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貴族というのは恰幅の良さが富の象徴とされていた時もある。飢えは身近にあり、美食に興じられるのは栄華であり、そうすることが人から羨まれることだった。ただ、少しばかり、いや、大分古びた考え方ではある。
アゴスト侯はそういう価値観のただ中にいるため、腹が丸く膨らんだ卵型の体形をしていた。髪も髭も真っ白で、なのに肌は艶やかで頬は赤い。おそらく、髪や鬚は元の色から染めているのだろう。
「ようこそお越しくださいました。わたくしは支配人にございます」
恭しく「特別席」の客に一礼した支配人の傍らにエリアスは立つ。
「ご紹介いたします。こちらが当ティーハウスの総支配人、ルシエンテス侯爵にございます」
「ほう? じきじきの挨拶、痛み入る」
案内された席に深々と座り、大人物を気取って背もたれに背を預けて顎を上げる。やって来たのが同格の侯爵だというのに、着席したままで尊大な態度であった。同席した伯爵たちも同様で知らぬふりを決め込んでいる。自分たちの礼儀知らずさを露呈しているとは考えも及ばない。
「今日は占い師を随伴されたとか」
エリアスは内心呆れながらおくびにも出さない。年配の男たちの席にひとりだけ美しく装った少女めいた子供が座っていた。緊張に身を固くし、エリアスの方を見ようともしない。
「そう、その者だ。早速占ってやると良い。わたしは忙しいのだ。このようなところで長居してはおられないのでな」
ならば、なぜわざわざ出向いたのか。ホールでふたりの侯爵のやりとりを注視し耳を傾けていた客たちがそう思った。
「さあ、見せてくれ。この陳腐な催しが失敗に終わるところを。愚か者の末路を。わたしは特等席で眺めようではないか!」
アゴスト侯は愉悦を浮かべて言った。弾かれたように子供は立ち上がり、エリアスの方を向く。
視線の端でアルフレドがこちらへやって来るのが見えた。トラブルが起きたらすぐに駆けつける気でいたのだろう。カブレラ子爵から下町で拾い上げた子供の話を聞いている。そして占い師の少女の噂を流していることについて、どういう目的があるのか警戒していた。
「あのご仁はいつも自分が一番でなくては気に入らないのです」
「というと?」
「ルシエンテス侯爵が評判を得ているのが気に入らないのですよ」
「つまり、自分も占い師を連れ歩くことで対抗していると?」
突拍子もない理由を聞いてあきれ果てたものである。
その美しい占い師の触れ込みの子供が怯え切った目を見開いた。たどたどしく唇を動かす。遠い異国の言葉のような、意味合いは掴めないが、規則性があると知れる。
エリアスは似たようなものを耳にしたことがあった。
無意識に左手を強く握りしめる。
と、その左手が突如痛み出した。
こんな時に!
刺すような感覚は唐突に限界点を突破した。エリアスはうめき声を漏らしてその場にくずおれそうになる。縛めるように左手を握る力を籠める。ほんのわずかだけ、痛みが弱まる。けれど、半瞬だけのことで、すぐに抗うようにそれ以上の痛みを発する。もはや左手は炉のごとく灼熱を発するようになっていた。
「エリアス? どうした、大丈夫か?」
身をくの字に折り、苦悶の表情を浮かべるエリアスにアルフレドが駆け寄る。
左手の下で人面瘡が蠢いているのが分かる。
はっと顔を上げる。
歪ませてなお美しい造形、額に汗の粒を滲ませながら目を見開き、子供を見つめる。
占い師にも変調が訪れていた。ドレスの前身ごろがずたずたに裂かれている。その下からうっすら光るものが見える。
「————魔方陣⁈」
エリアスは瘡ができてから、あれこれと世界の神秘について調べた。その際、魔法陣は早い段階で取り掛かった。身に宿すという乱暴なやり方を知り戦慄したものだ。力を得るために、自ら身体に焼き付けるのだ。しかし、ならば、なんの因果か勝手に焼き付いてしまった瘡を力に変えようと逆転の発想を得たものだ。
その灼紋を、眼前の子供の左胸に刻まれているのを見て、一時自身の激痛を忘れて痛ましい表情になった。こんな年端もいかない者が自ら進んで拷問に等しい刻紋を得ようなど思わないだろう。周囲の大人に強いられたに違いない。よしんば、自分からすると言っても、偏った教育を受けたのだろう。エリアスはその聡明さから事態の一端を読み取った。
が、左手の痛烈な痛みが正常な思考を邪魔する。
エリアスを支えながらアルフレドが支配人に素早く客を避難させるように指示をする。
少年の左胸で鈍く光る魔方陣から水が放たれた。咄嗟にエリアスはアルフレドの腕を取って大きく横へ避ける。そして、左手を伸ばす。不可視の盾が現われ、水を弾く。だが、水の勢いすさまじく、その場のあらゆるものに降りかかり、衝撃を与え、濡らし、そして四方八方へ反射して飛び散った。
初々しく濡れそぼつ若葉の如く
「きゃぁぁぁぁっ」
「なんだ⁈」
「水が急に!」
「見ろ、壁を抉っているぞ!」
「に、逃げろ!」
観客は驚いて立ちあがり、椅子が横転する音があちこちで響く。少年の随伴者は椅子ごと倒れ転がった。自分たちは無事だと信じ込んでいた。占い師は自分の陣営の者だから、危険はないと頭から信じ込んでいたのだ。だから、悠然と座って見物と洒落込む気でいたのだ。巻き添えを食うなど、あり得ない。そんなことを自分に向けて行うなどもってのほかである。
清爽な眦、鮮やかな色に決意が灯る
「アルフレド、君は客の誘導を」
痛みは徐々に引いて行く。ようよう息を整え言う。視線は真っすぐに子供に向けている。
「エリアス、君はどうするんだ?」
下の方から声が聞こえてくる。アルフレドもまた突然現れた水の攻勢にたまらず片膝をついていた。なにしろ、激戦地の真っただ中にいるのだ。
「彼を止める」
「なら、俺はそれを見届ける」
「だが、」
「ルシエンテス侯爵家が教育した雇用人は有能さ。不測の事態の対応もそら、あの通り」
こんな時ではあるが、アルフレドが示して見せた方をちらりと見ると、「落ち着いてください! 慌てないでください!」混乱の最中に声を必死に張り、腕を伸ばして避難する客の整理を行っている。支配人や従業員たちにはなにか事が起きればまず真っ先に客の避難を優先するようにあらかじめ言い含めていた。アゴラス侯のこれまでの傾向からして、ルシエンテス侯爵家の華々しい事業に横槍を入れるのに、ティーハウスのオープン日はちょうど具合が良い。
エリアスはひとつ頷いた。ならば、よし。元々、アルフレドはエリアスの部下ではない。自ら考えて行動し、エリアスに力を貸してくれているのだ。
好きにするさ。エリアスはそう言って少年に向き直った。
なにものにも膝をつかず、軽やかに
エリアスは少年の間近にいた者たちが尻餅をついたりへたり込んでいるにもかかわらず、ひとり悠然と立っていた。アルフレドさえ、その場に片膝をついていた。
そして、臆することなく、一歩足を踏み出した。
アルフレドは止めなかった。ただ、なにかあれば動けるように周囲とアゴラス侯ら、そしてエリアスと少年にまんべんなく意識を向けた。
その姿、つぼみが綻ぶように麗しく
少年が驚いて目を見開いた。
不可思議な力を行使する場面で少年に近づこうなどという者はいなかったのだろう。しかし、エリアスは同じような化け物を身に飼っている。それでいてなお、自身に笑うことを強制して来た。けれど今は自然と笑んだ。
それは実に麗しいものだった。
エリアスはアゴスト侯とその陣営の者たちが四つん這いでなんとか遠ざかろうとし、または頭を抱えて呻いているのを見て左手の手袋を取り去った。
少年の方へ甲を向け、腕を伸ばす。
少年の胸の魔法陣がひと際強く輝く。鉄砲水が発射される。エリアスへ向けて肉薄する。少年は苦悶の表情を浮かべて、自身の胸、魔法陣へ手を当て力を籠める。
人面瘡という脅威に対して魔法陣が暴走せんとするのを、抑えようとしているのだ。
その意気や善し。
年端も行かない者の気概に、エリアスは満足げに笑んだ。
「お前の得意とするところだ。さあ、喰らい尽くせ」
少年は驚愕する。彼が放った魔法はエリアスの手の甲に吸い込まれて行く。
エリアスは未だかつてない重圧を感じ、脚に力を入れた。子供の身に刻まれた魔法陣が発する水が勢いがあるあまり、風を巻き起こし、衣服や髪をはためかせる。
しかし、エリアスはひとりではなかった。
いつの間にか立ち上がったアルフレドが右手を握る。こんな時なのに少し笑む。アルフレドは逆の手にワインボトルを持っていた。セブリアン・ワインである。あの時、エリアスを化け物呼ばわりした少年は長じてこうやって助けてくれる。
世の中には奇跡のようなことが起こるものなのだ。
———そら、ご褒美が待っているぞ。励め。
常にひとりで戦っていた。孤独だった。今は違う。多くの者たちの助力を得ている。自分もそうしたいと思う。自分にないものを持つ彼らがそれを差し出してくれるように、彼らの大切なものを守る術を持ちたい。大きな力に呑まれ、あるいは振り回されることなく。
不可思議の力と力が拮抗し、じりじりと押され出した。
瘡と魔法陣の対決で軍配が上がったのは前者だった。
大食漢は大量の魔力で生み出された水を食らってなお、好物を前にして奮い立った。
子供ががくりと力を失って膝をつく。そして床に倒れ伏した。
視界の端にパメラが映る。彼女は別件で動いていたのだが、合図をしてくるのを見るに、成功した様子だ。渋る従者を、今回は非常な危険がつきまとうのだと説き伏せるのに骨が折れた。どうしてもお前の力が必要だと言ってパメラと共に行動させた。それが功を奏した様子だ。
エリアスは左手を手袋で覆って子供を抱き上げた。
「弟妹は救い出した、医者に診せて食事を摂らせている」
意識はあるのだろう子供が泣き出した。しかし、大分衰弱している。早く事を終わらせて休ませてやろう。
エリアスは床に這いつくばって震えるもうひとりの侯爵に声を掛けた。
「アゴスト侯、ご家門には隣国バルケネンデへの売国行為の罪で捜査が入ります」
時間が惜しいエリアスは端的にアゴスト侯の企みを暴いた。
「なっ……!」
部下たちにはあれほど好き勝手振る舞うアゴスト侯も流石に言葉もない様子だ。
そして、侯爵は麗しく笑い、敵を追いつめる。
「今回の我がルシエンテス侯爵家の事業への妨害に関しても罪に問われますでしょう。その贖罪の一環として、この子供はもらい受ける。以後、彼はルシエンテス侯爵家の庇護下にある。ゆめ、忘れなきよう」




