4-2
太古より人は自然を恐れてきた。だから、超人的存在、神や精霊、その眷属、そして悪魔といった存在を身近に感じ、頼ったり畏れたりしてきた。物事にはなにかの理由があり、それら原因には人を超越した存在があると考えられた。
大地が育む植物を口にし、同じくそれらを食べる動物を糧にする動物をも狩る。生命にとって水や風は必要なものだ。火は動物の牙を寄せつけず、動物が本能的に恐れる闇を明るく照らす。そのため、人は火を扱うことを覚えた。
これらの要素の根元たる力を研究し、動物には扱い得ない「力ある言葉」によって行使する。急激に増えた人間の中で自分は特別だと思いたい気持が、有象無象の使う「力ある言葉」を許容できなかった。より特別で秘されたものを欲した。自然と「詠唱」が生まれる。世界の力を引き出す特別なキーワードを発することによって、他者には出来ないことをなす。
しかし、すぐにそれだけでは不十分に思われた。
魔法は特別なもので、選ばれた者しか扱えないのだ。魔法使いのそんな考えに当時の魔法という特別な力を寡占したい権力者の思惑が一致した。
「魔法は魔方陣を描いてのみ行使を可能にする」
この考え方は速やかに広まった。同時に多くの魔方陣が考案された。過去の書が引っ張り出され、関連がありそうな資料について研究がなされた。魔法を行使する陣には図形や記号、文字、不可思議とされる物が取り入れられていった。
そのようにして、魔法陣を描いて魔法を行使するという認識が一般的となった。地面に棒切れで複雑な文様を描いても魔法は発動した。異世界に住むという魔物———例えば妖精犬のような———がどうかしてこちらの世界に残していった魔力を含むもの、爪や牙、骨などで描かれた魔法陣は強力な魔法を発した。
とある時代、天才魔法使いが出現した。他と区別して後に魔導士と称された。かの者は魔物の心臓、魔力の核でもって、中空に魔法陣を描いた。その威力凄まじく、ひと山を滅し、ひとつの湖を干したほどである。みなが欲しがったそれは後に魔石と呼ばれ、どの宝石よりも高価で、しかし、多くの権力者が群がった。
その魔導士に教えを乞い弟子となった数人が威力は劣るものの、この御業を扱えるようになった。弟子たちは師の技を綿々と伝えていった。
魔導士の弟子のひとりの魔法使いが自身の弟子に技を伝授している際、事故が起きた。魔法使いの弟子が中空に描いた魔法陣を肌身に食らった。すると、どうしたことか、魔法陣は肌に焼き付いた。魔法使いは痛みに悶絶した。三日三晩高熱を発した。魔法使いの弟子は師の朋輩、つまりおなじ魔導士の弟子の魔法使いたちを呼び集め、懸命に助命しようとした。なぜなら、肌身に馴染んだ魔法陣は消えずにそのまま残っていたからだ。これを生き永らえさせ、どういうことなのかを検証したい。その一心で当代の頂点を占める魔法使いたちが力を合わせて朋輩をこの世に引き留めようとした。
魔法使いは生き残った。そして、その身に受けた魔法陣もまた残った。魔法使いは朋輩たちより抜きんでた魔法を扱うことができるようになった。魔導士の弟子たちはそれを見て、こぞって自分たちも魔法陣を身に付けようとした。しかし、そこは頭の良いものたちだ。複数人がいるのだから、とそれぞれ系統だった魔法陣や、別系統の魔法陣を一緒に身に宿す、といった様々な方面を試してみることにした。結果、半数が命を落とした。当代最高峰の魔法使いたちですら、そんな有様だった。しかし、魔法使いたちはこの秘術をその身に受けんとする者が後を絶たなかった。有体に言えば、大きな力を手に入れることができたからだ。
様々な者が身に受けた結果、判明したことがある。自分の属性に通じる魔法陣を身に宿すことが一番生き残る確率が高い。相反する属性、しかも複数の魔法陣を宿そうとした場合、ことごとく命を落とす。
中には、自分の属性とそれに反発を起こさない属性の魔法陣を身に宿し、生き残った者がいた。ふたつの属性の事なる魔方陣によって、非常に大きな魔法を射出することができるようになった。しかし、短命であった。
それらが判明するころには魔導士の弟子たちはこの世を去っていた。その弟子、あるいは孫弟子たちが活躍する世を迎えていた。そして、どれほど優れた魔法使いであっても、身に魔法陣を宿さない者はそうする者に一歩も二歩も譲ることとなった。
さて、この魔法陣を身に宿すこと、あるいはその魔法陣のことを刻紋といった。また、それを身に受ける際の痛みが焼け付くようであることから、灼紋ともいった。
そうして、魔法使いたちは世の栄華を競った。
今では失われた技術である。廃れた理由にはやはり、その身に受ける際に多くが命を落としたことからだ。技術発展が進んだことも後押しした。魔法は奇術の一種のような見方をされるようになる。
石畳が敷かれていないむき出しの地面は乾ききっていない糞尿が靴底を柔らかく受け止めた。
甘酸っぱく湿った臭いと塵埃が入り混じって鼻腔を刺激した。建物の間隔が狭く、路地は細く暗い。明り取りの窓は木戸がないものが多く、そこからローブが隣の窓に向けて渡され、洗濯物が干してある。
子供らはもう汚すのが常だからそうして洗って干すこともしないような服を着て、奇声を上げて走り回っている。その裸足の足が土泥を跳ね上げるのを見て、アゴスト侯の手駒のひとりである男は眉をしかめた。
「失礼、先に行っていてください」
気になるものがあったのでそう声を掛けると、不安そうにカブレラ子爵を見つめて来る。
「いえ、ここで待っていますよ」
こんな下町の細民窟にひとりで取り残されればどんなことになるか、と顔に書いてある。
カブレラ子爵はそれに気づかない振りをして懐から小銭を出す。
そうして、彼らの脇を通り過ぎて行った子供と大人の下へ近づく。
「この卑しい盗人め! こうしてやる! こうしてやる!」
追いついて首根っこをひっつかんで殴りつけた男が、地面に倒れ込んだ子供を蹴りつける。子供はなにかを抱き込むようにして丸まった。それをなおも踏みつけようとする。
店の商品を盗まれて怒り心頭で追いかけた、というところだろう。この界隈ではよくあることなのか、誰も注意を払わない。
「君、ちょっと良いかな」
「あぁん?」
怒り冷めやらず、振り返った男は青くなった。そこそこ身なりの良い者が立っていたからだろう。
「あ、あんた、なんだ?」
身分制度が人を縛る中、迂闊な言動は命取りとなる。
「そら、商品の代金は俺が払おう。これで良いな?」
「え、あ、まあ、そういうことでしたら」
最後にもうひと蹴りしようと脚を出したのを、ひと睨みして止めさせる。相手が貴族らしからぬ者であれば、舌打ちや唾棄をしていただろう男は、それでも踵を返して去って行った。
「気分は悪くないか? どこかひどく痛むところはあるかい?」
カブレラ子爵は覆いかぶさらないように注意して、少し離れたところにしゃがんで声を掛けた。
「う……」
子供はうめき声をあげて身じろぎした。
「急に動かない方が良い。意識ははっきりしているかい?」
かすかに子供の頭が動いた。頷いたのだ。こちらの言葉に的確に反応する。大丈夫だろう。
盗みを働いたのは飢えからだ。そんな少年が暴力を受けるのを、どうしても見過ごせなかった。
今まで目を背けてきたのに、どうもあの時から、郷里の光景がまざまざと思い出されてからというもの、カブレラ子爵は自身の気持に変化が兆しているのを感じていた。元々、飢えた子供を見るのがなにより苦手だった。
少年はやがて立ち上がることができるようになった。
俯きながら、カブレラ子爵の様子を窺っている。ひしとパンの塊を胸に抱いている。
「それは君のものになったから、気にしないで食べると良い」
子供は僅かな間逡巡した後、会釈して踵を返した。その場で食べずに持って帰ろうとするのを意外な気持ちで眺めた。弱肉強食の細民窟では食料はすぐに腹に納めてしまわなければ、他の者に見つかって取り上げられる可能性がある。
しかし、カブレラ子爵にもすべきことがある。同行者の下へ戻ると一連の出来事を見ていたのか、にやついていた。
「人助けですか」
物好きですね、と言わんばかりの言葉にはなにも返さずにいた。
その時、視界の端に件の子供が、店主に暴行されても自分の身で守るようにして抱えていたパンを放り出して駆け出した。
なにがあったのだ、とその先へ視線をやると、少年たちが彼らよりも年下の小さい子供らに暴力をふるっていた。件の子供はそこへ飛び付いた。
弟妹がいじめられているところへ飛び掛かったのだろうと予測を付ける。多勢に無勢だ。それに、身体の大きさが違うし、顔つきも違う。向こうは弱者を傷つけることをなんとも思わない様子が見て取れる。
カブレラ子爵の心は痛んだ。しかし、自分にはどうすることもできない。
彼や彼の弟妹のような子供たちはどこにでもいるのだ。目の前の者だけを助けても、どうなるというのだ。自分の罪悪感が薄れるだけだろう。
それでも。
早く行こうという同行者に頷き、そこら辺でたむろしている若者に金を握らせて子供を助けるように指示した。
しかし、その必要はなかった。間近でなにかが爆ぜるような大きな音がし、直後、突風が吹き去っていく。咄嗟に振り返れば、火柱が上がっている。その中心に子供がいた。
その場は騒然となった。興味なさげに気だるげにぼんやりしていた細民窟の者たちはこんなにいたのかというほどの数が悲鳴を上げながら大慌てで逃げていく。物見高い連中が遠巻きに騒ぎの方を窺う。
子供がそそくさと弟妹を連れて逃げていくのを見てカブレラ子爵は安堵した。あんなちっぽけな子供と火柱を結び付ける者はいるまいと思っていたのだ。
だが、同行者は一部始終を見ていたようだ。アゴスト侯にご注進に及び、興味を持ったアゴスト侯は子供を連れて来いと命じた。下町での人攫いなど日常茶飯事だ。カブレラ子爵は全て事が済んだ後に知らされることとなる。
そうとは知らないカブレラ子爵は天を仰いだ。長らく、神の存在を感じることができないでいた。あの困窮する中で懸命に生きている子供が、幸せであらんことを、誰に祈れば良いのだろうか。




