはなかった。夫人のすっかり怯えきった様子に、明確な答えが返って来るとは思えなかったからだ。

 女性とはかくもつじつまが合わないことを言うものなのか。


 そんなエリアスの考えを他所に、子爵夫人は更に続ける。

「その鳴き声のあまりの怖ろしさに、小鳥も歌うのをやめましたのよ?」

「ほう」

 自分でもあまりに熱のない相槌だった。

「本当ですわ! フクロウさえも黙ってしまうのでしてよ」

「そうなのですね。それはとても怖かったですね」

 音がしそうなほど勢いよく身を起こして子爵夫人が言い募るので、なるべく心情を込めて労わった。

「ええ、ええ、そうなのでしてよ。分かって下さって嬉しいわ」

 そうして、エリアスの腕に自分の手を絡ませ引き寄せる。柔らかく弾力に富んだ胸のふくらみが押し付けられる。


「わたくし、怖いわ」

 そう言って上目遣いで侯爵を見上げる。夫人の顔を見ようとすれば、垂直に見下ろせる谷間が視界に入る。これほど恐ろしい谷合いもあるまい。ともすれば、足を取られて真っ逆さまに落ちる。今、取られているのは腕だが。

 エリアスはなるべくそちらが視界から外れるように調整しながら、子爵夫人を宥めた。とにかく、目的を果たすことが第一だ。

 しかし、相手は生身の人間だ。

 エリアスに考えがあるように、子爵夫人には望みがある。それが合致しなければ、どちらかが、あるいは双方がそれぞれ譲歩しなければならない。


 会話も途切れ、それではと腰を上げようとしたが止められる。

「今、帰ってはいけませんわ。もし、またあの犬に出逢えば、命を取られるかもしれませんのよ?」

 会ったのは子爵夫人である。ましてや、エリアスは信じていない。恐怖心からそんなものを見たような気になっているのだろうと見て取っていた。


「殿方は不思議の世界の生き物を信じようとはしませんものね」

 子爵夫人は自分の言葉に耳を貸さず、やんわりと帰宅する旨を告げるエリアスを可愛らしく睨んだ。

「そんなことはありませんよ」

 柔らかく苦笑しながら、エリアスは左手をきつく握る。手袋が鳴る。

 凄みを美しさに変える微笑みに、子爵夫人は声を失った。


「部屋の中にいるのであれば、仕切りを作って閉じ込めて封じ込めてしまうのですけれどね」

「まあ、頼もしいですわ!」

 伝承に、怪しい黒犬を幻術遣いがそうやって無力化したというものがある。子爵夫人はそれを知ってか知らずか、両手を胸の前で組んでうっとりとエリアスを見上げる。

 すっかり怯えきって、侯爵という高い地位の者に縋りついているようでもある。侯爵を帰したくなくてそう言っているのか、本当に妖精犬のことを信じているのか、エリアスには判別がつかなかった。冷静に判断できないでいる自覚はある。子爵夫人はともかく、温かく柔らかく、良い香りがした。


 エントランスまで寄り沿うようにして子爵夫人が見送りに出る。正面玄関脇の門扉の向こうにルシエンテス侯爵家の紋章が入った馬車が停車している。

 こぢんまりとした邸宅には庭もなく、玄関からすぐそこに通りが走る。とはいえ、由緒正しいセブリアン伯の三男であり、ワイン事業で成功を収めているアルフレドですら王都でのタウンハウスは集合住宅で、そこに妻と住んでいる。ルシエンテス侯爵は代々伝わる戸建てを所有しており、王都滞在時にエリアスはそこを用いる。


 ベルガミン子爵邸は爵位継承と共に負債を整理する必要に迫られ、恐らく、この戸建ても手放すことになるだろう。

 そんなことを考えていると、ふいに後ろから左腕を取られそうになり、エリアスは咄嗟に手を引いた。

「あそこ! あれ、あれですわ!」

 子爵夫人が指を差す方、通りの向こうの路地に赤い目がふたつ、こちらを見つめている。エリアスは目を凝らした。犬だ。

「妖精犬! ああっ!」

 子爵夫人がエリアスの胸に倒れ込んできた。ショックのあまり気を失った。子爵夫人を使用人に任せて、エリアスは門扉を出て路地の方に近づく。


「旦那様、なにかありましたでしょうか?」

 御者がなんの騒ぎかと驚いている。

 子爵夫人に気を取られているわずかな間に、犬は姿を消していた。

「黒い毛並みの赤っぽい目の犬ではあったが、さて」

 死を告げる不吉の象徴とされている。

 これはなんの予告だろうか。

 エリアスはすぐに気を取り戻した子爵夫人に縋りつかれ、たおやかな美女が怯えるのを宥めるという役得を甘受しつつ、考えを巡らせた。




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