第百六十五話 盛夏の逃げ水(30)
相変わらず二人はひそひそとこちらを見ながら相談をしている。リューダは鷹揚にかまえているが、あまり遅くなると作戦に支障が出るのではないだろうか。総長たちはすでにグリディラン軍とぶつかっている頃合いだ。
「――いや、この中にはいない」
「でも、話によると……」
「顔はわかるのか?」
「いや、断片的な特徴しか……」
漏れ聞こえてくる会話では誰かを探しているようである。エリッツはまた遠眼鏡でこの人たちをのぞいて動揺していた総長のことを思い出す。この人たちはもしかして総長のことを追っているのではないだろうか。総長が公的な組織に追われているという構図はえらく腑に落ちるものがある。
「誰を探しているんだろう」
エリッツは意見を聞きたくてアルヴィンをつつく。
「さあね。あのいかがわしいおじさんじゃないの?」
いかがわしいおじさん――。
誰のことかとしばらく考えてしまったが、どうやらエリッツと同じ見解のようである。
「黒髪の人、あのレジスの軍人だけだね」
栗色の髪の女性がつま先立ちをしてモリンたちが待っている辺りを眺めている。
「他にも仲間がいるんじゃないか。ちょっと聞いてみろよ」
「なんで? あんたが聞いてよ」
ひそひそ声だった相談が徐々に熱を帯びてくる。黒髪の人を探しているとなるといよいよ総長が疑わしい。
「誰かを探しているのか? 事情によっては情報を提供できるかもしれない」
見かねてリューダが声をかけるが、二人は顔を見合わせて戸惑っている。この二人では埒が明かない。
「先に作戦の方を実行した方がいいんじゃないのかな」
小声ながらもエリッツが意見を述べる。すると二人はますます困った顔をして焦りだす。「そうだ。急がないと」「でも、いいのかな。だってさ……」と、もはや声がひそめられてすらいない。
「きみたちの上官はどこにいるの?」
アルヴィンが焦れたように聞くと、黒髪の青年が「ここは俺が任されている」と胸を張った。こんな状態で胸を張れるのはすごいなと、エリッツは自分のことを棚にあげて思ってしまう。アルヴィンはあきれるのを通り越してしまったのか真顔になっていた。
「わかった。それであなたの判断は? 探している人物なのかはわからないが、仲間には黒髪の人間も何人かいる。グリディラン軍を撃退した後、人探しを手伝えるかもしれない」
リューダも言いそえるが、それでも黒髪の青年は煮え切らない様子だ。エリッツたちの集団を信頼してもいいのかどうか。もし逆の立場だったらと考えると難しい判断であるのは確かだ。エリッツたちがグリディラン軍側の罠だという可能性が捨てきれない。
「行こう。もう時間がないよ。この人たちが嘘をついているようには見えない」
栗色の髪の女性が黒髪の青年の腕をひっぱる。
「けど、もし……」
それでもまだ迷っている表情をしている黒髪の青年に女性は「急がないと水竜が」と口にし、あわてて口元を隠す。
水竜? ――とは、なんだろう。
「ばかやろう。軽々しく作戦を口にするな」
「あんたも今『作戦』とか言ったじゃん」
「おまえが先に……」
しばらく二人の言い争いを眺めるはめになった。壊滅的に軍人には向いていない。術士の才があるというだけで、重用されてしまうというのはこういう事態もあり得るという例を見ているようだ。ふと、機密情報がだだ漏れだと悪名高い術士、アルマ・ボードウィンのことを思い出した。彼は元気にしているだろうか。久々に会いたい。
だがおかげでこの術士たちの集団が、グリディラン軍を追いこむだけの作戦を遂行しているわけではないことが分かった。やはり彼らの集団はエリッツたちと同様に二手に分かれている。渓谷にまだ術兵がいるのだ。いや、もしかしたらそっちの方が本隊なのかもしれない。言ったら悪いのかもしれないが、グリディラン軍を追い込むという単純作業はこの二人に任せても問題ないと判断されたのかもしれない。渓谷に残っている隊はもっと別の重要で複雑な作戦を遂行しようとしている。それが「水竜」という何かなのだろう。
「とにかく行こう。こちらも時間がない。グリディラン軍を門の方へ追いこむだけならすぐに終わる」
さすがのリューダもしびれを切らしたのか、背後にいるメンバーたちに向かって手をあげる。話し合いに蹴りがついたという意味だろう。
「バカにするな。そんな単純な作戦じゃない。俺たちはそれに加えて子うさぎを……」
「え、何? ちょっと! あんたバカなの?」
栗色の髪の女性が思いきり黒髪の青年の背中を叩く。どうやら機密情報の二つ目が漏れたらしい。エリッツの場合、表情で秘密がバレるが、この二人は言葉に出してしまっているのでより質が悪いのではないか。やはり自分のことを棚にあげてエリッツは思った。
さて「水竜」の次は「子うさぎ」だ。しかし聞いても結局何なのかはわからない。
「何かの符牒かな」
隣でアルヴィンも首をかしげている。
「心配するな。何も聞かなかったことにする。私たちの目的はグリディラン軍を打ち倒すことだ。後は知らない」
もはやタイムオーバーだ。リューダは背後から駆け寄ってくる仲間たちに出撃の合図を送る。
「エリッツ、きみはまた最後尾だよ」
アルヴィンがいつも通り危なっかしい様子で馬にまたがっている。
「わかってるよ」
三十人程度の隊であれば最後尾でも前方はよく見える。さほど問題はない。
「どうする? 私についてくるかい?」
リューダはあたふたと焦っている二人に馬上から声をかける。どちらが主導権を握っているのかもはや明白だ。
「――手を、組まないこともない」
黒髪の青年がつぶやくようにいうと、栗色の髪の女性が「急ごう!」と、背後の仲間たちに合図を送った。
こちらの動きを見て、やきもきしていたのだろう。あちら側で控えていた術兵たちがあわてた様子で駆けつけて来る。草地に隠れて移動するためだろう。騎馬ではない。
そんなわけで総勢五十ほどの即席の隊が出来あがった。騎兵と歩兵である。スピードは望めない。だがどうせ目標はすぐそこだ。術兵の攻撃手法をかんがみるに、さして大きな問題ではないだろう。
エリッツだけが術士ではない。後ろからついていくだけだ。これならば怪我をしていてもあまり邪魔にはならないだろう。最初から戦力外も同然だ。エリッツにまで敵が迫ってくる事態になるのはこの隊が全滅するときということになる。もちろんそうなる前にやれることはやるつもりだが。
ある意味難航したもののエリッツたちの任務はとりあえず予定通り進んでいる。このまま総長たちと合流し、グリディラン軍を旧アルメシエ軍が広く展開している門の方へと押してゆく。
ここから見るとその作戦がかなりよくできていることに気づかされる。戦場は砂ぼこりが舞いあがり、前が見えづらい。エリッツにも旧アルメシエ軍が門前に展開している様子などまったく目視できなかった。しかし背後から術兵に追い立てられれば、逆に罠だと気づかれるおそれがあるのではないか。この距離であれば気づいた頃にはもう手遅れというやつかもしれない。
前方でリューダが例の二人に渓谷の一団の存在や今回のこちら側の作戦を説明している声が途切れ途切れに聞こえる。
しばらくするとアルヴィンがエリッツの方へやってきた。
「総長と合流したら、僕たちは前に出るけどきみは最後尾だからね」
わざわざそんなことを言いに来たようだ。結構しつこい。ライラといい、よほどエリッツが危なっかしく見えるらしい。
「わかってるよ」
いわれなくとも馬に乗っているだけで傷に響いて痛いのだ。アルヴィンのことは気になるが、他の隊員のことも考えれば仕方がない。出しゃばっても邪魔になることは自覚している。
「ところで水竜とか子うさぎとか、何のことだと思う?」
気になるのはあの二人が漏らした作戦のことである。こちらに大きな影響がないといいのだが。
「僕たちにはたぶん関係ないよ」
アルヴィンはちらりと渓谷をふり返る。「関係ない」と言いつつも、何かを思案するような顔で自分の左手を見つめ、開いたり閉じたりをしている。馬が苦手なのに危なっかしい。
「何か気がかりなの?」
歩兵に合わせ並足と速足の間くらいだが、馬の駆ける中では聞こえづらい。エリッツは自然に大きな声を出す。
すでに総長たちであろう一団の背は見えていた。もう合流する。
「水竜で連想できることをちょっと思いついたんだけど……いや、まさかな。重すぎる。そんなことできるわけが……」
言いながら、また渓谷の方をふり返っては首をかしげている。
「重いって? アルヴィン、ちゃんと前見てよ」
「わかってる。きみは術士じゃないからわからないと思うけど、術素には重さがある。動かせる術素と相当力がないと動かせない術素っていうのがあるんだ。今は時間がないからこれはまた今度教えてあげるよ」
そう言って手綱を操ると、馬を前に出す。総長たちと合流したのだ。見知った顔が何人もこちらを見て少し笑ったような表情を見せる。つい昨日会ったばかりの寄せ集めの集団なのにすでに「仲間」という感じがするのが不思議だ。
「エリッツ、ちゃんとここにいるんだよ」
アルヴィンはまたそういって駆けていってしまった。本当にしつこい。




