百年の夢
「あなた、待っていられますか。」
ただただ暗い宇宙の底で、真っ白な声が私に問いかける。
「そう、百年。」
冗談めかして。
「きっと逢いにきますから。」
声はくすりと笑う。その時私は思い出そうとする。この声の主が誰であるかを。
「私は死にます。」
恐ろしい悲しみが背筋を走る。
「大丈夫。怖くなんてないもの。長生きして頂戴ね。」
淡くなりゆく声に、何とか返事をしようとするも、私の声に色はなく、孤独の闇が溢れるばかり。
* * *
私は目を開けた。
最近毎晩同じ夢を見る。あの声の主はいったい誰なんだ。
もう少しで思い出せそうなのに、どうしても思い出せない。
ゆっくりと体を起こすと腰のギアが呻いた。白く細長い四本の指を動かすも、どこか動きがぎこちない。もう寿命なのだろうか。
私は誰なのだろう。どこからから来たのだろう。いつ生まれたのだろう。
全く覚えていない。忘れてしまったのか、初めから知らなかったのかも分らない。
もやもやしたまま、私は毎日宇宙を旅する。気に入った星を見つけては着陸し、山に登ったり写真を撮ったりする。
そこそこ出来の良いものは売って、私と宇宙船の燃料費にする。
その日一番の出来の写真はカプセルに入れて宇宙へ投げる。理由はわからない。気づいたら、習慣だった。
ここは銀河系の中にある太陽系。そして窓の外に見える美しい星が「地球」。
近くの星に滞在した折、美しい星があると教えられた。
確かに、いくつも美しい星を見たが、この星はひときわだ。何か心を揺さぶるものがある。
* * *
真っ白な雪が、灰色の空から落ちてきていた。私は雪が好きだ。
カメラを構えて、眼の前でじゃれている真っ白の子狐の兄弟を撮った。
「誰?」
澄んだ声に振り向くと、同じく真っ白な狐がいた。どうやら彼らの母親らしい。
子狐たちは私の存在に気づき、慌てて森の中へ駆けて行った。
「言葉がわからないの?」
返事をしない私に彼女は尋ねた。
「いや、そういうわけではないが。」
テレパシーを使って、狐に伝えた。口の使い方など、知らないから。
「じゃあ、誰?」
私はしばらく考えて言った。
「ロボットだ。」
「それは見ればわかる。どこの国で作られたの?名前は?」
私はまたしばらく考えて言った。
「雪。」
昔、遠くの星で一度見たことがあった美しい雪景色が忘れられず、いつも名前を聞かれては雪と答えてきた。
私は誰とも親交を持ったことはないから、名前は美しい響きを持つだけで十分だった。
「嘘はつかないで。顔に書いてあるから。」
狐は私を睨みつけた。
「それと、ここは私達種族が代々守り続けてきた土地。不審な人物を入れるわけにはいかないの。悪いけど、出ていって。」
美しい狐だ。本当に「雪」という言葉のような、純白さと真直ぐさ、冷たいのに暖かな美しさを持つ。
私の憧れたもの。そして、あの夢の声と同じ白さ。
しかし、どんなに美しい狐に頼まれようとここで引き下がるわけにはいかない。
「こんなに美しい山を見たのは初めてだ。一目惚れとはこのことを言うのだろう?一枚でもいいから、写真を撮らせてはくれないか。」
一瞬、狐は驚いたように目を見開き、もしやと呟いた様な気がした。
でも、それはほんの一瞬で、すぐに掻き消えてしまった。
「この山を美しいと言ったのは、あなたが初めて。どんな者も薄気味悪がって近づかないから。ついてらっしゃい。」
狐はそう言うと私の前を横切り、山の奥へ向かって歩き出した。ことの流れが読めず、立ち止まっていた私を振り返り、
「写真が撮りたいのでしょう?違う?」
といった。私は頷くと狐の後ろを歩きだした。
「どこに行くんだ。」
私の幾度尋ねても、狐はただ
「この山で最も美しい場所。」
と答えるばかりだった。
もう一時間は歩いただろう。私は、本当に狐につままれているのではないだろうかと、思い始めた頃だった。
「さあ、ここよ。」
俯いて歩いていた私が顔をあげると、少し開けた土地に大きな木が一本、青々とした葉の上に雪を乗せて佇んでいた。
「この場所に覚えはない?」
狐は木の前に座って私を呼んでいた。
「覚え?あるはずないだろ。地球に来たのは初めてだ。」
私は狐の傍まで歩いて行き、腰を下した。
「そうかしら。あなたからは地球の匂いがするわ。
体は他の星で作られたのだろうけれど、魂には地球の匂いが染みついている。たとえ地球から百年離れていようと。」
じっと見つめる狐の黒い目に、何か思い出しかけるのに、思いだせない自分がもどかしい。結局私は目をそらした。
「これは、何の木だ。」
狐は大きな木を見上げて呟いた。
「白椿。もう花が咲いてもいいころなんだけど。」
「咲かないのか。」
狐は溜め息混じりに答えた。
「もう、ずうっとね。」
何と言うべきか迷った私は、素気なくそうかと言った。
「あなた、記憶喪失でしょ。」
「知っていたのか。」
「見ていればわかる。」
私はまた素気なくそうかと言った。そしてただただ花の咲かないという椿を眺めていた。
どれぐらいたったのだろう。私は椿の根元にある石に気が付いた。立ち上がって近づく。この石・・・。
「月の石・・・の・・・レプリカ・・・。」
表面に文字が刻んであるが、かすれていて読めない。何とか月明かりで読もうとすると、横で狐が歌うように口ずさんだ。
「ここに雪眠る。いつの日かまた会おう・・・。」
私は一瞬凍りついた。全てを知った顔で、狐は私を見上げた。君は、ずっと待っていたのか。私は全てを思いだした。
私の父は登山家で、母は写真家だった。だから私は登山写真家になった。
妻は画家だった。素晴らしい絵を描く人で、人の温かさも、風の輝きも、冬の日の寒さも、筆一本で目に見える形にした。
本が大好きで、特に夏目漱石の「夢十夜」はいつも持ち歩いていた。
私達は一緒に世界中旅して山に登った。
私達に家はなかった。私達の帰る場所は自分自身で手掛けた作品だった。
よく一緒に撮った写真や描いた絵を見たものだ。
私にとって無二の存在であった妻は、ある日病に倒れた。
病院の集中治療室に運ばれるも、助ける術はないと告げられた。その中で、彼女は
「もう死にます。」
と、静かな声で言うといたずらっぽく微笑んだ。
なぜそんな風に笑えるのか、私には理解できなかったし、たまらなく辛かった。
それでも、やはり彼女がそうしたいのなら、付き合おうと思った。
彼女は長い髪を枕に敷いて、輪郭のやわらかな瓜実顔をその中に横たえていた。
たくさんの管や機械に繋がれた彼女は、まるで機械の一部のように見えた。
「そうかね、もう死ぬのかね。」
と上から覗き込むようにして聞けば、
「死にますとも。」
と言いながら、大きな眼をぱっちりと開いた。
大きな潤いのある眼で、長いまつげに包まれた中は、私を吸い込んでしまう程の深い黒色で、眸の奥には、私の姿が鮮やかに浮かんでいた。
ねんごろに、なるべく枕の傍に、口を付けて
「死ぬんじゃなかろうね。」
と、また聞き返した。すると、彼女は言った。
「でも、死ぬんですもの。仕方がないわ。」
しばらくして、彼女はまた言った。
「死んだら、埋めてください。大きな真珠貝で穴を掘って。
そうして、天から落ちてくる星の破片を墓標に置いて下さい。
そうして、待っていて下さい。又逢いにきますから。墓の傍でなくてもいいわ。」
そして苦しいはずなのに、またいたずらっぽく笑った。
「何時逢いに来るかね。」
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それから又出るでしょう、そうして又沈むでしょう。
―赤い日が東から西へ落ちて行くうちに、―あなた、待っていられますか。」
私はもちろん、黙って頷いた。
本当は、泣いてはいけないのに、私の眼はすでにものが見られる状況ではなかった。
この優しく、素直で、まっすぐな眸をした人が、なぜ死なねばならないのか、わからなかった。
それでも、この最後の瞬間を見逃すわけにはいけないから、必死に目をこすっていた。
そんな私を見るに見かねたのか、息絶え絶えの妻はそっと手を私の手に重ねた。
「百年待っていて下さい。そう、百年。ね、そうしたら、きっと逢いにきますから。」
私は何も言えずに何度も頷いた。そして、やっと一言、
「待っている。」
と答えた。彼女は美しい笑顔を残し、百年の眠りについた。
私は妻の遺灰を、真珠貝で掘った穴に埋めた。
彼女が好きだった漱石の「夢十夜」も一緒に焼いた。もちろん、月の輝く晩に。
家がない私達には、当然庭はなかったので、もの寂しい里山に埋めた。
自然の多く残る、二人のお気に入りの場所だった。
墓標には、一緒に博物館に行った時にお土産に買った、月の石のレプリカを置いた。
そして、一輪の花を供えた。これで彼女の願った通りになった。
その日、私は地球を旅立った。
私はただ待つことができずに、毎日カプセルに写真を入れて、宇宙へ投げた。
妻に届くように。百年生きたいがために、ロボットに自分の意識を転送した。
無駄だと分かっていた。でも、せずにはいられなかった。
* * *
いつの間にか、狐は消えていた。
呆然として、声も涙も出せない私は、たった独りになった。
気付けば雪が降り始めていた。
もう、百年は経ったのだろうか。それともまだなのだろうか。
これから、私はいったいどうすればいいのだろう。
海の底に沈もうか、それとも宇宙の塵になろうか。
墓標の横に座り込む。
しばらく考えていると、雪が降っているのに月が出てきた。大きな満月だ。
そういえば、彼女を埋めた日も大きな月が出ていたな、と思い出す。
明るい月の光に、風が光った。昔、彼女が描いた絵を思い出した。
突然、レプリカの石が突然ぐらぐらと動き出し、墓から転がり落ちた。
あまりの突然さに唖然としていると、その石のあった場所から、私の方へ向いて一本幹が伸びてきた。
そして見る間に長くなって丁度私の胸辺りまで来て留まった。
と思うと、すらりと揺らぐ茎の頂に、私の目を見つめていた丸い小さな雷が、ふっくらと瓣を開いた。
真っ白な椿が骨にこたえるほど、匂うような気がした。
私の眼から露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。
私は首を前へ出してどこか塩辛い露の滴る、白い瓣に接吻した。
椿から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、風も雪も止んでいて、暁の星がたった一つ瞬いていた。
思わず微笑んでしまった。笑ったのなんて、百年ぶりだ。そう、百年・・・。
「百年はもう来ていたんだな。」
そっと口を動かすと、錆びついた顎のゼンマイがギーギーと音を立てた。
注 この物語は、文豪夏目漱石先生の「夢十夜」の第一夜に着想を得させていただいたものです。