第百九十七話 復讐の舞台から(11)
「このような姿で申し訳ありません。とても急いでいたもので」
ジルは純朴さを出すためにわざと舌足らずで鼻にかかったような声をあげた。さほど教育は受けていないが街中には慣れている。立場が上の者への媚び方も知っている、大屋敷に住み込みの下っ端の使用人。そういう設定だ。急いでいることを強調するためやや肩で息をするような演技を加える。わざとらしすぎてはダメだ。ちょうどよい塩梅に。舞台の上ではないので大仰過ぎては不自然になる。
汚らしい格好の小娘に警備兵は盛大に眉をひそめる。上流階級の人々が通る扉の前である。ジルは今気づいたとばかりに辺りを見渡して恐縮しきった顔でオロオロした。もちろん演技である。
私ったら慌てすぎてこんな場違いなところへ来てしまった! そう心の中でセリフをつぶやく。声に出さないのは、さすがにわざとらしすぎるからだ。雰囲気だけ伝わればよい。
「それでミリルディア家のお針子様がどのようなご用件で?」
人通りの多い場所を避けるため扉の端の方へ移動した警備兵は威圧的かつ慇懃な言い方をする。しかし演技をしているこちらはまったく気にならない。急いでいるし、でも警備兵は怖いしと、純朴さを際立たせる演技を続ける。何かを言わなければと口を開きかけては、扉の中を気にするように視線をさまよわせたりした。
「はあ。悪かったよ。別にとって食おうってんじゃない。事情を聞いているだけだ」
埒があかないと気づいた警備兵はさっさと仕事を片付けたいのだろう、少し優しげな口調でジルに問いかける。根っから威丈高な態度をとる人間というわけでもなさそうだ。うまく利用できるかもしれない。だが、ここですぐにのってはいけない。こちらは無害な下女で高圧的に接すると話が進まないと印象付けたい。下手に追い返したりして後日「旦那様」の方から苦情があっても面倒だろう。
弱々しい上目遣いでジルは警備兵を見つめた。本当に怒鳴りつけたりしない? 心の中でセリフをつぶやく。十分に焦らしてようやくジルは口を開いた。
「旦那様が、お出かけの際にボタンを落としていかれて……」
そこでまた口をつぐむ。言葉をゆっくりと選ぶような間をあけた。警備兵は「それで?」というように首を控えめに傾ける。よし、いかにも弱者を相手にしているという表情だ。
「劇場で恥をかかれるようなことがあっては申し訳ないので……」
ボタンが落ちてしまったのはお針子の腕が悪いせいだ。ジルは涙を堪えるような様子でうつむいた。
警備兵はジルの話を聞いて考え込んでいるように黙り込む。
「事情はわかったが、招待客以外、簡単に通すわけにはいかない。今日は特別公演だから」
特別公演? それであれば、招待客のリストのようなものがあったのだろう。そこからシェルマン・ミリルディアがここに来るということが情報として出回ったというわけか。
「おい、さっきから何をやっている」
警備兵の上官らしき男が割って入ってくる。あまり騒ぎを大きくして顔を覚えられたくはなかったが仕方がない。ジルは同じ説明を不安そうなたどたどしい口調で繰り返した。演技に手を抜いてはいけない。ジルは一度ミリルディア家のお嬢様の演技に失敗している。今度こそ最後まで信じこませてやるんだ。
細部に気を遣って丁寧に演じる。物語の中だけの存在なんてことは忘れてしまうところまで人物を練りあげてゆく。どこからかサティエルの声がしたような気がした。もしかしたらジルは演じることがそんなに嫌いではないのかもしれない。
「きみ、シェルマンさんのとこの?」
見ると上品な老紳士とその奥方らしき女性がジルたちの様子をうかがうようにこちらに顔を向けている。二人とも派手さはないが、上質そうな服を着ていた。明らかに上流階級の老夫婦である。招待客らしいが、こんなみすぼらしい使用人に声をかけるなどあり得ない。ジルは慌てて腰を低くし顔を伏せる。貴族様の顔を直視するのは無礼だ。それからか細く「はい」と声を震わせた。何しろ自分はまだ新参のお針子なのだから。
「勝手に話を聞いてしまってすまないね。シェルマンさんなら顔を知っているからボタンを届けてあげよう」
さて、困った。それでは中に入れなくなる。ジルは内心の動揺を必死に隠して、パッと顔を輝かせた。
「本当ですか!」
少し間をあけて、何かに気づいたようにハッとしてからうなだれる。
「――とてもありがたいお話なのですが、旦那様のボタンを縫い付けるのは、私の仕事でございます」
ああ、本当に。ボタンを老紳士に預けて屋敷に戻れたら、どんなにいいだろう。この老紳士に間に入ってもらえれば、旦那様にもそんなに叱られないかもしれないし、屋敷で待っている先輩たちに「遅い!」と、こづかれることもない。ジルは心底残念そうにしゅんとうなだれた。
「そうね。さすがに今日は裁縫道具は持っていないわ」
老紳士の隣で婦人が口を開く。ジルの胸にさっと暗雲がたちこめた。そうだ。ジルも裁縫道具を持っていない。道具を出してみろといわれたら終わりだ。
いやいや、いけない。不安そうな顔をしたらダメだ。裁縫道具は持っている。持っているんだ。自分にそういい聞かせ、素の自分に戻りそうだったところをなんとか持ち直す。
「我々の仕事だからご理解いただきたいのだが、念のためそれを見せてもらえないか」
警備兵の上官の方が口をひらく。ジルの胸は大きくはね上がった。老紳士の前だからか丁寧ではあるが有無をいわさぬ口調だ。
「万が一危険なものを持ちこまれては困る」
ジルはそろそろとポケットに手を入れた。取り出したのはもちろん例の飾りボタンの方だ。これで切り抜けられないか。お願いだから裁縫道具も出せなんていわないで。
しかしジルの手のひらのボタンを見て声をあげたのは老紳士たちの方だった。
「おや、これはシェルマンさんのじゃないね」
「あら、そう? 私にはわからないわ」
老紳士たちの会話する声がジルの胸の音で聞こえなくなる。
シェルマンのボタンではない?
「どういうことだ?」
警備兵はジルをにらみつける。ジルはまともに表情をつくれない。そこへ老紳士がゆったりとした動作で間に入る。
「まあまあ。それはシェルマンさんの物になっていても不思議じゃないんだよ。ご子息のルーサスくんのものだからね。やはり引き継いであげるんだね」
「ああ、ルーサスくんの。あの子は残念だったわね。まだ小さかったのに」
これは一体どういうことだ。話が違う。ルーサスがシェルマンの息子?
ジルはもう何が何だかわからない。意識が遠のきそうである。しかし演技は続けなければ。不審な表情をしてはいけない。まだ新人の使用人という設定なのだから知らない情報に触れてぽかんとしている風を装えばよい。実際に素でぽかんとしている。
「確か、流行り病だったな」
「そうだったわ。お母様も一緒に。本当にお気の毒だったわね」
ルーサスは死んでいる、らしい。――ということは、今までルーサスだと思っていたヤツは偽物でジルは騙されていたのか。では、警備兵の姿をしたルーサスの偽物は誰で何をたくらんでいるのだろう。胸が痛いくらいに高鳴っている。
「そのボタンはミリルディア家の跡継ぎの持ち物だと聞いているよ。シェルマンさんもようやく家の方が片付いて演劇を観にこれるくらいになったんだなぁ」
「ええ、ええ。お二人を亡くされてずいぶんと気落ちしているご様子でしたからね。娘さんのマディーさんとルーサスくんの婚約まで決まっていたのに」
ええと、娘と息子が婚約したの? つまりどちらかが養子とかそういうこと? 血縁同士での結婚は神に背くことになるため教会で禁止されていたはず。だからそれは――つまり、どういうことになるの?
情報を整理するスピードが追いつかない。ただひとつ確実なのはあのルーサスと名乗っていたヤツにまたしてもうまく利用されていたことがわかった、それだけだ。いったいどれだけ嘘をつかれていたんだ。




