第百六十四話 盛夏の逃げ水(29)
目の前の光景を信じることができない。兵たちの士気は異様に高く、作戦は問題なく順調に遂行されてゆく。あの小娘、どうやってそのようなすべを得たのか。考えたくないが天性のものかもしれない。戦場に立つ機会が多かったはずはないのだが、指揮官然とした態度は堂々としており、状況におびえた様子は一切なかった。
総指揮官として戦地に赴いたものの指揮権はほぼあの小娘にあるといっても過言ではない。言葉巧みに総指揮官の指示という形にしているのが小賢しい。こちらが気づいていないとでも思っているのだろうか。いや、気づいていてもどうでもいいと思っているのかもしれない。
「総指揮官、このまま敵をデルフ門へ誘導してトラン指揮官、ザッハル指揮官の部隊に囲いこませるのが定石かと思いますかこのまま続行でよろしいですか」
そんな定石があるか。ここで定石といったら籠城に決まっている。「よろしいですか」も何も、囲いこませるつもりですべて配置済みではないか。兵たちの様子を見てもすっかりその気になっているのがわかる。
しかも悔しいことにすべてがうまくいっていた。どうやらこちらが籠城するものと決めつけていたグリディラン軍は意表をつかれ大きな損害を出したようだ。それを挽回しようと躍起になっているのだろう。誘いこまれていることに気づいている様子はない。
「うむ。このまま作戦を続行しろ」
こう言うしかない。アシュレイアはまた小さくほほえんでから器用に手綱をあやつる。馬の扱いも手慣れたものだ。
「総指揮官の指示だ。気づかれないよう少しずつ退がってデルフ門へ誘え! 最前線まで伝えろ。『野うさぎ、撤退!』」
符牒である。
どこまでも準備万端だ。「野うさぎ」は作戦の続行を意味する。その他、作戦中止、指示を待て、全軍退避など、どんなアホでも覚えられるような「丸パン」「ほたる石」などの関連性のない言葉に意味を持たせた符牒をいくつかつくり周知させていた。「撤退」という言葉はフェイクである。グリディラン軍はこちらを追い詰めていると勘違いするだろう。その実罠にかけられているのだから巧妙である。
「総指揮官!」
今度はなんだ。
「囲いこみに気づかれたら逃げられてしまいます。背後から術士らに追いこみをさせてはどうかと思いますが、いかがでしょう」
「な、なんだと?」
追い払えればそれで十分ではないか。なぜ退路をふさぐのか。
「逃げられては元も子もありません。ここは殲滅一択です。反逆の意思をわずかでも抱いた者がこちらに戻っても、また繰り返すおそれがあります。今後のために兄さんに逆らった人間はきれいに片付けるべきです。あたしが兄さんにグリディランの首を献上しますよ。目の前で首を落としてご覧に入れますから」
まるで自分が贈ったプレゼントを開けてもらうのが待ちきれないというような無邪気な笑顔にぞっとする。
悪鬼、という言葉が浮かんだ。無邪気さにひそむ狂気じみた目の輝きを正視できない。これが妹とは思えなくなっていた。情けないことにアシュレイアに対抗する気力がしぼんでゆく。この娘、戦狂いの飢えた獣だ。
書庫で死んでいた暗殺者たちが脳裏に浮かぶ。もしやあれはアシュレイア自ら殺したのではないだろうか。そうだったとしてももはや驚かない。
「術士をどうやって……」
「はい。作戦には万全を期していますが、万が一ほころびが生じても立て直せるように、術士の一隊を昨夜のうちに渓谷に待機させています。渓谷ぞいから背後に回りこませて一人も漏らさず狩りましょう」
嘘だ。
最初からグリディランたちの背中を狙うつもりで術士を配置していたに違いない。アシュレイアがこちらの様子をうかがうように見ている。まるで獲物の動きをとらえようとする野生動物のようだ。
「うむ。ではそうしよう」
そう答えるしか仕方がない。おそろしかった。
「さすがです。総指揮官」
急に若い娘らしい笑顔をつくる。いったい狙いはなんなのだ。これは危険だ。危険すぎる。こんなおそろしい娘が国政に関わることがあってはならない。
「兄さん、渓谷で待機している術士たちへの伝令を指示した後、あたしはどうしたらいいですか」
アシュレイアは急に猫撫で声を出す。ここまですべて勝手にやってきたくせに、今度はいったい何を企んでいる。危険な最前線に立つつもりはないお飾りだけ甲冑の下に嫌な汗が流れているのを感じる。
「アッシュグレン様……」
隣に控えている一人の術士が意味ありげにこちらに視線を向ける。
そうだった。事故に見せかけてアシュレイアを始末しなければ。自分は何を圧倒されていたのか。いやしい血筋の女が粗暴な作戦をたて、残虐な発想をするのは当然のことだ。
「最前線へ。兵たちの士気をあげてやれ」
アシュレイアはパッと顔を輝かせる。手の込んだ菓子を贈られた娘のような顔だ。
「ご期待にそえるようにがんばります」
そばにいた兵に「渓谷の待機兵に至急伝令を」と言いながら何かを手渡している。
「アシュレイア、それは何だ?」
ゆっくりとアシュレイアがふり返る。
「兄さん? 何ですか?」
「今、伝令に何を渡した?」
またアシュレイアは目を閉じる。都合が悪いことがあるとじっくりと間を置く癖がある。おもむろに伝令の兵から渡したものを返してもらう。それはアシュレイアの動きに合わせて鋭い光を返した。
「これです。レジスの客人から受け取りました」
つまみあげたものは細身のヒルトリングであった。別段隠すようなものでもない。レジス人から物を受けとったことを報告せず、後ろめたく思っているのか。いや、そんなまともな娘ではない。
「レジスの最新式です。追いこみをする術兵に渡せば高い効果が得られるかと」
これも嘘だ。何かを隠している。
「見せろ」
「ヒルトリングにお詳しいのですか?」
「いいから見せろ」
アシュレイアは無言でこちらへリングを放る。それは放物線を描いて輝きながら手のひらにおさまった。つまみあげてよく見るが別段不審な点はない。強いていえばアルメシエ軍の使用しているものよりも薄く繊細だ。他国に贈る品としてはシンプル過ぎる意匠である。アシュレイアが最新式だというのだから実用性を重視した品なのかもしれない。そもそもヒルトリングの仕組みすらよくわからなかった。
釈然としないが、ただ見ていても仕方がない。何気ない顔をつくってリングをアシュレイアに投げかえす。
それを受け取り、伝令に渡しながら小声で「北の狼に指輪を。野うさぎを追い、水竜をけしかけろ」と指示を出した。
「作戦続行」の符牒以外……聞いていない。この娘やはりまだ何かをたくらんでいる。指輪はヒルトリングのことだろう。他はまったく連想ができない。だか伝令の兵は心得たような表情でうなずいている。
「それから『子うさぎを見つけて走らせろ』そう言え」
それには伝令も少し考えるような顔をする。
「大丈夫だ。そのまま伝えろ」
アシュレイアがそう言いそえると、その表情から迷いは消え、すぐさま馬で駆けだした。
先ほどのヒルトリングの件もあったので、わざわざ何の符牒なのかと聞くのも業腹だ。だが作戦続行ということは、やはりはじめからすべて指示してあったということではないか。
「では、行ってまいります」
アシュレイアは水を得た魚のように最前線へ向かおうと馬首をめぐらせた。
「アシュレイア様、お供します!」
「私も!」
数人の兵が後に続こうとする。
「お前たちは持ち場を守れ。『野うさぎ、撤退』だろう。最前線に行っても退くだけだ」
アシュレイアが笑いを含んだ声で叫ぶと、辺りは戦場らしからぬなごやかな笑いにつつまれた。
何だこの茶番は。
 




