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2-10

 



 どこか遠くの出来事のようだった。

 馬車が止まり、パメラの要請で慌てて御者がエリアスを抱え降ろす。

「急にご気分が優れなくなったようですの。心配だわ。中で休ませた方が良いですわ。運んでちょうだい。そっとね」

 それはか弱い婦人がさぞかし心配する風情であり、忠実な御者は主人の体調不良に驚き、少しでも早く居心地の良い場所で休ませてやろうという気遣いをした。


 エリアスは徐々に感覚が戻りつつあることから、善良な御者に助けを求めることはせず、パメラの目的を探ろうとした。

 パメラが雑用係の老婆に言いつけてルシエンテス侯爵を自分の部屋に連れて行って休ませる、少し眠れば回復するだろうと話した。猶更、エリアスは様子見をしようという気になった。パメラも自分がそれまで働いていた場所で殺傷事件を起こすつもりはないだろう。それに、御者に抱えられるようにしてしか移動できないのだから、彼もいっしょに入室することになる。さすがに身体が動かないのに単身で敵陣に運び入れられることは忌避する。


 予想通り、パメラの部屋はエレナと同じような造りのものだった。しかし、主が違えば調度品が違う。雰囲気は全く異なった。エレナは華やかな雰囲気を作りだしていたが、パメラはすっきりとまとめ上げていた。

 エリアスは室内の様子を見て取れるほどに回復していた。もちろん、内部に誰かが隠れているかの確認は真っ先に行った。着替えや客に見せたくない準備を行うための衝立は今は壁際に寄せられている。人が入れる隙間はない。続き部屋の類はなく、誰も隠れそうなところはない。


 エリアスがひと渡り室内を観察する間、パメラは御者にエリアスに飲ませる水を持って来るよう言って、追い払った。それを止めなかったのはパメラに忠告するためだった。


 以前、パメラから声を掛けられたそのすぐ後に彼女について調べた。一度の報告ですべてが明るみに出たのではないが、その経歴に不審点はなかった。特段、エリアスを狙う動機は見当たらないとすれば誰かからの依頼を受けたと考えられる。こんなやり方を指示されたのかパメラの独断かは現時点では判断がつかないが、後々、始末されるだろう。余計なことを喋られては事だからだ。


「ねえ、侯爵様。せっかくご招待したのだから、この薬が必要になるようなことをしましょうよ。もちろん、強引にお連れしたのだから、お代は結構でしてよ」

 エリアスは力なく寝台に横たわりながら例の小瓶を見せつけるように軽く振る妓女を見上げて苦笑する。

 エレナに目を向けさせておいて、パメラを使われた。

 罠を仕掛けられていた。陽動である。

 調べさせた結果一度目の報告で大した情報が上がってこなかったから油断した。恋に目がくらみ、まんまと引っかかった。

 すぐに戻ってこないことから、きっと、御者は上手いこと言って引き留められているのだろう。

 パメラの手練手管で溺れさせようというのか。そうして、情報を抜くのか。


「まずは、この邪魔なものを取り払いましょうね」

 言って、クラバットや上着ではなく、まず、手袋に手を掛けた。

 エリアスは強く目をつぶった。

 つまり、そういうことだ。


 敵はエレナから情報を抜いていた。身になにひとつつけない秘め事の最中でも、手袋を取らないということを、パメラも知っているのだ。エレナからしてみれば、客が時折披露する妙な性癖のひとつくらいの認識だったのかもしれない。だから、そのくらいの情報は漏らしても良いと考えたのかもしれない。


 けれど、エリアスにとっては重大な秘密であり、明かすには相当の胆力を要する。それ以上に、相手を選別する。

 一部の使用人以外はアルフレドしか知らない。

 エレナにも打ち明ける覚悟はまだできていない。

 だから、事情を知らないエレナがそうしたのも、致し方がないことかもしれない。エリアスはそうやって事実を受け流そうとした。


 悠長に葛藤する余裕を与えられなかった。

 まだ身体の動きは鈍い。パメラは遠慮なくルシエンテス侯爵の秘密を暴こうとした。

 右手の手袋が外される。

「あら、綺麗な手。なんて長い指かしら。爪なんてどの女性よりも美しいわ」

 言いつつ、左手に手が掛かる。

 パメラによって左手の手袋がわずかにずれる。言いようのない恐怖を感じ、抵抗する。手を払いのけたつもりだったが、弱々しい動作になった。

 ふふ、と笑って、「これ、外してほしくないのね?」

 エリアスの瞳には弱々しさとは無縁の強い意志の光が灯っていた。半瞬、それに見とれたパメラが我に返って笑う。


「貴方の気持ちを尊重したいところだけれど、でも、わたしもどうしても情報を献上しなければならないのよ。そうね、貴方にも良い目をみせてあげるわ。ね? 気持ちよくさせてあげる。その後は、秘密を明かしてね」

 言って、エリアスにのしかかる。貫頭衣を頭から脱ぎ捨て、シャツの前身ごろのボタンを見せつけるようにゆっくりとひとつずつ外していく。そして、するりと腕を抜く。たっぷりした胸が揺らぎ、そのふたつの頂点を押し当てる。豊かな肉でエリアスの上半身を撫でる。


 エリアスは心の中で身に宿った化け物を叱咤しながら左手を強く握った。それに呼応するように、左手に痛みが奔る。いつもの飢餓を訴えるものではなかった。逆に身体が軽くなる。気力体力を取り戻し、普段通りの動きができるようになり、パメラを押しやって上半身を起こした。

「きゃっ」

 唐突なあまり、パメラが短く悲鳴を上げるも、エリアスの投げ出した足の上に座ったまま、婀娜っぽく笑う。

「あら、残念。良いところだったのに」

 事が不発に終わっても優位な体勢を崩さない妓女にいっそ天晴に思った。


 寝台から降りて床に落ちた右手袋を拾い上げ嵌める。衣服を調え、壁際に押しやられていた椅子を運んできてそこに座る。脚を組みながら乱れた髪を手櫛で撫でつける。

 それらの一連の動作は全て優雅で、パメラは見とれていた。

「さて、」

 おもむろに口を開いたエリアスに、パメラは我に返ってそそくさと前身ごろのボタンを嵌める。白く豊かな肉体が隠れていく。エリアスは礼儀正しく、婦女子が身なりを整えるのを待って続けた。


「君は失敗した」

「そうですわね。こんなにすぐに薬が切れるなんて予想外ですわ」

 あいつら、まがい物を寄越したのかしら、と呟く。

 薬の効果が失われた今、隠し立てしようとはしない様子だ。

「そのやつらによって、君は口封じされるだろう」

 エリアスの死の予告は冷淡に響く。自分が殺されると聞いて、パメラはぎょっと目を見張る。

「そんな、」

「そこまではしない? それこそ、甘い考えだ」

 言われて唇を噛む。

「君はわたしに顔を見られているし、名前を知られている」

 パメラは黙り込む。その通りだからだ。


「知っていることを全て話してもらおうか」

 パメラは唇を舐めて上目遣いになる。交渉事を持ち出してくるなと予想する。そして、それは図に当たった。

「話したら、わたくしを助けてくださる?」

「やつらとやらに唆されて薬を使って襲おうとしたわたしに助けを求めるのか?」

「でも、あなたはこうしてわたくしと向き合って話そうとされているわ。それが必要だからでしょう?」

 即座に返す言葉にはもはや敬語を用いてはいない。

「なぜ襲われたのか、誰からかを知りたいと思うのは当然のことだ」

 そう返事しつつも、パメラの頭の回転の速さに舌を巻く。度胸もある。少々、状況判断が甘いが、経験を積めば解消できるだろう。



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