第百八十七話 復讐の舞台から(1)
「これは誰ですか」
エリッツは床に落ちた一枚の紙片を取りあげた。そこには元の顔がよくわからないほど化粧をほどこされた幼い少女が描かれている。大人のする化粧とは違って子供の特徴を強調するような化粧だ。よく見るとそれは絵ではなく映術によるものである。以前はそれがどういう技術なのかまったくわからなかったが、今なら多少わかる。おそらくこれは術士の技の一種、だと思われる。絵ではなく本物と寸分違わぬ姿を紙に焼き付けることができる技術だ。しかし結局はどういう仕組みなのかは詳しく知らないのでわかっていないのと変わらない。
高価であるためそれを見る機会は多くないが、詳細な描写が必要な学術的な本に利用されていることがあるし、元がとれると判断されればこういった商業的なものも作成されることがあるという。エリッツが知らないだけでこの少女は有名な人なのかもしれない。
「役者さんですか?」
濃い化粧と派手な衣装はそうとしか思えなかった。
ゼインは無言で返せとばかりに手のひらをむける。高価な映術のカードを所持しているということはよほど好きな役者なのだろうが、それが幼い少女というのは意外である。よく見るとわりと古いもののようだから、現在は大人なのかもしれない。それにしても過去のものをわざわざ入手するというのもなかなかの執念である。かなり入れ込んでいるのかと思ったが本人の表情は特に動かない。いつもなら「この役者はここがすごい」とか「この演劇をみるべきだ」と聞いてもいないのにしゃべり続ける展開である。
ゼインの人柄的に腑に落ちないものを感じながらカードを返すと、特になにも言うことはなくポケットに入れてしまう。
「それで、上着がどうなったって?」
そうだった。エリッツはわざわざ休暇をとってゼインに借りていた上着や道具類を返しに……正確にいうと謝罪をしに遥々と森の家まで来たのだった。またゼインが机の上に書類やら演劇のパンフレットやら絵の具やら、とにかく仕事をしているのか趣味の時間なのかよくわからない状態になっていたため気がそがれてしまった。
「あのー、ちょっと大変な旅になってしまって……」
借りていた上着は諸事情によりぼろぼろになってしまった。いくら器用なゼインが手を尽くしてもせいぜい下着か雑巾くらいにしかならないだろう。
「――だろうな」
だがゼインは特に問い詰めるでもなく、書類から顔もあげない。
「とりあえず見てください。ごめんなさい」
「謝るの早すぎるだろ。まぁ、そうなるとは思ってたけどな」
ようやくあきれたような顔でエリッツを見やる。借りていた背嚢からボロボロの、おそらく血液であろう得体の知れない茶色のシミがついた上着を広げて見せた。腕のところは千切れてしまったので、二パーツに分かれている。もちろんきちんと洗ってきたが汚れは落ちなかったのだ。そしてエリッツが直そうと下手に手を入れれば余計にひどいあり様になるのは目に見えている。
「うん。思っていたよりマシだ」
あごに手をやり、何かの芸術作品でも見ているかのように、無惨な姿の上着を上から下までじっくりと眺める。
「そうなんですか」
またゼインが寄越せとばかりに手を出すので、エリッツは雑然としたテーブル越しに上着を手渡す。
「問題なし」
すぐにゼインは上着のポケットを探ってから頷いた。そう、上着を借りたといいつつ、そのポケットの中身を借りたといっても過言ではない。中にはゼインの身分証のようなものが入っていて、前回のエリッツの旅に大いに役立ったのである。それが無事であれば問題ないということなのだろう。しかしまだどこからも咎められるような事態にはなっていないが、ちょっとした身分詐称をしてしまった。自分はともかくとしてゼインの方に害が及ばないか未だ少し不安ではある。
「ありがとう……ございました」
ゼインのおかげでアルヴィンにも会えたし、感謝してもしきれない。
「なんだ。気持ち悪いな。殊勝な顔して。――で、隣国はどうだった?」
こちらは本当に申し訳なく思っているのに気持ち悪いとはなかなかひどい言いようである。
「どうもこうも大変でしたよ」
エリッツはここでようやくテーブルの空いている席に腰掛けた。
「多少は話聞いてるけどな」
言いながら席を立ち、お茶を淹れてくれる。ゼインはマリルの部下であるから、報告書などを見ていろいろと深いところまで知っているのかもしれない。噂によるとマリルは書類仕事が嫌いでゼインや事務室に丸投げなのだという。そういえば、マリルは体調がすぐれないと帰ってしまったが、あれからよくなったのだろうか。
エリッツがまたぼんやりとあれこれと考えていたところ、テーブルに広がっている演劇のパンフレットらしきものが視界に入った。これもまた古いもので、先ほどの少女の、映術によるものではなく絵が描かれていた。この演劇の主役だったのかも知れない。子役で主役というのはなかなかすごい。
「あの、この女の子誰なんですか。 有名な役者さんなんですか?」
やはりめずらしくゼインはあまり多くを語らない。この女の子はもしかして仕事の関係で調べていたりするのであろうか。それであればエリッツがあまりあれこれと問いかけるとまた叱られてしまう。
「――有名ではあったが、もう引退してる」
テーブルの上の書類などを雑に寄せるとそこに湯気のたつお茶のカップを二つ置いた。外は暑いがすっと爽やかなハーブの香りが立って心地よい。
「ファンだったんですか?」
「んー、まあ、そうだな」
やはりらしくない。エリッツはまた端に寄せられてしまったパンフレットに目をやる。絵だけではどういうストーリーかわからない。そもそも演劇は見たことがなかった。
「これ、どういう演劇なんですか」
問いかけるエリッツにゼインはいつも通り大仰にため息をつく。
「お前な」
ぐっとテーブルにのり出すようにエリッツに顔を寄せる。
「『先輩』が、隣国はどうだったかと聞いたんだ。まずそれを答えるべきだろう」
「先輩」というところに変なアクセントをつけていう。ゼインが先輩だと思ったことはなかったが、広義ではそうなるのだろう。だが何となく釈然としない。
「いや、でもさっき『話は聞いてる』って……。俺よりも詳しくわかってるんじゃないですか」
「この! 口答えをするな!」
ゼインがエリッツの頬をぎゅうぎゅうと引っ張る。
「ひぃう」
突然の攻撃に変な声が出てしまう。横暴だ。
「――何やってんの」
急な登場にエリッツもゼインもぴたりと動きをとめた。いつからそこにいたのか。マリルである。胸に牛柄の猫を抱いていた。
「あ、猫だ」
エリッツが手を差し伸べると猫はぴょんとマリルからエリッツの腕の中へと飛びうつる。顎をかいてやると、ごろごろとのどを鳴らして甘えてくれる。今日はめずらしくご機嫌のようだ。
「あんまりいじめると、あの人に怒られるよぉ」
ニヤニヤ笑いながら、エリッツの前に置いてあるカップを勝手にとって飲みはじめる。いつものマリルだ。久しぶりに会ったような気がする。元気そうで何だかほっとしてしまった。
「うわ、こんなの残ってるの?」
お茶を飲みながらマリルは先ほどエリッツが眺めていた古い演劇のパンフレットをひらりと取りあげる。なぜかゼインが慌てたように、それを取り返そうとした。
「おおっと。何これ大事なの?」
素早さでマリルに勝てるわけがない。あっさりとかわされてしまい、ゼインは気まずそうな顔で「勘弁してくださいよ」とぼやいた。
「何でこんなのがここにあるんだろうなぁ」と、マリルは歌うようにひらひらとパンフレットをふっている。
「それ、有名な女の子なんですか」
ゼインは教えてくれないので、エリッツはここぞとばかりにマリルに問いかける。
「有名子役だよ。ね? これは確か初舞台」
同意を求めるようにゼインに顔を向けるが、ゼインの方はなぜか完全に不貞腐れている。
「どういうお話なんですか?」
あまり演劇に興味がなさそうなマリルまで知っているとなると、いよいよエリッツも興味が出てきた。
「いいよ。教えてあげる。私は結構くわしいよ」




