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帰省



 何も変わっていないようだけれど、ところどころ記憶と違うものが混じっている。昔は、えんじとクリームのバスしかなかった。でも、いま目の前を通ったバスは、不自然なほど白い車体に、「おもいっきりテレビ」なんて描いてあった。駅から見えていた電光掲示板はなくなって、かわりに大きな時計がかかっている。西側は、鬱蒼と茂っていた樹木が一切なくなって、ずいぶん見通しが良くなっていた。

 私は、この街の間違い探しをするような気分になりながら、ばさっと傘をひろげた。

 駅から出ると、国道を挟んで正面に松坂屋が見える。こちら一面が青緑色のガラス窓で覆われていて、「北のこだわりグルメ直行便」という垂れ幕がかかっている。

 バスターミナルを、自分の乗るバス停に向かって歩いた。私の乗るバス停は十番だった。これは変わっていない。本数の少ないバスなので、駅の正面から遠いところに追いやられている。

 雨が傘を叩く。昔と同じ水の匂いがする。東京の雨とは違う。でも、踵の高い靴を履くようになったせいか、私のたてる足音はあの頃よりも固い。

 バス停に着くと、屋根の下に入って傘を閉じた。あいかわらずこのバスは少ない本数しか走っていなかった。時刻表を見ると、一時間に二本。それでもきっと、七時台の二本のバスしか満員にならない。

 私はベンチに腰を降ろそうかと考えながら、目の前を通りすぎていくバスを見ていた。ほぼすべてのバスに広告が描かれている。江崎新聞店、伝統の高木人形、世界のプラモデルタミヤ、あなたの街のパチンコ銀座会館、黄緑色に塗られたキリン生茶、オレンジ色に塗られたダイドーコーヒー。

 十番のバス停には、私しかいなかった。他のバス停にはちらほらと人影が見えるけれど、どこもひとりかふたりだけだった。平日の昼間だから人の動きがないのだ。この街の、そういうわかりやすさはぜんぜん変わっていない。

 腕時計と時刻表を見比べると、バスが来るまであと二十分あった。二十分、待てない時間じゃない。ぼんやり考え事をしていればすぐに過ぎてしまう。バス通学をしていた頃は、ずっとそうやって待ち時間をやり過ごしてきた。時間は無限にあるものだと思っていたから、そうやって過ごした時間をもったいない、とも思わなかった。

 けれどいまでは、二十分あれば小説を四十ページ読むことができる、とか、日記を書いてしまうことができる、とか、数学の問題がいくつか解けるかもしれない、なんて考えてしまう。それはたぶん、自分に残されている時間が有限だ、ということに気付いてしまったからだろう。

 みんながみんな気の立つほど忙しく暮らしている東京に出て、二十歳を過ぎたとき、不意に思ったのだ。自分に与えられている時間は有限なんだ、と。

 でも、あいにく小説は新幹線の中で読んでしまった。手持ち無沙汰になって、また駅ビルに戻ろうかとも考えたけれど、私はぼんやりと目の前をいくバスを眺めつづけていた。



 よく本を読んだ。自分の部屋で、授業中の教室で、アルバイト先の休憩室で。いちど通学中にバスの中で本を読んだらひどく車酔いをしたので、それからはバスの中で読むのをやめたけれど、暇さえあればページを繰っていた。小説を読んでいると、まるでそれ自身が意思やかたちを持っているように感じることがあった。それらのなかには、綺麗なものもあれば、何を言いたいのかさっぱりわからないものもあり、私を笑わせようとしているものもあれば、けんかを売っているようなものもある。

「みのり、ちょっと手伝って」

 セックスレス夫婦がお彼岸に向けてぼた餅を作っているシーンを読んでいたところで声をかけられて、私は小説から顔を上げた。美術室の入り口には、両手を広げてベニヤ板をかかえた水内由紀がやっとのことで立っている。私は本を伏せて、彼女のもとに向かった。

「これ、仮装のバックにするの」

「ちがうちがう、文化祭当日の看板にするんだって」

「へえ。これが」

「みのり生徒会やってるんでしょ。これ、生徒会から頼まれたのに、知らないの」

 由紀は意外そうに言った。

「私は展示担当だから。文化部の部屋割りとか企画書とかをまとめてパンフレット作ってる。そういうのは私とはちがうところで動いてるから」

 由紀は、ふうん、とあまり気のなさそうな返事をした。それよりもこの看板をどのように仕上げようか考えているのだろう。

 私は高校一年で、由紀は二年だった。家が近く、幼稚園、小学校と一緒に通ってきたけれど、由紀は小学校五年生のときに父親の仕事の都合でサンフランシスコに行くことになった。高校に入るにあたって、由紀だけ先に日本に帰ってきたのだ。再会したときに、水内先輩、と呼びかけたら、由紀は凛として、先輩はやめて、とひとことだけ言った。

 日本に帰ってきた由紀は、自分の意見をはっきりと言う女性になっていた。それだけではなく、由紀は他の生徒たちにはない輝きをもっていた。海外に住んでいた経験が由紀をそうさせたのかもしれないし、ある種の女の子が持っている、人をひきつける力が強いだけなのかもしれない。そんなわけで由紀は美術部の三年生たちを圧倒していたし、教師たちからも一目置かれていた。とりまきができてしまう一方、遠くから由紀のことを眺めて満足している人たちもいた。とにかく、彼女はここでは特別なものとして扱われた。だからかもしれない。「みのりだけが昔の私を知ってる。だから昔と同じように接して。それはみのりだけにできることなの」と由紀は私に頼んだのだ。それからは昔と同じように、由紀ちゃん、と呼びかけるようにしている。ただ不思議なことは、私が由紀と親しくしているというだけで、私にも何かしらの魅力を感じてしまう人がいるということだった。

 私はベニヤ板の端を持って、由紀とふたりで美術室の中に運んだ。ゴールデンウィークの終わった土曜日、美術室には私たちしかいない。開け放した窓から気持ちのいい風が入ってきて、えのぐの匂いや木くずの匂いを撹拌していく。

「はい、これで最後だよ。よろしく」

 美術室の入り口で、もう一枚ベニヤ板を抱えてきた高原悠介が言った。

「よろしくはいいけど、会長さん、あたしたちに工作までさせるつもりなの」

 由紀は悠介に向かってにやりと笑った。悠介は、逡巡ののち、仕方ねえな、と言うとベニヤ板を抱えたまま美術室に入ってきた。

「俺も部活出たかったんだけどな」

「生徒会長なんだから仕方ないでしょ。手伝いなさい」

 由紀が言うと、悠介は諦めたように笑って、わかったわかった、というように両手をあげた。

「美術部、人いないんだねえ、どうしちゃったの」

 悠介が呟いた。美術部は土曜日休みだからね、みんな勉強でもしてるんじゃないの、そろそろ中間テストだし、と由紀はベニヤ板を動かしながら答えた。

「あ、そうか。もう来週テストじゃん」

「余裕あるね会長」

「ばか、テストなんて構ってる余裕ねえんだよ。文化祭に追われててさ。……井上は勉強してるか」

 悠介が私に話しかけてきた。それまでなんの気なしにふたりの話を聞いていたので、突然話を振られてすこし戸惑った。

「……あ、いえ、勉強も何も、高校に入ってからテスト初めてだから特別なことはやってないです」

「あ、そうか。うちの高校容赦ないから、テスト勉強はしっかりやっといた方がいいよ」

「容赦ない、ってどういうことですか」

「どの教科も平均点が三十点台のテスト作ってくるんだよ。もちろん百点満点で」

 私と悠介がテストについて会話をしているあいだも、由紀は看板のかたちに並べたベニヤ板を真剣に眺めていた。

「これ、ここにそのまま描いちゃっていいの、それとも模造紙にでも描いてそれを貼った方がいいかな」

 由紀はベニヤ板から目を離さずに言った。悠介は、どっちでもいいよ、水内の好きなようにして、と言った。

「やっぱり無難にレタリングだけにしといたほうがいいかな……」

 由紀はしばらくベニヤ板を眺めていたけれど、とりあえず白く塗るか、と言って準備室に歩いていった。私もそのあとを追って、美術準備室についていく。閉め切った窓から入る日光が、部屋の埃を照らしていて、私はまるで休日に忘れ物を取りにきた生徒のような気分になる。私たちは準備室の奥の方から白ペンキとうすめ液を取りだし、刷毛とローラーをふたつずつ持った。

 美術室に戻ると、悠介は壁に展示してある由紀の描いた絵を眺めていた。女の人が何かを喋ろうとしている絵だ。アメリカに住んでいたとき壁に描いた絵を思い出して、その絵を描いたらしい。うまく描けて気に入ってたからこっちに来てもう一度描いてみたんだけど、やっぱり壁の方が大きく描けるから好きだな、と由紀は言っていた。自分より大きいキャンバスに向かって、何を描いてやろうか、って考えてるとわくわくするんだよね、そう笑った。私はどきどきした。

 私は、絵を描く前に、そんな境地になったことはない。美術室にいるときも、小説を読んでいるか、その小説で浮かんだシーンを紙に焼きつけようとしているかどちらかだ。

「ちょっと会長、手伝って」

 由紀が机を動かしながら悠介に声をかけた。「このへんスペース空けるから、新聞紙敷いてくれるかな」

「はいはい」

 悠介は絵から離れて、床に新聞紙を並べた。

「みのりも手伝ってもらっちゃって悪いね」

「ううん、どうせ私もすることないし。今日はここか生徒会室で本読んでようかと思ってただけだから問題ないよ」

「ありがとう、助かる」

 由紀はてきぱきと作業をしながら指示を出した。三人で手分けしてスペースを作り、塗料を作り、ベニヤ板を白く塗りはじめた。塗り始めて十分もすると、三人ともその作業に没頭した。

 ベニヤ板を白く塗ってしまうと、私たちは準備室でコーヒーを淹れて、飲みながら作業をした。正門の上に設置するため、柱になる部分と四隅を他の木材で補強する。

 腕時計を見ると、もうすぐ三時だ。今日は五時からアルバイトを入れているから、そろそろ学校を出なければならない。

「これさあ、なにしてもいいかな」

 作業がひと段落ついたところで由紀が言った。悠介が、どういうこと、と尋ねると、「普通の看板っぽく、文化祭、とだけ書こうとしてたんだけど、せっかくだからあれをキャンバスにして大きい絵を描こうかな、と思って。いま、ちょっと構想ができてきたとこ」

 由紀はコーヒーをひとくち飲んで顔を上げた。

「グロかったりエロかったりしなければ、何してもいいよ。凝ってくれた方が人目をひくし、俺もおもしろいから」

「ありがと。これでやる気が出てきた。いくつかラフ描いてみるね」

 由紀は笑ってコーヒーを一気に飲んだ。

 そのあと私が、すみませんけど今日はそろそろ帰ります、と言うと、じゃあ久しぶりに一緒に帰るか、と由紀も腰を上げた。

 私たちは美術室を片付けて鍵をかけ、職員室に返しにいった。部活に出る、と言う悠介と美術室の前で別れ、ふたりで廊下を歩いた。土曜日の午後、校舎には人が少ない。見渡せる範囲には生徒も教員も全然いなくて、私と由紀の足音だけが長い廊下に響いた。

「なんかひさしぶりにわくわくしてきた」

 校舎を出たところで由紀が言った。私は、陽光のなかに身を置くのをすこしだけ躊躇する。五月の光はまわりのものすべてを鮮やかに見せる。構内のソメイヨシノも、いま私が歩いているアスファルトも、道端に当然のようにおさまっている自動販売機さえも。

「由紀ちゃんって、大きい絵を描くほうが好きなんだ」

「そうだね。自分の大きさくらいのキャンバスに描くのは楽しいな。それより大きいともっといいけど」

 信号を渡ってお堀沿いに歩く。濃い緑色の液体が光を反射しながら揺れている。

 隣を歩いている由紀が楽しそうに見えて、もういちど訊いた。

「由紀ちゃん、絵を描くのそんなに好きなの」

「好きだよ」

 すぐに返事が返ってきた。「だってあたし、美大に進学希望してるくらいだから」

「そうだったんだ」

 高校二年の一学期なのに、由紀はもう進学希望が固まってるんだ。私はどうしたいんだろう。高校三年間のあいだにやりたいことが見つかるだろうか。

 私たちはバスに乗って、まんなかあたりの席に座った。バスが発車して、次のバス停を告げるアナウンスが車内に流れる。土曜日の昼間なので、バスの中は平日の同じ時間より賑やかなものの、空席だらけだ。

 そういえば幼稚園のときも、よく送迎バスで由紀の隣に座っていた。なんの話をしたのかなんてさっぱり覚えていないけれど、私はいつも由紀の隣に座っていた。

「美大、ってどこに行くつもり。やっぱり東京なの」

 なんの気なしに訊いてみた言葉だった。でも、由紀はしばらくじっと考えていた。

「うん、東京で考えてるけど、実は、海外も考えてる」

「海外……。由紀ちゃんアメリカにもどるの」

「そう。本当は高校も向こうで進学したかったんだけど、親の反対にあっちゃって。それであたしだけ日本に送り返されて来たってわけ」

 連結式の信号なので、交差点がいくつもあるものの、バスはすいすい進む。乗ってくる客もいなくて、バスはあっというまに街から橋の手前まできた。川の水が少ない。最近雨が降ってないせいなのか、それともただ私の気のせいなのか。

「そうだったんだ」

 私は窓の外を見ながら喋った。由紀はそこまで考えていたんだ。橋の上でバスが止まる。橋を降りたところにある信号待ちだ。エンジンの回転する低い音が耳に入ってくる。

「うん、でも、今は日本に戻ってきてよかった、って思うんだ」

「……どうして」

 私は由紀の顔を覗いた。前を向いていた由紀は、ちらっと私のほうを向いた。

「だって、あたしは日本人だから、やっぱり日本人の感性があるんだと思う」

 バスがまた動きはじめた。「一度離れて、戻ってきたから気付くことってあるんだよね」

「よくわからないけど、そうなんだ」

 私の言葉に、そうだよ、と由紀は言った。

「戻ってこなかったら気づかなかったこと、ってたくさんある。たとえばおでんはあっちでも作ることはできるけど、日本の駄菓子屋で食べたおでんと全然違うんだよね。ほら、あたしたちよく行った駄菓子屋さんに、おでんあったじゃない。あの真っ黒い液体のなかに沈んでるじゃがいもとかこんぶとか、一緒に食べたよね。あたし日本に戻ってきて、あの駄菓子屋さんの前を通ったら無性に食べたくなって、食べてみたの。そしたら、やっぱり違うんだよ、向こうで食べたときと。なにが違うのかうまく説明できないけど。あの暗い店内だとか、壁に貼ってある脂の染みたメニューだとか、かき氷のポスターだとか、何年前に撮ったのかわからない、黄ばんだ野球部の写真だとか、そういったファクターも関係してるのかもしれない。でもとにかく、こっちに来てから、あたしの絵にはなにかが足りない、って思うようになったんだ」

 わかるようで、やっぱりよく意味のわからない話だった。



 バスが水しぶきをあげて止まった。同時に後ろの扉が開いて、お待たせしました、とアナウンスが流れる。私はすこし迷ったけれど、傘を開かずにバスに向かった。アスファルトの轍に溜まった水たまりを避けようとして、大きく足を動かす。スカートが邪魔だ。慎重に両足を動かしてバスのステップに辿りついたときには、すでに頭は雨で濡れていた。整理券をお取りください、というアナウンスを理解するより早く、私は目の前にあった整理券を手に取っていた。そういえば昔は、ここから乗ったとき整理券は発行されなかったはずだ。私は、左手のなかにある整理券を見てみる。感熱紙にバーコードが印刷されていた。右隅に「1」と書いてある。なんだろうこれ、と思う間もなく、私の後ろでドアが閉まりバスが動き出した。とにかく座席に座ろうと、バスの中ほどに向かった。タイヤの真上の席も好きだったけれど、いまの私では足場が高くて座りにくい。

 またこのバスに乗ることがあるなんて思っていなかった。私はバスの窓を見る。雨の日は水滴で曇ってしまって、外の景色は全然見えない。私の他に乗車客は中年女性がふたり。平日の昼間、それに加えてこの雨じゃ、外に出かける気にもならないだろう。

 この土地では、住んでいる人たちのあいだに、おぼろげな「街」という感覚があった。どこからどこまでを「街」と言うのかはっきりしないのだけど、駅を中心に、百貨店や県庁、警察署、そして映画館などが立ち並ぶ地域を指してそう呼んでいた。

 私が通っていた高校は、街からすこし外れたところにあった。駅から北に向かって、お堀に囲まれた城跡を通り抜けると個人商店の多い地域に出る。その、昔からのごちゃごちゃとした商店街の中を進んでいくと、唐突に正門が現れるのだ。

 通い始めたばかりの頃、一本手前の道を曲がっても辿りつくだろう、と思って、却って時間を食ってしまったことがある。どうやらこのあたりは、城を攻めにくくするために、わざと入り組んだ道にしているらしい。

 私はガラス窓を指でこすった。指がつめたく濡れて気持ちいい。バスはやっと駅のターミナルを抜けるところだった。大きくカーブを曲がって、身体に重力がかかる。

 せっかくだから、高校を見に行ってもいいかもしれない。今回の帰省が終わったら、私が今度ここに来るのはいつになるかわからない。もしかしたら、もう二度と来ることがないかもしれない。

 私はかつて、「十二階建て」と呼ばれている団地の一室に住んでいた。けれど、もうそこに私の家族は住んでいない。



 目が覚めると水の匂いがした。寝るときに細く開けたままにしていた窓から雨が入りこんでいる。五月に入ってからはじめての雨だ。

 私はベッドから身体を起こして、窓を閉めた。すっかり滑りの悪くなっている窓は、腕に力を入れないとしっかり閉まらない。

 窓ごしに外を眺めた。いつもなら遠くに富士山が見えるはずだったけれど、灰色の空気に遮られてかたちがはっきりしない。下を覗くと、ぼやけた視界のずっと下のほうに、まっ黒く濡れたアスファルトが見える。もう、十五年以上も見つづけた景色。私はここから出て行くことがあるんだろうか。この景色を手放すことがあるんだろうか。

 高校生活は、その日常に馴れるために必死でこなしていただけで一ヶ月が過ぎていた。七時に起きて顔を洗い、七時三十五分のバスに乗る。私は朝に弱いので、中学生のときから朝食は滅多にとらない。そのままバスに揺られて街まで行って、バス停から学校まで歩く途中で昼ご飯を買う。進学校というだけあって、中学と比べると格段にスピードの早い授業を受けて、知識を詰め込んだつもりになる。授業が終わってからは美術室か生徒会室で過ごすけれど、アルバイトのある日は早めに切り上げて一度家に帰る。本屋でレジを打つのが主な仕事だ。本屋といっても、売っているのは本だけではない。文房具やCDも置いているような、中途半端な店だ。暇なときに文房具のコーナーをチェックして、気に入った緑色のシャープペンを仕事用に買った。シフトはだいたい六時から閉店の十時まで。夕食は家に帰って作ることもあるけれど、本屋の並びにある定食屋で食べて帰ることが多い。家に帰って落ち着くとすぐに十二時をまわる。余裕があれば予習をやるものの、アルバイトのある日は疲れていて眠ってしまう。そしてまた七時に目覚まし時計が鳴って、三十五分のバスに乗るために無理やり身体を目覚めさせる。とにかく、目の前の生活をこなしていくだけで精一杯だった。

 父親はたいてい家にいない。システムエンジニアをしながら大学に通っている。何に忙しいのかわからないが、家で見かけることはあまりない。生活は不規則で、会社や大学に寝泊りすることも多いらしい。そんな父と顔を合わせても、何を喋ったらいいのかわからなかった。

 めずらしく父と顔を合わせたときは、一緒に食事に行くことがあった。でも、小さい会社で、しかも正社員ではない父の収入なんてたかが知れている。私たちは、できるだけお金のかからない蕎麦屋や定食屋やラーメン屋で食事をした。

 よく行く蕎麦屋は、寂れた高速道路のパーキングエリアで出されるような、甘じょっぱいつゆに入った、黒い蕎麦を出した。店内にはいつも、古くさい演歌が、聞き取れないほどのボリュウムでかかっている。私と父は、食券を買うときだけ短く言葉を交わし(たいていは、私が言う、肉そば、とか、たぬきそば、という声だけだった)、無言で蕎麦を食べた。店に行く時間が、夜の十二時や一時だったこともあって、店内にはよく、トラックの運転手がいた。

 無味乾燥な行事の一つとして、中間テストが行われて、私たちにはすぐに順位がつけられた。三七五人中一三二位。悠介の言っていた通り、数学の平均点は三十二点だったけれど、他の科目の平均点は六十点前後だった。まだ初回だからそんなもんだけど、これからどんどん変わってくるよ、と悠介は言っていた。ちなみに由紀は、テストの話なんてこれっぽっちもしなかった。唯一テストに関してした会話といえば、テスト期間は拘束時間が短いから、絵にかける時間が多くてよかったのに、ということだけだった。


 傘をさしてバス停に並んだ。バスを待つ人たちはみんな無言だった。複数の傘がはじく雨の音を聞いていると、それぞれがこれからはじまる一日の苦行を受けにいくようだった。バスは、私たちを割り当てた場所に運ぶ、ただのいれもの。

 私と同じ高校生や、学校指定の学生鞄を持った女子中学生、家からバス停に来るまでに雨に濡れてしまったのか、肩を黒光りさせた背広を着ているサラリーマン、何時間かけたのかわからない化粧を一生懸命したあげく、粉っぽい臭いを発している中年女性、せっかくの雨の日だというのに、水の匂いよりもつよい、品のない香水の匂いをさせている男の人。

 バスがやってきて、大きなブレーキ音と水音をさせて止まった。おまたせいたしました、このバスは、というテープアナウンスとともに、がた、が、がちゃっ、とバスのドアが大きな音を立てて開いた。いつものように、並んでいる順番どおりに、私たちはひとりずつ無言でバスに乗りこんでいく。傘をたたまなければいけないぶんだけ、いつもより乗りこむまでに時間がかかった。私も傘をばさっと閉じて、バスのステップをのぼる。その短い時間で、髪と肩がすこし濡れた。靴と靴下は、バス停につくまでですでに湿っている。

 雨の日のバスは晴れの日よりも混んでいる。どこか開いている場所がないか座席を見まわしていると、まんなかあたりに由紀が座っているのが見えた。由紀はいつもこのバスより一本早いバスに乗っているらしく、同じ路線を使っているのにあまり会うことはない。

「おはよ」

「あ、みのり。おはよう。変わろうか」

 由紀は自分の膝あたりを指差して、席を譲ろうか、というジェスチャーをした。でも私は、馴れてるから平気、と言って断った。

「それより今日はどうしたの。十五分のバスじゃないの」

「ちょっと寝坊しちゃって。昨日の夜ラフ描いてて、気付いたら三時まわってたんだよね」

「あの看板のこと」

 由紀は疲れたように小さくため息をつくと、私のほうを向いて笑って、みのりも手伝ってね、と言った。私は小さく頷く。由紀がどんなものを想定しているのか、見るのが楽しみだ。

 団地前バス停からたくさんの人を乗せて、バスが動きはじめた。湿度と温度の高い車内の窓はつめたく曇っていて、ところどころに指で描かれたらしい星印や波線が水を滴らせている。

 同じバスを使うたくさんの知らない人たち。一ヶ月も同じバスを使っていると、いつもの顔ぶれがわかってくるものの、そのうちの誰とも言葉を交わしたことはない。正面を向いても、人の壁で前が見えない。座席は人の頭で埋まっている。横の窓はどれも曇っていて、外の景色はぼんやりとしか見えない。

 嫌な予感がした。胸を締めつけられるような感覚が私を襲う。私は閉じた傘を手すりにかけて、左手を制服のポケットに入れた。指がピルケースに触る。大丈夫だ、ちゃんと薬は持っている。もうちょっと続くようだったら、これを使えばいい。まだ大丈夫だ。

 そのときブレーキが踏まれ、ぐうん、と身体が前にひっぱられた。いつものように手すりと両足に体重を分散させてそれをやりすごそうとしたとき、目の端に動くものがあった。いまのブレーキで、立てかけていた誰かの傘が倒れたんだ、と理解した途端、私の肩に重力がかかった。きっと、傘を取ろうとしてバランスを崩したんだろう。

 いつもなら、これくらいのことなんでもなかった。朝のバスではよくあることで、発作が出かかっているとはいえ、今日も大丈夫のはずだった。けれど、雨に濡れて思ったより摩擦の小さくなっていたバスの床に、私の足は耐えることができなかった。

 私は身体を支えることができず、前にいた男性に、どん、とぶつかってしまった。私は慌てて身体を起こしながら、ごめんなさい、すみませんでした、と言うと、その男性は睨むように私を一瞥してから、また元通りに視線を戻した。迷惑なんだよ、もう話しかけるんじゃねえ、とでも言うように。

 私の心臓は大きく打ちはじめた。このままじゃまずい。私は咄嗟にポケットの中のピルケースからデパスとワイパックスを選り分けていた。はやくこれを飲まないと。

「だいじょうぶ、みのり」

 手すりをつかんでいた私の手の上から、心配して由紀が手を握ってくれている。由紀は、私がこういった発作を持っていることを知っている。焦っていた私は、かろうじて頷いた。手のひらは汗まみれだった。私は由紀を見て、もう一度大きく頷く。大丈夫。ゆっくり深呼吸をしてみる。大丈夫だ。もう一度、深呼吸をする。繰り返すうちにすこし落ち着いてきたけれど、念のため薬を飲んでおきたい。手先だけでポケットの中の錠剤を探り、シートから押し出して口の中に入れる。噛み砕いた方がすぐ効いてくるような気もするけれど、いまは飲み物がないので、錠剤のまま、唾だけで飲みこんだ。

 だいじょうぶ、心配かけてごめんね、と小声で由紀に言った。由紀は顔を横に振って、みのりが大丈夫ならいいの、と言っただけだった。

 停車しているバスの中には、ぶぶぶぶぶ、がっ、がっ、がっ、という低いエンジン音と、……かっちゃん、……かっちゃん、という一定のリズムを刻むワイパー音だけが、休むことなく響いていた。


 はじめて発作が出たのは、去年の夏だった。私は模擬試験を受けていた。「夏は受験の天王山」というコピーが書かれたポスターが、あちこちに貼ってある塾だった。

 私には塾になんて通っている金銭的余裕はなかったのだけれど、同級生が生徒を紹介すると受講料が安くなる、というシステムと、県統一テストが優秀成績であったため、私は、本来の半額以下の、一万円で夏期講習を受けることができた。私は、紹介してくれた高橋万由子と一緒に、夏のあいだ、街まで塾に通うことになった。

 そこは、地域大手の進学塾だった。私の学区にも校舎があって、万由子は普段そちらに通っていた。内申点対策、定期テスト対策は、学校単位でやったほうが効率がいいため、学区ごとに校舎がある。しかし、三年になって上位校を目指す人は本部校舎に集められて講義を受けていた。本部校に行く人で親しい人がいないから、と無理やり誘われた形だったけれど、すこしは受験対策もしておかなきゃ、と思っていた私にとっても好都合だった。

 そんなわけで、夏休みのほぼ毎日を万由子と一緒にバスに乗って街にある本部校まで通うことになった。そこで、一クラス六十人を超える生徒たちと一緒に講義を受けた。トップ校を受ける生徒の集まりだけあって、みんなすいすいと問題を解いていた。私も雰囲気に飲まれて、ついていかなきゃ、と必死で問題を解いた。

 塾というシステムの中に急に飛び込んだことによって、受験が迫っているんだ、ということをいやでも身体に叩き込まれた。講師たちは中学校にいるどの教師たちよりも真剣で、テキストのどれもこれもが受験のためだ、ということが伝わってきた。

 でも、朝から塾に行き、夕方帰ってきてアルバイト、夜テキストを開いて復習、という生活が辛かったのかもしれない。それとも、はじめて受験に向かう自分と同じ中学生を目の当たりにして、精神的に追いつめられていたのか。

 夏期講習のカリキュラムとして盛り込まれていた模試の日だった。普段と違って、大教室を使って様々なクラスの人が入り乱れてテストを受けることになっていた。クーラーが効きすぎるほど効いていて、寒いくらいだったのを覚えている。

 英語の試験を受けているとき、長文問題に入る前に頭を切り換えようとして、ふと顔を上げただけだった。そこに異様な光景があった。二百人を超える自分と同い年の男女が、みんな下を向いて問題を解いている。私はその光景から目を離すことができなかった。みんな必死にシャープペンを動かしている。解答用紙に答えを書く音が、四方から聞こえる。

 突然心臓がばくばくいった。緊張しているとかそういう次元を超えていて、私の心臓はどうかなってしまったのかと思った。どうしたらいいのかわからず混乱していたら、今度は心臓付近に強い痛みを感じた。そうなるともうまわりを見ている余裕なんてない。私は持っていたシャープペンを取り落とした。隣の机までシャープペンが転がって、かちゃん、と音を立てた。私は自分の胸をわしづかみにしながら机に伏せるしかなかった。隣の男の子が私を見てびっくりしているのがわかる。試験監督が私のところに来るまで、そう時間はかからなかった。

 私は講師室で横になっていた。発作はおさまっていたけれど、ゆったりとして気持ちよかったので、しばらくそのまま横になっていた。

「みのり、気がついたの」

 講師室の机に向かっていたらしい万由子に声をかけられた。万由子は私の傍にきて、突然倒れた、って、どうしちゃったの、やっぱり疲れてるんじゃないの、と訊いた。そうかもしれない、と私は横になったまま答えた。

 大丈夫か、という講師にお礼を言って、私たちはバス停に向かった。校舎を出ると、むわっとした暑さが私たちを襲う。街の方は太陽の暑さだけじゃなくて、アスファルトの照り返しやバスの排気、クーラーの室外機などによって人工的な暑さが作られている。顔の前にビニール袋を貼りつけられたみたいな、不快な暑さ。

「ごめんね、待っててもらっちゃって」

「いいよ、どうせ家に帰ったって勉強しかすることないんだし」

 万由子は静かに言った。「それより本当に大丈夫なの」

「うん、多分疲れがたまってたんだと思う。ちょっとシフト減らしてもらうことにする」

 もうすぐ午後六時という時間だったけれど、まだまだ空は明るい。私たちは公園を通り抜けた。みのりにはかなわないな、と万由子がつぶやいた。なに、と私が訊くと、

「だって、みのりは自分で家を回して、それでちゃんと受験生もやっちゃうんだから。受験だけでひいひい言ってるあたしとか、現代社会の被害者みたいに言ってるやつら、みんなみのりにはかなわない。っていうかそれでもまだみのりに負けたくないと思ってる自分が小さくてショックで。あたしなんかライバルにもならないんじゃないか、って思ったりして」

「そんな。勉強は万由子のほうができてるじゃない。私なんて到底万由子には勝てないよ」

 万由子はしばらく無言で歩いていた。ショートカットの髪型が万由子によく似合っている。私にはこういう髪型は似合わない。でも、長くしてると夏のあいだ邪魔なんだよなあ。

「ううん、それはみのりが家のことまでやってるから。あたしなんて家じゃのうのうと受験生様やってるんだよ。全部あたしの都合で家は回るし、家族みんなが気を使ってくれる。……今回みのりのことを夏期講習に誘ったのも、なんていうか、みのりへの挑戦、っていうか半分いやがらせ、っていうか。……あたしはこの塾のカリキュラムをこなしてるんだぞ、みのりはついて来れるかな、っていう気持ちがあったの。なんていうか、心の底でみのりに負けるのを認めたくなかったの」

「そんな、負けてないよ。私、万由子に成績勝てないじゃ」

「ちがうの」

 私の言葉は途中で遮られた。「違うの。勝つとか負けるとか、こんなこと考えてる時点であたしの負けなの。人間としてみのりに勝てないの」

 返す言葉が見つからなかった。万由子にそんなふうに見られていたのか。でも、勝つとか負けるとかじゃなくて、私は自分でやっていかなきゃ世界を回せないからそうしているんだ。他の人間に勝ちたくてやってるんじゃない。アルバイトだって、お金が足りなくなってしまうかもしれないから仕方なくやっているのだ。それに、万由子は私の人間ができているように言うけれど、私だって、客を見ては、態度が悪い、とか雑誌を散らかしていくな、とか、酒くさいやつは来るな、とか、いちいちブックカバーつけたがるなよ、なんて思っている。それを全く顔に出さずに接客している自分のことを、できている人間、というのなら、それ、ってなんなんだろう。心情を吐露した万由子のほうが、私よりよっぽど信用できる。

「だから、ごめんね」

 万由子が言った。私はなんだかやりきれなくなってしまった。正直過ぎるというか、心が綺麗過ぎるというか。

 私は隣を歩いていた万由子の頬をつまんだ。

「これ以上言うな。万由子は元気じゃなきゃ万由子じゃない。しょぼくれてる万由子なんか万由子じゃない。そんな人私の友達にも知り合いにもいないぞ」

 私は万由子に向かって笑った。万由子は泣きそうな顔のまま無理やり笑顔を作った。

「ん、ごめんね」

「だから、ごめんねじゃないでしょ」

「あっ、そうか。ごめ、……じゃなくて」

 私と万由子は同時に笑った。

 この日はそのまま家に帰ってなんともなく過ごしたけれど、だたの疲れと思っていた発作がこのあとも起きた。特に寝ようとするときに発作が起こることがたびたびあって、動悸や胸痛、痙攣が起こるなか、私がもしこのまま死んだらいつ私の葬式が行われるんだろう、父が帰ってくるのが早いか、学校側におかしいと思われるのが早いか、どっちだろう、と漠然と考えていた。

 四度目の発作が起こったあと、気になって病院に行ってみたものの、内科的にはなんの問題も見つからなかった。色々な科をたらいまわしにされて、このまま私はどうにかなってしまうんだろうか、と不安になっていたところ、私に「パニック障害」という病名がつけられた。精神科だった。そこでいくつかの精神安定剤を渡され、常に飲む薬と、頓服で使う薬の説明を受けた。発作の予兆が感じられたら飲むように、と渡された薬を、私は不思議な気持ちで眺めていた。私、精神病患者なのか。それはずっと遠くにあって、いままで自分には全然関係ないもののように思っていた。精神科、と聞くたびに、そんなの自分の気持ち次第じゃない、うつ病なんて甘えてるだけじゃない、と思っていただけに、自分もその括りに入ってしまうのがなんだか不思議だった。じっとデパスの錠剤を眺めていた私に、何度か使えば、そのうち使うタイミングはわかってくると思うよ、と、医者はまったく見当違いのことを言った。

 そのあとも、何度か発作が出た。薬で発作を小さく抑えているものの、発作の予兆が来る感覚が怖くてたまらなかった。これからまたあの苦しい時間がやってくるんだ、と思うだけで、その場にしゃがみこみたくなるほど恐ろしかった。病名がわかって、命に別状はない、根気よく治療すれば必ず治る病気だ、と知ってすこしは気が楽になったものの、またいつ発作が起こるかと考えてしまい、外出するのが億劫になった。病気の内容を知って責任を感じたのか、二学期から万由子がいつも一緒にいてくれたのがありがたかった。父には病気のことは言う気になれなかった。

 確かに、このときもし塾に行っていなかったら、私はこの病気にかかっていなかったかもしれない。でも、行っていなかったら、きっといまの高校には受かっていない。由紀とも再会できなかっただろう。私はこの病気にかかるべくしてかかったのだろうか。


 私と由紀はバスを降りた。傘を開いてバス停から高校までお堀沿いを歩く。お互いなにも喋らない。雨音が激しくて、喋っても声が届くかどうかわからなかった。車が水しぶきを撥ねながら通っていく。あたりは水の音でいっぱいだった。お堀にも雨が落ちて、いつもは穏やかな水面が揺れていた。革靴が濡れる。靴下に色がついてしまうほどに。

 薬が効いて、私の心臓は落ち着いていた。水の匂いがする。前を歩いている由紀のクリーム色の傘が、雨にくすんだ世界の中で、異常なほど鮮やかに映った。

 今日から文化祭の準備が本格的に始まる。



 パニック障害は、完全に治ったわけじゃない。医師はもう治った、と言うけれど、私は今も財布の中にワイパックスを持っている。まず飲むことはないけれど、発作の恐怖があって、いつも薬を持っていないと安心できなくなってしまった。

 発作の出始めたあのときがいちばんひどかった。入試の最中に発作が出ないかとびくびくして、筆箱の中にいつもより多めに薬を入れた。ただ、発作を抑えてくれる薬は、もともとが精神安定剤なので、飲むとどれも眠くなってしまい、集中力も落ちて、受験生としては辛い限りだった。

 バスは県庁前を通り、連結式の信号が設置されている大通りに出た。街と住宅地を繋ぐ主要道路だ。記憶の中と変わらない建物もあれば、全く見覚えのない建物もたくさん建っていた。懐かしさとともに、私はここにいてもいいんだろうか、という気分になる。もう、私はここから排除されてしまった人間なんじゃないか。この土地は、戻ってきた私を一時でも受け入れてくれるのだろうか。

 バスはあっという間に川の手前まで辿りついた。橋のたもとにあった団子屋がまだある。私は曇った窓ガラスを手で拭った。舗道が雨に濡れていて、店に客は誰もいない。昔からある有名な団子屋らしいけれど、ここに住んでいた頃は一度も入ったことがない。毎日、目の前を通っていたのに。

 川の水が濁って勢いよく流れている。まだ母が生きていた頃、雨が降るとふたりでよく川を見にいった。川を渡ってすぐのところにあった私たちの十二階建て団地は、川の変容を見るのに十分だったけれど、激しい雨のときに上から川を眺めているのと、近くまで行って感じるのでは全く違うものだった。私たちは、レインコートを着て傘をさして、雨の中を川に向かって歩いた。公園を抜けて草むらの中を通り抜け土手を上がると、河川敷が茶色く水びたしになっているのが見える。誰がそうするのか、バックネットはいつも安全のために横倒しにされていた。

 河川敷の向こうに、茶色くうねった水が勢いよく流れている。普段は水が流れている場所なんてそんなになくて石ころだらけの川なのに、雨が降ると河原全体を水が覆い、そこが川であることを強く主張していた。山の上のほうからの雨を全部集めているから、下流では大きい流れになるのだろうか。

 母は必ず、すごいね、と言って、土手の上で立ち止まった。私は、そうだね、と言うときもあれば、なにも答えないときもあった。母は決まってそこで煙草を吸って、何も喋らず、じっと川の流れを見つめていた。私はいつも、三十分くらい眺めたところで、そろそろ帰ろうか、と言うだろう母を、毎回辛抱強く待った。

 私はまた曇ってきた窓ガラスを指で拭いた。バスは橋の上を走っている。いまでは、母が何を思って雨のたびに川を眺めに行っていたのか、なんとなくわかる。高校を出て東京に行くことが決まったとき、家の中を片付けていて、母の宝石箱の中から睡眠薬ハルシオンのシートが出てきた。それを見て、母と一緒に荒れた川を見に行っていたことを思い出した。そして、いっぺんに繋がった。母にとって、荒れた川を見ることが、これからも生きていくことを実感するための手段だったのだろう。生と死の境目に立ったあと、生の領域に戻ってくることによって、これからも生きていこうとする力を無理やり得ていたのだ。私を連れていったのはきっと、抑止力のためだったんだろう。

 けれど、母は自分で命を絶つ前に、肺がんによって命を絶たれた。

 バスのエンジン音は、相変わらず低い。走っているときよりも止まっているときの方が、大きい音を鳴らす。



 壇上では、校長先生が延々と喋っている。日差しが強くなってきて、だんだん暖かい季節になってきましたね、と朝のテレビは言っていたけれど、体育館に制服でじっとしているとまだまだ寒くて、いつの間にか私の足は冷たくなっていた。

 入学式、私は万由子と一緒に登校した。

 高校前まできたとき、目の前を桜の花びらが邪魔なほどに漂っていた。くすんだ緑色の金網越しに校内に目を向けると、そこには一斉に花をつけたソメイヨシノが立ち並んでいた。そこにある花は、綺麗という次元を超えて、何かを人間たちに誇示しているようだった。その勢いに圧倒されて、私は先に進むことができなくなった。校内に入るのをためらって桜を見ながらぼんやり立ち止まっていると、前を歩いていた万由子が、

「きれいだよ。みのり、はやくおいで」

 と言った。私は万由子の真新しいグレーの制服を追いかけて、覚悟を決めるように正門をくぐった。

 壇上の話はまだ続いていた。天井の高い体育館ではマイクの音が反響してしまって聞きづらい。それでなくても退屈する大人の話を、聞き取れないままどうして続けなければならないのだろう。彼らが子供の頃は、きちんと聞いていたのだろうか。

 それともこれは、聞いているふりを身につけさせるための訓練なのだろうか。そのためにわざわざ入学式や朝礼で、長い割にたいして面白くもない話をするのが校長先生の仕事になっているのだろうか。

 私の左側には、自分と同じグレーの制服を着た女の子が、右側には黒い詰襟を着た男の子が座っている。

 一ヶ月もない短い春休みのあいだに女の子たちは確実にひとつ大人になっているけれど、男の子たちは、詰襟のボタンが「中」から「高」になっただけで、中身はなにも変わっていない。女の子たちが節目ごとにきっちり大人になっていこうと努力しているのに対して、男の子たちはなんの予告もなしに突然変わる。そういうところをなにも考えずにすいすいとこなしていってしまえる男の子を、すこし羨ましく思う。

 私は、自分の穿いているグレーのスカートを眺めた。制服のお金は、自分のアルバイト代から出した。今日から私が高校に通うことを父は知らない。もう三ヶ月、父とは会話をしていなかった。毎月それなりにお金を入れてくれるものの、父が私のことをどう思っているのかさっぱりわからなかった。私は、完全にひとりで暮らしていた。

 両隣のクラスメイトにつられて拍手をした。いつのまにか校長先生の話は終わって、司会役の教師が話を進めている。

 ……生徒会からのお知らせ、明日は新入生の歓迎会があります、そのあとに部活紹介があります

 スピーカーから声が流れてくるけれど、声の主の姿は見えない。大人の話というのは、そういうものだ。

 アルバイトが終わったあと、簡単に食事をして家に帰った。高校生活の初日は思ったより緊張していたようで、家までの道を歩いていると勝手にまぶたが落ちてくるほどの疲労を感じた。私はエレベーターを九階で降りて、無意識のうちに家の前まで辿りついていた。

 けれど、いつものように鍵を挿しこもうとした手が止まった。なにかがいつもと違う。私はそっと、その集合住宅のドアの郵便受けを開けて耳を澄ませた。

 父がいる。テレビの音が聞こえる。

 私は、動けないまま団地の廊下にしゃがみこんでいた。嫌な動悸がした。頬に当たっていたつめたいドアの感覚はもう消えている。嘘だ、こんなときに発作がくるはずがない。どうして身内と対するだけで、私の身体は異常にならなければいけないんだ。

 家に入らなきゃ、という意思に反して、私はほとんど小走りになりながら、またエレベーターに戻っていた。

 ……いやだ

 頭の中にはその言葉しか浮かんでこない。私は急いでまだ九階に止まったままのエレベーターに乗りこむと、素早く階数指定のボタンと「閉」のボタンを押した。エレベーターはガタのきていることを隠さずに、きいきいと音を発しながらゆっくり上昇していく。そのあいだに私は鞄の中からピルケースを取り出した。

 屋上に出ると、私は深呼吸をしながら建物の端に向かって歩いた。月が薄い雲に遮られて、ぼんやりと白く光っている。

 スカートを翻す風で、私はまだ自分が制服を着ていたことを思い出した。とにかく薬を飲もうと、ピルケースからデパスのPTPシートを取り出したときだった。

「こんばんは」

 突然声をかけられて、私の心臓はまた激しく動きはじめた。あまりにびっくりしていたんだろう、そこにいた彼女はゆっくりと「あ、ごめんなさい。そんなに驚かすつもりはなかったんだけど」と言った。ところどころに絵の具のついたトレーナーとジーンズを着ている彼女の視線はイーゼルに立てたキャンバスに注がれている。

「ここからの夜景を描いてみたくてね。無断で上がらせてもらってる」

 私は、おそるおそる彼女の絵が見えるところまで近づいていった。川の向こうに見える光が絵の中にも生きている。土手に植えられた松のシルエットは、まるでこちらがわに浮き出てくるように描かれていた。

「上手ですね」

「……そうでもないよ」

 彼女はそう言うと、筆を持ったまま、傍らに置いていたエビアンのペットボトルを私に差し出した。私が戸惑っていると、彼女は私の手のひらを見て、

「それ飲むんなら、水いるでしょ」

 そう言うと、私の手の中にペットボトルを置いて、また作業をはじめた。私は自分の左手を見て、PTPシートが握られていたままだったことに気付いた。私はしばらく迷っていたけれど、錠剤を押し出して水で流しこんだ。

 私は、ありがとうございました、と言って彼女にエビアンを返すと、真新しい制服を汚してしまうのも構わず、コンクリートに腰を下ろした。ところどころひび割れたコンクリートが、この建物の古さを物語っている。

「高校は、どうだった」

 彼女が私に訊いた。なぜ彼女にそんなことを訊かれなければならないのかわからなかった。私が無言でいると、彼女はふふ、と笑った。不精な恰好をしてるけど、この女の人は美人だ。私よりずっと年上に見えたけれど、今の笑い顔は私と同年代のものだった。

「なんだ、あたしのことわからないのか」

 私は彼女の笑顔を見つめていた。意味がよくわからなかった。

「私のこと、知ってるんですか」

「よく知ってるよ。みのり」

 落ち着いてきた心拍数が、また上がった。名前を呼ばれたことに私の身体はびくっと反応した。

 彼女の整った顔と、その向こうに描かれた絵を見ていると何かを思い出しそうだった。そう、こんな感じで、私が座っていて、女の子が振り向いていたことがあった。

 彼女の向こうには窓があって、そこにはやっぱり川が流れていた。私たちは小学生で、仲のよかった私は彼女の家によく行っていた。あのときの彼女を子供心にとても美人だと思ったのを覚えている。

 あのときは、彼女の部屋で話を聞いていた。彼女は、下校してきた私を見つけて、「みのり、あたしの家にきて」と言うと私を自分の家に引っ張っていったのだ。

 私はランドセルを背負ったまま彼女の家にあがった。あいかわらず父は帰ってこなかったし、母はがんで入院しているから、どうせ家に帰ってもひとりで過ごさなければならなかった。学校に言われていた、家に帰る前に寄り道をしてはいけません、という決まりなんてその頃の私にはどうでもよかった。私の家庭の事情を知っている学校に知れたところで、先生が私に何か言えるはずもなかったけれど。母ががんの末期ということで、私は先生たちから遠まわしに気を遣われていたのだ。

 彼女に続いて玄関を上がったとき、異様な雰囲気を感じた。なにかがいつもと違う。これは、先を立って歩く彼女が発しているものではなかった。この家が醸し出している空気がどこかおかしいのだ。

 二階にある彼女の部屋に入ったとき、そのおかしい空気の原因がどこにあるのかが理解できた。この家は、不自然なほどに片付けられているのだ。

 彼女の部屋も、生活のかけらがなくがらんとしていた。机の上には何もなかったし、いろんな本が詰まっていた本棚もすかすかになっていた。それに、彼女が部屋の中においていた鉢植えもなくなっていて、この部屋に残っているのはベッドと彼女の服だけになっていた。

 私はランドセルをおろすとベッドに腰掛けて、彼女が口を開くのを待った。

「あたし、引っ越すことになったの」

 彼女は窓の外を見ながら言った。私はなにも言葉を発することなく彼女の後ろ姿を見ていた。ただ、ストレートの髪が綺麗だな、と思っていた。

「どこに引っ越すの」

 私は考えもなくさらっと訊いた。彼女の向こうには、土手に植えられている松が見える。そこに生えている雑草はすでに黄色くなっていて、そろそろ冬が近づいていることを示していた。

「サンフランシスコ、だって」

 強い風が吹いて、窓が、かた、かたん、と揺れた。私は、そうなんだ、と言うのが精一杯だった。

 母に続いて、仲のよかった彼女とも離れなければならない。どうしてみんな離れていってしまうんだろう。私はどうすればいいんだろう。

「みのり」

 声に顔を上げると、彼女は私を見て微笑んでいた。その笑顔を見ているとなんだか悲しくなって、わけがわからず泣きそうになった。それをこらえようとしてなにかを喋ろうとした次の瞬間、彼女の顔は私の目の前にあった。

 私の唇は彼女の唇に塞がれていた。

 私は状況を把握できなくて、目の前にある彼女の睫毛に魅入っていた。

「由紀ちゃん……」

 ゆっくりと顔を離した彼女に向かって、私は気が動転しながら呟いていた。

「やっと思い出してくれたのね」

 その少女の顔が、絵の具で汚したトレーナーを着ている目の前にいる女性の顔と重なった。

「……由紀ちゃん、由紀ちゃんなの」

 瞼が熱くなるのがわかった。

「みのり、ひさしぶり。……泣かないでよ」

「だって、もうずっと、会えると思ってなかったんだもん」

「あたしもだよ」

 私は由紀に向かって、あれからのことを喋ろうとしたのだけれど、涙としゃっくりが立て続けに出て止まらなくなって、私はそのあと一言も言葉にすることができなかった。


 自分の家には寄らずに、制服のまま由紀の家に行った。イーゼルとキャンバスを持ってリビングに向かった由紀の後ろをついていった私は足を止めた。あたりは由紀の描いたらしき絵が散らかっていて、足の踏み場がない。

「ああ、この部屋は全然使ってないんだ。落ち着く場所ないからあたしの部屋に行ってて。場所わかるよね」

 イーゼルを立てながら由紀が言った。私は、わかった、と頷いて二階にあがった。

 由紀の部屋の扉を開いたら、あのときの記憶が甦ってきた。私は泣いてしまって、由紀にずっと抱きしめられていた。母を頼ることができなくなって、かといってろくに会話もしたことがなかった父といまさら親しく会話なんてできなくて、何かを突っぱねるように、これからはひとりで生きてやるんだ、と思っていた。

 私は窓を開けた。からからから、という音が住宅地の闇の中を伝播する。ここの夜は早い。十時には道路を通る車が目に見えて減ってきて、十一時にはあらゆる信号が点滅信号に変わる。

 外からつめたい空気が流れてきた。目を凝らすと、土手に植えられている松が見える。風の音が聞こえる。私はここに生きている。

「おまたせ」

 着替えた由紀が、缶ビールを持ってやってきた。「今日、美術室から見てて、すぐにわかったよ。みのりだ、って。道路にじっと立って桜を眺めてたでしょ」

 私は窓を閉めて由紀から缶ビールを受け取ると、ベッドに腰掛けた。

「由紀ちゃん、ビールなんて飲むの」

「みのり、飲んだことないんだ。あたし、向こうに行ってからちょくちょく飲むようになっちゃって」

 由紀がビールを飲むのを見ながら、私はプルタブを開けた。吹き出てくる泡が、由紀と一緒に観察したカマキリの産卵シーンを思い出させる。私は意を決して、それをひとくち飲んだ。苦味と冷気が暴れながら私の中を駆け降りていく。

「はじめてのビールはどうかな」

 私は首を振った。きっと、眉間には皺がよっていたと思う。それを見た由紀が、あはは、あたしもはじめはこんなもんどこがうまいんだろ、って思ってたよ、と笑った。「まあ、無理に飲まなくていいからさ。みのり泊まっていけるでしょ。今日はゆっくり再会を祝いましょ」

 私は自然に笑っていた。発作が出るようになってから、こんな気持ちになれたのは初めてかもしれない。

 ただ、ひと缶だけ飲んでみようと思ったのが間違いだった。アルコールと精神安定剤の相性は思ったより悪く、私はすぐに呂律が回らなくなって由紀のベッドの上で制服のまま意識を失っていた。



 入学式の日に私を見かけなければ、団地の屋上で絵なんて描こうとは思わなかった、由紀はそう言った。

 バスを降りた。バーコードで読み取ったぶんだけお金を払わないとブザーが鳴る仕組みらしい。整理券も進歩したな。そのぶん運賃もあがっていたけど。

 傘をさしたあと、しまった、と思った。条件反射なのか、つい団地前のバス停で降りてしまったのだ。降りるべき場所はもうひとつ先のバス停だった。私は先を行ってしまったバスを恨めしく見つめた。

 私は歩き出さずに、バス停からぐるっと周囲を見渡した。駅前の変化に較べると、このあたりはあまり変わっていない。自転車屋も写真屋も運動場のやけに狭い保育園も、昔のままだ。覚えのないところに新しく信号がついていたり歯科ができていたりするけれど、昔からあったものがなくなっている、ということはなさそうだった。私はゆっくり歩き始めた。信号ができたものの、通行量が増えたわけではないようだ。

 目の前に建つ十二階建てを眺めてみる。このあたりでいちばん目立つ建物だ。私は、道路を横切って団地に向かっていた。私の到着時刻は伝えていないから、いつ着いてもいいはずだった。どうせならここを覗いていこうと、エントランスというのか、上から見ると「ロ」の字型になっている団地の入り口をくぐった。まんなかは吹き抜けになっていて、なんの意味があるのか中途半端な石庭がある。それは柵のなかに作られていて、誰も手入れなんてしないから埃っぽく汚れている。今日みたいな日は、遥か上から落ちてきた雨に濡れている。なんのために作られたのか全くわからない。ここを通るたびに、どうしてこの建物に吹き抜けなんて作ったんだろう、と思っていた。天井を塞いで自転車置き場にでもした方がよっぽどいい。

 私はエレベーターのボタンを押した。ここも変わらず古汚いままだ。エレベーターは、が、がん、と低い音をたてて扉を開けた。私は屋上のボタンを押し、「閉」のボタンを押す。ゆっくりと音をたててエレベーターのドアが閉まった。

 あの日から、由紀はここの屋上でも絵を描いていた。河原の絵、その向こうにそびえる富士山の絵。

 屋上に着いた。傘をさして柵に向かって歩く。由紀がイーゼルを立てていた場所だ。いま、ここには私のほかに誰もいない。あたり前だ、こんな雨の日に屋上に出てくる人なんていない。私は柵越しに、茶色く濁った川を眺めた。



 由紀の家で文化祭の看板作りが始まった。美術室でやってもいいんだけど、下校時間とかバスの時間とか気にしなきゃいけないのはいやだ、どうせなら家でやる、と由紀は言った。そこで美術部の顧問に頼んで、白く塗ったベニヤ板をワゴンに載せて由紀の家まで運んだ。

 ひとり暮らしをしていた由紀は、リビングを完全にアトリエとして使っていた。予め看板をここで描くつもりだったのか、既に作業スペースが作られていて、以前私が来たときよりも部屋は片付けられていた。

「へえー。俺が使いたいくらいだよ、ここ」

 搬入が終わると、煙草をふかしながら顧問が言った。いいでしょ、と言った由紀は、先生おつかれさま、ビールでも飲む、と訊いていた。顧問は携帯灰皿を手にしながら、これからまた運転しなきゃいけんからアルコールはまずいだろ、と笑って由紀の絵をひとつひとつ見ていった。

「どう、あたしの絵」

「ん、このくらい描ければ、美大なら問題ないだろ。まあ、テーマに沿ったやつはのちのち練習するとして、今はおまえの好きなもんを描いといたらええよ」

「わかった。好きなもんを描いときます。はい先生、烏龍茶どうぞ。みのりも」

「お、ありがとう、いただきます」

 顧問は煙草を潰すと、由紀の差し出したコップを受け取って、ぐっと飲んだ。髭の濃い口がうまそうに烏龍茶を飲みこんでいく。私は、前回父と向かい合って話をしたのはいつだったか思い出そうとした。私はそのとき、不精髭を生やした父の口が動くのをじっと見つめていた。誰しもがいちばん身近に持っているはずの大人の男の人を、私は持たなかった。久しぶりに父と会った思春期の私は、大人の男の人とどう接していいのかわからなかった。いや、思春期だったからだけじゃない。あのとき、私は憤っていた。

 そうだ、父は紙コップに入ったコーヒーを飲んでいた。そう、あれは病院だった。

 母は身体を数ヶ所切り刻まれ、薬物による延命治療で衰弱して、それでもがんは小さくならなくて、毎日モルヒネを打って眠っていた。父は、眠っている母の額に手を当てると暫く目を瞑っていた。

「母さんは、何か言ってたか」

 私たちは病院の喫煙所に出ていた。母が入院してから全然顔も出さなかったくせに感傷に浸ってるんじゃない、と私は思っていたから、返事をしなかった。父は黒いビニールの長椅子から立ち上がると、自販機に小銭を入れた。何か飲むか、と訊かれたけれど、私はそれにも返事をしなかった。

「なんであいつは、俺なんかと結婚したんだろうな」

 父はコーヒーを口にしながらそう呟いた。その口元には不精髭が生えていた。甘ったるいインスタントコーヒーの匂いが私の鼻をついた。

「コーヒー」

 私はそう言った。「それと同じの、私にもちょうだい」

 父は無言でまた自販機に小銭を入れた。コーヒーを入れる、ういーん、という低い自販機の唸りが廊下の向こうまで届いているような気がした。父から紙コップを受け取ると、私はすぐにひとくち飲んだ。舌をやけどした。あまりに熱くて、甘いんだか苦いんだかわからなかった。舌がひりひりする。私たちは、ずっと無言だった。

「すまんな、みのり」

 父はひとこと、そう言った。いや、空耳かもしれない。だいたい、すまん、って、なにをすまないと思ってるの。家に帰って来ないことなの、それとも、お金を入れてくれないことなの。「俺は、どうも不器用で、涼子のことも幸せにしてやれなかった。みのり、おまえに対しても、俺は」

 父は、俯きながらぼそぼそと喋った。私は、その言葉を聞いて、怒りで目が熱くなるのを感じた。なに、なんなの、俺は不器用で、って、それが大人のいいわけなの。それで済まそうと思っているの。このひとは、何を考えているの。

 そこまで考えたとき、下腹部に剥がれ落ちるような痛みを感じた。どうしようか迷ったけれど、どっちにしろ、このままじゃいられない。私はコーヒーを一気に飲みほすと立ち上がった。もはやコーヒーに熱さは感じなかった。

 話の途中で私が立ち上がったのがわかると、父は喋るのをやめて私を見つめた。

「生理が来た」

 一言だけ言った。激しい怒りのために周期が狂ったのだ。生理用品なんて持っていなかったけれど、ここは病院だ。誰か看護婦さんに言えばナプキンくらい分けてくれるだろう。

 もう、父に言うことなんて何もない。私は黙って父の前を立ち去ろうとしたけれど、お腹の痛みと怒りがごっちゃになって、思わず父を振り返ってしまった。「不器用なら不器用なりに、なにかしたらどうなの」

 私は、何も言葉を発することのできなくなった父を置いて、ナースステーションに向かって歩き出した。

 それから父は、少ないながらもお金を入れるようになった。

「ごちそうさん」

 ことり、と音をさせて、顧問がガラステーブルに空になったコップを置いた。私は急速に現実に引き戻される。「それじゃ俺行くけど、おまえら学校戻るか」

「いえ、今日はここで」

 由紀が答えた。私も答える。

「あ、私もいいです、ここから近いから」

「おう、じゃ、また明日な」

「はい、ありがとうございました」

 私たちは顧問のワゴンを見送ってから、また由紀の家に戻った。

「よーし、やるぞー」

 由紀が両手を空に向かって突き上げた。五月の空は、青と白のコントラストがはっきりしている。まわりの景色も、色鮮やかに仕立て上げる。



 私は、雨の中を由紀の家に向かって歩いていた。ここを離れてから七年も経つのに、思ったより色々なことを覚えている。私は、誰もいない公園を眺めた。手入れがされていないのか草だらけだ。もう、今の子供は誰ひとり公園なんかで遊んでいないということなのか。

 いつかのように、ここを通り抜けて土手から濁流を眺めてみようか、という考えがちらっと頭をかすめたけれど、雨に濡れた草の中を通っていく気にはなれなかった。私はただぼんやりと立ち止まって、舗道から誰もいない公園を眺めていた。雨の音だけが響く。

 母の葬式のときも、雨が降っていた。団地の部屋では弔問客が入れないので、母の遺体は集会所に置かれていた。

 団地に隣接して建てられたその建物は、集会所、と呼ばれていたけれど、何に使われているのかさっぱりわからなくて、普段は鍵がかけられていた。窓ガラスは埃でくすんでいて、中を覗くと、いつも乱雑に並んだパイプ椅子と折りたたみの机が見えた。

 今まで、雨の日に子供会で使うときと、ごみ収集の当番を決めるときくらいしか、集会所の使い道はないんじゃないか、と思っていた。でも、こういう使い方もするんだな、と、パイプ椅子に座りながら、私はぼんやりと、やってくる人を眺めていた。

 母が死んだ次の日、遺体は病院から団地に輸送された。薄明るくなって、夜の明けかかった町並みをよく覚えている。担当だった医師と看護婦が頭を下げるなか、父と母の乗った車が先に病院を出ていった。私は、母の妹、という人の車に乗せられて、みのりちゃんも大変だったねえ、と言われながら、団地まで運ばれた。

 団地に着くと、もう集会所に母の遺体があった。白黒の布がかけられていて、母は棺の中に入っていた。さっき死んだばかりなのに、ずいぶん手際がいいんだな。

 父は、汚い服のまま、葬儀社の人と話をしていた。寺への連絡、親族への連絡、新聞に載せる、なんていう会話が聞こえてきた。私は、母の顔を見ようとして、棺をのぞきこんだ。顔には、白いハンカチがかけられていた。一瞬躊躇があったけれど、私は、そのハンカチをめくった。私の知らない母の顔が、そこにあった。

「みのりちゃん、休んできなさい。寝てないでしょ」

 母の妹が、私の後ろで、一緒になって母を見つめていた。私は何も言わずに、ただそこに立ち尽くしていた。昨日まで、意識が朦朧としているとはいっても、きちんと意思を持って、会話をしていた人が、ただの塊になっている。これは、ただの抜け殻なんだ。だとしたら、会話をして、意志を持っていた、母はどうなってしまったんだろう。

 どれくらいそうしていたのかわからない。頭を撫でられて、私はふと気がついた。

「学校、そうだ、ごはん炊かなきゃ」

「学校はおばさんが連絡しとくから、みのりちゃんは休んできなさい。ごはんの心配もしなくていいから」

 悲しいというのも、虚しいというのもちがう、もっと不思議な感覚が、私を占めていた。人が死ぬ、ということは、不思議なことだった。

「奈津美さん。お母さんが死んで、悲しいですか」

 私は母の妹に訊いた。

「そうね。……涼子姉さんは、あたしのこといちばんかまってくれたからね」

 私は、ハンカチを元通り母の顔にかけると、自分の部屋に行き、着替える間もなくベッドに倒れこんだ。



 父は本当に不器用な人だった。今はアメリカの大学で電子工学の講師をやっている。私が小学校にあがるまで高校で物理の教員をやっていたんだ、と言っていたけれど、本当はもう二、三年前にやめたんじゃないかと思っている。六歳にもなれば父や母の仕事くらい理解できる。私の記憶の中に、教員としての父の姿はない。

 同じような毎日の繰り返し、自分の研究はできない、生徒への気も遣わなければいけない時代になってきた、そんなことが重なって鬱屈としていたとき、人工心臓弁について書かれた論文を見てその大学に押しかけた、と父は言っていた。

 母が入院していた頃、父はまだ助手ではなかった。外部研究員として正規の時間より多い年月をかけて博士課程を取り、オーバードクターとして研究に携わっていた。

 高校三年の夏休み、父は珍しく昼間に帰ってくると、アメリカに行くことになった、と私の前で言った。そのとき私は電気代を気にしてクーラーをつけず、ティーシャツにショートパンツという恰好でリビングのテーブルに向かって数学の問題集を解いていた。開け放した窓のずいぶん下のほうからセミの鳴き声が聞こえていた。

 父は、助手としてついていくから、これからはちゃんとお金を入れられると思う、と続けた。聞くともなしに聞いていたけれど、父が何の話をしているのかわからず、私は問題を解く手を止めた。続けて話されるであろう父の言葉に耳を傾けていたけれど、そのあと父の口から自発的に話される言葉は何もなかった。

 わけのわからなかった私は、立て続けに質問をした。そして十八歳にして漸く、父についての大体のことを知ったのだ。父は、母が自分の仕事について話をしていたと思っていたらしく、私が何も知らなかったことに呆然として、それは悪かった、としきりに言った。

 その日の夕方、私たちは初めてふたりで出かけた。雨の降った日にいつも母とふたりで歩いた道を、父とふたりで歩いた。公園を通り抜けて土手を上がった。オレンジ色に染まり始めた河川敷では子供がキャッチボールをしている。川は、遠くの方に小さく流れていた。私たちは土手の上で立ち止まった。暫くの沈黙のあと、父が口を開いた。本当はあのとき、みのりに言おうと思ってたんだ、と。

「あのとき、って。なにを」

 私は一度にふたつの質問をした。

「病院の廊下でコーヒー飲んだときに。もう俺、夢を追うのやめようか、って」

「……そうだったの」

 病院の廊下を思い出した。間を空けて黒いビニールの長椅子に座っていた私と父。母と面会したのは昼間だったはずなのに、病院の廊下は夜のように暗かった。病院の中に太陽の光が入ってしまうと色彩が鮮やかになりすぎて、患者の身体に毒なんだろう。

「いや、夢って言うと聞こえはいいけど、俺の場合趣味だったからな、あれは」

 土手の斜面に座った父は、草を引き抜いて遠くに放り投げた。私は隣で父が放り投げている草の軌跡を眺めながら、放物線の方程式、それを微分すると速度がでる、更にその式を微分すると加速度が求められる、草が手から離れた点を原点として地面と平行にxy平面、高さをz軸として、なんてことをとりとめもなく考えていた。

「あのあと、もう一度病室に行って涼子と話したんだ。俺のわがままでみのりにまで迷惑かけてる、もう諦めて就職した方がいいよな、って。そしたらあいつに、いまさら迷惑なんて考えたら怒るわよ、って言われたよ。あたしが元気なうちはそんなことこれっぽっちも考えてくれなかったくせに、って。それにそんな中途半端なやつ就職させてくれるとこなんてないわよ、あたしが人事だったらあんたみたいなの絶対採用しないから、って言われて」

 父はもう一度草を放り投げた。オレンジ色がますます濃くなって、土手に植えられている松の影が長く河川敷に伸びていた。キャッチボールをしていた子は帰り支度をはじめていた。

 私は、自分が数学科に進学しようとしていることを父に伝えた。

「私が理系なのは、意識したことないけど、やっぱり血を引いてる、ってことなのかな」

 と言うと、父は、

「そりゃ涼子だ。あいつ応用数学科だったんだ、俺は工学部だもの」

 と言った。河川敷では、小学生の男の子が犬にボールを取ってこさせる遊びをしていた。

 私は土手を降りると、男の子と犬のもとに走っていった。

 一週間後、父は自分の住む住所だけの短い書置きを残して、アメリカに発った。


「あら、ごめんなさい。こらチェリー」

 私の足元を、もさもさした毛の犬が嗅ぎまわっていた。犬を引いている女性はえんじのレインコートを着ていて、顔がよく見えなかった。私は犬に笑いかけると、しゃがんで頭を撫でた。彼はしばらく気持ちよさそうにしていたけれど、飼い主の、ほら行くよ、という声に引かれて行ってしまった。私は公園から離れた。由紀の家はすぐそこだった。



 文化祭の準備が佳境に入ってきた。美緒と一緒に原稿を集めたパンフレットができあがって生徒に配られた。定時制の授業が始まる時間になると美術室から生徒会室に移ってきてラフを描いていた由紀の絵が、大きくポスターになった。紙面いっぱいに描かれた竜の絵だった。予算の都合で二色刷りにしかできなかったけれど、迫力のある絵だった。

 展示はクラスで出るところもあったけれど、文化部と同好会が多かった。美術部も展示を行うので、私も作品を出さなければいけなかった。仕方なく私は、今まで描いた鉛筆書きのスケッチブックを出すことにした。

 今回のため、と言って由紀をモデルにして一枚描けたのが嬉しかった。由紀の部屋で、窓際に立ってもらって、私は由紀のベッドに座って描いた。午前中を使って描いた私の絵は、それなりに満足いくものになった。午後、お返し、と言って由紀が私の絵を描いた。由紀のスケッチブックの中に私がいた。やっぱり由紀はうまくスケッチする。


 バンドの代表者たちと一緒に、機材を貸し出してくれる業者のところで当日の話をした帰り、美緒は直接塾に行くと言って別れた。私は、荷物を生徒会室に置いていたこともあり、ひとり資料を持って高校に戻った。

 すでにあたりは暗くなっていたけれど、文化祭の二日前ということで、生徒たちは校内のあちこちでまだ準備をしている。教室の飾りつけや、机と椅子のレイアウトのため、まだぽつぽつと教室に明かりがついていた。

 そんななか、野球部やバスケ部の練習する声が聞こえた。運動部はまだ練習をしているんだ。私はグラウンドを横目に見ながら、生徒会室に向かって校舎に入った。

 二階の廊下は既に電気が落ちていた。トイレと階段から放たれているぼんやりとした光を頼りに、私は暗い廊下を進んでいった。生徒会室から光が漏れている。まだ誰かいるのだろうか、それともただ明かりをつけっぱなしにしているだけなのか。腕時計を見ると七時になるところだった。

 ドアを開けると、いつもの生徒会室だった。何が入っているのかわからないダンボールの山、乱雑な本棚、文化祭まであと二日、と書かれた黒板。机の上には、当日配るパンフレットとアンケートがまとめて積んである。荷物は、私がいつも使っている机の上に置いたままだ。いちばん奥の席に、悠介が突っ伏して眠っていた。

「高原先輩」

 声をかけたけれど、悠介が目を覚ます気配はなかった。私は自分の荷物を前にどうしたらいいか考えていた。このまま帰ってしまってもよかったけれど、もし私のことを待っていてくれたのなら黙って帰るのは気が引ける。私は静かに眠っている悠介をじっと見ていた。もう一度名前を呼んでみたけれど反応はなかった。悠介の顔を見ていたらすこし動悸がした。私は反射的に、ピルケースを探ってデパスを取り出す。

 薬を飲んでしまうと、寝ている悠介を起こすのも悪いかな、と思って、鞄から数学の教科書を取り出した。シャープペンを回しながら、今日宿題に出された単元を睨む。

 すぐに私は、教科書の中に入っていく。二重根号の開き方。そのままだと開けないものは、分子分母にルート2をかけてみる。最後に忘れずに分母の有理化をする。

 数学、割と好きかもしれない。ルールに則って、ひとつの道筋を立てる。解答のルートが見つかれば、それに沿ってあとは必死に解いていく。解いているあいだは、そのことだけ考えていればいい。14かける3をそのまま計算するか、7かける6にしてから計算するか、そんなちょっとした工夫で最後まで解きやすくなったりするのもおもしろかった。

 調子が出てきたところで、回していたシャープペンが滑り落ちて、机の脚にぶつかって音を立てた。

「……あ、寝ちゃった」

「おはようございます」

 言ってから私はシャープペンを拾った。悠介は頭を上げると、なんか久しぶりに泳いだら疲れたなあ、といって伸びをした。私はシャープペンを手にしたまま悠介を眺めていた。

「どうした」

「いえ、べつに」

 教科書に戻ろうかどうしようかと思っていたけれど、集中できなそうだったので、ノートと教科書を鞄に仕舞った。

「あ、俺起きるの待っててくれたのか。悪い悪い」

「そんな。私こそ荷物置きっぱなしだったから待っててもらったのかな、と思って」

 私は首を振った。悠介はもう一度伸びをすると、

「井上、このあと時間あるか」

 と言った。まだ七時半だった。文化祭までアルバイトは外していたし、問題はなかった。

「ちょっと、『一富士』に食べにいかないか。お金は出すよ」

 私は笑って承諾した。うまく笑えていたはずだった。


「文化祭の準備やってて成績落ちて親に怒られたよ」

 悠介はそう言ってラーメンをすすった。「うち、とにかく勉強のことうるさくてさ。……何になりたいのかも決まってないのに」

 私は無言でやきそばを口に入れた。私だって、将来やりたいことなんてない。夢もない。奨学金がとれれば大学には行ってみたいけれど、当面は、生きていくことに精一杯だった。

 悠介は、のびたラーメンの器を前に淡々と喋った。「ずっと勉強勉強、って言われてきて、それが腹立つから、これだけやれば文句ないだろ、って感じでトップの高校受けて受かって、それでもまた勉強勉強、って言われて。……俺たち、なんなんだろうな。これで大学もいいとこ入ったって、次は大手企業に入らなきゃ、なんて言われるんだろう。所詮、歯車には変わりないのかな。うちの親、俺になにを求めてるんだろうな……」

 最後の方は小声になってうまく聞き取れなかった。悠介の手は、ラーメンを割り箸に絡ませたまま、動きを止めていた。

「……まずそう」

 水を吸って、すっかりぶよぶよになってしまった麺を見て、つい言葉が出た。悠介はその言葉で我に返ったように、ゆっくりと自分の器を見た。

「はは、ほんとだ」

 そう言って苦笑いすると、悠介はそのまずそうなラーメンを一気にすすった。

「ごめんな、こんな話しちゃって」

 店を出てから言われた。構いませんよ、私でよければいつでも聞きますよ、そう言って私は笑った。

「うちは、母親いないし、父親も滅多に帰ってこないから、そんな気持ちはわからないですけど」

「そうか。うちのほうが恵まれてるんだろうけど、その環境、ちょっと羨ましいな」

 私は悠介が羨ましい。私は、両親に成績の心配をされたことなんて、一度もなかった。「うまくいかないもんだよな、本当に」

 そう言うと、悠介はため息をついた。「うちの親と、井上の親を足して二で割ったらちょうどいいかもな。それとも、それはそれで不満が出るのかな」

 自転車をひいている悠介と私は、夜の街を並んで歩いていた。街の明かりが夜の闇を感じさせなかった。

 横断歩道を渡って交差点を曲がった。私はそのまま無意識に先を歩こうとしていた。けれど、そのとき突然、私の手が悠介に引っ張られた。動悸をさせないように薬で抑えつけているものの、びくっとした私は、思わずその場に立ち止まった。

 悠介は、自分が車道側に来るように私との位置を入れ替えた。私はびっくりして悠介の顔を見つめた。悠介は私を見て笑った。私はいままで、こんなことをされたことがなかった。こんなふうに優しくされることに、私の身体は馴れていない。じんわりと抑えつけられてはいるけれど、私の心臓は、大きな音をたてた。

「それじゃ、ここで」

 バス停につくと悠介に言った。私の心臓は、まだ不自然なリズムで動いていた。悠介は帰ろうとせずに、自転車を止めて私と一緒にバス停に立ち止まった。

「もうちょっと、一緒にいてもいいか」

 私は、どうしたんですか、と訊き返した。悠介は、私をじっと見つめていた。ちょっと、家に帰りたくなくてね、顔を動かさずに悠介は言った。また、心臓が大きく音を立てた。私は俯いて、いいですよ、と言った。

 私たちは、ベンチに座ってしばらく無言でいた。どれくらいそうしていたのかわからない。私の乗らないバスが二本通りすぎたとき、意を決したように悠介が私の手を握った。私は悠介を見つめていた。わからない。私は、ただ悠介に寄りかかってしまいたいだけなのかもしれない。けれどきっと彼はそれでも許してくれる。

 私は生まれてから二度目のキスをした。今度はしっかりと目をつぶることができた。バスが通りすぎた。唇を離すと、私は悠介の肩に自分の頭を寄りかからせた。

「どうして、キスするの」

「……好きだから。井上のこと」

 悠介の手が熱かった。私の手も熱い。ただし、私のは薬を飲んでいるせいで眠気が回っているからだ。もし悠介が本気なら、はやめに病気の話もしておいたほうがいい。

 けれどそれよりも先に、私には言っておかなければならないことがあった。

「あのね、高原先輩」

 悠介が熱を帯びた目で私を見つめた。「いま行ったバスが最終なの」

 私は、どう責任をとってくれるの、という意味をこめて笑った。

 その日私は、悠介の自転車の荷台に乗って由紀の家まで送られていった。タクシーで帰るお金くらいはあったけれど、謝る悠介をそのままにできなかったし、もうちょっと甘えていたかった。自転車に乗っている間じゅう、私は悠介の背中に顔をうずめていた。



 家についた。呼び鈴を鳴らすと、はーい、という声が奥から聞こえた。私は傘を閉じて玄関の屋根の下に入る。庭を見ると、草がめいっぱい生えている。この家も、家主がいなくなって全然使われていなかったのだろう。

「あ、みのりだ。由紀さん、みのり来たよ」

 エプロン姿の万由子が私を見るなり奥に向かって言った。彼女は後ろで髪を束ねていた。

「ひさしぶり。髪、伸ばしたんだ」

「うん。あのころはバスケに命賭けてたからね。反動で今になってやっと女らしいことに目覚めてきたよ」

 万由子は静かに笑った。私は靴を脱ぐと、おじゃまします、と奥に聞こえるように声を出した。

「もう水内先輩はじめてるよ。あたしたち、みのりが来るの、とっても楽しみにしてたんだ。……高原先輩も」

 私は無言で微笑むと、由紀の家に上がった。

 万由子のあとについて、リビングに入った。その瞬間、私はそこに立ちつくしていた。壁一面に、天井に、床に、柱に、ドアに食器棚にガラス窓まで、もう、ありとあらゆる場所に絵が描かれている。

「みのり、そんな恰好じゃ動けないぞ」

 脚立のいちばん上に座って天井に絵を書いていた女性が言った。絵の具だらけのトレーナーにジーンズ。彼女はいつも、そんな服を着ていた。

「来たよ、由紀ちゃん」

「おかえり、みのり」


 私は大学院を出てから、情報処理系の公務員として東京で働いていた。

 パニック障害は、大学に入ったころから良くなっていった。治療を始めたのが早期だったので、まだうつ病の併発も軽く、治りやすい段階だったのだろう。それに私の場合、原因のひとつに父のことがあった。それが解決したということも治療を早めたのだと思っている。

 けれど、病気が治ったとはいえ、身寄りが誰もいない中、人の多い東京で仕事をやっていくことに不安があった。だから、なんの問題もなく一年間過ごすことができたときはほっとした。二年目に入って仕事も落ち着いてこなせるようになって、なんとなく物足りなさを感じていたとき、由紀から葉書が届いた。


 このたび、ごくごく身内に限った個展を開きます。

 つきましては準備のため、みのりは一週間前から来るように。それじゃ。

由紀


 日付けは半月ほど先の日曜日になっていた。

 身内に限った、というのがどういうことなのかともう一度葉書を読み返してみると、会場が由紀の家になっていた。

 由紀は東京の美大に進み、三年の途中で留学した。それからも手紙のやり取りは続いていたが、日本に帰ってきたとは聞いていなかった。由紀の両親があの家に戻ったとも聞いていない。

 通じるかどうかわからなかったけれど、昔の手帳を引っ張り出してきて由紀の家に電話をかけた。番号を押し切ってもしばらく何の反応もなかったので、やっぱりだめかな、と思っていると、呼び出し音が鳴った。

「……はい、もしもしー」

 由紀の声だ。繋がったことにびっくりしたものの、由紀が日本に帰ってきていたことにも驚いた。何をしに帰ってきたのだろう。

「あの、みのりですけど」

「あ、ひさしぶり。……うーん、ちょっと床で寝ちゃってた。身体痛いわあ。もう若くないね」

 由紀があまりに変わっていないので私は笑ってしまった。

「だいじょうぶなの」

「ん、まあいつものことだけど……。それで、どうかしたの」

「葉書届いたからかけてみたの。なにこれ、一週間前から来るように、って」

「みのりにはいろいろと手伝ってもらおうと思って。この家にも何度も泊まってるし」

「私、そんなに仕事休めないよ。一週間前なんてとても無理」

「ええ、有給とか取れないの」

「無理無理。この日まであと半月もないじゃない。取れて三日かな」

「うーん、そうかあ、それじゃ三日でがまんする」

 思わず笑ってしまった。

「がまんする、って。三日、取れるかわからないよ。だいたい、何をするつもりなの」

「……あのさ、この家、取り壊すんだ。あたしたちも使わないし、もう古くなったし」

 私は由紀の家を思い出そうとした。部屋とリビングは思い出せるのに、玄関がうまく思い出せない。文化祭の準備のときに限らず、私はアルバイトが終わると、よく由紀の家のリビングに行って夜遅くまで絵を描いていた。絵を描くのに疲れると、由紀の部屋に行って一緒のベッドで眠った。由紀の部屋に辿りつく前に力尽きて、リビングの床で寝てしまうこともしばしばあったけれど。「それで最後に、家に絵を描こうと思って。みのりにも色々描いてもらおうと思ったの」

「……家に絵を描く、ってどういうことなの」

「あのさ、壁とか床とかにみんなで好きなように絵を描いてひとつの作品にして、それから壊そうと思って」

「私も描いていいの」

「もちろん。みのりと一緒に描こうと思ってわざわざ手紙出したんだから」

 由紀らしい話だった。私はずっと絵なんて描いてなかったけれど、一緒に作業することを想像して楽しくなってきた。

「わかった。絶対に休み取って行く。他には誰か呼ぶの」

「会長と、あ、会長って今でも呼んじゃうなあ、高原くんと、みのりが仲良かった子、万由子ちゃんでしょ、あと、土谷先生にも葉書出したけどどうだろう。あとは当日呼ぶつもり」

「万由子は大学出てからそっちに戻って専業主婦してる。毎日暇だ、っていつもぼやいてるからから、呼べばすぐにでも行くと思うよ。悠介はわからないけど」

「高原くん、教員やってるんだって」

「そうみたい。悠介が先生やってる姿なんて、私想像できない」

「あたしは同じクラスだったから、よく高原くんが前に出て喋ってるの聞いてて、きっとあんな調子でやってるんじゃないかなあ、って思うけど」

「もしいいんなら、授業見学に行きたいね」

「それいいな。無理やりふたりで乗りこもう」

 そのあとも取りとめのない話で、電話は三十分ばかり続いた。

 次の日、出勤した私は、なるべく多くの有給を取れるように手配をした。

 けれど、苦労して休みを取った私の努力は、無視されることになった。二日後、私のもとに、悠介の訃報が届いた。


「ふう。結構描いたね」

 夜、万由子の淹れたお茶を飲みながら、由紀が描いた花やら竜やら女の人に囲まれて、私は言った。正面の壁に、悠介の写真が留められていた。高校のときの写真だ。悠介は学生服を着ている。

「こっちに来てからずっとやってるからね」

 どうやら半月ほど描いているらしい。今日は雨だったからずっと家の中で描いていたけど、外にも絵は描いてるんだ、と由紀は言った。

 私は、入ってすぐの壁に川の絵を描いていた。土手に植えられた松、母と見た濁流、父と見た、オレンジ色に染まった川の流れ。

 万由子はスヌーピーとかトムとジェリーとかのキャラクターを奥のほうに描いていた。

 私は、汚れてもいいように由紀の服を借りていた。いつのまにか絵の具が飛んで、染みが増えている。

「明日晴れたらさ、画材を補充しに行こう。絵の具もペンキも足りない色があるんだ。万由子ちゃん、車出せるかな」

「いいですよ。でも、明日本葬儀ですよ。喪服のまま行くんですか」

「喪服で行ったっていいじゃない。これがあたしたちの追悼にもなるんだから。高原くんのことを思い出しつつ、……って、はじめはそんなつもり、まったくなかったのにね。電話で話したとき元気そうだったから、すっかり騙されたよ。もう末期だったなんて、これっぽっちも言わないんだから。あ、そういえば、あたしこっちに喪服なんて持ってきてないよ。万由子ちゃん、貸してくれるかな。今日のお通夜のことも考えてなかった」

 そのとき私はふと思い出した。

「それならさ、明日ついでに団子屋さんに行こうよ。私三年間もあの道通ってて、団子屋さん入ったことないんだ」

「ああー、あの橋の袂の。あたしも行ったことないや。万由子ちゃんは」

「あたしもないですね」

「それでそのあと、高校まで行ってみたい」

「……みのり、どうしちゃったの」

 万由子が不思議そうに訊いた。

「バスに乗ってるときに、私、もうここに戻ってくることはないかも、ってなんとなく思ったの。そしたら、いろんなものが懐かしくて、いろんなものを見ておきたくなって。……なんて言っていいのか、うまく言えないんだけど」

「うん、行こう」

 由紀が言った。「あたしも見ときたい。この家なくなっちゃうから、あたしももう戻ってくることないかもしれないし」

 それを聞いた万由子は、ちょっと考えていたようだけど、手に持っていたお茶を一気にすすった。

「理由はわかったけど、なんだか寂しい。ふたりとも遠くに行っちゃうみたいで」

 万由子の言葉に、会話が止まった。

 窓の外ではまだ雨が降っている。私は言葉を捜していた。雨の音が、閉め切った部屋の中をやさしく埋めていた。雨の音も、東京とは違う。庭に生えた草が、つめたい雨の音を消している。

 気がつくと、三人とも、じっと悠介の写真を見ていた。

「遠くに行くけど、遠くじゃないよ」

 写真を見ながら由紀が言った。「戻ってこないかもしれないけど、戻ってくるかもしれない。それに、あたしたち、これが終わったら知らない人になっちゃうわけじゃない。きっと、ここに集まる前よりも、仲良くなれてるはずだよ。……高原くんとだって、知らない人になっちゃうわけじゃない」

 万由子は、それを聞いて、そうだね、うん、そうだね、と言った。



 文化祭当日の朝早く、美術部の顧問に頼んで、由紀の家から看板を運んでもらった。千人近い生徒全員の顔がそこにあった。由紀は、中間テストが終わってから三週間ほどこの絵にかかりっきりだった。由紀は、職員室から、ひとクラスずつ集合写真を持ち出して、ベニヤ板にひとりひとりの顔を描いていった。私もアルバイトの帰りに由紀の家に寄って、塗りの手伝いをした。高校には、気が遠くなるほどの生徒がいた。はたして一ヶ月で終わるのか、と疑問になりながらも夜を徹して描きつづけ、そのままふたりでリビングの床に眠ってしまうことも多かった。

 だから、そんなことを経て完成された看板が正門の上を跨ぐようにして設置されたとき、充実感で私は言葉が出なくなっていた。文化祭はこれからはじまるというのに。


 文化祭前日は準備日として取られていて、私はバンドの設営と展示団体のチェックに回った。悠介は生徒会の男子生徒を引き連れて仮装ステージの設営、美緒はスリーオンスリーと綱引き、それに放送部と当日の打ち合わせをしていた。

 生徒会の用事が終わると、私は由紀の家に看板の塗りを手伝いに行くことになっていたので、バス停に向かって歩いていた。平日の昼間、太陽はくっきりとアスファルトに影を作っていた。六月に入ってから数日、暑いくらいの日が続いている。

「井上」

 声に振り向くと、自転車に乗った悠介がいた。白いワイシャツが眩しかった。

 悠介は自転車を降りて歩道に上がった。

「これから帰るのか」

「いえ、由紀ちゃんの家で看板塗るの手伝うんです」

 悠介の顔を見ても、昨日より動悸はしなかった。でも、一緒にいるとほっとする。私はこの人に甘えてもいいんだ、と思うと、その誘惑に負けそうになる。けれど、何も言わずにそうするわけにはいかなかった。

「また、乗ってかないか」

 私は、言うべき言葉を考えていた。

「あの、先輩」

「あ、いやならせめてバス停まで一緒に」

「私、先輩に言ってないことあるんです」

 私は悠介の言葉を途中で遮った。いま言っておかなければならない。このままだと、どんどん言いづらくなる。私だって、悠介に寄りかかってしまってから言うよりいま言った方が辛くない。

 私はきっとひどい顔をしていたんだろう。どうしたんだ、だいじょうぶか、と悠介に訊かれた。

「あの、私、ベンゾジアゼピン飲んでるんです」

 私は下を向いた。足もとのアスファルトが動きを止める。隣を歩いていた悠介も足を止めた。

「ベンゾジアゼピン、って」

「私がときどき薬飲んでるの知ってますよね」

 悠介が言葉を発し切る前に、また私は喋り始めた。「あれ、精神安定剤です。私、精神病患者なんです。それでも、先輩、私のこと」

 今度は私の言葉が遮られた。私の頭は、悠介に抱えられていた。

「治らないわけじゃないだろ。……俺は、そんな病気をもった井上を好きになったんだ。治るまで一緒にいてやる。治らなくても一緒にいてやる。病気もひっくるめてずっと一緒にいてやる」

 悠介は問題を簡単に捉え過ぎだ。そんな風に言えるほど簡単じゃない。精神状態に波があるから、きっと悠介の手を煩わせることになる。これから受験だというのに、私みたいなのを背負い込んだら、余計に負担がかかる。それに、このまま薬を飲みつづけなければいけなかったら、私には一生、赤ちゃんは産めない。

 でも、私は悠介を拒絶できなかった。抱きしめられているのがこんなに心地よいものだとは知らなかった。

「私、先輩に寄りかかってもいいのかな。ただ甘えてるだけかもしれないけど、それでもいいのかな」

「……いいよ」

 悠介は、私にそう言ってくれた。平日の真昼、街中で、私は悠介に抱きしめられながら涙を流した。

 

「おお、さすが水内だな。迫力ある」

 正門の上を見上げて悠介が言った。美緒が、すごーい、と言って、由紀は、とりあえずなんとかなったかな、と言った。

 早朝は、鳥の声がよく通る。誰もいないだろう校内からも、鳥の鳴き声が聞こえた。



 お通夜を終えて、由紀の家に戻った。葬式にでるのは、母のとき以来だった。あのときは弔問客もそれほどこなかったけれど、悠介は教員という仕事をしているせいか、学生服を着た人がたくさんいたし、仕事関係の知人や親戚たちだろう、大勢の人が詰めていた。母のときと違うのは、悠介の家は持ち家だったから、そこがそのまま会場になっていて、弔問客たちは庭で話をしたり、泣いたりしていた。

 不自然なほど真新しい、継ぎ目のない棺の中に、悠介の塊があった。眠っているようだ、とまわりの誰かが言っていたけれど、そこにいるのが誰なのか、私にはうまく理解できなかった。

 まるで眠っているようだ、母も葬儀のときに、そう言われていた。あの日も、こんな感じの、静かな雨が降っていた。私はまだ真新しい中学校の制服を着て、団地の集会所のパイプ椅子に座っていた。線香をあげに来る人たちを眺めながら、母が、もう、どこにもいなくなってしまったんだ、ということについてぼんやりと考えていた。

 弔問客はそんなにいなかった。どうやらうちは、親戚の付き合いがそれほどない家らしい。葬式を手伝ってくれている団地の住人が、集会所の隅で、こそこそと話しているのを聞いた。実際、親戚でこまめに付き合いのあったのは、母の妹である奈津美さんの家くらいだ。父方の親戚は、父のことを、就職もしないで嫁に食わせてもらっているろくでもないやつ、と罵っていた。あまり会ったことがないので、顔を見てもどれが誰だかわからない。

 私は、目の前を行き交う知らない人たちを見ながら、どうして自分が集会所のパイプ椅子に座っていなければならないのかわからなくなってきた。母の知人たちは、焼香してから、「涼子の娘さんね」と、その言葉を放たなければいけないとばかりに、決まりきったセリフを私に向かって言った。たまに、目もとが似てる、とか、口が似てる、とか、雰囲気がそっくり、とか、オプションがついた。私はそのたび、ただ黙って、頭を下げた。

「みのりちゃん、疲れたでしょ。外に出てみない」

 奈津美さんに声をかけられた。私はぼんやりと立ちあがって、集会所の外に出た。身体がぎしぎしいうようで、うまく動かなかった。いつのまにか日が暮れ、お通夜のお経が上げられ、父と葬儀屋の人が、今日は十時くらいまでここを開けておいたらいいか相談していた。

「まったく。あんな短いお経、聞いたことない」

 奈津美さんは憤るように言った。「涼子姉さんが浮かばれないわ。まさか本葬儀まで手抜きのお経をするんじゃないでしょうね、あの坊主」

 奈津美さんは、そのあとも寺に対する文句をずらずらと並べあげて、そのたびに、あの坊主、とか、くそ坊主、なんて言うので、私は、なんだか可笑しくなって、ちいさく笑ってしまった。

 でも、不思議だ。もういない人間に対しても、いや、生きている人間よりも、いなくなってしまった人間の方に、人間は礼を尽くしたがる。

「でも、姉さん、まるで眠ってるみたいだった。きっと最後は苦しくなかったんだと思う」

「それまではひどかったんですよ。痛みで暴れちゃったり、そうかと思えば泣き出したり、苦しそうでしたけどね」

 あいかわらず、雨がアスファルトを濡らしていた。こんな弱い雨でも、一日降りつづけていたら、川の水は増えるだろう。明日には、茶色く濁った水が、勢いよく海に向かって流れているはずだ。目の前に、その流れが見えるようだった。

 そのとき、不意に煙草のにおいがした。弔問客のひとりが、集会所の外に出てきて、煙草を吸いはじめたのだ。私たちがいるところまで煙が流れてきた。雨のにおいと煙草のにおいが混じる。

 その瞬間、もう母はいないんだ、ということが理解できた。いなくなってしまう、とか、悲しいとか不思議とか、理屈ではなかった。もう、雨の中、濁流を前にして煙草を吸う母はいない。

 気付くと私は、ぐちゃぐちゃに泣いていた。私は、このときはじめて、母のために泣いた。


 深夜、万由子が家に帰ってから、私たちはビールを片手にまた部屋に絵を描き始めた。由紀に、もうビールは大丈夫なの、と訊かれ、いまは薬飲んでないから、と私は苦笑した。

 初めて私にビールを飲ませたとき、私の異常な眠り方に不安を覚えて、ずっと揺り起こしていたそうだ。とりあえず息はしてるから大丈夫だろうと思うものの、不安で眠れなかった、と由紀は言った。

「あのときは、初めて高熱を出した我が子を見守るお母さんの気持ちだったよ」

「わるいわるい。でも、私だってアルコール飲むとどうなるか聞いてなかったし。医者も薬剤師も言うわけないんだよね。未成年にそんなこと」

 私は川を描きながら言った。描いている壁の上のほうに、東京で会ったときに撮った、悠介の写真を留めた。悠介は肺がんだったようだ。

 教員として、子供たちと接する日々は充実していたが、おなじ教員である同僚の牽制や嫉妬、愚痴、嫌がらせに辟易としていたようだ。悠介は煙草を多く吸うようになり、アルコールの量も日々増していった。検診でがんが見つかったときは、もう手遅れだったらしい。腹膜への転移も確認され、それから一年経たないあいだに、悠介は死んだ。

 私と悠介は、大学に進学したあともつきあっていたけれど、関東と関西に別れて、気軽に会える距離ではなくなってしまったので、徐々に連絡を取らなくなっていった。そしていまでは、年賀状のやりとりくらいの、旧友としてのつきあいになっていた。私は、悠介が煙草を吸うようになったことも知らなかった。

「由紀ちゃんが、あまりにもおいしそうに飲むもんだから」

「なにそれ、あたしのせいなのかよ」

 由紀は、天井を駆ける竜を描いている。半分はね、と私は答える。あとの半分は、由紀への憧れだった。私も、由紀みたいな女になりたい、と思っていたから。あれ、じゃあ、ぜんぶ由紀のせいってことか。

「ああ、でもビールがおいしく感じる。私も歳取ったかな」

「取った取った。今日のみのりの恰好見たとき、どこの訪問販売のおばちゃんかと思ったもん。いらん化粧なんかして余計老けて見える」

 私は由紀の言葉に笑い声を立てた。

「そうか、化粧、しなくてもいいかな。社会人って、化粧をするのが礼儀だと思ってたから」

「いらんいらん。みのりはへんなところが真面目だよ、昔から」

「由紀ちゃんが考えなさすぎなの」

 私も応戦した。なんだと、と由紀が笑って、私の穿いていたジーンズに犬の絵を描いた。酔った勢いもあるかもしれない。私は、なにするのさ、と言って、由紀のジーンズにぴちょんくんを描いた。

 私と由紀は、そのまま鳥の声が聞こえるころまで壁や天井や床やお互いの服に絵を描きつづけ、力尽きると、昔のように、リビングの床に眠った。


参考文献

「パニック障害」貝谷久宣、不安抑うつ臨床研究会編(二本評論社)

「メディクイックブック パート1 2001年度版」水島裕監修(金原出版)


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