第百四十二話 盛夏の逃げ水(7)
兵たちのエリッツに対する態度はがらりと変わり、ダガーナイフも先ほどのカードのようなものも返してくれた。そして腫れ物を扱うようにエリッツから一定の距離を保ち近づこうとはしない。
「何でまた間諜が?」
「しっ。黙ってろよ。どうせアルメシエの調査だろ」
「ピリピリすんな。ここを通って国境を抜けていくだけだ」
「いや、そういうフリをしているだけかもしれん」
案内をしてくれている兵たちのひそやかな囁き声がエリッツの耳にまで届く。
ゼインが上着を貸すと言ったのはこういうことだったのか。これは結構とんでもないものを借りてしまったのではないか。
逆にいうとラヴォート殿下のところに戻ることなく国境を越えるにはあの時点でこの方法しかなかったということかもしれない。知らなかったとはいえ、エリッツはゼインにかなりの無理を敷いたことになる。
この詐称がバレたら処分されるのはエリッツだけでは済まない。マリルのように演技するのは無理かもしれないが、せめて旅慣れた間諜の人間らしく振舞うべきだ。なんなら先ほど不審人物にしか見えなかったのも、兵たちに身元を調べさせるための演技だったと言い張るくらいでいいかもしれない。
ボロを出さないようにと緊張しすぎて、先頭の兵が振り返っただけでびくりとしてしまう。やはりエリッツには荷が重い。
「ここへ来たということは国境を抜けるんだろう? このまま行くのか?」
やはり一定の距離を保ったまま聞かれ、エリッツは精一杯なんでもないような表情を作った。ゼインだったらどう対応するか想像してみる。飄々と軽い言葉を返すはずだ。
「いえ、疲れたのでちょっと休ませてもらえないでしょうか」
本当はこのまま国境を抜けた方が時間は短縮できるが、駐屯地の周りは完全な闇である。さすがに暗闇の中よくわからない他国に侵入するなど無謀だ。明るくなってせめて足元がよく見えるようになってから動くべきだろう。
間諜部隊は軍の一部だが、国王陛下に指揮権がある軍の一部である点が他とは違う。おそらく陛下の命で動いている間諜には全面的に協力するのが暗黙の了解になっているのだろう。しかも聞いた話によると軍内部の監査業務なども行うというから、敬遠されるのもうなずける。
そういった事情によるものだろうが、エリッツだけでなく兵たちの方も緊張している様子だ。
「ああ、わかった。そういう希望があることを指揮官に伝える。少し待っていてくれ」
数人の兵が報告のために行ってしまうと、エリッツはあらためてポケットの中のカードに触れてみる。先ほどは暗くてよく見えなかったが、金属のような感触で表面に何かが掘られているようだ。ゼインの身分証なのか、それとも間諜部隊であるということを証明するのみなのか。
名前を聞かれたり、顔を確認されることもなく入れてくれたということは、特に個人を示す要素はないのかもしれない。
「許可が出た。兵舎の一室を使ってくれ」
ぼんやりと考え込んでいたらいつの間にか報告に出た兵たちが戻っている。
案内された部屋はごく簡素な部屋だった。広さは寮のエリッツの部屋よりやや狭いくらいか。作り付けの棚と小さなテーブル、ベッドがあるだけである。
兵たちの足音が遠ざかっていくと、ようやく緊張から解放され大きく息をついた。野宿かと思っていたので、ベッドで休めるのはありがたい。
その前にゼインにいわれた通り、きちんと食べなければならない。背嚢をあさっているとまた廊下から足音が近づいてくる。案の定、音は部屋の前でぴたりととまった。せっかく休憩できると思ったのに、また緊張で体がこわばってくる。ノックに対しての「はい」という返事にうんざりしたような色が混じってしまった。自身で思っていた以上にエリッツは疲れている。
「夕食を持ってきたんだけど。入るよ」
えらくフランクな物言いである。
「どうぞ」
入ってきた人物を見て、エリッツは固まった。
確実に見覚えがある顔だが、何かがおかしい。ただ似ているだけなのか。それともエリッツのよく知る人物の兄弟か、親戚か。
混乱しているエリッツを見て、その人物も驚いたような表情だ。それからとてもよく耳になじむ嫌味を言った。
「きみが間諜って冗談でしょう。僕が知る限り、どう頑張っても無理だよ。これは罰ゲームか何かなの?」
そう言いながらパンとスープ、わずかばかりのフルーツがのった食器をテーブルに置く。なぜ罰ゲームで駐屯地に侵入しなくてはならないのか。確かにここに案内されるまででずいぶんと疲れたが。
「アルヴィン……なの?」
「薄情だな。もう忘れちゃったの? まあ、確かにずいぶん経った気もするね」
エリッツはまじまじとその人物を頭からつま先まで何度も見た。小柄だがすらりとした細身の青年である。短く切りそろえられたやわらかそうな黒髪とやや丸みの残った顔はエリッツの記憶に合致する。しかし最後に見たアルヴィンはぽっちゃりとしたお子様だった。
「結構やせた?」
「やせもするよ。指揮官は何を考えてるのかむちゃくちゃな鍛え方をしてくるし、ゆっくり食事をする間もないんだから」
「背も伸びたね」
「多少はね」
エリッツはぺたんとその場にすわりこんだ。
「どうしたのさ」
アルヴィンは気味悪そうにエリッツを見る。
「アルヴィンはバカにすると思うけど、おれは一人でここまで来てかなり気が張ってたんだよ。アルヴィンの声を聞いてほっとしちゃった」
アルヴィンはぎゅっと眉根を寄せて複雑な表情をする。
「――大袈裟だな。早く食べなよ」
エリッツがテーブルのパンを手に取ると、アルヴィンは気になって仕方がないというようにさっそく口を開いた。
「食べながらでいいからこれが何なのか教えてほしいな。純粋に好奇心から聞きたいだけなんだけど」
きらきらと目を輝かせている様子は公園を走り回っていたお子様の頃と変わらない。
「おっと、その前にひとつ助言。この部屋の外で僕の名前を呼ばないでよ。間諜じゃないことが一発でバレる」
「あっ。そうか」
思わず声が出た。
アルヴィンは今や正式なレジスの術兵だ。名前なんて呼ぼうものなら一発アウトだ。情報を扱う間諜がそんなミスをすることはありえない。再会したのが密室で助かった。そして当たり前だがアルヴィンには間諜ではないことがバレている。
「きみの危なっかしさは相変わらずだね」
アルヴィンがじっとテーブルの上を見ているので何だかわからないフルーツの入った小皿を渡す。相変わらずなのはお互い様だ。
「それで何で間諜なの? まさか身分証を盗んだわけじゃないよね。相当な権限がついた身分証を見せられたって噂になってたよ。お屋敷で大事に飼われてる子犬みたいな顔してて得体が知れないから怖いって」
アルヴィンは途中からゲラゲラと笑い出す。ひどい言われようだ。
「ここの兵たちはそういうの慣れてるんだけどな」
「どういうこと?」
「見た目とのギャップだよ。うちの指揮官はどう見てもキレ者という感じではないでしょ。リデロ指揮官のことだけど」
部屋の中とはいえ、術兵である指揮官の名前だけ小声になる。
久しぶりに名前を聞いた。帝国軍が侵攻してきた際にエリッツもリデロの指揮下にあった(といえるのかはわからないが)。確かに見た目や話し方はぼんやりとしていて、できる指揮官にはまったく見えないが、その実恐ろしいほどに強く、策士だと聞く。詳細は知らないが桁違いの術士の才に加えて特殊な能力まであると噂されていた。
いや、そんなことよりもリデロがいるということはエリッツの顔を知る術兵たちが大勢いたとしても不思議ではない。ここまで見つからなかったのが奇跡だ。
「リデロ指揮官以上に気味悪がられてたんだから、すごいことだよ。誰も夕食を運びたがらないんだ。僕は子犬みたいな間諜ってのが見てみたかったからその役を買って出たわけだけど、そしたらきみなんだもの。笑っちゃうよ」
言いながらまた笑っている。
「それでその身分証、どうしたんだい?」
長いこと腹を抱えていたアルヴィンもようやく笑いをおさめる。アルヴィンが元気そうで何よりだ。
「別に……身分証のことは知らないよ。夜は寒いって話だったから上着を借りただけ」
アルヴィンはじっとエリッツを見つめる。
「驚いた。きみも成長するんだね。わかった。その話はここまでだ。じゃあ、アルメシエで何をするつもりだい? これも秘密かな」
秘密かもしれないが、ここはアルヴィンの協力を仰ぐべきところかもしれない。




