第百六十九話 盛夏の逃げ水(34)
シェイルのことを「クソガキ」呼ばわりするのは昔シェイルに出会っていた人々だ。エリッツの知る限りではラインデル帝国のグランディアス総督がいる。顔を見るまでわからないが水竜を掘っていたのがシェイルだとしたら総長はシェイルが子供の頃を知っていて、何かしら因縁があるのだろう。
「ねぇ、水竜を出した人はこっちの会話が聞こえてるの?」
さっきからの水竜の動きはこちらの様子がわかってるかのように見える。
「人によるけど術を介して聞こえたり見えたりする人もいるよ。術を制御するための術脈の感覚があるからね。この水竜は見えているし聞こえているみたいだ」
ピンポイントで総長をずぶ濡れにしたのだから、かなり正確にこちらの位置を把握できているのかもしれない。術士というのは知れば知るほどすごい能力を持っている。
エリッツがぼんやりと感心していると、目の前をさっと総長が駆け抜けた。知らないうちに長剣を抜き水竜に斬りかかる。速い。――とはいえ、相手は水だ。
無茶だろうと思っていたが、意外にも斬りつけられた水竜の体からもうもうと湯気が立ちのぼり、まるで傷を負ったかのように輪郭が曖昧になってしまう。だが水竜の体があまりにも大きいのでそれでどうにかなる様子はない。すぐに光をたたえた美しい体が再生される。
「斬りつけると同時に炎式をつかったんだね。ダメージになってる感じじゃないけど」
隣でアルヴィンが淡々と解説してくれる。
「総長、やめてください。遊んでいる暇はないですよ」
ライラはあきれたような表情だ。
「アルメシエの象徴をいきなり斬りつけないでよ」
栗色の髪の女性も困った顔をしている。
「アレが先に喧嘩を売ってきたんだよ」
それに対して総長は不服そうに子供じみたいいわけをする。
渓谷の一団はおもしろいことがはじまったと言わんばかりに水竜から距離をとって観察する体制に入っていた。グリディラン軍の兵たちもおびえつつ遠巻きに見ている。
「しょうがない人だね」
ローガンのため息も聞こえた。
「あんなもん倒せるのか」
「私には想像できないな」
ザディスとリューダがやはり見物といったていで会話している。
そんな具合に見せ物になっている状況で総長はこりずに水竜を斬りつけた。やはりスピードはあるが、結果は先ほどと変わらない。斬りつけた勢いのまま体を反転させて風式と思われる術を水竜の頭部をめがけて放つ。穿孔風式とは違ってナイフを放ったような術だ。水竜の頭部の一部がすっぱりと切られてぱしゃりと地面に落下する。水はすぐに乾燥した地面にしみこんで消えていった。
これはさすがにダメージではないのかと思っていたが、水竜の体は水でできている。すぐにまた頭部は同じような形に形成されて総長を威嚇するように咆哮をあげた。これではほぼ無敵ではないのか。水は切っても切っても水である。
「こういう術はほとんど見ないけど、もし対抗する方法があるとすれば術者の方を何とかするべきかな。少なくとも術者は生身の人間のはずだからね」
アルヴィンが所感を述べると「俺もそう思う」と、黒髪の術士がうなずいた。
どうやら術士というのはあまり見慣れない術を見るとあれこれ考察したくなるようで、いつの間にか周りの術士たちも観察しながらあーでもない、こーでもないと話をしていた。
「そもそもあれの正体が地下水脈だとしたらどれだけダメージを与えても無駄なんじゃないかな。ダメージを受けた分どんどん地下から引っぱり出せばいいんだし」
「術者の引っぱり出す体力が尽きたら終わりじゃないか」
「そうだとしても術者のいどころがわかるならそっちを対処した方が効率的でしょ」
「それは同意するが、今後、術者のいどころがわからないというパターンの存在も考えられるよな」
「炎式でちまちまと蒸発させるのか?」
「大人数でそれをやればあるいは」
「そもそも炎式しか効かないんだろうか」
グリディランの軍も関係なく集まって議論は白熱している。まったく理解はできないが、あんなにおもしろそうに議論されるとエリッツも興味がでてくる。後でアルヴィンにどういうことなのか教えてもらおう。
水竜の方は積極的に攻撃するつもりはなさそうだが、かといって黙って斬られているわけでもない。
咆哮をあげたついでに総長に向かって水のつぶてを吐きだしたりして反撃をしている。ただ水を吐くだけではなく、おそらく風式との混合術式のようなものだろう。遠隔でそういうこともできるのか。勢いよく水をぶつけられると、場合によっては深い傷を負うことをエリッツは身をもって知っている。左腕の傷がうずくように痛んだ。
エリッツが術士たちの集団をふりかえると案の定、先ほどの水竜の攻撃についてわいわいと盛りあがっている。
総長は身軽にその水のつぶてをすべて避けると、その勢いのまま今度は水竜の体に左腕を突っこんですぐに引き抜いた。本人は腕を抜いた勢いで地面をころがっている。何をしたのだろう。小さな光を見た気がしたが、水竜の動きに変化はない。
「雷式だね。これは全然ダメだ。効かなかったね」
「やはり即決着をつけたいなら術者を討つしか方法がないんだろうな」
アルヴィンと黒髪の術士がすっかり解説を担当するノリになっている。
「ちょっともう、いい加減にしてよ」
ライラには術士たちがおもしろがっている理由がわからないのだろう。城の方角を見て大きなため息をついている。
そういえば水竜にすっかり気を取られていたが、作戦はどうなったのだろう。グリディラン軍は最後尾の数十名を残し、城の方へと逃げていってしまった。
作戦が予定通りに進んでいれば囲いこみがはじまっている頃合いだろうか。
「ねぇねぇ、ちょっと見物してないでここに本人連れてきてよ」
総長も埒が明かないことに気づいているようで、水竜の吐いた水を器用に避けつつ黒髪の術士に言い放つ。
「自分で行ってきたらいいんじゃないのか」
黒髪の術士はちょっと面倒くさそうである。
「あのね、あいつは俺の言うことは聞かないの」
このセリフはいろんな人から何度も聞いた。殿下やオズバル・カウラニーがよくいうセリフだ。このセリフが出るとなると、エリッツの経験上シェイルと総長はかなり親しかったと考えられる。昔、ロイで何かあったのだろうか。
「あの方はエリッツのお願いなら聞いてくれるよ」
隣でアルヴィンがとんでもないことを言っている。
「ちょっとそんなわけないでしょ。変なこと言わないでよ」
エリッツがあわてて否定をしているにもかかわらず、総長は前のめりで「本当か?」とこっちに詰めよってくる。
「アレのこと知ってるのか?」
「いや、あの、たぶんですけど、おれの探していた人、なんじゃないかなーっと」
「あ、レジスから来たロイって、アレか!」
総長は始終アレ呼ばわりである。
「え? 今、レジスの要人とかなの? なんで?」
「く、詳しくは話せません」
エリッツは何か余計なことをいってしまいそうであわてて口をつぐんだ。
「それできみのいうことは聞くの? アレは。ちょっとここに連れてきてくれないかな」
「それは違います。アルヴィンの勘違いです」
そんなやりとりをしている中、その場が大きくざわめきだした。何ごとだろうと辺りを見渡し、エリッツはある人物をみとめて何度もまばたきをした。
これが水竜の存在すらかすませるほどの事態というやつだ。
大きなどよめきの後しばらくして、しんと静まり返る。目の前の総長もぽかんとした表情でそちらを見ていた。その隙をついたつもりなのか水竜がまた吐いた。総長は大量の水をしたたらせながら舌打ちをしたものの、意識は現れた人物の方に釘付けになっている。
ライラだ。ライラが二人いる。




