第百八十六話 とある一日(7)
ダフィットのいう通りシェイルは何も考えていないのかもしれない。ここ数日、深く考えをめぐらせていたのはなんだったのかと眩暈がする。
中の間はあまり大きな建物ではない。住人がくつろいだり食事をとったりする部屋は応接を兼ねていた。その広間の部屋が混沌とした状態になっている。まずガキが二匹、にゃあにゃあ言いながらシェイルにまとわりついていた。ご丁寧に猫の餌まであるようだ。例のド変態のクソガキがシェイルの顔を息を荒げてなめているのはいつものこととして、黒い毛のガキが一匹増えているのはなんなのか。とりあえずかなり高度な遊びをしているのは確からしい。
「シク、あなた、なんてことを……」
視界の端でいつもいる中の間の使用人が青い顔をして震えている。ロイの人間はもとから肌が白いので滑稽なほど血の気が引いて見えた。ダフィットが深くため息をつくとその使用人はおびえたようにびくりとする。次の瞬間、黒い毛のガキが本物の猫のような素早さで大人三人の間を器用にすり抜けて広間から逃げて行った。
「シク! 待ちなさい!」
中の間の使用人が追いかけようとするが、それをシェイルが呼びとめる。
「リギル、あの子のことはいいので、この間のお菓子を早く殿下にお出ししてください。お茶は木の実のような香りのものがあったでしょう。あれが合うと思うんです」
平然としている。ラヴォートがここ数日、中の間に来ることを避けていたことに気づかなかったわけではないはずだが、まったくのいつも通りである。ダフィットがどうしてもというので久しぶりに中の間を訪れたが、余計に腹が立っただけだった。ラヴォートは 広間のテーブルにつかつかと歩み寄る。
「おい、お前も猫になれ」
隣にいたド変態のガキが何故か顔をあげて「にゃあ」と鳴く。
「お前じゃない」
ぶん殴ってやろうかと思ったがここは堪えた。
「わたしですか?」
シェイルが首をかしげるのでもう一度「そうだ。お前が俺の猫になれ」ときっぱりという。ダフィットが背後で「殿下」といさめるような声を出す。結局のところダフィットもロイの人間だ。最終的にはシェイル側につくだろうことは言われなくともわかっている。「黙れ」と、ラヴォートはそれを一喝した。わずかに肌がひりつくような沈黙が流れる。
「にゃあ」
シェイルが別段何のことはない様子で口を開いた。隣でシェイルに体をすり寄せていたガキも真似するように「にゃあ」と鳴く。まるで兄弟猫のような様相である。いや、このガキはどちらかというと犬っぽい。物を投げたら喜んで取りに行きそうな顔だ。
「お前は鳴くな」
「えー」
ガキが不満気な声をあげた。この遊びが気に入っていたのか知らないが、生意気にもつまらなそうな顔をしてぶつぶつ言っている。
「これは何ごとだ?」
ふりかえるが中の間の使用人は茶でも淹れているのか姿を消しており、クソ真面目な顔をしたダフィットとまともに目が合った。もう後には引けない。
「おい。食え」
どういう経緯でそこにあるのか知らないが、テーブルの上に置いてある猫の餌を匙にすくってシェイルに前につきだす。背後からピリピリとした気配がした。ダフィットだろう。しかしシェイルは何でもないことのように匙を口に入れ、餌をしっかりと咀嚼している。
「さすがに冷めてしまいましたね」
よりによって残念そうな声だ。
「さっきは舌を火傷しそうだったんですけどね」
「そういえば大丈夫でしたか?」
「だから冷やしてくださいって言ったんです」
ごちゃごちゃといっているが、そもそもなんで猫の餌を平然と食うのか。ラヴォートは再度餌をすくった匙をシェイルの口元へさしむける。やはりまた食う。そろそろと手を伸ばし頭をなでると、ぱっと顔をあげてこちらを見た。
「なんだ? 文句があるのか? お前は俺の猫だろう」
少し間をあけて真顔で「にゃあ」と言う。もしかして馬鹿にしているのだろうか。猫のように鳴き、猫の餌まで食わされ、頭をなでられるという、普通ならこんな屈辱には耐えがたいであろう。だが別段侮辱されたという顔ではない。これでは少しも優位に立った気がしないではないか。むしろあの手この手で屈服させようとしているラヴォートの方が滑稽である。
そもそも人前で折檻を受けてもちょっと経つと何でもないような顔をしているくせに、ささいなことでも気に入らないと断固として折れない。手が届いているようでまったく届いていない。自分のものにしているという感覚は幻想だ。やはりその気になれば約束など反故にして自由にどこかへ行ってしまうつもりなのだろう。
「もっと食え」
さらに匙を口につっこむが、咀嚼してまだ「にゃあ」という余裕がある。
「ダフィット、なんでこいつは猫の餌を食うんだ?」
ふり返ると今度は茶器をたずさえた使用人がまた真っ青な顔をして立っていた。
「猫の餌……とは……?」
「フィル・ロイットに猫の餌を出したのは、所望されての戯れか?」
ラヴォートの代わりにダフィットが口を開く。
「そ、その食事は市場で会ったレジス人に聞いたレシピで……その、猫の餌というのはどういう……?」
ダフィットが大きくため息をつき、使用人がまたびくりと体を震わせる。
「あれはレジスでは猫が食べるものだ。覚えておくといい」
ダフィットがクソ真面目さを発揮して丁寧な助言している。茶番にもほどがある。
「えっ。猫……」
使用人がテーブルの上の皿とダフィットを見比べて目を白黒させている。本当に知らなかったらしい。
「わたしはこれが気に入ったのでまた食べたいのですが」
「案外大丈夫だと思いますよ。人間が食べても」
本気なのか、使用人をかばっているのかわからないが、シェイルとガキが口をそろえてダフィットに意見する。
「――であれば、そのように。ただし外に知れることのないように気をつけろ」
ダフィットはあまり興味がなさそうに使用人に指示をした。猫の餌をまた食わせろと珍妙なことをいっているにも関わらず淡々としている。どこまでも感情の表現が薄い男だ。
「殿下、かけてください。ダフィットも。お茶が冷めてしまいます」
やはりいつもどおりだ。本当に腹が立つ。
「いや、茶はいい。最近忙しくて来れなかったから少し様子を見に来ただけだ。もう戻る」
アホらしくてどっと疲れた。こちらの気も知らず、随分とご機嫌な様子でめでたいことだ。ラヴォートは踵を返して部屋を出る。ダフィットが無言で後に続いた。
「殿下、よろしいのですか?」
外に出たところでダフィットが口を開く。
「お前のいう通りだな。あれは何も考えていないようだ。とにかく疲れた。もう、寝る」
「しかし……」
ダフィットはめずらしく食いさがるような様子である。
「普通、畜生の餌を食うか?」
急な問いかけにダフィットは一瞬間をあけた。
「知らなければそういうこともあるかと。レジスの人間ではありませんから。それにここには猫がいませんし、いたとして餌やりなどの世話までしないことには……」
クソ真面目すぎてうんざりする。
いいたいことはそんなことではない。あれはそれと知ったうえで、にゃあとか言いながらラヴォートが手ずから与えた餌をためらいなく食ったのだ。気位の高低差にまったくついて行けない。
歩き出そうとしたところで、「お待ちください。ラヴォート様」と、中の間の使用人が外へ走り出てきた。
「これを」
ダフィットがちらりと使用人を見て、うかがうようにラヴォートに視線を向ける。軽くうなずくと、ダフィットは使用人から何かの包みを受け取った。それから包みをあらためて「これは何だ?」と問いかける。
「シェイラリオ様がお茶菓子だけでもお持ちくださいと」
そんなことのためにわざわざ追いかけてきたのか。
「わかった。ご苦労」
そのまま立ち去ろうとしたが、ダフィットが「それだけか?」と、使用人に問いかけている。使用人は困惑したような顔だ。ラヴォートにもダフィットの意図がわからない。
「はい。ただ、その……」
使用人は視線を左右にさまよわせる。
「私の立場でこんなことを申し上げるのは無作法とは存じますが、あの方はラヴォート様がいらっしゃったときのためにいつもお菓子を探しておいでです。後日感想やご希望などをいただければ……」
言葉の最後はごにょごにょと小さく夜闇に消えてゆく。
「中身は何だ?」
ラヴォートはダフィットの持つ包みを指さす。
「ちょ、チョコレート? というものだと聞きました。ロイにはなかったお菓子なので詳しくはわかりませんが、随分と甘いお菓子だなと、毒味のさいに……」
「毒味?」
あいつに毒味は必要ない。
「いえ、そのぉ……」
使用人はしどろもどろだ。どうせ毒味と称して使用人に菓子を与えたのだろう。目に浮かぶようだ。とはいえ、ラヴォートの考えている通りであれば、中身は高級な菓子ではないだろう。
ダフィットの手から包みを奪うとその場で開けた。急いで包んだのか、一応贈答の際に使う薄い布で形式通りに整えてはあるが、すぐにがさがさとした油紙があらわれる。
やはりそうか。
「何ですか、それは?」
ダフィットは怪訝そうに油紙をのぞきこむ。ダフィットが知っている「チョコレート」という高級菓子とは様相がかなり違うからだろう。それもそのはずだ。これは庶民が安価に楽しむための菓子である。
ラヴォートは油紙からのぞいている菓子の端を少し折り取って口に運ぶ。雑味のある甘さ、ナッツのわずかなえぐみ、干したフルーツの濃縮された酸味と甘味。大雑把でやかましい味だが、ラヴォートは子供の頃から高級な菓子よりもそういうものを好んでいた。猫の餌をありがたがって食べるのを馬鹿にできないかもしれない。
「他に何か言っていたか」
使用人はまた困ったように眉を下げる。今度はダフィットも不思議そうだ。あいつは誰にもこの菓子の由来を言っていないのか。
国を逃れて心身ともにボロボロになっていたシェイルにはじめて会ったとき、渡したのはこの菓子だった。いや、渡したのはオズバル・カウラニーを通してで、その後礼も何もなかったので、ラヴォート自身も忘れていた。だが、このタイミングでこの菓子を用意するということはあの日のことを覚えていて、あいつなりに何か思うところがあったのだろう。
ラヴォートは使用人に目を向けた。今度は何かと使用人が落ち着かない様子でラヴォートを見上げる。
「おい、あのクソガキを追い出しておけ。一刻後にまた来る」
そう言って、包みからまた少しチョコレートを取り口に運ぶ。最近は食べることもなかったが、やはり悪くない。背後ではダフィットが「仰せの通りにしろ」と使用人に指示する声が聞こえた。
「はい。その、少しばかり、急ですね」
困惑したような使用人の声がする。
「大丈夫だろう。殿下がいらっしゃって随分とはしゃいでいるご様子だったからな」
ラヴォートは思わず振り返った。
「はしゃいでいた? どこがだ?」
馬鹿にされたような気しかしなかったが。
「あの方は『にゃあ』とか言いませんよ。普段」
そういえばそうかもしれない。ラヴォートは思わず声をあげて笑ってしまった。




