第百六十一話 盛夏の逃げ水(26)
「これはどういうことだ」
アシュレイアをつかまえようと城内を走っていると、そこかしこが身なりの粗末な人々であふれかえっていた。何が起こっているのか。見たところ官僚や役人ではなくあきらかに庶民だ。
この城は歴史ある建物だが、手入れが行きとどき細部まで輝くばかりに美しいものだった。だがいまは白を基調としたホールも庭園同様に荒れている。目立つ調度品類はどこへいったのか、取り払われて代わりのようにごみごみと人々がたむろしていた。繊細なレリーフがほどこされた柱の根元はさながら浮浪者がスラム街に寄り集まっているようで嫌悪感をおぼえる。
さらにホールから出ると、遠くに見える城門は大きく開かれている。アルメシエ軍は市街にまで展開しているようだ。兵たちはみなあわただしくしているものの、規律のとれた動きで物資や武器を運んだり、声をかけ合って窓や柱を補強したりしている。てっきり籠城戦かと思っていたが、前線はさらに市街の外であるらしい。
自分に何の断りもなく勝手な真似をしている。アシュレイアが傍若無人なふるまいをするのは予測できたが、指示を聞く方も聞く方だ。怒りのままに怒鳴り散らすのは堪えよう考えていたが限界だ。
「どうなっているんだ! 誰の指示で動いている」
近くにいた兵の胸ぐらをつかみ問い詰める。
「ひっ、アッシュグレン様?」
兵は怯えたように顔を強張らせ、周りに助けを求めるような視線を送る。誰もが怯えたように見ているだけだと知ると、諦めたようにとつとつと報告をはじめた。
「あ、アシュレイア様の指示で、昨夜のうちに市街にいた人々は避難し、行き場所のない人々は城内に集めています。現在、敵はデルフ門より南西で我が軍と衝突し戦闘状態。市街戦になった場合、街の復旧にとてつもない資金と時間がかかるという判断で……」
「そんなことはわかっている! アシュレイアをここへ呼べ」
そのとき周りが大きくどよめいた。物資を運んでいた兵たちがさっと左右に割れる。
「アシュレイア様……」
誰かのつぶやくような声に一気に怒りが増す。この場で叩き切ってやろうか。ところが兵たちの間から現れたアシュレイアはこちらに気づくとパッとほほえんだ。
「兄さん? もう起きても大丈夫なんですか?」
これがアシュレイアか。声を聞いたときも感じた違和感がまたおそってくる。やはりまだ思い出せない。
目の前には髪を短く切りそろえた若い女が立っている。女性らしく着飾るでもない素朴な姿だ。兵たちと同じアルメシエ軍の軍服をなんなく着こなしている。腰にはアルメシエ軍のものではない長剣をはいているが、軍靴も装備もすべて軍支給の男ものだ。叩き上げのエリート軍人といったたたずまいである。忌々しいことに周りの敬うような態度でそれなりの人物であるように見える。
「兄さん、いえ――アッシュグレン様、報告します。現在、前線はガーヤム指揮官にまかせています。物資を運ぶ指示を終えたら私も前線に向かいます。今のところは優勢です。敵もまさか籠城せず迎え討ってくるとは思わなかったようで、まだ暗いうちにうまく隙をつくことができました。あと、デルフ門は閉ざしその前をトラン指揮官、ザッハル指揮官に守らせています。万が一の場合は籠城できるよう今準備もすすめており、市街には……」
「誰の指示だ?」
静かにすごむが、アシュレイアは少しのあいだ目を閉じ、そしてまたこちらを見てほほえんだ。
「あたしがアッシュグレン様の代理で指示をしました。兄さんが戻った今、あたしも兄さんの指揮下にあります。どうぞ、ご命令を」
また頭に血がのぼる。その笑顔は絶対的な自信。自分なしにこの戦に勝つことはできないだろうという傲慢さが透けて見える。いやしい血の流れる育ちの悪い小娘だ。だが今はひとまず落ち着かなければならない。
「その前にお前と一緒にいたというロイの王族とやらはどこへ行った」
すっとアシュレイアの顔から笑みが消えた、ように見えた。少し考えるような仕草をしてからゆっくりと首をふる。
「避難しているはずですが詳細はわかりません」
「――帝印は、どこにある」
アシュレイアは答えを考えるようにまたいっとき目を閉じる。
「あたしは持っていません」
「どこにあるのかと聞いているんだ」
「そんな大切なものの在処をあたしが知っているとでも?」
思い切り舌打ちがもれた。やはり侮れない娘だ。こちらの考えていることがある程度わかっている。従順なふりをしてこちらの警戒をとき背後から襲ってくる算段かもしれない。
「わかった。もう代理はいい。安全な城内で炊き出しでもやってろ」
ざわりと、周囲がどよめいた。成り行きを見守っていた兵たちが何か言いたげにこちらを見ている。その目にはこちらを蔑むような色すら混じっていた。
「何か意見があるのか」
すごむが連中は余計に不信感を募らせたような様子でこちらを見ている。
「言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ?」
多くの兵がじりじりと下がる中ひとりの兵が一歩進み出る。
「恐れながら今は敵を倒すことを優先した方がよろしいかと存じます。アシュレイア様を城内に下げるとなると士気が下がりかねません」
怒りで目の前が真っ白になる。まだ武装していなかったのが不幸中の幸いだ。剣を持っていたら反射的に切り捨てていただろう。そんなことをすればもう挽回しようのないほど信用を失う。多くの人々の尊敬と親しみを集めた父の姿を思い浮かべ歯を食いしばって耐えた。
しかしアシュレイアはいつの間に兵たちを手なづけていたのか。いや、自分が長く寝込みすぎたのか。
「なるほど。わかった。では前線でいいだろう。準備をしてくる。しばらく待て」
前線での不慮の事故で死んでもらうしかない。戦闘の混乱の中の同士討ちはよくある事故だ。身内の術士に指示をしておけば簡単なことである。しかしあのような侮辱によく耐えたものだと自分を褒め称えたくなった。
装備を手配するためにイレートを呼びつけようとしてもういないことを思い出す。本当にくだらないことをしてくれた。また意識せずに舌打ちが出る。
「アッシュグレン様!」
そこへ慌てた様子の兵が走り寄ってくる。よく知る身内の兵だ。ちょうどよかった。装備の手配を指示しようと思ったが、兵の様子がおかしい。青い顔をして震えているような具合である。
「た、た、大変です」
「落ち着け。何があった?」
「はい。あの、こちらへ」
小声で辺りを気にするようなそぶりを見せる。
「戦の最中だ。急ぎなのか」
「――昨夜の件です」
ことさら声をひそめる様子に例の暗殺の件だと察しが付く。
「わかった」
頷いて小走りの兵に続き地下へ降りてゆく。城に地下室はいくつかある。食糧などの貯蔵庫や書庫、果実酒や薬品の保存庫などであるが、兵が向かったのは書庫であった。この混乱の中で書庫に用のある者はいないだろう。つまり人目に付かない場所だといえる。
「ここに何があるというのだ」
ひやりとした書庫の空気にわずかにぞっとする。
「ご覧いただいた方が早いかと――」
周りには人がいないため兵は普段通りの声であるが、その表情はひどくかたい。
「こちらです」
普段紙のにおいに満ちている書庫にわずかに血の臭いがただよっている。兵が指す方を見ると、灯りに照らされて二人の人物が折り重なるように倒れているのが見えた。この二人は自分がアシュレイアの暗殺を指示した身内の者である。報告がないと思っていたが返り討ちにあっていたとは。
「急所を一突きです。普通の人間の技じゃありません」
まさか。きちんとした暗殺の腕をもった連中だった。そう簡単にやられるとは考えにくい。
よく見てみるとここで殺されたものではないらしい。わずかだがひきずられたような形跡もある。遺体を運ぶことを考えて出血を抑えた殺害方法を選んでいるようだ。
おそらくこの二人は指示通り深夜アシュレイアのいる部屋に忍びこんだはずだ。そこで逆に殺されて人目に付きにくいこの場所に遺棄されたのか。ここまで合理的にやっているならば、おそらくアシュレイアの部屋を調べてもきれいに掃除されて跡形もないはずだ。
「アッシュレイア様を守っている者の中にこういう技を持った者がいるということかと」
あの小娘、どうやらただものではないらしい。少し認識を改めなければならないだろう。
「仕事のできる術兵を手配しろ」
兵はハッとしたような顔でこちらを見た。意味はわかるはずだ。
 




