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こういう時は目立たない馬車に乗るものだというのを、高級娼館にやって来る他の客から学んだ。未婚のエリアスとしてはしがらみもなく後ろ暗い思いはない。しかし、婚約者すら持たないことから、ルシエンテス侯爵家の縁者たちは良くは思わないだろう。相手の発言権が弱いとはいえ、不満の種を作る必要もない。エリアスも他者に倣って普段乗る馬車を乗り換えることにした。
使用人たちは言わずとも主を運ぶ馬車の乗り心地や安全性を高める。忠実に秘密を守る共犯者たちはエリアスの変化を快く受け入れてくれた。反対されれば、決定権を持つのはエリアス当人であるとはいえ、外出の機会は減っただろう。秘密が漏れる確率を下げるには硬く閉じこもるのが一番だ。
こういった娼館で秘密が漏れることが多いという。妓女の手練手管で翻弄され、身も心もとろかされて、つい口が軽くなるのだという。ピロートークで情報を抜かれるのだ。恐ろしいことである。
エリアスは妓女だけでなく、娼館の者にも礼儀正しく振る舞うことにしていた。それに返される反応から、高級と名がつくだけあって相当な対価を要求されることからか、客たちは時に横柄に振舞う様子だ。
顔なじみとなった者がすぐに部屋に案内せずに応接室に連れて行く。訪れる時は前触れを出すのが作法だ。にもかかわらず、毎回すぐには部屋に案内されないが、準備が整っていないからか、先に来た客を相手にしているからかは不明だ。
その人目がない場所で娼館の人間がエリアスに小声で教えてくれた。老婆ではあったが、かくしゃくとして身なりも小奇麗に整えている。
「ルシエンテス侯爵のことをあれこれ聞く者が来ましたのです」
「ほう」
エリアスは足を組み替えて片目を眇めた。
「もちろん、なにもしゃべっていません」
美しい侯爵に見据えられた娼館の人間はあたふたとそう言う。
エリアスはひとつ頷いて、その者の風体や訛りがなかったかなど質問した。相手は客ではないので娼館の人間は記憶の限りを答えた。
礼を述べて心づけを渡そうとすると、顧客の情報を漏らさないのは店の信条だからとていねいに断られた。後日、差し入れを持って来ることにする。妓女たちが喜ぶと言って嬉し気にそちらは受け取られた。
「セブリアン伯のご子息は良い店を紹介してくれた」
エリアスがそう言うと、嬉しそうにする。
「セブリアン様の前々ご当主と前ご当主はそれはそれは良い男ぶりでいらしてねえ」
老婆はこの高級娼館の支配人の遠縁で、身体が弱くて雑用をしていたのだという。子供が巣立ってから働いていたそうで、曾祖父のファンだったのだという。
ちなみに、アルフレドは「百花繚乱」には祖父の知人に連れられてきたと言っていた。身内の者が人気があったから、下にも置かれぬ扱いを受けていたのだ。その身内に連れられて来たのではないというのは、決まりが悪かったからかもしれない。
「あたしなんぞ、庶民のおばさんに熱を上げられても迷惑なばっかりだろうに良くしてくださいましてねえ。前ご当主祖父もあたしよりもお歳は下ながら、素晴らしい若様で。伝法に見えて、弱きを助け強きを挫くお人でしたよ」
どこの正義の味方だ。
とは思いつつも口に出さずにエリアスはにこやかに拝聴した。
アルフレドに次に会ったら話す内容が増えた。
友も苦労をするなと思った瞬間、夜会で自分をその祖父と同列視したことを思い出す。主に取り扱いが難しいという意味合いで。
友に同情すれば良いのか、反省した方が良いのかと思いを巡らせていると、老婆がそろそろ部屋へと促した。
扉を潜った途端、客を見送ったばかりらしい妓女が声を掛けてきた。
「あら、おばさん、その方は?」
「こちらはエレナのお客様だよ」
言外に既に決まった相手がいるのだから色目を使うなと匂わせる老婆を他所に、茶色の長い髪をしどけなく右胸の辺りまで下ろした女性が近寄って来る。
凛とした眉、吊り上がった瞳、くっきりした鼻に、薄めの上唇は柔らかさと自然さを加味し、秀でた額と主張する頬骨、張ったえら、全体的に健康的でパワーを感じさせる。
「まあ、なんて色男。ねえ、わたしがお相手するわよ?」
たまには他も味わってみないとと言いながら、既にエリアスの右腕に手を掛けている。距離の詰め方が素早い。
「案内の邪魔をするんじゃないよ」
「あらあ、こういったところではお客様を満足させるのが一番よ。ねえ?」
エリアスは儀礼的な笑みを浮かべながら妓女から距離を取った。
「あら、振られちゃったわ。わたしはパメラ。エレナの友だちよ。今のお相手に飽きたら、ぜひわたしを指名してね」
その「今のお相手」がエレナだというのに、堂々と友人だと言い切る。
引き際の良いパメラはスカートの裾を翻して身軽に階段を上って行った。
「やれ、今の若い子たちときたら」
老婆はため息をついて呆れた風にごちる。
「妓女の中で客の交換を行ったりするのか?」
「まあねえ、こんな生業ですから、体調を崩すことも時にはあります。遊女たちも気心知れた者に大切なお客様を任せたいという時もありますから」
「なるほど」
先程のパメラはあからさまに誘惑を仕掛けてきたから、老婆が言う場合には相当しない。
エリアスはエレナの部屋に入ってからはパメラのことを横に置いた。エレナが顔を輝かせて歓迎したからだ。
「ああ、エリアス、来てくれたのね! 会いたかったわ!」
後頭部に掌を当てて顔を傾け近づける。
唇が重なる。顔の角度を何度か変えてぶつけるようにキスを繰り返す。
やがて、唇の間から舌を差し入れる。相手の舌にこすり合わせ、そのまま絡める。ざらりとした感触に粘液が混じる。先や縁を甘噛みする。
「ン……」
快感が奔るのか、鼻から声が抜ける。
背に回した手の指で身体を撫でる。熱を呼び覚ますように。
上半身に身に着けるコルセットは女性の肉体をより魅力的に見せるための簡素なものと、室内でのくつろぎ用のものがあった。後者には装飾を施されたものがあり、女性の楽しみのためのものだ。
「どうせ脱いじゃうんだから」
と言って、エレナは袖付きのものを着たりもした。そのコルセットを脱がすには背と両側の紐を解くのだと今は知っている。
衣服を脱ぎ去って互いの肌をこすり合わせる。
絶頂に鳥肌が立つ。
少し遅れてぶわりと汗が噴き出る。大きく息をつくと、つう、と幾筋も肌を流れていく。神経が焼き切れそうな強い感覚を覚える。どくどくと脈打つ。
指先まで甘く痺れる恋に溺れた。
エリアスはエレナの手練手管によって、自身のことを嗅ぎまわる者を一時忘れた。
それでも、完全に気を抜くことはない。事後、どれだけ疲労を覚えても眠り込んでしまうことはなかった。手袋が外れては事だ。
強い快感に身を任せ、寝台に伸びていたら、エレナがそっと傍らから離れた。目を閉じたままのエリアスの様子を窺う気配がする。今日は執拗に迫ったのは油断を誘うためだったのか。老婆から聞いた話が脳裏をよぎる。
真っすぐチェストに向かい、引き出しを開ける。なにか特段の手法を取る密やかな音がする。こちらを窺っている可能性もあるので、エリアスは努めて身じろぎしなかった。
かすかになにかを取り出す音がする。
エリアスはさっと立ち上がり、覗き込む。エレナが驚いて振り向く。
「それは?」
その手からあっさりと小瓶を奪う。ランプの明かりに透かして見る。
「やだ、起きていたの? びっくりしたわ!」
「ああ、今眼が覚めてね」
その割には敏捷な動きであったが、エリアスはもちろん、エレナも言及しなかった。
「それはねえ、妓女には欠かせない特別な薬なの」
いつもの余裕ある素振りを取り戻したエレナが床に散らばった服を取り上げて身体に巻き付ける。対するエリアスは手袋以外はなにも身に着けていない。アルフレドが言ったように、エレナはそのことについて言及したことは一度もなかった。
不定期に襲う痛みに抗うには体力を要した。そのため、エリアスは幼少のころから身体を鍛えた。しなやかな筋肉は割れ盛り上がり、数多の異性の裸体を見てきた妓女をすら見とれさせる。
視線を向けられてようやく我に返ったエレナは言葉を続けた。
「今まで使っていたものは女性の身体に影響があったの」
ということは、より良い品質のものを新しく手に入れたというのだろう。
そして、最近市場に出回る幽霊のごときまことしやかな噂を、エリアスは耳にしていた。
「どこからこれを?」
「お客さんからよ。ふふ。気になる?」
「うん?」
妙に気を持たせる言い方をするのに、エリアスは小首を傾げた。
「やあだ、妬いているの?」
貴方だけよという囁きとともに引き寄せられる。妓女の手練手管に秘め事が覆い隠されるのを苦笑しつつ受け流す。
「堕ろし薬よ」
子堕し。それは娼館の罪悪だと言われている。妓女のなしたものか、男(客)のなしたものか。
エリアスはエレナが耳に唇を寄せてそっと重大な秘密を明かすのに、驚いて見せた。
物慣れない貴族の坊ちゃんを導いているというスタンスのエレナに、そのままの認識を維持させるよう努めた。
エレナは知らない。エリアス・ルシエンテスは人目を憚る侯爵との噂がつきまとうが、その実、凄まじい速度で学習し、知識や技術を身に着ける者なのだということを。不慣れな分野でも、一旦取り組めば、相当高い水準に至ることができる。
幼い頃に突発的に得た不幸に打ち勝つために、そうあってきた。これからもそうだろう。
エレナの愛撫に身を任せながら、ご禁制の堕胎薬をさてどこから手に入れて来たのだろうと、エリアスは考えを巡らせた。
パソコンの調子が悪く、
「立ち上げ、IEを開き、特定ページにたどり着く&ソフトを立ち上げる」
で一時間近くかかります。
そのため、平日にちまちまやっていた作業を週末にまとめて行うことにします。
ステイホーム!
一週間分の予約投稿がんばります!
日付けがずれそうな気がします(笑)。




