コンシーラー
三月六日。とうとうこの日がやってきてしまった。二週間前からこの日が待ち遠しくて、それ以上に怖くて、ストレスで胃がキリキリと痛むことも何度もあった。
「環奈! 二時になるよ! 早くおいで!」
「やだやだやだ~! 美奈ちゃん代わりに見て!」
「なんでよ自分で見なさいよ」
ローテーブルに置かれたノートパソコンの前に座る従姉の美奈ちゃんは、ため息をつきながらもマウスを動かした。
「番号いくつだっけ?」
「E11023C」
「……環奈、おいで。やっぱり自分で探しな」
「ええっ! なんで!」
「最初にわたしの口から知るより、絶対自分の目で見たほうがいいから」
「そんなことないよ~。やだよ怖いよ~」
美奈ちゃんに無理やりパソコンの前に引っ張られる。画面には英数字が羅列されていた。半べそをかきながら、目を細めて左上から一つひとつ確認していく。
E11002B、E11003J、E11005K、E11011F……
あぁ、もう、耐えられない。バクバクと脈打つ心臓が苦しい。
だけど読み飛ばすのもまた怖くて、精神をすり減らしながら自分の番号を探していく。そして、見慣れた文字列を見つけた。
「あ、これ、美奈ちゃん、これ……」
「どれどれ?」
震える指で画面を指し示す。美奈ちゃんはわたしとは対照的に落ち着いた様子で顔を寄せた。
「これ、E110、23C……」
手汗で皺がついた受験票と、画面を何度も見比べる。
潰れた肺に空気が入り込む。滞っていた血液が流れ出し、頬が紅潮し始める。わたしは、興奮して隣の彼女の背中をバシバシと叩いた。
「美奈ちゃん! 美奈ちゃん!!」
「うん、おめでとう」
「なんでそんな落ち着いてるの!」
「だって、どうせ合格するだろうなって思ってたし」
「ひどい! 他人事みたいに!」
「違うよ、環奈なら大丈夫って信じてただけだもん」
美奈ちゃんはすました口調でそう言いながら、わたしの頭をわしゃわしゃとかき混ぜるように撫でた。
なんだ、美奈ちゃんもちゃんとわたしの合格を喜んでくれているんだ。耐えきれず、彼女にぎゅっと抱きついた。
そう、今日はわたしの大学受験の合格発表の日だったのだ。合格した旭大学は全国的に見たら中堅レベルでぱっとしないが、県内唯一の国立大学であり地元では有名というなんとも微妙な立ち位置だ。それでも努力の末掴んだ合格は、やはり嬉しいものである。
「よし! 今日は合格祝いだね! 叔父さんたちもうちに来てもらってみんなでご飯食べようよ」
「ありがとう! あ、お母さんとお父さんに報告しなきゃ」
「わたしもお母さんたちに伝えとく。環奈、買い出し行こうよ。引っ越しの準備もあるでしょ?」
「うん」
「まずはどこ行こっか。ホームセンターとか電気屋にも用事ある? 環奈、行きたいとこある?」
「うん……、あの、美奈ちゃんにお願いがあるんだけど……」
「何?」
「その、化粧を教えてほしい……」
美奈ちゃんの運転する車で最初に向かったのは、ドラッグストアだった。店内に入った美奈ちゃんは、化粧品売場に直行した。わたしはなぜか挙動不審になりながら、彼女の後を追う。
幼い頃から色とりどりの化粧品には憧れがあった。しかしキラキラしたオーラを放つ売場はわたしには場違いな気がして居心地が悪く、横目でチラチラ窺いながら早足に通りすぎていた。そのコーナーに、今わたしは立っている。
「まずはベースからかな。気になるメーカーとかある?」
「うーん……。あ、これよくCMでやってる……えっ、高っ!」
「あー、それめっちゃ使い心地いいよ。全然崩れないし」
「安いのでいいです……。なんていうか、こう、女子中高生に人気なやつとか」
何気なく手に取ったファンデーションは、想像していたものと値段が一桁違った。美奈ちゃんは苦笑して、「まぁ初めてだもんね」と別の売場に移動した。
今度はどの商品も千円以下、安いものは三百円程度の商品もあり、わたしは安堵のため息を漏らした。透明なプラスチックのケースに入れられた化粧品は値段相応の安っぽさも感じるが、可愛らしいデザインは乙女心をくすぐられるものだった。
「ここのやつ、安いけど人気なんだよ。これとかわたしも使ってた」
「じゃあそれにする」
「おっけー、下地はこれで、ファンデーションは……環奈色白だからな~」
美奈ちゃんはテスターを指に取ると、わたしの頬に塗りつけた。それをいくつかの種類で繰り返す。
「うん、やっぱり一番明るい色でちょうどいいね」
美奈ちゃんは一人で頷き商品を選んでいった。わたしは棚に取り付けられた小さな鏡を見ながら頬のファンデーションを擦って落とす。多少色ムラができてしまったが、遠目から見ればわからないだろう。
その時、視線を頬にだけ集中させていたつもりが、うっかり自分の顔全体が鏡に映ってしまった。慌てて目をそらす。胃の奥が冷たくなって胃液が込み上げてくるような感覚に襲われる。なんとかそれを飲み込んだわたしは、鏡が見えないようそっと美奈ちゃんの背後の隠れた。
自分の顔が嫌い。そう思うようになったのは中学生の頃から。きっかけははっきりしている。当時、クラスメートから繰り返し「ブス」と罵られたことだ。
小学校までのわたしは、通知表に「明るくて活発で友達思い」なんて書かれるような子供だった。実際友達は多かったと思うし、周りの子たちもいつも楽しそうに笑っていた。
幼少期、わたしは周囲の人間から「かわいい」と評されることが多かった。名前も知らない上級生から「あの子かわいい」と指さされることもあった。それは中学に入っても暫く続いた。
たぶんわたしは調子に乗っていた。後になってそう思う。かわいいと言われることに慣れ、平均より容姿が優れているんだと思い込んでいた。
中学一年の文化祭、クラスごとに出し物をしなければならず、わたしのクラスは白雪姫にアレンジを加えた演劇に決まった。その配役でわたしは主役の白雪姫に推薦された。立候補はいなかった。目立つことは嫌いじゃない。むしろ好きだ。白雪姫の役を請け負ったわたしは演技の練習も精一杯頑張って本番に望んだ。劇は大成功であったと思う。先生や保護者からの評判もよく、文化祭が終わった後も何かと話題に上ることがあったくらいだ。廊下を歩いていても「白雪姫の子だ!」と声をかけられることもあり、その頃がわたしの人生のピークであった。きっと、最大に自惚れていた頃だ。
調子に乗っている。誰かに後ろ指をさされた。
最初は気にしていなかった。だって、わたしは自分で自分のことをかわいいとアピールしているわけじゃない。周りが勝手に盛り上がっていただけだ。……そんな気持ちも、態度に出ていたのかもしれない。今度はすれ違い様に「勘違いすんな、ブス」と吐かれた。同じクラスの女子だった。仲が良かったわけではないが、演劇も一緒に作り上げ、一緒に成功を喜び合った子だ。「よくそんな顔で学校来れるな」「笑うな気持ち悪い」「ちゃんと鏡見たことあんの?」。そんな言葉を何度も何度も投げつけられた。最初のうちは耐えられた。「気にすることないよ」と声をかけてくれる友達がいたから。だけどその子たちもやがて目を合わせてもくれなくなった。友達は何人もいても、親友と呼べるような仲の子はいなかった。もう、学校には頼れる人もいなった。暴言は面と向かって吐かれるようになり、持ち物が無くなったり汚されたりすることも日常茶飯事となっていった。
ある日先生のいない教室で、女子から「ブスが息してるよ、くっさ~」と鼻を摘ままれ、男子はそんな様子を見てクスクス笑っていた。そうか、わたしはブスだったのか。やっとそのことに思い至ったわたしは、その日からやたらと鏡を気にするようになった。不細工な自分の顔がどうにかならないかと、家では気づくと何時間も鏡とにらめっこしている日もあった。臭いと言われたこともショックで、朝からシャワーを浴び、歯磨きも入念にするようにした。しかし髪型を整え容姿に気を付けても、それでも暴言は止まらない。
冬休みに入り、休み明けにはみんなわたしをいじることに飽きているんじゃないかなんて希望抱いたのもつかの間。休み明けの大掃除の時間、どこを拭いたのかもわからない汚れた雑巾を顔面に押し付けられた。笑顔で、優しい声で、「顔が汚れてるよ。綺麗にしてあげる」と。
もう、限界だった。耐えきれなかった。
わたしが泣いていることに気づいたクラスメートは「うっわ、ブスがなんか体液垂らしてる。きっも~」と笑った。そして「汚いから拭いてあげるね」と、目元にさらに雑巾を強く押し当てられた。雑巾で遮られた視界の向こうで、みんな笑っていた。元々仲の良かった子たちさえも、ニヤニヤと笑っているように思えた。その日、わたしの心は完全に折れてしまった。
学校に行けなくなったわたしを、両親は責めずに話を聞いてくれた。家庭教師を雇い、テストだけ保健室に受けに行く。中学はそんな生活を続け、卒業式にも出なかった。表面上だけ仲良くして盛り上がって、それを青春と呼ぶ学校生活に未練はない。なのに時々、楽しそうに通学路を歩く同世代たちがどうしようもなく羨ましくなることがある。“普通”の道から外れてしまったことに、強い劣等感が残っている。
高校はどうしようか悩んでいるとき、声をかけてくれた人がいた。それが従姉で二歳年上の美奈ちゃんだった。
「わたしの高校においでよ」
彼女とは元々仲がよく、中学での出来事も全て話してあった。美奈ちゃんの通う高校は全日制のみの地元では一番の進学校だったが、勉強は苦手ではなかった。伯父さんと伯母さんも協力してくれ、車で三十分の距離に住む彼女の家に居候しながら通うこととなった。
高校には同じ中学から進学した者もいた。中学一年生の時同じクラスだった子も一人いた。けれど、高校では何も起こらなかった。美奈ちゃんが卒業した後も、何もなかった。三年間、他者から苦しめられることは一度もなく平穏に毎日学校に通うことができた。
平穏だがその代わり楽しいこともなく、友達は一人もできなかった。学校で一言も発しない日も何日もあっただろう。それでもあの頃に比べたら良かった。誰からも関心を向けられなくたってよかった。家に帰れば美奈ちゃんがいる。伯父さん伯母さんも優しい。週末には居候中のお土産話を実家にたくさんもって帰る。学校なんて、勉強さえできればあとはどうでもよかった。
実際にいじめを受けていたのは数ヶ月だったが、その短い時間はわたしに後遺症を残した。鏡で自分の顔が見れなくなった。写真を撮られることを極端に嫌うようになった。
容姿が気になって、家で鏡を繰り返し長時間見ていたことを親に指摘された。何も変わらないからやめなさい、と。意識的に鏡を見るのをやめると、不意に鏡に写った自分の顔が酷く醜く思えるようになり始めた。最初は醜い顔をなんとかしようと鏡を見ていた。それが、自分の醜さから目を背けるように変わった。現実を切り取る写真は恐怖でしかなかった。
買い物を終え美奈ちゃんの家に帰ると、美奈ちゃんの部屋で早速化粧品を机に並べた。
「じゃあ順番にやっていくよ。まずは化粧水でお肌整えて」
「うん」
「下地だけど、量はこのくらいかな」
美奈ちゃんは自分の手の甲に化粧下地を出して見せた。
「で、この辺から付けていくといいんだけど……、環奈、鏡見て自分で覚えな」
「え、いや、鏡は……」
美奈ちゃんはわたしが鏡が苦手なことも知っている。しかし卓上ミラーをわたしの方に向けた。自分の顔が映り込み、思わず目を瞑り顔をそらしてしまう。
「環奈、鏡見ないと化粧なんてできないよ」
「わかってるよ……」
鏡をつかみ、鏡面は下に向けたまま目の前に持ち上げる。手が震える。
社会に出れば化粧はマナーと言われる。大学生だってきっとほとんどの人が化粧をしている。化粧をすれば少しはまともな顔になって、自分に自信が持てるかもしれないなんて思ったんだ。四月からは独り暮らしが始まり、美奈ちゃんとも離れてしまう。それまでに自分で身だしなみくらい整えられるようにならないといけない。
呼吸を整え、鏡面をゆっくり持ち上げる。
胸元が映った。まだ大丈夫。
顎が映った。嫌な輪郭だ。
口元が映った。ここから耳障りな声が出てくるんだな。
鼻が映った。ああ、そろそろ苦しい。唇が歪んだ。
美奈ちゃんが「環奈……」と心配げな声をかけた。今はそれを無視して一気に鏡を垂直に立てる。
汚い顔の女が泣いていた。
泣き顔もなんて不細工なんだろう。
自分の泣き顔なんて初めて見たけど、そうか、昔わたしはこんな顔をクラスメートに見せてしまったのか。そりゃ、気持ち悪がられるよね。わたしはこの顔で周りの人間を不快にさせていたんだ。わたしがいけないんだ。ブスだから。汚いから。気持ち悪いから。被害者面してきたけど、被害者は当時のクラスメートたちで、わたしは加害者だったんだ。
当時のことがフラッシュバックする。
嗤われ、後ろ指差され、顔をしかめられ、仲の良かった子に背を向けられる。
ブス、臭い、気持ち悪い、勘違い、自惚れ、他人を不快にさせる天才、歩く生ゴミ。
「うぅ、あぁぁっ」
嗚咽が漏れる。美奈ちゃんが鏡を取り上げ、わたしを抱き締めた。
「環奈、ごめん、ごめんね。今日はやめよう。また今度にしよう」
涙で美奈ちゃんの服を濡らしながらもがく。
ダメだ。やめちゃだめ。逃げちゃだめだ。
焦りがあった。このままじゃいけないと。過去と決別したいんだ。当時のクラスメートはもうわたしのことなんか忘れている。わたしだけ一人で囚われている。こんな顔でも、昔は笑っていられたんだ。友達がいて、毎日が楽しかったんだ。
あの頃の日常が取り戻せなくても、せめて“普通”に生きたいんだ!
「環奈、環奈、もうやめなよ!」
「いや、だめ、美奈ちゃん、お願い……」
再び鏡を手にしたわたしを、美奈ちゃんが慌てて制止する。
美奈ちゃん、助けて。辛いよ。鏡は日常の至るところにある。トイレ、エレベーター、街中のショーウィンドーだって姿を映し出す。その度に黒いモヤモヤに襲われるんだ。モヤモヤの中に鋭いナイフが潜んでいて、簡単に傷つけてくるんだ。
「このままじゃ、嫌なの。わたし、わたし……」
持ち上げた鏡の中には涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした女がいた。相変わらず不細工だ。
ねぇ、あなただってこのままじゃ嫌でしょう? 変わりたいでしょう? 鏡の中の女に語りかけてみる。彼女は泣きながら頷いた。
美奈ちゃんは無言でわたしの背中をさすった。その温もりに甘え、わたしは涙が枯れるまで泣き続けた。
何分経っただろう。美奈ちゃんはポンとわたしの背中を叩き、「環奈、今日はわたしがメイクしてあげる!」と笑顔を向けた。
「とりあえず顔洗っておいで」
「うん……」
美奈ちゃんの家の洗面台は鏡の裏に収納棚が隠されている仕組みだ。美奈ちゃんも伯父さん伯母さんも、わたしのために普段は鏡を開いて姿が映らないようにしておいてくれる。お陰で家の中では鏡を避けた生活が送れている。
顔を洗って部屋に戻り、言われるままに化粧水と乳液で保湿をする。卓上ミラーは伏せられていた。
「化粧のやり方はまた今度教えてあげる。今日はわたしの好きにやらせて」
美奈ちゃんはやけに張り切って、今日買ってきたものに加えて自分のメイクポーチの中身も取り出した。
「ねぇ、環奈はどうして急に化粧しようと思ったの?」
頬に下地のクリームを伸ばしながら彼女は尋ねた。
「そろそろ、化粧覚えないといけないし……」
「ふうん」
「……あと、かわいくなりたかった」
「うん。かわいくしてあげる」
美奈ちゃんは肌色のスティック状のものを手に取り、わたしの目の下に引いた。さっき購入したものじゃない、美奈ちゃんの私物だ。
「今の、何?」
「コンシーラー。ちょっとクマできてたから」
「コンシーラーって?」
「んー、ファンデーションを濃くしたようなやつかな? ほら、カバー力あってクマとか隠すのに使えるんだよ」
美奈ちゃんはコンシーラーを自分の手の甲に引いた。するとそこだけ青く浮き出た血管が消えた。
「えっ、すごい!」
「でしょ? 買い忘れちゃったけど、一個はあってもいいかも」
ブラシが頬を滑っていく。なんだかくすぐったい。
「化粧ってさ、自分本来の姿になれるとかも言うけど、そういうのよくわかんないんだよね。わたしは嫌な部分を隠す手段だと思ってる」
「嫌な部分を?」
「そう。わたし結構ニキビっ面だったじゃない? 今でもニキビ跡消えなくってさ、すっぴんだとそれがすごく気になるんだよね」
「え、わたし美奈ちゃんのすっぴん毎日見てるけど、気になったことなかったよ」
「うん、他人から見たらそんなもんだと思う。自分が気にしすぎてるだけだって、頭ではわかってるつもりなんだけどね」
「……」
「でもさ、化粧してニキビ跡隠したら、それだけで自信持てるんだよ。わたしかわいいじゃんって思えるの。……環奈、ちょっと目瞑って」
今度はアイメイクに移った。
「……でも、環奈はきっと隠すだけじゃダメなんだよね。ていうか、隠す必要もないんだよね」
「そうかな。わたしは隠したいよ。……全部、隠したい」
「……そっか」
他人の化粧をする機会なんてめったにないだろうに、美奈ちゃんは慣れた手付きで進めていく。
「うん、今環奈すっごいかわいいよ」
満足げに笑った美奈ちゃんの言葉に、胸の内が曇る。
「……あのさ、その『かわいい』って言うのやめてくれないかな……」
「かわいい子に『かわいい』って言って何がいけないの」
「……だって、それでわたし勘違いしちゃったじゃん」
幼い頃から親や親戚に「かわいい」と言われ続けてきたから。お世辞や贔屓目に気づかず真に受けてしまったから。だから、わたしは調子に乗って他人を不快にさせてしまっていた。もう、同じことは繰り返したくない。
美奈ちゃんは化粧をする手を止めた。表情が険しい。
「客観的に見ても、環奈はかわいいよ」
「だからっ!」
「環奈はもうちょっと自分のかわいさ自覚しないと、それこそ周りを不快にさせるよ」
「……でも、自惚れるのが怖いんだよ……」
もう五年以上経つというのに、当時のクラスメートから投げつけられた言葉は生々しく耳に貼り付いている。
腕を組んでいた美奈ちゃんは、人差し指を立てた。
「じゃあさ、こういうことにしよう。化粧をした環奈は、環奈じゃない。仮面を被って、顔を完全に隠している」
「……そんなふうに思えるかな」
「思うんだよ。大丈夫、わたし化粧上手だから。とってもかわいい仮面を作ってあげる」
「ふふっ、そっか、なら安心だね」
謎に自信あり気な美奈ちゃんの口調がなんだかおかしくて笑ってしまう。仮面か。かわいい仮面をつけてみれば、人前でも顔を上げられるだろうか。一瞬よみがえった過去の記憶も、彼女の言葉にどこかへ流れていった。
化粧をすることで別人になれるなら、そうなりたい。化粧にそんな力があるだろうか。わからないけど、今は美奈ちゃんを信じたい。
「うん、いい感じだよ。環奈は目がぱっちりしてるから化粧映えするね。やっぱりコンタクトにしてよかったよ」
中一の頃、濡れた雑巾を顔に押し付けられた後目が腫れてしまい眼科に行った。そのついでに近視を指摘され眼鏡を作った。眼鏡をかけているだけでちょっと顔が隠れる気がしてわたしはこのままでよかったのだが、美奈ちゃんは眼鏡が気に入らなかったらしい。「その眼鏡似合ってないよ」とはっきり言われ、二日前、半無理やりに眼科へ連れていかれコンタクトを作った。まだ慣れないコンタクトに、目には違和感が残る。
最後に美奈ちゃんは、わたしの前髪を留めていたピンを外した。
「はい、完成。鏡見てごらん」
「うん」
気がつくと、わたしは自然な手付きで鏡を手に取っていた。
鏡の中には自然に微笑んだ女の子がいた。彼女に会うのは何年ぶりだろう。最後に会ったのは十三歳くらいだったから、ちょっと大人っぽくなったかな。
久しぶり。元気してた?
心の中で話しかけてみると、彼女は前歯を見せて笑った。そうそう、彼女の笑った顔はこんな感じだったな。
「どうよ、環奈」
「化粧ってすごいね。本当に別人になれるんだ」
「いや……、かなりナチュラルメイクのつもりだからそんなに変わってないけど……まあいいや、すごいかわいくなれるでしょう? また一つひとつコツとか教えてあげるからね」
「うん。……ありがとう、美奈ちゃん」
鏡の中の彼女の瞳から、再び涙がこぼれた。
悲しみの涙ではない。だって、彼女は今笑顔だ。悲しくなんてない。
鏡から顔を上げると、目の前の美奈ちゃんも、なぜか泣いていた。
入学式二日前、大学近くの文化ホールで全学部の新入生を対象としたガイダンスが開かれた。ホール前広場ではサークルや部活のビラ配りが盛んに行われている。ホールの出入り口から数十メートルは押し寄せた先輩たちによって一本道ができており、新入生は左右から付き出されるビラを断ることもできずに受け取りながら歩いていく。わたしもそんな新入生の一人で、勧誘の花道が終わる頃には分厚くなったチラシの束を持っていた。
サークル、どうしようかな。
大学生活においてなかなかに重要な要素ではあると思うが、今日まで一切考えていなかった。運動は苦手じゃないし、高校では密かに軟式テニス部に所属していた。またテニスを続けてみたいが、大学のテニスサークルというものに正直良い印象がない。サークルではなく部活もあるようだが、サークルと部活の違いがわからない。
パラパラともらった勧誘のビラを見ながら歩いていると、ぶわっと強い風が吹いた。
「あっ」
すぐ右隣を歩いていた女の子の、手に持っていた紙が吹き飛ばされる。慌てて地面に散らばった紙をかき集める彼女の横にしゃがみ、一緒に拾い上げていく。
「あっ、すみません、すみません」
「いいよー。こんなにもらっちゃって、整理しきれないよね」
拾った紙束を渡しながら笑いかけると、彼女は戸惑ったように笑みを作りながら小さく「ありがとうございます」と言った。なんだか、これまでのわたしを見ているようだ。肩につくミディアムボブ、シフォンスカートに薄手のニットは普通に女の子らしいのに、どこか垢抜けないと感じるのは自信無さげな猫背のせいだろうか。
「こっちにも飛んできたよ。はいどうぞ」
「えっ、あっ、すみません! ありがとうございます!」
黒縁眼鏡の男の人が最後の一枚を拾い上げてくれた。彼の少ない手荷物から察するに、大学の先輩だろう。柔らかな雰囲気の人だ。
「いえいえ。でもせっかくだから勧誘していくね。僕ら写真サークルやってるんだ。本格的に写真活動してるメンバーもいれば、カメラは持たずにスマホで気軽に撮ってる人もいるよ。来週の木曜日にガイダンスという名のお茶会やるから二人ともよかったら遊びにおいで」
彼はわたしたちにそれぞれビラをくれた。大きく『フォトサー』と書かれている。
写真か。鏡は見れるようになったが、カメラを向けられるとまだ身体がこわばる。でもこのサークルの目的は撮られることより撮ることだろう。
「写真やカメラに興味なくても全然構わないよ。友達作りや履修の相談目的でも大歓迎だから。質問あったら気軽にこのアカウントに連絡してね」
彼は「じゃあね」とひらりと手を振って他の新入生の方へ歩いて行った。既に何十枚と勧誘のビラを受け取っていたが、こんなふうにしっかりと面と向かって声をかけられたのは初めてだ。隣の彼女を伺うと、彼女もこちらに顔を向けていて、視線が交錯する。二人同時に頬が緩んだ。
「わたしたち、友達と思われちゃったかな」
「そうかもね」
あ、やっと敬語が抜けた。なんだかそれが嬉しくて、ついつい話しかけてしまう。
「ねえねえ、どこの学部なの? 高校の友達とか一緒に来てる?」
「人文だよ。えっと、地元からここに来たのわたし一人で、知り合いはいないんだ」
「ホント? わたしも知り合いいなくてさぁ。ねえ、サークルの新歓どこか一緒に行かない? あ、わたしは経済なんだけど」
ぽっと、目の前の彼女の頬に赤身が帯びた。きっとわたしも興奮で赤くなっていることだろう。家族や美奈ちゃん以外の人とこんなふうに話すのは中一以来だ。元々わたしは友達とお話するのが大好きな女の子だった。
「うん、いいよ! どこに行こっか」
「んー、誘っておいてなんだけど、特にこれといって気になるところもないんだよね。……行ってみたいとこある?」
「えっと……、じゃあ今の、この写真サークルとか……」
わたしの好みに合うか気にしてか、彼女はおずおずと提案した。やっぱり自信なさそうな子だ。だがわたしは新歓に行くだけなら本当にどこのサークルでも構わない。
「いいよ! 二人で勧誘受けたとこだもんね!」
わたしが頷けば、彼女は安心したように頬を緩めた。
友達に、なれるだろうか。まだ話した量が少な過ぎて、気が合うかどうかもわからない。一緒にガイダンスに行って、それっきりの関係になるかもしれない。それでもいい。
嫌な過去は塗りつぶして、隠して。
それじゃダメだよと言う人もいるだろう。そんな仮初めの対処じゃ意味がないよ、と。
だけど今は、そんな声は無視させてほしい。だって、これがわたしの精一杯だから。それでも今は前を向けるんだ。歯を出して笑うことができるんだ。
化粧で誤魔化した心を抱き締めて、捻挫した足を引きずって、それでも一歩、また一歩と進むことができるから。
「そうだ、連絡先交換しとこうよ!」
スマホを取り出し、メッセージアプリのアカウントを交換しあう。初めての親類以外の連絡先だ。
「んーと、これかな。詩織ちゃん?」
「うん。……環奈ちゃんでいいのかな」
「環奈だよ。よろしくね!」
風が吹いた。まだ蕾をつけたばかりの桜が、カサカサと音を鳴らす。胸まで伸ばした髪には春の匂いが絡み付いた。
お読みいただきありがとうございました。
この作品は現在執筆中の本編のスピンオフの位置付けで書きました。彼女らが大学で写真サークルに加入し本編はスタートします。今回環奈はまだ過去の傷から完全に克服したわけではありませんが、この先新たな出会いがあり、いい方向に進んでいけるんじゃないかなというのが作者の親心です。
今後も機会があればよろしくお願いします。