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亡国の草笛  作者: うらたきよひこ
第九章 復讐の舞台から
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第百八十八話 復讐の舞台から(2)

 地獄だと思った。

 常に空腹だ。それだけではない。蹴られたり、殴られたりは当たり前で、固く乾いたパンがもらえれば奇跡である。そのうち餓死するか、主人の気まぐれで殴り殺されて終わりだろう。運がよければ逃げ出す機会はあるかもしれないけど……と、少女は自身の足を見る。こうなる前はふっくらとして程よく筋肉がついていた足は見る影もなく、汚らしく骨の形がくっきりとわかるほどに細い。もしチャンスがあったとしても逃げ出せやしない。

 突然、舞台の方で嬌声があがり、少女は驚いて立ちあがろうともがいた。しかしやせ細った足のせいでよろめき、その場にどっと倒れこむ。直に骨を打ったような痛みをじっとやりすごす。声をあげてはならない。主人たちの関心を引くようなことをすれば、また殴られる。目をつぶってなんとか痛みに耐えた。体は常に痛い。いつかなにも感じなくなると思っていたが、痛みに慣れるということはなかった。

 少女の主人となる人物は演劇場などで役者を手配する仲介の仕事をしているらしい。「らしい」というのは、別段説明を受けたわけではないからだ。きらびやかな衣装をまとった女性や背が高くスタイルのいい男性が主人を見かけると猫なで声ですり寄っていくのでこの世界では強い発言権があるのだろう。それでいて演劇の内容や舞台の道具類にまで口を挟んでいる。さしずめレジスの劇場を牛耳っている人物といったところだろうか。

 少女は床に丸まった無様な姿のまま、まだ騒いでいる舞台の上に視線を向けた。稽古用に灯りがともった中、何がおもしろいのか、主人と劇場の関係者らしき人が役者たちと高い声で笑い合っている。そういえば、と少女は思う。両親を失ってから一度も笑っていない。楽しいことなど何もないから当然だが、笑わなくとも生きるのに支障はないのだなと不思議な気がした。前もそんなに笑うような性格ではなかったが、今から考えるとよほど明るかった気がする。

 突然、何かが頬に当たって飛びあがらんばかりに驚いた。見ると同じ年頃の少女である。最近よく見かける。おそらく同じような立場なのだろう。やせてあちこち傷だらけだ。そして病気なのかなんなのか知らないが口がきけないらしい。だから名前も知りようがなく心の中で勝手に「クト」と呼んでいた。異国の言葉で猫のことである。理由は単純で猫のように舞台の狭いところを器用に通り抜けているのを見たからである。これでもかつて勉強が得意だった。だから異国の言葉もいくつか知っている。仕事で頻繁に異国へおもむいていた父のようになりたかった。

 そのクトが固いパンを少女の頬に押しつけている。

「パン、どうしたの?」

 声がかすれた。すぐさま唾液が口中を満たす。奪いとって口に入れてしまいたい。けれどクトだってお腹がすいているはずだ。――と、そう思ったところまではおぼえている。ふと気がつくと、パンを懸命をかみくだいていた。奪ったのだ。そう気づいたがとまらなかった。

 正気に返ってハッとクトの顔を見たが、そこには何の表情もない。いつもそうだ。口も聞かないし表情もない。自分と同じように親を失って雑用として買われたのだろうと親近感を持っていたが、本当のところは何なのかよくわからない。

「ご、ごめん」

 謝ってもクトは心ここにあらずといった様子である。虚な目で遠くを見ている。クトの主人の姿は見たことがないが、いつも舞台で使うものを運んだり、自分と同じように役者たちからこき使われている。きっと自分よりひどい扱いを受けているに違いない。

 だが劇場に出入りしている人々の話を聞いていると劇場関係者に買われた自分たちはまだマシな方なのだという。親のない子は他に無理やり曲芸などを覚えさせられ、いくらも仕事をしないうちに事故で死んだり、娼館に売られて大人になっても出てこられないみたいなことがざらにあるのだと聞いた。もちろん買い手のつかない子供は野垂れ死ぬか、野犬のように人の物をかすめ取って生きのび、そのうち報復で私刑に遭ったりなどいいことは何一つない。

「チビ、帰るぞ。ちゃんとパンを食べたのか」

 遠くで誰かが叫んでいる。見るとまだ若い役者であることがわかる。クトのことを呼んでいるのかと思ったが、当のクトは焦点の合わない目ではるか後方をぼんやりと見つめている。

「おい、聞いてんのか。チビ、明日も早いんだから勘弁してくれよ」

 クトが殴られると少女は目をつぶった。不機嫌そうにつかつかと歩み寄って来たその男は暗がりに丸まって倒れている少女を見つけてぎょっとしたように目を見張る。

「チビ、その子はなんだ? 友達か?」

 少女はこわごわと目を開けるが、相変わらずクトはあらぬ方向を見てぼんやりとしている。男とまともに目が合ってしまい、少女は蹴られると思って身を縮めた。

「そんなにビビるなよ。確かバドゥルさんのとこの下働きの子だよね。転んだの?」

 見上げると役者らしく舞台映えしそうな体つきで声も若々しいが思っていたよりは年長らしい。一瞬、父の面影を感じてぼうっと見つめてしまった。もちろん年齢が近そうだというだけで、父とは似ても似つかないまったくの他人である。だがその人物もじっと少女を見つめている。

「うーん、バドゥルさんは安物買いをして大失敗をしたなんて言っていたけど、そうは思えないなぁ。化粧映えしそうな顔だし、品がある。確かに華々しいというのとは違うかもしれないけど、逆に稽古次第で何にでもなれそうだ。――少しやせすぎているな」

 男は少女の頭から足先まで品定めするように見回した。

 そのとき、突然クトが劇場の外へ向かって歩き出す。本当に動きが読めない猫のようだ。

「待って、クト!」

 この男と二人きりにされたら今度こそ恐ろしいことをされるような気がして、少女は必死にクトを呼びとめた。

「クト? あのチビのこと?」

 少女は慌てて口元をおおう。つい心の中で勝手に呼んでいただけの名前で呼び止めてしまった。

「クト……というと、ディガレイ語で猫という意味だよな。異国語ができるのか?」

 少女は慌てて首を振った。男の真意はわからないが、目立ったり気を引くようなことをしてはいけない。それに異国語ができるというほどでもない。勉強をしているところだった。ディガレイの言葉だけではなくもっといろいろな言語を学んで父のようになりたかった。だが、あんなことがあった今ではもう自分がそれを望んでいるのかはわからなくなっている。父はその「仕事」が原因で殺されているのだから。

「しかしクトというのはまさしくだな。ぴったりだ」

 ふらふらと劇場を出てゆくクトをなぜか何もせずに見送っている。子供一人で外に出るのは危険だ。ここにいても危険だが、外に出れば主人以外の大人からも暴力を受けるし、殺される確率が跳ねあがる。クトのような下働きの子供に何かあっても知ったことではないということか。

「バドゥルさんみたいになれたらいいなと思ってるんだよね。彼も初めはたった二人の役者を抱えてあちこちの劇場に売りこんで小銭を稼いでいた香具師みたいな男だったんだ。でもそのうちの一人、今やもう大女優すぎて知らない人はいないけど、レジーラが『ルーベルの海』という演劇で大当たりして――今やあんな状態だよ」

 男は呆れたような顔をしてあご先で舞台の上でいまだに笑い声をあげている主人たちを指した。

「あなたは役者じゃないの?」

 少女はつい話に引きこまれて声を出してしまった。直後に「しまった」と思って顔を伏せる。

「そんなにおびえなくていいよ。俺は役者だけど、自分の能力はよく理解しているつもりだ。悪くない役者だよ。むしろいい。でも主役を張れるような個性はないんだよな。どちらかというとこの年になったら指導者の方が可能性がある。子供の頃から劇場にいるから経験も豊富だし、いろんな役者を見てきた。バドゥルさんみたいにいい役者がそろえば稼げると思うんだよな。そのパドゥルさんが一度はきみ買ったってことは、何かあるはずだ。俺なら引き出せるかもしれない。こう言っちゃなんだが、あの人は今調子に乗っているからね。昔みたいに一人一人丁寧に向き合って指導はしていない。そんなことをしなくても才能のある若手役者が勝手に集まってくるからだろうね」

 そもそも自分は役者として買われたという気はしていなかったので、少女は首をかしげた。せいぜい下働きという名目で買われたストレス発散のための慰みものだろう。この男は何かを勘違いしている。

「よし、決めた。俺、きみをバドゥルさんから買うよ。今日、連れて帰るから準備をして」

 所有者が変わるようだ。少女は特に感情を動かされることはなく「はい」と小さく返事をした。どうせ何も変わらない。それでも新しい主人は話が通じるようなので、状況はよくなるのかもしれないというわずかな期待消し去ることはできなかった。

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