第百五十九話 盛夏の逃げ水(24)
「敵襲です!」
ドアを何度もノックする音に飛び起きた。イレートの声だ。
「しぃー。ぐっすり寝てるから」
あの無礼な男がまた自分を愚弄するようなことを言っている。幸い、指示したことについての報告に備え、きちんと服を着ている。
「起きている。イレート、何事だ!」
わざと大きな音をたてて国王の部屋へと続く戸を立て続けに開けた。警備兵が詰めるために二つの部屋をつなぐ扉はせまい空間を経て二重になっている。
「おはよう」
例の男がのんきな声で片手をあげている。カーテンの隙間はまだ闇だが、日の出が近い気配があった。
「おい、あの毒見をしていた男はどこへ行った?」
部屋には無礼な男とイレートだけである。
「アッシュグレン様、それどころではありません。グリディラン様が……」
「何! とうとう攻めて来たか」
「おそらくアシュレイア様が戻ったのを確認したのでしょう」
アシュレイア。昨夜、信頼のおける身内の者に指示した件はどうなったのだろうか。グリディランのこと以外でイレートが騒いでいる様子はない。アシュレイアの遺体が見つかっていないだけか。
頭も動き出し、やるべきことがはっきりしてきた。これは自分のためではない。国のためだ。民衆は何もわかっていない。国政とはちょっと威勢がいいくらいの小娘が何とかできるものではないのだ。
「イレート、反逆者グリディランを迎え討つ。準備しろ」
「はい、いや、あの……」
イレートはおどおどと目をそらした。その隣で例の無礼な男が「ぷっ」と吹き出す。
「何がおかしい」
思わずその男の胸倉をつかむ。
「こんなことしてる場合じゃないよ。どういうわけかアシュレイアちゃんが軍を指揮する気まんまんだからね。みんなまんざらでもなさそうだし」
「なんだと。イレート! どういうことだ!」
城に残っている旧アルメシエ軍の指揮権は第一王子である自分にあるはずだ。怪我の療養中は信頼のおける者に任せてあるはずだが。
それよりも確実に暗殺を指示したはず。アシュレイアはまだ生きているのか。ミスをするような連中ではないし、母の実家の息がかかった者たちが裏切るとも考えにくい。
イレートはまだもごもごとしている。
「人心を掌握するのは大変だよね。わかるよ」
わけ知り顔で一人うなずいている男に苛立ちがおさまらない。
「お前に何がわかる」
「わかるから僕はこんなんなのさ。きみも不得手なことは早々にやめたらいいよ」
こいつは無視しよう。
「イレート、すぐアシュレイアのところに案内しろ」
「あ、はあ」
いつまでもぐしゃぐしゃとして鬱陶しい。イレートはあてにならない。とにかくアシュレイアをなんとかしなければ。あわてて戸口に向かったところで急に目の前が真っ黒になる。ほんの数秒、気絶をしていたのかもしれない。頭と倒れたときに打ちつけたらしき膝がひどく痛んだ。
「イレート、貴様ッ!」
床に崩れ落ちたまま首だけを動かして背後を見る。視界の端に塔をかたどった置物を握りしめたイレートが立っている。粘度のある液体が頭皮を伝っている感触がして気持ちが悪い。
部屋の外にいた警備兵たちが「殿下、何ごとですか」と大声をあげて部屋になだれ込んできた。
「イレート殿、これは一体?」
「アッシュグレン様、すぐに手当てを」
ゆっくりと半身を起こし頭に手をやる。そこにべったりと血液がついた。
「いい。それどころじゃない、敵襲だ」
グリディランにやられた怪我に比べればたいしたことはない。おそらく迷いがあったのだろう。
「しかし――」
警備兵たちは困惑したようにイレートとこちらを交互に見ている。
イレートは自分のしたことに今気づいたとでもいうような驚愕の表情を浮かべ、凶器を放り投げた。
「も、もうしわけありません。グリディラン様が……私の家族を……その……」
「俺を裏切るつもりか」
「お許しください」
声を震わせてその場に座りこむ。とんでもない小物を側近としてつかっていたものだ。
この騒ぎの中、例の無礼な男はまったく興味がないとでもいうように、机の上で仁王立ちして、ぶつぶつとひとりごとを言っている。こいつも早く追い払った方がいいだろう。
「なるほど。こうなるということはやっぱりそうか。これで帝印の在処もだいたい想像がついたし、そろそろ帰ろうかな」
帝印!
それは聞き捨てならない。今思い出した。それを探していたのだ。
「どういうことだ。帝印の在処がわかるのか」
アルメシエの王たる証である帝印。それさえ手元にあれば万事解決する。
イレートや他の警備兵たちも驚いたように男を見ていた。
「ちょっとは自分たちで考えなよ。なかなかおもしろいパズルだった。ありがとう。答え合わせはまた今度にするとして――ここは危なそうだし、僕、帰るよ」
机からひらりと飛び降りると本当に部屋を出て行こうとする。本気で帰るつもりだ。確信に満ちた足取りに警備兵たちもあわてて道をあける。
「待て」
「なあに?」
「帝印はどこだ」
「――グリディラン様が……持っているのではないのですか!」
イレートが男にとりすがるようにその肩をつかんだ。
「それはないよ。グリディラン翁が持っているなら、わざわざこの城に攻めてくる必要ないでしょ。王位を継ぐ根拠が手元にあるんだもの。どこにいようと自分が王様だもんね」
急激に頭に血がのぼり、拳で床を打つ。では残りは一人ではないか。
「やはりアシュレイアか!」
「アシュレイアちゃん、持ってないってさ」
「どういうことだ! おかしいだろう」
視界の端でイレートが焦点の合っていない目で茫然と床を見ている。ようやくグリディランにそそのかされたことに気づいたのだろう。帝印を持っている自分が次期国王だといつわり、相応の役職と家族の身柄をちらつかせて、第一王子の殺害を指示したといったところか。くだらない話だ。
「アッシュグレン王子が今寝泊まりしているあの部屋、王様のお友達が遊びに来てるときに泊まったりしてたんだよね。誰かな。部屋の間に警備が入るとはいえ、自分の寝室にも通じている部屋に女の人以外を泊めるなんてよっぽどの仲良しだよね」
――まさか、そんな。なぜ今まで忘れていたのだろう。間違いない。王と特に懇意にしていたあの男が帝印を持っている。そしておそらく何かしら王からの言葉を預かっているはずだ。そうでなければこの部屋に何も残されていない理由がない。
そのとき、外から城を揺るがすほどの鬨の声があがった。
もう攻め込んできたのか。あわてて窓際に寄るがここからはさびれた庭園しか見えない。グリディランが率いている兵は旧アルメシエ軍の半分以上、数での分は悪い。戦術の要となる術兵も同様だ。あの小娘には荷が重い。いっそグリディランに討たれてもらった方が……いや、それではこちらの兵も犠牲になることになる。アシュレイアを片付けたところで損害は高くつく。
とにかく今は調子にのったあの小娘を何とかしなければならない。
「アッシュグレン様!」
部屋を走り出ると、長い療養生活のせいか頭がくらくらとして、まっすぐ進むこともままならない。一度とまったかと思った血もふたたび流れ出したようだ。
「やはり先に手当てを」
追いついた兵たちにとめられて振り返ると、イレートが捕縛されている。馬鹿なやつだ。自分についていれば自然と次期アルメシエ王の側近の一人という地位が手に入ったものを。
「――手当てしている暇はない」
「戦場はアシュレイア様におまかせしては……」
かっと血がのぼった。気づくと拳から血が滲んでいた。殴られた兵は驚いたような怯えたような妙な表情でこちらを見ている。すっかり筋力の衰えた腕ではさほど力が出ない。渾身の力で殴られたはずの兵の頬は赤くなっている程度だ。殴った側の方が痛い思いをしていることに舌打ちがもれた。
「もうしわけありません」
どこか冷ややかな兵の謝罪を受ける。なぜか不得手なことは早々にやめろと言ったあの無礼な男の言葉が思い出され、あわてて頭をふった。
「よい。急げ、城を守る」
兵たちから目をそらし、よろよろと立ちあがる。とにかくグリディランの始末の前にアシュレイアを引きずりおろさねば。




