第二百三十三話 直線行路(8)
そのとき、地下のどこかでまた何か物音がした。反響してどの辺りの物音か分かりにくい。エリッツたちが食事をとっていた空間はちょっとした小部屋のようになっており、その外であることは確かだ。夜行性だというのでサカシロかもしれない。人を襲わないというのは本当だろうか。
シェイルの方を見るとエリッツと同じように耳を澄ませている様子だ。
「やはり何かいますね」
シェイルのいつも通りの口調にちょっと怖くなってしまったエリッツも落ち着きを取り戻す。
「サカシロじゃないんですか」
「違うかもしれません」
確かにサカシロだったら、群れで行動するので、もっと連続して物音がするはずだ。そもそも臆病な動物だというから、こんなに人間が騒いでいたら出てこない気がする。もしかしたら襲撃者につけられているのかもしれない。見通しのいい平原ならともかく、このような閉鎖的な空間は身を隠して襲うのにもってこいだ。
エリッツはちらりとリギルとセキジョウを見る。こういったことに敏感そうな二人が特に反応していない。もしくは反応を隠している。
「セキジョウさんの仲間の、あの変な人、どこ行ったんですか?」
セキジョウはちらりとエリッツを見る。先ほどよりくつろいでリギルの腹に上半身を預けている。ほぼ折り重なっているといっていい。ものすごく重そうだ。
「さあ。その辺にいるはずですよ」
本から顔もあげず足をパタパタさせている。自分の部屋にいるみたいではないか。
「さっきの物音、その人かもしれないですよね」
セキジョウは面倒くさそうに本を伏せ、半身を起こす。それから「どこですかあ」と、なげやりに叫んだ。
突如、大きな水音がして、エリッツは思わず飛びあがった。例の変な人が水場からべしゃべしゃと音を立ててあがってくる。この人、怖すぎる。
「いました」
セキジョウはそれを指さして見ればわかるようなことを言う。
「じゃあ、さっきの物音は違いますね」
エリッツはびしょ濡れの変人から距離をとりながら大回りしてシェイルの方へ移動した。
「……交代で休みましょうか」
さすがのシェイルも異様なものを見る目で例の人を見ている。
「わたしはしばらく仕事をしたいので、エリッツは先に休んでください」
「え、でも……」
部下の自分が先に休むのは気が引ける。
「じゃあ、寝ます」
セキジョウがなぜかいそいそと寝支度に入る。そのままリギルの腹をクッション代わりにして寝るらしい。リギルは相変わらずされるがままだ。
「――あの、セキジョウさん、垂直より平行の方が寝やすいのではないですか」
突然、リギルが口を開いた。どういう意味かよくわからない。
「私に指図する気ですか。また舐めますよ」
セキジョウはリギルの服をめくっている。クッション代わりにしては硬そうな腹だ。エリッツも思わず見入ってしまう。あのひょろっとした見た目では想像できなかったが、やはりきちんと鍛えられた体をしている。なかなかいい。しかし寝にくいのは間違いない。
「も、申し訳ありません。あの、これは指図ではなくご提案なのですが……」
セキジョウはリギルのおへそに指を突っ込んでむっとしている。くすぐったくないのだろうか。というか、これはなんか――。
「そこはちょっと高すぎませんか。頭の位置が。苦しそうに見えてしまうので、私とこう、平行に寝た方が楽なんじゃないでしょうか。いえ、あの、これはただの提案ですよ?」
セキジョウはふっと半身を起こし、まばたきをする。てっきり怒りだすと思っていたが、リギルの提案について検討しているようだ。変なところで素直である。
しばらく考えこんでいたセキジョウだったが、急にリギルの隣に寝そべった。
「今度は頭が低すぎるのですが」
何が起こってもとりあえず文句をいう。
「す、すみません。どうぞ……」
すかさずリギルが腕を差し出す。
セキジョウは当たり前のようにリギルの腕に頭をのせた。二人がまともに見つめ合うような形になる。わずかな沈黙の後、なぜかセキジョウが顔を赤らめ、あわてたようにリギルに背を向けた。
その瞬間、リギルはすばやく肘を曲げてセキジョウの首をしめる。抵抗を受けることなく数秒でセキジョウを失神させ、跳ねるように起きあがった。
直後、びしょ濡れの変人がリギルに鋭い蹴りを入れるが、逆に足をつかまれて倒れこんだ。
「今のはただのポーズです。二対一ではかないません。隊長がやられて何もしなかったとなると後々面倒なものですから」
すぐさま降参というように地面に身を伏せた。リギルはそちらを見もしない。
「ちょっと外の様子を見てきます」
リギル自身は何事もなかったかのように、通路の方へ向かう。やはりあの物音を気にしていたようだ。
「リギル、確認したらすぐに戻ってください。危険なことはしない約束ですよ」
シェイルの方も一切動揺を感じさせない様子で書き物を続けている。リギルは足をとめてシェイルをふり返った。もしも追跡者であれば片付けてしまいたいのだろう。エリッツは今の瞬間起こったできごとひとつひとつがよく理解できずにいつも通りぽかんとしていた。
「おっさんの色仕掛けとか、マジでひでぇな」
膠着した場に寝ていたはずのシュクロの笑い声が響く。確かに起きてしまっても不思議はないくらいに騒いでいたが、その第一声がやはり下品だ。
「もしかしてセキジョウさんはリギルさんのことが好きなんですか」
シュクロは笑いをおさめ、シェイルは書類から顔をあげた。
『それ以外に……』
二人同時に口を開き、お互いに顔を見合わせる。「それ以外にないだろう」といいたかったのに違いない。またエリッツだけが察しが悪いという状況だ。いつものやつだ。もう慣れた。だからこれまでシェイルも無理やり引きはがすような野暮な真似を避けたのだろう。
そう知ってから思い返すと、リギルを手放すまいと必死になっていたセキジョウが少しばかりかわいらしく思えなくもない。隊長の地位にまでのぼり詰めるほどの実力を持ちながら、先ほどのようにあっさり騙されてしまうのだから、恋というのはきわめて危険だ。エリッツも身に覚えがありすぎる。
「もしかしてセキジョウさんって女性ですか?」
ルグイラ人の母親の影響なのか、ちょっと顔つきは判別がつきにくかった。かなり中性的であることは確かだ。
「いえ、女性ではありませんでした」
これには中途半端な位置で足を止めているリギルが答えた。断言するところをみると、舐められた際に想像以上にいろいろあったのだろう。これは落ち着いたら詳しく聞かなければならない。
「やっぱり男性でしたか」
「それも違いました」
エリッツはまたぽかんとしてしまう。
「両性具有……」
シュクロがぽつりとつぶやいた。
「ええ……その言い方がまさに、という感じで、その……両方お持ちでした……」
リギルは言いにくそうに視線を外す。
エリッツもその存在は本などで読んだことがあるが、見たことはなかった。みんな全裸で歩いているわけではないので当たり前なのだが。
「じゃあ、もうおっさんが妾にでもしてやりゃあいいんじゃねぇの」
下品の極みであるシュクロがまた下品な提案をする。妾というと、二番目、三番目の配偶者という意味か。
残念ながらレジスで公的にそれが認められるのは国王陛下と王位継承権を持つ男児のみだ。公的に認められないだけで、お金をたくさん持っている人はそういう女性を囲っているという状況はよくある。その場合は公的には「知人女性」「居候」「同居人」「世話をしている遠い親族」などと、白々しく呼んでいるものだが、周りは普通に「愛人」「妾」と陰口をたたくので察して余りある。
「ああ、そういやレジスはそうだったな。ルグイラじゃ、食わせる金さえありゃ問題ないが」
いつの間にか文化の違いに感心してしまっていたが、そういう話をしていたのではなかった。
「余人が心配するようなことじゃありません。リギルには奥様もお子さんもいますから」
いつの間にかシェイルはセキジョウに薄手の毛布をかけてあげていた。目を覚ましたときのことを考えると怖い。あの変な人は辺りをびちゃびちゃに濡らしてどこかへ消えていた。
「リギルさん、意外とちゃんとしてたんですね」
つねに新米事務員のような頼りない様子なので、てっきり独身なのだと思いこんでいた。ちゃんと家族がいたのだ。当のリギルはいつも通りの困り顔でエリッツを見て、それからシェイルを見た。完全に物音の正体を突き止めに行くタイミングをいっしてしまっている。
「シェイラリオ様、申し訳ございません。黙っていたことがあります」




