第百七十三話 盛夏の逃げ水(38)
せっかくシェイルが会いたかった人に会えたというのに、何か騒がしい。城の方だ。
エリッツが目を向けると、軍人でも役人でもなさそうな、いうなればごく普通の街の人といった身なりの人々が数十人、城の方からやってくる。なぜそのような人々が城にいたのだろうか。違和感はそれだけではない。特に会話もせず、まっすぐこちらに向かってくる様子はある意味異様だ。怪我人や返り血を浴びている兵たちを見てもおびえたり、警戒している感じがない。騒いでいるのは周りの兵たちの方だ。「危険だから城に戻れ」などと口々に声をかけているが、その人々は聞き入れる様子がなかった。次第に兵たちのどよめきが大きくなる。
「あれは何の騒ぎだ」
アッシュグレン王子が近くにいた兵に聞くが、その兵もよくわからずに戸惑っていた。アッシュグレン王子に怯えている表情だ。
「す、すぐ確認してまいります」
兵は走ってその人々のところへ向かっていった。
「体調不良ゆえのミスなのか、元からわたしに片付けさせるつもりだったのか知りませんが……」
シェイルはため息とともにそうつぶやいた。あの人たちが何なのか心当たりがあるのだろうか。
やってくる人々の様子がよく見えてきた。先頭にいるのはくたびれた布をまとった老人だ。腰は少し曲がっているが、しっかりとした足取りで歩いてくる。帽子を深くかぶっていて表情はわからない。しわの多い口元が頑固そうに引き結ばれているのが見えた。
「アルヴィン、そのままエリッツをあっちの方へ連れて行ってください」
シェイルが城とは反対側のはるか後方を指さしている。
どういうことだろう?
事態を理解できずにかたまっているうちに、まだエリッツの背中にくっついていたアルヴィンは「はい」と、素早く反応した。
「え。やだやだ。せっかく会えたのに」
エリッツを引きずって行こうとするアルヴィンに抵抗してもがくが、案外がっちりとつかまえられている。しかしアルヴィンの方もエリッツの傷に触らないように気をつかってくれているのか、ほとんど動けていない。
「上官の命令には従うべきでしょ。きみ、怪我をしてるんだから」
「やだ。ここにいる」
「またそんな子供みたいなことを」
ぐだぐだと押し問答をやっていたところ、何か起こったのか、兵たちのざわめきが一気に高まった。
エリッツとアルヴィンが動きを止めてそちらを見ると、事態を確認に行った先ほどの兵が老人の足元に倒れている。
一気に周囲が殺気立った。
「何だ、お前たちは」
アッシュグレン王子が老人たちに近づこうとするが、それを総長が止めた。
「きみが行ってどうする。ガルシュエルが次期国王に指名してるんだ、自覚を持ちなよ」
それを合図にしたかのように、ライラと渓谷の一団がアッシュグレン王子を守る位置に立つ。それにならうように、アルメシエの兵たちも武器を構えた。
その人々は多くの兵に取り囲まれているにもかかわらずまったく動揺を見せない。
老人はまとっていた布をはぎとり、素早く隣にいた女性をつかまえる。老人とは思えない動きだ。女性の白い喉には刃物が突きつけられていた。
「グリディラン様!」
兵たちが各々驚愕したような声をあげる。その女性も他の人々と同じ地味な色の服を着ていた。老人にとらえられた衝撃で髪をまとめていた布が落ちて顔があらわになると、兵たちの声はさらに高くなる。
「王妃様!」
よく手入れされた赤みがかったブロンドはアッシュグレン王子のそれによく似ている。いくらか年配のようだが、ふっくらとやわらかそうな白い肌は、くたびれた地味な服とはあまりにも不釣り合いだ。あきらかに上流階級の女性である。
「帝印を出せ。王妃の命と交換だ」
老人からは意外にも力強い声が吐き出される。
「あいつら城の中にいたのか。アッシュレイア、お前の不手際ではないか!」
アッシュグレン王子はなぜかライラを怒鳴りつけた。ライラは何のことかわからないとでもいうように眉根を寄せて困った顔をしている。近くにいた兵がライラをかばうように間に入った。
「いえ、アシュレイア様は街の住人を城に避難させる際に身元の確認を徹底するよう指示されていました。あちらには内通者がいたものと考えられます」
他の兵たちも発言こそしないが、アッシュグレン王子に反抗的な視線を向けている。本当にあまり好かれていないようだ。さらに王子はそのような周りの様子に舌打ちなどをしている。結構根が深そうな問題だ。
とにかく偽物のアシュレイア王女の指示で街の人々を城の中に避難させたところ、その中にグリディランたちが紛れ込んでいたという状況だと理解できる。
「ママが怪我しちゃうから、帝印を渡した方がいいかい?」
総長が軽い調子で言いながらまた下着に手をつっこんでいる。まさか帝印も書状と一緒にそこに入れてあるのだろうか。
「だめよ。渡してはだめ」
王妃は憐れっぽい声をあげて制止している。
「だめって言ってるけど、どうする?」
総長はまるで他人事のようにいちいちアッシュグレン王子に確認する。とんでもない事態ではあるが、緊張感というものが欠落している総長のおかげなのか、むしろ落ち着いて周りが見えた。渓谷の一団もこの状況にあわてているメンバーは一人もいない。
「動くんじゃない」
グリディランらしき老人がさらに強く刃物を王妃に付きつける。その周りにいた人々も次々とくたびれた服を脱ぎ捨てた。下はアルメシエ軍の軍服を着ている。グリディランの配下であることを示すためなのか、みんな赤い竜の形の徽章を胸につけていた。
「武器を捨てろ」
総長はのんびりとした様子で空を見あげてから「王妃様のためだ。従おうか」と、ためらいなく長剣を放る。それにライラがならい、渓谷の一団、アルメシエの兵士たちも従う。エリッツもアルヴィンもそれにならった。波のように武器を放る音が辺りに続く。ふとエリッツは辺りを見渡した。
いつの間にかシェイルの姿が見えない。
「グレン、レイア、帝印持ってこっちへ来い」
グリディランは王妃と刃物をそのまま隣の兵に渡し、手招きをした。王妃はされるがままになっている。
「呼ばれてるよ」
総長が下着の中から小さな木の箱を取り出して、アッシュグレン王子に差し出した。帝印と思われるそれは想像していたよりもずっと小ぶりだ。エリッツが預かっているラヴォート殿下の支払承認印と同じくらいの大きさに見える。
アッシュグレン王子はかなり嫌そうにその箱を総長の手からつかみあげる。気持ちはわからなくもないが、あれほど欲しがっていたものを扱う手つきには見えない。
「そんなものがなくたって、民がついていった者が王だ」
総長がささやくと、アッシュグレン王子は深く眉根を寄せたが、もう怒鳴りはしなかった。グリディランの様子を見て何か感じるものがあったのかもしれない。
異国の人間であるエリッツの目から見てもグリディラン翁は醜悪であった。街の人間に扮し、女性を盾にして、孫くらいの歳の王子と王女の命を奪ってまで、形ばかりの帝印を手に入れようとしている。それでいったいどれくらい人々が彼についていくのだろうか。
「大丈夫だ」
総長がライラとアッシュグレン王子の肩をぽんぽんと適当に叩いて送り出す。エリッツにはグリディランが二人を殺す気満々に見えるのだが、総長がそう言うと不思議と大丈夫のような気がしてくる。
ライラもそう感じているようで、いつもとさして変わらぬ様子でうなずいた。ただアッシュグレン王子の方は母親を盾にされているせいなのか、先ほどまでの傲慢な態度はどこへやら、狼狽した表情を隠しもしない。指先が軽く震えているのがわかる。
「そこにひざまずけ」
グリディランが自身の足元を指した。「その子を殺さないで」と、隣で王妃が身を乗り出してすすり泣いている。
エリッツはなぜか違和感をおぼえた。理由はよくわからない。なんだかおかしい。変な感じだ。
無言のままライラがグリディランの前に膝をつき、アッシュグレン王子はまるで周りに救いでもあるかのようにきょろきょろと視線を走らせた後、観念したように膝をついた。
「王妃様、首にあんなに大きな刃物を当てられているのに、まったくそれを気にしてないみたいだね」
アルヴィンがエリッツの耳元でぽつりとつぶやいた。
それだ。




