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その後も、アルフレドから手紙が届き、アゴスト侯らの動向を知らせてくれ、エリアスのことを案じていた。さりげなく、セブリアン伯領のぶどう畑で害虫病が発生したことに触れられており、当分慌ただしくなるので、手紙を寄越しても中々手許にこないかもしれないと書かれていた。
そこでエリアスは見舞金を取り急ぎ送っておいた。なにをするにも先立つものが必要だろう。
エリアスも独自に調べたが、相手側に有能な人物がいると判明したので、慎重を期すことを指示した。そのせいか、調査ははかばかしくなく、膠着状態に陥った。
しばらく娼館へも訪れず、代わりに手紙や花束を贈った。館に籠り、事業の報告を聞き、指示を出し、書物に目を通す。少し前まで当たり前に行っていたことが、どこか味気なく感じた。
恋に溺れる危険性を鑑みて冷却期間を置くつもりが、会えない時間がより気持ちを募らせる。エレナは妓女だ。エリアスが通わなくても、他の者が来る。
エリアスが控えている間、アゴスト侯の息のかかった者が訪ねていって余計なことを吹き込んだら?
いや、もっと踏み込んで考えるべきだろう。相手はエリアスを破滅させる気でいるかもしれない。生意気な若造というだけで叩き潰すことに躊躇しない者はいる。ならば、エレナを操ろうとするのではないだろうか?
嫌な想像は坂を転げ落ちるようにして、より悪い未来を描かせる。
エリアスは天井を見上げてため息をついた。
気分転換するために、コーヒーハウスに出かけることにした。ひとりで館に籠って考えていても、下手な考え休むに似たりどころか悪手を打ちそうである。
真っ先に浮かんだのはアルフレドが紹介してくれたコーヒーハウスであるが、同時に血に染まった友の姿が思い出された。他のところに行くことにした。その襲撃があったから、護衛を兼ねている従者が自分を伴わないことに難色を示すが、彼には調査を任せている。危険を伴うことから、腕が立つ従者に依頼したのだが、本来の役割を果たせないと当人から抗議を受けている。従者はもうひとりおり、こちらは王都と領地を行き来して密なやりとりをするのに大いに役立っている。思案するところである。御者も護衛を兼ねているが、従者に及ぶべくもない。
御者が馬車を止めたのは、富裕な者が訪れるが、必ずしも限られた者ばかりではないコーヒーハウスのようだった。
エリアスが現れた瞬間、時が止まったように音が消え、人々は動きをやめた。目や口、人によっては鼻の穴まで開いて茫然と佳人の登場を見つめる。
エリアスは案内係に合図して待った。
職務を思い出した案内係ぎくしゃくと動き始めたのを契機に、あちこちでため息が漏れ、どよめきが起きる。
こんなことなら、アルフレドに別のコーヒーハウスを聞いておくのだったと内心苦い顔をする。当時、コーヒーハウスは裕福な商人や地主たちが新聞を片手に政治議論を行う場となりつつあった。
それでも、案内された席は個室で、ゆっくりとコーヒーを楽しむことができた。頼むまでもなく、数種類の新聞を持ってくる。中にはエリアスがあまり目にしたことがないカリカチュアもあり、中々に刺激的だった。
そろそろ席を立とうかという頃合いに、扉がノックされる。答えずにいると、勝手に開いた。
「いけまん、お客様。そちらは、」
「よろしくてよ。わたくし、こちらの殿方の知り合いですの」
給仕が止めようとするのを朗らかに遮る声は確かに聞き覚えがある。
「ごきげんよう、ルシエンテス侯爵様」
「ごきげんよう、パメラ嬢」
ほらね、という風に給仕に勝ち誇って微笑んでみせた茶色の髪を結い上げた凛とした美女はエレナと同じ娼館で働く女性だ。
断りもなく個室へ入り込み扉を閉めた。不躾に見えない優雅な動作で、いっそ堂々としたものだ。
元々、女性はコーヒーハウスに出入りすることができないとされていた。暗黙の了解で男性同伴の時は目こぼしされることもあるが、あまり宜しいこととはされない向きがあった。けれど、彼女は堂々とひとりで乗り込んできたようだ。
「覚えて下さって光栄ですわ。座っても?」
「どうぞ。わたしはもう出ますので、ごゆっくり」
「まあ、つれない方! でも、」
エリアスが立ちあがると、大仰に言い、そして、手をそっと腕に掛けてくる。
「そんな連れないところがそそられるわ」
言いながら、豊満な胸を押し出し、触れんばかりに寄り沿ってくる。
身を引きながら、エリアスはふ、と息まじりに笑った。
「つれないところがそそる。流石は妓女の手練手管、素晴らしい言い回しですね」
当代随一の詩人に詠われたほどの美貌の持ち主の麗しい笑みを至近距離から見上げた妓女は、それまでの経験、知識、自身の立場が吹き飛んだかのように顔を赤らめ、うろたえた。
妓女が自身の肉体を武器にするように、エリアスは自分の容姿の威力を知っていた。
彼女が怯んだ隙を逃さず、出て行こうとすると、我に返ったパメラが慌てて引き留めようとする。
「待って!」
後からそこで振り向かずにすげなく出て行っていたらどうなっただろうと考えたことがある。
「これを知っていて?」
振り向いたエリアスの視界に、パメラが思わせぶりに手の中のものを掲げて見せた。小瓶だ。
「なんですか?」
問いつつ、既視感を覚えていた。半ば予想した。その予想は外れていないだろう。
「エレナに聞いてごらんなさい」
それでもう、エレナが持っていたのと同じ禁制の堕胎薬なのだと知れた。
とすれば、パメラにもアゴスト侯らの手が及ばんとしているのだろうか。
「娼館まで送りましょう」
扉を開いて見せると、パメラは勝ち誇った表情を浮かべてエスコートに従った。
コーヒーハウスを出て馬車に乗り込み動き出すのを待って、質問する。
「どこからそれを?」
「これがなんなのかは聞かれませんのね? ということはもうご存知なのかしら」
中々、頭の回転が速い。
エリアスが唇に笑みを刻んだのを見て、回答を得た様子だ。
「お客様からでしてよ」
「それはエレナと共有している客?」
答えないか誤魔化すかのどちらかかと思ったら、パメラは案外あっさりと頷いた。
「そうでしてよ。本来はわたくしのお客様。でも、なんどかエレナに代打をお願いしたことがありますの」
そう言ってパメラは肩を竦めるようにして笑う。
「妬けまして? 殿方はいつも自分が一番、自分が唯一でなくては気が済みませんものね」
言いながら、小さなバッグからハンカチを取り出す。
狭い馬車の中だ。
そして、パメラは素早かった。御者に合図を送る間もなく、持っていた香水瓶の中身を振りかけられた。自身はハンカチで鼻や口を覆っている。
「うっ……」
エリアスは咄嗟に手袋をした手で口元を覆い、息を止める。だが、少し吸い込んでしまった。途端に身体が鈍く重くなる。身体が傾ぎ、肩から崩れ落ちる。
かすむ視界の中、パメラがエリアスの様子を観察しているのが見えた。
「まあ、顔を歪ませて倒れ込む姿がこんなに倒錯的なんて。本当に芸術の粋を極めたような方ね」
エリアスはどこか遮断されたかのような感覚の中、やはり、自身が同行すべきだったと憤る従者の姿を予想した。




