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亡国の草笛  作者: うらたきよひこ
第一章 (仮)
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第五十六話 葡萄酒

 ダグラスの邸宅に着いたのは深夜に近かった。

 普通だったら夕食の時間に間に合っただろうし、走ることができたらもっと早かっただろう。よろめきながら門までたどりついたエリッツを迎えたのはやはりワイダットだった。この人はエリッツのことはなんでもお見通しだ。

 汗とほこりにまみれ、まだ先日の傷を負ったままのエリッツを見てやはり笑う。獣道を歩いてきたので足元も汚れている。

「具合が悪くなって先に帰ったとアイザックさんはいっていたが」

 まるでずる休みをした子供を見ているような目だ。

「うん」

 エリッツは力なくうなずいた。

 仕事を投げだしていなくなったあげくこんな時間に帰ってきてどういいわけしたらいいのかわからない。

「夕食は」

「食べてきた」

 そう答えてもワイダットは詮索しない。

「そうか。ダグラスさんが呼んでる」

 エリッツは深くため息をついた。それはそうだろう。アイザック氏がたとえ噂通りの極悪人だとしても今はこの家の客人だ。失礼なふるまいをすれば兄の顔に泥を塗ることになる。

 急いで兄の自室へ向かうと葡萄酒を飲みながら書き物をしていた。仕事の書類だろうか。眉間にしわを寄せて机をにらみつけていた。

 つい先日アイザック氏の護衛を頼まれたばかりのはずなのに二人で話すのは久しぶりのような気がする。エリッツが城で問題を起こした日も結局話をすることはできず、日中も忙しそうにしていた。兄もローズガーデン関連の仕事があるのかもしれない。

 エリッツに視線を向けると「座って」と別段怒っている様子はなく席をすすめられた。

 歩き疲れた足が座る欲求に負けそうになるが、叱られる前にとエリッツは「今日は、急にいなくなってごめんなさい」と、声をしぼりだす。ダグラスはちらりとエリッツを見てから「ああ」と、渋面をつくる。何か気にかかっていることがある様子だ。

 葡萄酒の入ったグラスを持ったまま立ち上がりソファに腰かける。

「最初からエリッツに相談をしておけばよかったんだよな」

 ひとり言のように虚空を見たままそういうのでエリッツは「なんのこと?」と、ようやく兄の向かいに腰を落ちつける。兄の趣味に合うシンプルで質のよいソファだ。ここにきて体を拭いてくればよかったと後悔したが仕方ない。せめてあまり汚さないようにと浅く座りなおす。

 ダグラスはしばらく何かを考えているように黙っていたが「どう思う?」と、唐突にエリッツに目線をむけた。エリッツが首をかしげると、「アイザック氏だよ」となぜわからないのかというような困った顔をする。

 兄はエリッツが自分のことをなんでも理解してしかるべきという態度をとることが多く、それにいちいち反応してしまう。兄にとって自分は特別な存在だと思えてくる。

「よくない噂ばかり聞くんだけど、おれ自身はほとんど話をする機会がなかったからいいも悪いもよくわからないよ。紳士的な人だなってくらいで」

「俺のもくろみではこちらが何もしないでもエリッツのことを連れまわして、確信的なことはいわないまでもいろいろと話すと思ったんだよ。かわいいから」

 兄は真顔でいった。

「兄さん、酔ってるね」

「多少ね」悪びれることなくそれを認めるとあえて見せつけるように葡萄酒を口にふくんだ。

「しかし中立であると公言しているグーデンバルド家に対しても思った以上に警戒している。どれだけやましいことがあるのやら」

 そういう兄の顔をエリッツはまじまじとみた。やはり今までの一連の行動には何か考えがあったのだ。

「兄さん自身は中立ではないの?」

「中立だよ。今はまだ静観していた方がいい。本家もそういう判断だ。それよりクリフだよ。王立学校の同窓だからね。助けを求められたら放っておけない」

 またそれかと、エリッツは肩をすくめたくなる。兄は友情には弱い。もちろん常識的な線引きはできるはずだが「友達じゃないか」とひと言いわれればその線は大きく後退する。エリッツはいつもそれに協力させられてきた。今回もどうやらあの猫好きの秘書官のためにアイザック氏にとりいって何らかの情報を引き出すように仕向けられていたようだ。事はうまく運ばなかったようだが。

「クリフさんは何を困っているの」

 エリッツはのどが渇いてローテーブルに置かれた兄の葡萄酒をひと口いただく。飲んでしまってから少し後悔した。この香りはものすごく高いやつのような気がする。

「うまいだろう」

 兄は得意げであるが、エリッツはのどを湿らすためだけにもったいないものを口にしてしまったとしか思えない。エリッツは酒の良し悪しにさして興味がない。

「クリフは職を失うかもしれないと相談してきた。エリッツはもういろいろと耳にしているだろうが、デルゴヴァ兄弟の周辺の動きが不穏だ。遅かれ早かれ何か起こるだろう。おそらくはローズガーデン。何かあったらこの屋敷に来たらいいといえば、俺の古参の部下ににらまれながら仕事するのはごめんだといい、他を紹介するといえばまた一からキャリアをつむのかと眉をひそめる。ようはオグデリス氏の秘書官という仕事が気に入っているようだ」

 そこは兄も理解ができないというように首をひねる。

「居心地がよさそうにも見えないけど」

 エリッツも疑問を口にする。

「なんでも主が多少バカの方が楽なんだそうだ。僕はよくわからないけどね」

 しばらく兄弟ふたりで黙って首をひねっていた。主がバカだといろいろ大変ではないのか。エリッツはクリフに一度しか会ったことがない。ひょうひょうとしていて何でも受けながしてしまいそうな人だったが、環境が変わることに対して案外繊細なのか。

「もしかして、オグデリスさんは猫を飼ってるんじゃないの」

 エリッツはつい思いついたことを口にしてしまったが、すぐにつまらないことをいってしまったと後悔した。

「猫? 猫なら何匹かいると聞いたが、それがなんだ?」

「なんでもない」

 まさか猫と離れたくないからという理由であるわけがない。

「クリフのいうことを信じるなら、オグデリス氏はアイザック氏に利用されているだけでたいした悪事はしていない。気づかないうちに何かやらされている可能性はあるが、利用されたことが証明されればさして大きな罰をうけることもないだろう」

「信じるなら」といいつつ兄はクリフのいうことを疑っていない。エリッツはまたため息をつく。利用されているのは兄の方ではないのか。兄はいつか友達に裏切られて大きな問題を起こしそうで危なっかしい。危なっかしいことに関してはエリッツの方にも定評があるらしいが。

 しかしオグデリスがアイザックに利用されているだけかもしれないというのはゼインのいっていた話とも合致する。

 秘書官という立場からいうと主人が本当に危ないことをしているならさっさと転職した方が身のためだ。あれだけ周辺の動きが不穏であれば、それこそ職を失うどころの話ではない。悪事を知りつつそのままにした秘書官も罰を受けることになるだろう。転職もせず、告発もせず、わざわざ主人が利用されているということを証明したいというのならわりと信憑性がある話ではないのか。それかやはり猫か。

 エリッツはオグデリス・デルゴヴァ卿の顔を思い出して身震いをする。あの人のもとで働き続けたいと思うとはクリフはよっぽど奇特な人物だ。しかも理由はどうあれ主人を守ろうとしているらしい。もしくはやはり猫のためか。

「それで兄さん、おれに何かしてほしいの」

 なぜここに呼び出されたのか、要件を聞いていないことにエリッツは気づいた。するとダグラスはなぜか「うん」とうなずき、葡萄酒を一口飲んで黙りこむ。

 めずらしいなとエリッツは思う。兄はどんなことでもあけすけにエリッツに頼みこむ。エリッツが兄に何かを頼まれると聞かずにはいられないことをよく知っているはずだ。それが明らかにいいよどんでいる。

「エリッツは――」

 ようやく兄が口をひらく。

「最近、何をしてるんだ」

 何を意図しての質問かわからない。エリッツは小首をかしげる。

「一昨日も城へ行っていたな。今日もどこで何をしていた? 例の王子の側近に何か頼まれているのか」

 今日のことはともかくとして一昨日のことは詳細が兄にも知らされていないようだ。ラヴォート殿下があえてそうしたのであればエリッツから兄に伝えられることは少ない。

「何も頼まれてないよ。城はちょっと見てみたくて行ってみただけ」

 嘘ではない。アルヴィンはたくらみがあって城に向かっていたようだったが、当初エリッツは本当に見物のつもりだった。

 しかし兄は納得していない顔である。

「今回のローズガーデンで何が起こるのか、エリッツは聞いてないか。どうも例年とは様子が違う。ジェルガス兄さんから聞いた話だと帝国の連中も招待されているようだ。なぜレジスの花見に帝国が出てくるんだ。そんなに仲良しだったかな」

 最後の言葉は茶化すような声色だったが、やはり理解できないというようにため息をついて首をふる。

 兄たちは北の王のことを聞いていないのだろうか。それを口にしていいものかエリッツが逡巡しているとダグラスの方が先にそれを口にした。

「ロイの王族が出てくるという話は本当なのか」

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