第二百二十四話 普通の旅(8)
シェイルの元気がないような気がする。
ルルクとは別の意味で感情が読みにくいので「気がする」としかいいうようがない。用事がなければ無口というのはいつも通りだ。話しかければ返事もしてくれるし、いつも通りやさしい。ただ単に疲れているだけなのかもしれない。
「随分と飲みますね」
シェイルがブランデーをたくさん飲んでいるのはよくない兆候だ。体質的に酔いつぶれることがないのである意味質が悪い。
「レジスのブランデーはおいしいんですよ」
それはシェイルの叔父であるガルフィリオ様も言っていた。エリッツには良さがよくわからないが、レジスの名産のひとつのようだった。
シュクロもルルクも寝てしまったので、シェイルと二人での夕食だ。久しぶりに二人きりになれてとてもうれしい。
どうせ夜中にシュクロに叩き起こされて二度目の夕食をとることになりそうなので、昨日と同じ近場の店で小腹を満たすことにした。
「エリッツ、先ほどから全然食事が進んでいませんよ。疲れましたか?」
逆にエリッツの方が心配されてしまっている。やはり気のせいだったのか。
「ええと、あの、おれ、大丈夫でしたか。今日の戦いぶりとか」
シェイルはほほ笑みながらブランデーをあおる。飲むのが早過ぎる。これはよくない。
「判断も動きも文句のつけようがありません。強いて言うなら……」
シェイルはじっとエリッツの目を見つめる。
「――術士が出て来ると急に腰が引けますね」
痛いところを突かれた。
「剣や弓のように体の動きで相手の出方が見えないのでどうしたらいいのかわからなくなります。――ちょっとやり方を考えてみます」
すぐに答えを教えてもらってはいけない。まず自分で考えなくては。ルルクだってたぶん一生懸命考えている。
「いくつか定石と呼ばれるような戦い方はありますよ。いろいろ試してみるといいかもしれませんね」
そういえば今日、シェイルは一切自分の術に頼ることなく戦っていた。あれはシュクロがいたから成り立ったともいえるが、シェイルはエリッツのように腰が引けていたわけではない。むしろ近すぎるほどに敵に近かった。それに……。
「あ……」
シェイルがブランデーのグラスを置いてエリッツを見た。
「だから素手で戦ってたんですか」
「よく見ていましたね。相手が少ない場合は有効な手段のひとつです」
素手になると自然と敵との距離が近くなる。手数も増えて、相手の視界は自然に狭くなり、風式など遠くへ飛ばすような術には集中できないということか。
「ただ、気を付けてください。これは術士が基本的には中距離、遠距離の攻撃を得意としているところから使える方法です。中には近距離での術を得意とする者もいますからまず相手を見極める必要があります」
イメージでいうと、弓しか使えない兵に走り寄ってスピードにまかせて仕掛けまくる感じか。弓をつがえる隙を与えないというやり方だ。
「それに術士は近づかれるのを嫌がります。集中力がそがれるうえに急所がここですからね」
シェイルは左手の中指を見せる。
「隙があれば、躊躇なく左中指を狙ってください」
結局、いろいろとヒントを聞いてしまった。
元気がないと思ったのは気のせいだったのかと思いかけたが、その後はまた黙ってブランデーを飲みはじめる。いや、やっぱり何かがおかしい。エリッツの食事が遅いのでどんどん飲む量が増えていく。これはまずい。急がなくては。
「エリッツ、ちょっと気になっていたんですが、舌は大丈夫なんですか?」
焦って食事をかき込んでいたエリッツはのどに詰まらせそうになった。突然、何を言い出すのか。
「舌……というと?」
慌てて飲み込んでから口を開くとシェイルは不思議そうな顔をしているエリッツをじっと見ている。
「いえ、味を感じにくいのではないかと思っていたので」
「……」
実は以前は甘いのかしょっぱいのかすらよくわからなかった。最近はそこまでひどくないが、味があまりわかっていないというのは、恥ずかしいのでずっと黙っていたのだ。今までいろいろとおいしいものを食べさせてもらったので申し訳ない。鼻はいい方なので食べ物の良し悪しはわかるつもりだったが、気付かれたくはなかった。
「なんでそれ、知ってるんですか? その……いつからです?」
なぜか今度はシェイルの方が動揺したように目をそらした。めずらしい。
「ほぼ最初から、ですね。これは謝らなくてはならないことなんですが、確認させてもらいました」
「確認……?」
全然記憶がない。
「いえ、確認したのはマリルです。わたしはちょっと勘違いをして……これもいつか謝らなければならないと思っていましたが」
目をそらしたままぽつりという。
「どうやって確認したんですか?」
「極端に塩辛いものを出して、食べた後の反応を見ました。すみません」
全然気が付かなかった。いつのことだろう。そんなに塩辛いものがわからなかったというのならかなり前の話だ。いや、なぜそんなことを確認する必要があったのか。
「……それで、勘違いというのは」
シェイルはまたブランデーをあおり黙っている。気まずい沈黙が流れた。周りの喧騒が急に大きく聞こえる。おもむろにシェイルがグラス置いた。
「覚えてないですか? わりと直接的に舌の具合を確認させてもらったんですけど。本当にすみません」
「あ! ええ?」
エリッツは思わず立ち上がった。
一瞬、周りが静まり、しばらくしてまた喧騒が戻ってくる。
「エリッツ、あの……」
無言で立っているエリッツを見つめていたシェイルがそっと布を差し出す。
「鼻血を……」
素直にシェイルから布を受けとって鼻を拭う。つい興奮してしまった。
「鼻水かと思ってました」
「何にしろ鼻から何か出ている状態で放っておくのはよくないですね。あと、目立つので座ってください」
エリッツは素直に腰をおろす。
「なぜ息が荒いんですか」
「おれ、迷ってたんですよね」
「何をです?」
「約束のご褒美です」
シェイルはハッとしてエリッツを見る。まさか、なかったことにしてしまうつもりだったのか。これはきちんと権利を主張しておくべきだ。エリッツはばんっとテーブルを叩いて立ちあがる。
「一晩中、あなたの指を好きにさせていただくか、もしくは別のものを存分にしゃぶらせていただくか!」
「エリッツ、何を……。声、声が大きすぎます。あと言い方も何か変です。いや、言い方だけではなくて……」
シェイルは焦ったように周りとエリッツを交互に見る。
「でも決めました。あの気持ちよさは別格です。いろいろとしゃぶったり飲み干したりしたい気持ちももちろんありますが、もう一度、舌の具合のご確認をお願いいたします!」
なぜか先ほどまでうるさかった店内はしんと静まり返っていた。シェイルは放心したように天井を見ている。しばらくそのまま時間が流れた。
つい興奮しすぎて我を失っていたようだ。
「お騒がせしました」
エリッツはとりあえず座った。急に辺りがざわめきはじめる。「いつもしゃぶらせてんだ」「いいな。俺も……」「舌の具合ってなんだ?」「いくらでやらせてくれるかな」と、下品なささやき声が聞こえてきた。もしかしてこれはかなりやらかしてしまったのか。
「聞きしにまさる変態ですね。そんなに気持ちいいなら、私もそれ、お願いしたいです」
いつの間にか隣に見知らぬ少年が座っている。赤味がかったブロンドにとび色の目をしていた。レジス人ではあるようだが、異国人の血も引いているらしい顔つきである。そして少年は見覚えのある袖口をぐっとつかんでいた。黒衣に犬の刺繍だ。見あげると顔を隠した男が立っている。
「リギル、店を出たいです」
天井を見ていたシェイルがぽつりとこぼす。
「――でしょうね」
確かにそれは困ったようなリギルの声だった。




