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※本日二回目の更新です。
ご注意ください。
破産寸前のベルガミン子爵家の家財が差し押さえられる前に、約束を取り交わしていた稀覯本をいくつか手にすることができた。ルシエンテス侯爵に売るという契約が、相続人である子爵の弟が勝手をし、もっと高い値段をちらつかせるか、二束三文で他所に売られるところを、間一髪間に合った。
「こういうことがあるから、貴族間の噂話とは馬鹿にできない」
だからこそ、危険を承知でアルフレドと友誼を結ぶことにしたのだ。経験不足では相手に手玉に取られることもある。
エリアスは迷ったものの、稀覯本を引き取る時に代理人を遣わせた。ベルガミン子爵夫人に会ってしまえば、良いようにリードされて翻弄される。
困ったことに、あの儚くも美しい未亡人にそうされて、全く嫌な気持ちにならない。ともすれば、自ら罠に飛び込んでいきそうになる。あの温かい体温、柔らかな感触、ほの甘い香りは忘れようもなくエリアスを捉えて離さない。
じきに相続がなされ、子爵夫人ではなくなる。そうなれば、ルシエンテス侯爵家の方で面倒を見ることも考えていた。ただ、男女間のことに慣れていない自覚はあったから、周囲の意見を聞き、執事などエリアスの事情を知る者に相談する必要がある。
幼少から傍にいた者たちに話すことが妙に気恥しく思われ、エリアスはまずアルフレドの考えを聞こうとした。
自分の館では他の耳目が気になるため、その日、珍しく外出することにした。
執事を始めとする使用人たちは最近、外へ出かけるようになったことを歓迎している様子だ。
「セブリアン・ワインのお陰だな」
痛みがやってくるのが間遠となり、出先で疲労困憊する懸念が薄れたことも活動的になった理由の一端である。
乗り込んだ馬車を操る御者は、先日の子供たちに集られた失態から、他の使用人たちの指導を受けたのだそうだ。帽子のつばを軽く握って挨拶してくるのに、会釈して返す。
以前は王都へすら来ず、領地のカントリーハウスに籠っていた。事業に関することで代理人に指示をするのに領地からでは時間が掛かりすぎる。必要に迫られて人が雑多に集まるこの場所へやって来た。
他者と接するのは受ける刺激が大きい。秘密とは隠されるから知りたくなるというものなのだと実感もする。ならば、ルシエンテス侯爵の一部を明るみに出し、好奇心を満足させてやることで、隠しておきたいことからは目を逸らせるのも手である。
そんなことを考えていると、馬車は流行りだというコーヒーハウスに到着した。
入り口に待ち合わせ相手のアルフレドがいた。
「中で待っていれば良かったのに」
「すぐ近くで知り合いに捕まっていたんだよ。そこへちょうど君のところの馬車がやってくるのが見えたから。外で立ち話もなんだから中へ入ろう」
ルシエンテス侯爵に会っていたと噂が広まったら、方々から質問攻めにされそうだとアルフレドは笑う。
侯爵の家紋が入った馬車からそれなりの身なりの者が出てきたら、身元は想像がつくだろう、とエリアスも頷いた。
「ここは貴族御用達の店なんだ。個室もあって従業員の教育も行き届いている」
新聞も数種類置いてあるしな、と続ける。
内密の相談があると持ち掛けたから、わざわざそんな場所を指定して来たのだろう。アルフレドは一日の大半を領地のあちこちを回っていると聞いたが、王都のことにも詳しい様子だ。コーヒーハウスにはぜひ足を運んでみたいとも思っていたエリアスには渡りに船だった。
外観も高級感が溢れていたが、内観も素晴らしい。シャンデリアが吊り下がり、鏡が配されていて明るい。タペストリーや大理石のテーブルが豪華さに花を添えている。
「ワインを引き合いに出す喜劇があるほどだから、君もコーヒーに興味があるのか」
「同じ飲料だからな。広く市場の動向を掴んでおきたい」
アルフレドの言葉にエリアスは頷きつつ、同年代の貴族の若者がこれほどまでに見識広く自身の手で事業に携わり、一定の成功を収めているからこそ、その話には含蓄があり、自然と耳を傾けようとさせる力があるのだと考えた。
「神殿でも中毒性を危惧するほどの人気ぶりだ」
「あれほど悪魔の飲み物だと忌避していたのにな」
裁判で頂点に立つ者が認めたことから一気に浸透した。
「女性たちが女人禁制に対して反対運動に乗り出すわけだ」
エリアスは運ばれて来たコーヒーのカップを持ち上げ、まず香りを楽しむ。
一杯目を言葉少なに楽しんだ後、おもむろにベルガミン子爵夫人とのことを切り出した。
噂を聞きつけてわざわざ忠告しに訪ねて来るくらいだから、揶揄ったり馬鹿にすることはないだろうが、頭ごなしに反対されることは十分に予想された。経験不足を自認しているから、第三者から見れば視野が狭くなっているだろう。
二杯目のコーヒーをテーブルに戻し、アルフレドはため息をついた。
「やっちゃってなかったか」
「なんと?」
聞き取れはしたが、意味合いが分からずに訊ねると、アルフレドは首を振って明言を避けた。
「次期ベルガミン子爵が義姉に熱を上げているというのは別所からも聞いたよ」
エリアスは片眉を跳ね上げたが、脚を組みなおすだけで言葉は発しなかった。
「次期子爵からしてみれば、恋も財産をも横から搔っ攫おうとする者がいる。それがとんでもない色男なので、相当焦っていたのじゃないかな」
「破産寸前で家財をかき集めている時に、以前に締結した契約書を掲げて金目の物を持っていかれるのを阻止しようとしていたのだけではなかったということか」
子爵夫人にあれこれ吹き込み、果ては妖精犬などという伝承まで持ち出した。
「それで欲しいものは手に入ったのか?」
「そうだ。先日、契約は滞りなく履行された」
アルフレドは頷いて、そういう次第があるから、すぐに行動には出ずに事態が落ち着くのを待った方が良いという。つまり、爵位継承と相続が終了することだ。
「色恋沙汰は押すばかりじゃ駄目なのさ」
「だが、女性の身ならば、先行きに不安を覚えずにはいられないだろう」
アルフレドの言葉に容易に頷くことができない。夫人は義弟の言葉に惑わされ、降霊術になど頼ろうとしたのだ。
「もちろん、放っておくのは悪手さ。将来の保証をほのめかす内容の手紙をまめに送っておくと良い」
「確約するのでは駄目なのか?」
「仮に他の誰かの目に触れでもしたら、事だろう?」
義弟が私信を勝手に見るまではしないも、使用人を買収して探らせることは大いに考えられる。
「贈り物をするにも、あまり高価なものではなく、差し押さえなどがあるから、身近なものを贈ると良いかもしれないな」
そんな風にあれこれ相談をし合ううち、すっかり長居をした。
「ためになる話を聞けて、助かったよ」
「一応、既婚者だからな」
肩を竦めるアルフレドに、おやと思う。あまり夫婦仲は上手くいっていない様子を読み取り、言及しないでおいた。
人はなにかを成功させた時に隙を作りやすい。
ベルガミン子爵と締結した契約がなんとか履行され、そのことをアルフレドに話したら、事態は大団円を迎えた心地になっていた。初めて来たコーヒーハウスの雰囲気も、コーヒーの味わいも良かった。
エリアスは満足していた。
コーヒーハウスを出た途端のことだった。
席で給仕に伝えておいたので馬車が通りの向こうからやって来るところだった。
その逆側から帽子を目深に被った男が足早に歩いて来る。
「侯爵、」
いつになくアルフレドが緊張した様子でエリアスをコーヒーハウスへ押し戻そうとする。
「あいつだ。中へ入って」
見れば、男は暗色のコートの懐に手を入れている。そして、出した。銃を手にしている。半ば予想していたことだった。
撃鉄を起こす。引き金に指が掛かる。
どういうことだ。フリントロック式銃よりも小さい。なにより、撃鉄の尖端に火縄や燧石がついていない。
馬車は緩やかに進み、やがて止まった。
「離れろ!」
巻き添えを食いかねないと、エリアスは咄嗟に叫んだ。その最中にもアルフレドはものすごい力でエリアスをコーヒーハウスに押しやる。ドアマンがなにごとかという表情で首を出そうとしていた。
轟音が響いた。
そして、静寂。
その後に衣を裂くような悲鳴が上がる。通りを歩いていた人々が蜘蛛の子を散らすように逃げていく。馬がいななき、前脚を高く掲げ、御者が慌てふためきつつ制御しようとする。
身体をコーヒーハウスに入れていたエリアスはそれら一連の周囲の動きがゆっくり流れるように見えた。
アルフレドと言えば、エリアスを安全な場所に移動させることを優先したがため、襲撃の餌食となった。
「ぐっ」
銃弾は腕を掠めたらしく、逆の手で強く握り、その場で片膝をつく。
「アルフレド!」
「中へ! もっと奥へ行って!」
傷口を押さえる指の狭間から血がしたたり落ちる。そんな状況にもかかわらず、エリアスを見上げて逃げろという。端的な単語で訴えかけるのが急場を表している。
後から考えれば、狙われているのはエリアスだろうし、アルフレドひとりならばいかようにも対処できただろう。アルフレドを狙ったのならもっとどこでも別の機会があっただろう。だが、エリアスはほとんど館から出ない。たまの外出は格好の襲撃の機会だ。
恐慌状態に陥った馬に引きずられるようにして、馬車は走り去った。ドアマンもさっと顔を引っ込めて逃げ出している。
その場にはエリアスとアルフレド、そして銃を手にした男だけがいた。その男は銃口になにか———おそらく、装薬と弾丸———を詰め、撃鉄を少し起こして、と作業を行っている。
次が来る。
エリアスの肚は据わった。
一歩足を踏み出す。しなやかな歩みには迷いはなかった。
若木のようなすらりとした佇まい
「ルシエンテス侯!」
アルフレドの声音に驚きと恐怖が混じる。エリアスが気でも触れたとでも思ったのか。自身が傷ついたことより、エリアスが逃げずに前へ出たことを恐ろしいと感じる者なのだ。
こんな時なのに微笑んだ。
艶やかな笑みに、アルフレドが茫然と目を見開く。
気品ある瞳、その眦は恋を含む
たったひとり、武器を持った男と対峙しているというのに、傲然と顎を上げる。
鼻梁は美しく孤高に他を寄せ付けず
常につけている手袋、左手のそれを外す。その指は長く、手は白く滑らかな肌をしていたが、甲の部分にひどく皺が寄っている。それを見せつけるように、エリアスは男に向けて腕を伸ばした。
白く滑らかな頬、首筋は匂いたつよう
「さあ、普段良いものを食べさせてやっているだろう。お前の力を存分に発揮せよ」
エリアスの声に呼応するように籠った雑音が聞こえてくる。
と、中空が歪んだように見えた。陽炎が立つ。いや、炎の玉だ。唐突に青白い尾を引いて発生した。離れていてもその高温が伝わって来る。
「っ⁈」
声にならない悲鳴を上げたのはアルフレドか襲撃者か。
尾はすぐに長く伸び、炎は矢となって男へ飛んで行く。
「ぎゃあっ」
炎は男に被弾すると、その身体を包み燃え上がる。
焦げ臭い臭いが辺りに充満する。
人ひとりが焼かれて苦しみもがいている。
自分を襲おうとした結果、友を傷つけた男の無残な姿に、侯爵は麗しく笑う。




