第二百三十四話 直線行路(9)
さっきからシュクロの笑い声がうるさい。当人もとても苦しそうで涙まで流しているのだが、笑いがとまらないらしい。対照的にシェイルの表情はどこまでも暗い。エリッツはどんな顔をしていればいいのかわからず、口をあけてぼんやりしている。シュクロのように下品な性格であればどれだけ気が楽だっただろう。
「こんな個人的な話は主が気にすべきことではないと思い、あえてお伝えはしていませんでした」
リギルはまだ外を確認に行くことをあきらめていないようで、この小部屋と通路との間に立ったまま話しはじめる。この段階でエリッツはさして長い話ではなさそうだと考えていた。
いや、結論からいってしまうと確かに長くはなかった。ただ重かっただけだ。
「シクという手伝いの少年が……」
言いながらリギルはちらりとシュクロを見た。シェイルとリギルの関係を詳しくシュクロに話すわけにはいかない。今のところ護衛か何かだと思ってもらえているはずだ。そのため中の間で働いているシクの話題には慎重にならざるを得ない。猫の真似などをしてシェイルの気をひいていたあの子供をエリッツはよく覚えていた。わりと最近、中の間で働き始めたような印象だったが。
「あのシクが来たときのことをおぼえていらっしゃいますか?」
「ええ。リギルがロイの保護区に迎えに行ってくださったんですよね」
エリッツもついシュクロの反応を見てしまう。今のところ特に不審に感じている様子はない。しかしなぜ今あのシクの話が出てくるのかはよくわからない。
「あの日、ちょっと個人的なできごとが……。いえ、その前にシクの迎えに来る際には必ず事前に連絡が欲しいといわれていたのを失念しておりまして。さらにその前の話ですが、私はもう長いこと保護区の妻子の元には帰っていなかったんです」
もう話の流れが不穏過ぎる。
リギルは困った顔のままシェイルの顔色をうかがった。自分のことよりもまずシェイルのことが気になるようだ。
「シクというのは、私の妻の兄、要するに義兄の末の息子にあたりまして、身内なものですから『事前に連絡を』という話をそう深く受けとめていなかったんです。――それで、失念してしまいました。むしろこの忙しい中、何だかんだと準備されて、引きとめられても面倒だと思ったこともありまして」
すでにシェイルは暗い顔をしている。リギルが忙しいといったらその内容はほぼシェイルのための何かに違いない。
「それで、家に帰ったらですね、見知らぬ男性が……」
シェイルが無言で立ちあがった。持っていた書類がぱさぱさと乾いた音をたてて地面に落ちる。この話は聞いていられない。エリッツも思わず立ちあがった。その時点でシュクロは口元を押さえている。早くも笑いそうになっているようだ。いやいや、全然笑えない。なぜリギルはそんなに不憫なエピソードばかり持っているのか。
「娘がいたんですが随分と大きくなっていて、その見知らぬ男性を『お父さん』と呼んでいました」
もうやめて。エリッツは立ちあがってすぐその場にしゃがみこんでしまった。シェイルは天井を見ている。シュクロは「ぶっ」と、吹き出した。
「妻は……いえ、元妻ですね。赤子を抱いていて……あ、もちろん私の子ではないです。とにかく産後の不安定な時期にわざわざ嫌な気持ちにさせる必要もないですから、気づかれないようにその場を後にして、義兄……元義兄と少し話をしてシクを連れて戻った次第です」
すでにシュクロは地面をこぶしで打ちながら、げらげらと笑い転げている。シェイルとエリッツは固まったまま無言だ。何といっていいのかわからない。
「個人的なことなので主には不要な情報かと思いましたが、やはり事実の訂正はさせていただいた方がいいのかと。あの、そろそろ外の様子を……」
何かのついでのように多大な精神的ダメージを与えておいて、外の様子を見に行こうとしている。
「個人的なことって……。主従の関係はあれど、わたしは父の刺繍を受けたあなたのことを義理の兄のように思っているのですよ」
シェイルの言葉にさすがのリギルも下を向いた。シュクロは一瞬笑いをおさめてから、シェイルとリギルを順に指さしてから首を傾げた。今さらシェイルとリギルの関係について疑問が浮かんだようだ。しかしもうその直後にはもう思い出し笑いのようにげらげらと笑いはじめる。
「シュクロさん、ちょっと笑うのやめてもらえますか」
エリッツは声をあげた。他人事なのに泣いてしまいそうだ。
「いや、でも、この人すごくない?」
リギルを指さしてまだ笑っている。
「リギル、わたしはあなたに甘えすぎていました」
シェイルが言葉を詰まらせる。しかしリギルは困ったように眉を寄せる。
「いえ、すべて私の責任ですし、後悔もありません。いえ、後悔といえばすぐにシェイラリオ様に本件をお伝えすべきでした。それに元妻には申し訳ないことをしてしまったと思っています。とりあえず、外の物音が危険なものでないかを確認して……」
リギルはちらりとセキジョウの方を見た。起きてしまったら面倒だと思ったのかもしれない。数秒しめただけなので、戦いに慣れているはずのセキジョウであれば回復は早いかもしれない。
「――では、あの、約束通り確認をしたら何もせずにすぐに戻りますので」
このままではいつまで経っても仕事ができないと感じたのか、リギルは逃げるように出て行ってしまった。
シュクロはまだお腹をかかえて笑っている。本人はさらりと話していて、むしろなぜそんなに深刻そうなのかという顔をしていた。もしかしてシュクロのこの反応が正解なのか。一緒に笑えばよかったのかもしれない。いやでも、全然おもしろくないのに笑えない。エリッツはよくわからなくなって、口をあけたままぼんやりとしていた。
「そういや、サカシロはほんとにこの遺跡を根城にしてんのかな」
シュクロはひとしきり笑うと早くも別の話題に切り替える。本当にどうでもいいと思ってそうだ。サカシロの話題なのにシェイルの反応がない。
「知りませんよ。何か痕跡とかなかったんですか」
シュクロは「うーん」とうなりながら帳面を開く。
「あるような、ないような」
ようやくシェイルがこちらを見た。
「痕跡はありました。ここを通路にはしているようです。ただ本当に遺跡を根城にしているのか、今の時点ではわかりません。もっと深いところにいるのか、別の場所へ抜けるための通路として使っているのか」
そもそもサカシロの姿が見えないのだから狩りにならない。シェイルはまたメラル・リグのときのように思いつめたような表情で黙っている。目に見えて落ち込んでいた。こうなるとエリッツも元気がなくなってしまう。奥さんのことをリギルに話してもらえなかったことがこたえたのか、それともシェイルの護衛や近辺の調べものにかかりきりだったリギルが奥さんに見限られてしまったことに対して思うところがあるのか。その両方かもしれない。
「――あのな、笑うなよ」
シュクロは何度も帳面を最初からめくり直すようなことをしてから意を決したような顔でエリッツを見る。シュクロが「笑うな」ということ自体が笑えるのだが。
「俺はここ、迷路なんじゃないかと思ったんだ」
「……はあ」
それはエリッツがここに来て初めに思ったことだ。散々調べてその結論にいたったのか。いや、一応ちゃんと話を聞くべきだろう。
「とりあえず聞くので話してください」
「えらい上から言うよな」
エリッツはそれどころではないのだ。シェイルを元気づけるにはどうしたらいいだろうか。シェイルのことはリギルに聞けばある程度わかりそうだが、今回はそのリギルが元凶のようだから、はたして正確にわかるものだろうか。誰でも自分に関することを完全に客観視するのは難しい。
「どうも何かを隠している気がする」
「……へぇ。誰がですか?」
エリッツはもはやうわの空である。
「セシ族だ」
エリッツはぽかんと口を開けてシュクロを見た。




