第百四十五話 盛夏の逃げ水(10)
シェイルが何を目的にして動いているのかわからないが、アルメシエの戦いの最中にいるロイの人々から話が聞ければシェイルを探すヒントになるだろう。シェイルはアルメシエにいるロイたちの問題を解決に来たはずだからだ。
村のような場所を出てからしばらくすると、道が悪いようで馬車はずいぶんと揺れはじめた。地面が固そうだ。しばられたままだったらさらに頭を打っていたことだろう。
「こんな格好をしているから問題が起こるんだ」
アルヴィンは急に軍服を脱ぎ捨てた。
エリッツが転がされていた位置からは見えなかったが、驚いたことにアルヴィンとエリッツの荷物が奥の木箱に挟まった状態で放置されている。どれだけ雑な人さらいなんだろう。逆にいうとこれまでそんな状態でも問題が起きないくらいの小さな子供をさらっていたということではないか。何だか嫌な感じがする。
それはともかくアルヴィンはよほど例の指揮官にしごかれているようだ。ぽっちゃりとしていた体はただやせただけではなく筋肉により引き締められ、きちんと軍人らしい体型になっていた。
年下に興味はないが、なかなか、なかなか――である。
「なんて目で見てるんだよ」
アルヴィンはエリッツのいやらしい視線を敏感に察知して身を引いた。
「別に」
少しばかりやましいところのあるエリッツは目を伏せつつも、鞄の中から着替えを探しているアルヴィンの姿を盗み見る。
エリッツは長兄ジェルガスのようにガチガチに筋肉で固まったような体つきよりも、無駄なく引き締まっているくらいの次兄ダグラス、そしてシェイルのような体に魅力を感じる。アルヴィンの体はなかなかいい。
ようやく着替えをひっぱり出したアルヴィンにエリッツは自然と「ありがとう」と口走っていた。当然、アルヴィンは気味の悪そうな顔をする。
「今のは何のお礼? そういう目で見るのはやめてくれるかな」
アルヴィンの私服は以前と同じく袖の長いロイの伝統的な服装だった。だが、一点変わっているところがある。
「アルヴィン、その袖――」
今度はアルヴィンの方がばつの悪そうな顔をする。
「ああ、これ。刺繍してもらったんだ」
誰にしてもらったのか聞かないでもわかってしまった。シンプルに見えるが、よく見ると手の込んだ刺繍で、光沢のある上等な糸が使われている。葉のとがった植物の間にリスのような小動物と蝶が記号のようにすっきりとデザインされていた。ロイの伝統的な刺繍でよく見るパターンにも通じているが斬新でもある。おしゃれだ。
だがエリッツだってシェイルが獲ったうさぎの毛皮を縫い付けたコートを持っているし、嫉妬するほどのことではない。
「子供の頃の約束を守ってもらっただけだよ」
なぜか言い訳をするようにアルヴィンがいいつのる。よほどエリッツがうらやましそうな顔をしていたのだろう。エリッツはこの手の嫉妬でアルヴィンどころか大勢の人にひどく迷惑をかけた前科がある。さすがに反省しているが、アルヴィンがびくびくと様子をうかがっている姿を見るに申し訳なく思う。
「きれいな刺繍だね」
感情を押し殺したエリッツの言葉にアルヴィンはやはりおびえたような顔をする。
「――うん。気に入ってるよ」
そのとき、ちょうど馬車がとまった。目的地に着いたのか、休憩なのか。御者台にいる男と顔を合わせることになりそうで、二人は息を殺して身構えた。なぜかアルヴィンの手にはゼインのダガーナイフが握られている。エリッツには武器がない。
「ねぇ、ちょっと、それ、返してよ。アルヴィンは術士でしょ。おれ、丸腰なんだけど」
エリッツの小声の苦情にアルヴィンはまたばつの悪そうな顔をした。今度は何だ。
「――さっきまでは枷がはめられていて気づかなかったけど、ロックされてる」
アルヴィンは左手のひらをエリッツに見せるように広げた。そこにはシェイルが忌み嫌っている首輪こと、軍仕様のヒルトリングが鈍い光を放っていた。
ヒルトリングをはめた術士は指揮官の指示の範囲内において術を使う。指揮官はヒルトリングを通じて術士を制御することができるのだ。ロックということは完全に何もできないという意味だろう。
「え? いつから?」
「おそらくだけど駐屯地を出てすぐだと思う。指示が届く範囲は限られてるから」
エリッツは軍の術士であるアルヴィンがいれば、ある程度の外敵は何とかしてもらえるのではないかと他力本願な期待を寄せていたため愕然とする。
「それは――外せないの?」
「指揮官の許可なしには外せない。外したいなら指を切り落とすしかないよ」
穏便にロックを外してもらうにはリデロの指示が届くところまで戻る必要があるのだろう。――ということは、レジスに戻るまでアルヴィンの術には頼れないということか。
とにかく、今はこの状況を乗り越えないことには仕方ない。エリッツは周りの物音に神経をとぎすませる。
先ほどのような人が行き交う気配はなかった。聞こえるのは男が鼻歌を歌いながらガサガサと何かをやっているような物音だけだ。
「お昼ごはんかな」
「しっ。静かに」
アルヴィンの声の直後、男が鼻歌を歌ったまま荷台の後ろに回りこんでくる気配がする。
緊張しながら様子をうかがっていたが、荷台の幌が開けられることはなかった。それどころか男の足音は馬車から遠ざかってゆく。
しばらくは馬たちがぶるぶると首を振ったり、足踏みをしている音だけが続いていた。男はどこかへ行ってしまったのだろうか。緊張していたため長く感じたが、実際はそうでもなかったかもしれない。足音が戻ってくる。
「いや、嘘じゃない。黒髪でレジスの軍人だ」
男の声だ。
「そんなんどうしてこんなとこにいるんだよ。吹っかけようとして適当言うんじゃないよ、おっさん」
誰かを連れてきたようだが、そっちは若く軽そうな女性の声だった。「買い手」側のようだ。心なしかアルメシエの人とは違うなまり方をしているレジス語に聞こえる。
「いや、本当。寝てた」
隣でアルヴィンが小さく舌打ちする。エリッツもその失敗は思い出したくない。そして相変わらずエリッツの売買に関しては触れられなかった。
「嘘だったらもうあんたからは食糧も買わないよ」
「本当、本当」
ずいぶんと軽い調子のやり取りの後、さっと幌が開けられる。
背が低くずんぐりとした体型でいかにも雑な仕事をしそうな中年の男と、長い黒髪を高い位置で結った背の高い女の人がいた。しばらく双方無言のまま見つめ合う。
周囲は岩肌が見える渓谷のような場所で馬車が揺れた理由もよくわかった。エリッツたちとしては相手の出方次第という面もあり、じっと動きを待つ。
「おっさん、何これ? どういうこと?」
ようやく女性の方が口をひらく。
「しばっておいたんだけどなあ」
男の方はとぼけたような口調だ。
「あんたの話を信じるなら軍人なんだろ。ちょっとしばったくらいじゃこうなるのわかんないかな。武器まで持たせて。殺されなくてよかったね」
「全然気づかなかった。危なかったあ」
女性は男を無視してエリッツたちの方に向きなおる。
「逃げないの?」
エリッツとアルヴィンは顔を見合わせる。アルヴィンはダガーナイフをかまえたままだが、女性はまったくおびえる様子がない。こちらに殺意はないわけだから当然といえば当然だが、逆に殺意がないことを察知できる程度の手練れともいえる。身軽そうな服に腰の辺りには少し変わった形の長剣がさげられていた。
「逃げようと思えば逃げられるよ」
アルヴィンの言葉に女性は白い額にしわをよせた。
「逃げられるけど、逃げないわけね。ご用件は?」
「ここにいるロイのことを知りたい」
女性はまばたきをしてアルヴィンを見つめる。質問の意図をはかっているような表情だ。それから小さなため息をついて、中年男性を見おろした。
「おっさん、買うよ。芋と麦と合わせていくら?」
中年の男は胸元から板のようなものを取り出した。板には溝が掘ってあり、そこには小さな丸い玉が溝をスライドするようにはめられている。レジスにも似たようなものがあった。主に商人たちが代金を計算するために使っている器具だ。レジス城内で働いている事務官も使う。
「おれは? おれはいくらですか?」
身を乗り出したエリッツに全員の視線が集まる。中年の男がぴんっと板の玉をはじく。
「安っ」
女性が小馬鹿にしたような声をもらした。
 




