2-1
最中に耳たぶを軽く噛まれ、驚いて動きを止めると、笑いながら見上げて来る。
絶頂に至るその時、鼻に口づけられて意表を衝かれた。悪戯を仕掛けてばかりだが、それも心地よい。
汗ばむ柔らかい身体を抱きしめ、けだるさに任せて横たわる。自然と瞼は下りて、そのまま眠ってしまいそうだ。
「夢の中で女神さまにキスされた男性がいたらしいですわ」
腕の中の妓女が囁くのに、あやふやな返答を返す。相手の事後の様子に慣れているのか、気にした風ではなく続ける。
「その人は口から良い香りがするようになったそうですの。貴方、心当りはなくて?」
エリアスは観念して目を開いた。
「覚えがないな」
汗の玉が浮かぶ額に髪を張りつかせている。頬にも。丸みのある目の下に張り付いた髪をそっと取り払ってやると、くすぐったそうに笑う。それを見て、エリアスの唇の両端も自然に上がる。
「そうですの? わたくしもこの話を聞いた時はおとぎ話だと思ったけれど、貴方、こんなに良い香りをさせているのだもの。きっと、女神様が貴方の美貌に天から舞い降りて来られたのね」
麗しいルシエンテス侯爵の体臭、フェロモンに絡めとられ、妓女はうっとりと目を細める。
「爽やかな良い香りですわ」
対人スキルを磨くと言っても、エリアスは普通のやり取りはこなせる。恋愛経験値が低いだけだ。
「どの果実も熟す前は酸っぱいものだ」
そこで、アルフレドに連れられて高級娼館「百花繚乱」へとやって来た。
内情に余裕がない貴族の住まいよりもよほど金の掛けられた建物で、一見してそうとは分からせない品の良さがあった。内装も高級品をさりげなく配置し、居心地よく整えている。分かる者には分かるという優越思想をくすぐる心憎い差配だ。そうすることによって、裕福な者が自分に相応しいと思わせ、店も上客をふるいにかけられる。
エリアスは初見でそういった仕組みを見抜いた。
「随分、高級店だな。君はどうしてここを?」
その名の通り、美しい花々のような女性を抱えているだろう娼館だ。
「俺なんかがおいそれと来られる場所じゃないさ。爺様の友人に連れられてね」
自分も一、二度お供をしたことがあるくらいだというアルフレドは下にも置かない待遇を受けた。
話は通してあるから、と言うのに頷くエリアスは少しばかり緊張していた。
アルフレドのことだから、房事の経験がないことや手袋を取らないという特殊な振る舞いをしても受け流せる経験を積んだ者を依頼しているだろう。
だとしても、つい先日までは左手にあるもののことを考えれば、こういうことに及ぼうという気持ちすら起きなかった。自分は独り身で一生を終えることを覚悟していた。爵位継承はしかるべき時期に縁戚から見繕って後継者指名をするつもりだった。自分の血を継ぐ者を得たいという気持ちは生物として当然持っていた。けれど、そこに至るまでの過程が自分には到底成し得ない。そう思い込んでいた。
だから、せめて事業で成功を収めようとしていたのかもしれない。折角この世に生を受け、なにひとつ残さないままで死ぬことを無意識に避けていた。
人目を避け、他者との接触を極力減らした。
神の息吹が感じられるもの、場所、神聖なる証は尊ばれた。特に物品の場合は聖徴物という。身体に聖徴が出ることもあると言われている。
だとすれば、見た目が醜く、飲食を要求する得体が知れないものは、悪魔の徴と忌まれるだろう。逆に言えば、そのくらいあやふやなものである。ただ、迷信がまだ根強くある中では嫌悪と迫害の対象となることは容易に予想がつく。そのため、エリアスは神殿からも遠ざかった。得体の知れないものは全て悪魔のせいにする。エリアスが悪魔と契約したのだと言われかねない。
秘密が露顕し、人非人、人に非ずと謗られて危険視され、多くのものを奪われるよりはましだと思っていた。
それでも、孤独だった。
いや、孤独だったころはそうだと気付かなかった。
それがひょんなことから人と接し始め、唐突に停滞していた諸々が動き出した。
セブリアン家の三男と出会い、他者との交流とはそう難しくないと知り、必要に駆られたから女性にも会った。経験不足から良い様に翻弄されたが、それを悦びを持って歓迎していたことも事実だ。
その恋は夫を失って次の支えを探していた当の夫人によって容易に見切りを付けられてしまったけれど、エリアスは友を持つに至った。
その友アルフレドに正直に経験不足なのだと話すと、娼館を勧められた。
「ああいうところにはいろんな者が来るんだ。身分の高い者や財産をたんまりと持つ者は、他人に知られたくないことも持っている。手袋を外さない客がいてもおかしくはないさ。いや、不思議には思うだろうが、詮索はしない。特に高級娼館の女性たちは高い教育を受けているからな」
そう言われて興味を持った。
そうして連れてこられた娼館でアルフレドと別れ、店の者に案内されて入った部屋で待っていたのは案に相違して年若い女性だった。酸いも甘いも嚙み分けた年かさの者が相手を務めるとばかり思っていたエリアスは驚いた。
丸く半円を描く眉は尻が優雅に細く、くっきりした瞳は下まつ毛に覆われ、高い鼻、厚い下唇、全体的にこってりした色気を持つ。
「ようこそ、いらっしゃいました。初めてのお客様ですわね? もしお気に召さなければ、他の者もお相手できますわよ?」
上品な微笑みを浮かべ、堂々たる言上で迎え入れ、さり気なく客の心の機微を読む。確かに洗練されている。
「いや、こちらは事情がある身の上だから、もっと経験豊かな方が待っていると思ったのだ」
「そういう者がお好みですかしら? もちろん、おりますわよ。でも、」
言いながらゆっくりと近寄り、つう、とエリアスのコートの中にするりと手を入れ、ウエストコートの左胸の辺り、触れるか触れないかの位置で指先で上から下になぞった。吐息が掛かりそうな距離、見上げて来る角度、華奢な身体から伝わってくる熱。
ぞくりとした。
それだけで快感を呼び起させる。初めて感じるものだった。
仕草や絶妙な距離感、表情、全てが計算されている。
そうして、エリアスは高級娼館の若きエース、エレナの手練手管に溺れた。
エリアスは呑み込みが早く、娼館というものの大体の仕組みを察した後は、気が向いた時に自ら行くようになり、房事はみるみるうちに上達した。
「エレナの手ほどきが良いから」
「ふふ、光栄ですわ。侯爵様こそ、素晴らしき学び手でいらしてよ?」
言葉尻に媚態を紛れさせ、覗き込むように見上げて来る。
これほど上等な異性に称賛されるのだから、客たちが良いように翻弄されるのもさもあらん。
エリアスはそうと知りつつ、足しげく通ってくることを止めようとは思わなかった。端的に言うと、金銭を支払ってサービスを受けていると最初は分かっていた。
しかし、エレナが見せる仕草の端々、エリアスの肌に滑らせた指が離れる瞬間、そうしたくないという思いが込められたように切なく力が入る時や、耳たぶや頬を撫でた時にきゅっと摘まんでいくことが彼女の切ない心情を表しているような気がしてほだされるのだ。
エリアスは硬い筋肉やそれを支える太い骨を持つ男とは違う柔らかい女性の身体に戸惑い、力加減に神経を使った。ちょっと力を入れたら痕がつきそうだ。
そんな恐々した接し方に、エレナはくすぐったそうに笑った。
「お金さえ払えば、好きに振る舞えると思う人は多いのですもの」
自儘が習い性となっている者もいれば、普段は腰が低くても娼館の寝台では一変する者もいるという。言外にそうしないエリアスを褒める。尊大に振る舞えば自分を大きく見せられると思う男は身分を問わず多い。そして、女性の中でも自分の方が立場が上だと思えばそうする者もいる。
エレナはまた、そんな風にして他の男のことを匂わす。手管とは分かりつつも嫉妬心や対抗心を煽られた。自分が良いと思う女性を粗雑に扱われることへのいら立ちもあった。
そうしてエリアスはエレナを気に入り、何度となく通った。娼館でも心づけを弾むルシエンテス侯爵の来訪を歓迎した。




