第百七十二話 盛夏の逃げ水(37)
エリッツはその人物に飛びつこうとしたが、アルヴィンに後ろから取り押さえられてしまった。
「エリッツ、落ち着いて。今、大事な話をしてるんだから」
アルヴィンが子供にいい聞かせるような口調で言う。
アッシュグレン王子が「お前、毒見の……。まだいたのか」と、よくわからないつぶやきを漏らす。
毒見とは何の話だろう。毒の影響を受けにくい体質らしいがあまり危険なことはしないでほしい。
「この場が片付いたら帰ります。迎えも来ているようなので」
背後からそっとエリッツの肩に手を置いた。視界の端にシェイルのきれいな指先が見える。
なめたい。
シェイルがアッシュグレン王子の前に歩み出てくる。レジスの軍服に外套姿だ。普段見ない服装についつい目がいってしまう。いつもの事務官の制服もいいが、これもいい。好きだ。エリッツの高揚とはうらはらに、背中に張りついているアルヴィンの体は緊張したようにこわばった。
「側近はひとり片づけた」
アッシュグレン王子が不貞腐れたように言う。
「こちらで調査したところ素行が懸念される人物が他にもいるようです。後ほど調査報告書をお渡しします」
何かしら心当たりでもあるのか、アッシュグレン王子の顔が大きくゆがむ。
「そ、そんな異国の人間のいうことが信用できるか」
先ほどよりも動揺していた。やはり何か思い当たることがあるのだろう。この様子では日頃から周りに反感をかっているのが容易に想像できる。敵も多かろう。
「もちろん頭から信じてもらってはこちらも困ります。報告書を参考にわたしが不正な調査をした可能性も含めて、ご自身で再調査してください」
アッシュグレン王子は何かまた怒鳴ってやろうとでもしているかのように口をぱくぱくとさせているが、結局何もいえないようだ。
「はからずもレジス国王陛下に指示された仕事も終わりましたし、これでようやく帰れます」
そこでシェイルはちらりと総長を見た。
「アルメシエの内乱にロイの王族を名乗る胡散くさい人物がかかわっているから確認してこいとのことでしたが、本当にとんでもなく胡散くさいのがいたものですね」
シェイルが真顔で言っている。めずらしくかなり感情がこもっていた。悪い意味で。
「貴様、やはり偽の王族か!」
少しだけおとなしくなっていたアッシュグレン王子がまた総長に向かって大声を出す。
「非常に残念なお知らせですが、本物です。ロイのアルサフィア王の弟、ガルフィリオ・フィル・ロイットという人物で間違いありません。過去、外遊と称してアルメシエに頻繁に出入りし、国王と懇意にしていたという記録も確かなものでした。アルメシエ王を頼ってこの国に渡ってきたものと考えられます。後でご自身でも確認してください。それも報告書に資料を追加しておきます。胡散くさいには違いありませんが、遺言の信憑性は高いでしょうね」
シェイルの言葉にアッシュグレン王子は複雑な顔をする。もう誰を怒鳴りつければいいのかわからなくなったのだろう。そういえば、ガルフィリオという名前はどこかで聞いた覚えがあった。以前シェイルの口からきいた気がするが。
「ねぇねぇ、ちょっと、きみ。シェイラリオ君でしょ? あいさつもなしに言いたい放題じゃない?」
総長がシェイルの背中をつついているが、シェイルの方は完全に無視している。
「――以上をふまえて、アッシュグレン様、帝印を受けとってライラ様を補佐とされた方がよろしいんじゃないですか? みな王が国を立て直すのを待っているようです。いえ、今立て直さなければ取り返しがつかなくなりますよ」
総長がライラの服を引っ張って「全部持ってかれたけど?」と、小声で文句をいっている。
「しかし……」
ここまできても煮え切らない。優柔不断なエリッツが人のことをいえる立場ではないが、他に選択肢がないこの状況で、何がひっかかっているのだろうか。
「しかし、母が……」
アッシュグレン王子はかろうじて聞きとれるほどの小さな声つぶやいた。「母」というとアルメシエ王妃のことだろうか。これまでの話題にはまったく出なかったが、立場的に渦中にあるといっても差し支えないだろう。
「もしかしてママの許可がいるのか?」
総長がまたライラの服を引っ張っていた。
「いちいち茶々入れるのやめてください」
叱られている。
「わかりました。今ここで決める必要はないでしょう。お渡しする資料をよくご覧になって最善の決断をしてください」
少し含みのある言い方だ。もしかしてこの事態の裏に王妃が何か関係しているのだろうか。
「マザコンはマザコンに甘いな」
また総長がコメントをさしはさむ。シェイルはちらりと総長をふり返ってしまったが、かろうじて無視した。他の人は気づかないかもしれないがちょっと怒っている。
「わたしの仕事はこれで終わりです。報告書を渡したら帰りましょう。調査は間諜たちの仕事だったんですけど、体調不良で出遅れた人がいたので巻き込まれてしまいました」
シェイルがエリッツをふり返って困ったように微笑んでいる。ようやく一緒に帰れるようで、うれしさに体が浮き上がるような気持ちだ。だがそこではっと我にかえった。
「アルヴィン、あと何日? おれたちがレジス出てどれくらい経ってる?」
「期限はあと三日じゃないかな」
アルヴィンはまだエリッツを背後からつかまえている。もう話は済んだはずだが。
「よかった。それならまだ間に合う」
何だかいろいろとあり過ぎてもっと時間が経っていたような気がしていたが、あと三日であればなんとか戻れる。ラヴォート殿下もきっと心配しているだろうし、早く帰らなければ。
「あなた、アルヴィンですか? 大きくなりましたね」
シェイルが目を細めて後ろのアルヴィンを見ている。ずるい。こっちも見てほしい。いや、今怪我はしているし、汚い格好をしているから、あまり見ないでほしいかもしれない。
「はい、えっと、おかげさまで。あの、僕のことはいいので……早くレジスに戻らないと」
アルヴィンはまだ緊張しているのか、ややうわずった声でいう。
「ねぇ、ちょっと無視しないでよ。シェイラリオ君?」
シェイルは少し嫌そうな目で総長に目をやる。
「大きくなったなあ。母ちゃんそっくりだ。すぐわかったよ。しかしめちゃくちゃ殴って沼に投げ捨てたから死んだと思ってた」
総長がわざわざシェイルの真ん前に立った。無視できない近さだ。しんと周りが静まり返る。確かに並んで立つともしかして親族だろうかと思うくらいには似ているのかもしれない。
「殴って沼に捨てるって……」
ライラが絶句している。
そういえばどこかで聞いた話だ。たしかシェイルの叔父にあたる人で、帝国の第四師団に討たれたと聞いていた気がする。この人の方こそ生きているのが不思議ではないのか。
「聞こえてる?」
総長はわざわざロイの言葉を使った。それにともなってのことなのか、少しばかり声色がかわる。心なしかやわらかい。
「ちゃんとあの沼まで迎えに行ったんだよ。いろいろあって、かなり遅くはなったんだけど。でもお前、もういなかったな」
「遅くというのはどれくらいですか」
シェイルは怒っているような、途方に暮れているような複雑な表情をしている。
そうだった。シェイルはこのガルフィリオという人が死んだと聞いてものすごく動揺していたのだ。
「季節が一巡りくらいしたころかな。いや、ちょっと待って。わかるよな? すっかり敵に囲まれて動けなくなって、あと……いや、ちょっと詳しい事情はまだ勘弁してほしいんだけど、俺は死んだことになってしまった」
――ということは、誰かが総長の身代わりとして帝国の第四師団に討たれたのかもしれない。おそらくは総長を慕っていたというロイの兵たちが結託してそのような状況にもっていったのではないか。第四師団はフィル・ロイットの一族を生け取りにしろと命じられていたため、ガルフィリオを殺害してしまったと思いあわてて隠蔽しようとしていたはずだ。確認がおろそかになっていても不思議ではない。
陽気なだけが取り柄というくらいの総長が見たこともないくらいにしゅんとうなだれていた。
「季節が一巡り、ですか……待っていればよかったのですね」
シェイルがぽつりとつぶやいた。
 




