第百四十一話 盛夏の逃げ水(6)
「行っちゃったな」
ゼインは他人事のように軽く言うが、エリッツは一度かけられたはしごを外された気分で言葉が出ない。
翌朝のことだ。マリルが部屋から消えていた。
エリッツが寝坊したわけではない。とはいえ、早く起きたのはゼインに叩き起こされたからだが、ゼインが気づいた時点ですでにベッドは空だったらしく、マリル愛用の装備なども一緒に消えていたそうだ。
あの状態からの動きとは思えない。
「本当はアルメシエの報告をしてすぐ動くつもりだったんじゃねぇかな。体調くずして出遅れただけだろ」
やはり他人事のように言いながら朝食の準備でもするのかキッチンの方へと行ってしまう。
「お、おれはどうすればいいんでしょうか」
誰もいない部屋で呆然と空のベッドを見つめているエリッツにキッチンの方から声が飛んできた。
「待ってれば? シェイルさんとマリルさんが帰ってくるの」
まるで買い物に連れて行ってもらえなかった子供に言うような調子である。
「そういうわけにはいきません」
エリッツもキッチンへ駆け寄りゼインに詰め寄る。本当にマリルが行ってくれたのであれば安心材料ではあるが、十日以内に連れ戻すというのはエリッツの仕事であるし、それより何よりシェイルの役に立ちたい。今すぐ会いたい。そしてどさくさにまぎれていろいろやりたい。
小さなキッチンはいつの間にか本格的な調理場のようになっていた。棚が増やされ、見たこともない調味料や道具が並んでいる。もちろんダグラスの屋敷の調理場とは比べようもないが、以前の状態から見ると驚くほどの進化だ。
事態を忘れてエリッツはその光景に見入っていた。様々な瓶に入った赤や黄味がかった液体、何かの種子のようなもの、乾燥させた葉のようなもの、調理用と思われるナイフだけで何本もある。
「この壺はなんですか?」
勝手口のところに見慣れない壺が置いてある。デザインも何もない素焼きだが大きい。よく見ると二重になっているのがわかった。
「蓋とって中に手入れてみ?」
さっそく中をのぞきこんでみたが何も入っていない。首をかしげながらも言われるままに手を入れてみる。
「あ! 中、ちょっと冷たいです。なんでですか!」
「夏は食材が傷みやすいから貯蔵用に作ったんだよ。まだ試作段階だけどな」
「なんで中、冷たいんですか! すごい! どうして?」
「キャンキャンうるせぇな。外側の壺に入れてある水を含んだ部分が蒸発するときに中が冷えるんだよ」
「――全然わかんないです」
「そうか……」
ゼインは一瞬だけあわれむような視線を向け、すぐに何ごともなかったかのように調理に戻る。エリッツはその見惚れるような手際をじっと見守っていた。
朝食を終え一息ついたところで、エリッツはハッとなる。
「おれは……この後どうしたらいいと思いますか」
「いや、早く殿下のとこ戻れよ」
マリルがシェイルのところへ行ってくれた確率は高いと思われるが絶対とはいえない。それに十日以内に連れ戻してもらうことを約束したわけでもない。
やはりエリッツが責任を持ってシェイルを探しに行くべきだろう。
「やっぱりおれも西に行ってきます」
ゼインはなんだか嫌そうな顔をした。
「国境、どうすんの?」
「え?」
「国境の向こうに許可なく行けると思うか?」
「あ、やっぱ外国はダメなんですかね……」
日々勉強はしているものの、エリッツは業務上あまり関係がない国外についての規則にはうとかった。
「あと、ここからアルメシエの国境までどれくらいあると思ってるんだ。そんな『寝坊して家飛び出してきました』みたいな格好で、残り九日、国境を出てアルメシエの中まで旅をするつもりか?」
「それくらい……」
途中でそろえると言いかけてエリッツは黙った。昼食代くらいしか持っていないのだった。地図すら持っていないので、どこからどうアルメシエに入ったらいいのかもわからない。
貴重な時間をロスしてしまうが一度城に戻るべきなのか。
ラヴォート殿下に報告すれば、国境を越えるための許可証のようなものをもらえるかもしれない。それから旅支度も必要だ。エリッツは故郷のサムティカとレジスを往復する以上の遠出を一人でしたことがない。何をどう準備したらいいのか。一人で行けるだろうか。かの地は内戦状態だというし、多少なりとも武装していくべきだろう。
いや、考えることが多すぎて、もうダメかもしれない。
とにかくシェイルに会いたい。
「――とりあえず、今から西に行ってきます」
「いや、お前、話聞いてたか?」
「聞いていましたが、早くシェイルに会いたいんです。一人ではさすがに困ってるかもしれないし。それに城に戻って準備をしていたらまた一日費やしてしまいます」
昨日から何度目かわからないが、ゼインはまた深々とため息をついた。
「仕方のないやつだな。家にある使えるもんなら持っていけばいい。――あと、上着を貸してやるよ」
「上着は別にいいですよ。暑いし」
「夜は冷える」
ぶつぶつ言いながらもゼインはエリッツの旅装を整えてくれた。エリッツがまばたきをしている間にも使い込まれた背嚢にあれこれと詰めこんでゆく。迷いのない手つきにエリッツは感嘆のため息をもらした。いつも動き回っているだけあって旅慣れているのだろう。
「いいか。戻ったらすぐに返せよ。お前が無茶するのを手助けしたと知れたらどうなるかわかったもんじゃない」
最後にきちんと文句もつけて来る。
「それからきちんと食え。お前はちょっと動物としての本能のバランスを欠いている」
「どういうことですか」
「性欲と睡眠欲しかねぇだろうが」
「ひどい。失礼です」
文句をいうエリッツを尻目にゼインは背嚢を雑に引きずってキッチンでガサガサとやっている。
「ナッツとか適当に日持ちのするものを入れといた」
「――ありがとう、ございます」
なんだかんだといって、ゼインはいつもエリッツにやさしい。
だが、ゼインに手取り足取り整えてもらってなおエリッツは迷子になりかけていた。
もちろん地図も借りたし、旅程の目安も教えてもらった。ほぼ一日をかけて西方へ向かう乗り合い馬車を二つ乗り継ぎ、国境の手前の町オエディシスの近くまで来ているはず、なのだが。歩いても歩いてもそれらしき町にたどりつかない。それどころか無情にも日が暮れかかっていた。
馬車を間違えたのか、道を間違えたのか、それすらよくわからない。ゼインのいった通り夏とはいえ夜になると少しだけ肌寒くなる。耐えられないほどではないが、こんな場所で体調を崩せば本当に野垂れ死んでしまうだろう。
素直に借りた上着をはおってまた歩き出す。
一応、道なのだからどこかにはたどり着くはずだ。馬車を降りたとき街道はそこそこ人通りがあったが、いまやエリッツ一人である。そもそも日が暮れてまで歩き続けるような旅人はいないようだ。
馬車の中で他の乗客に聞いたところ、西の果てであるオエディシスに用事があるような人は少ないらしい。アルメシエという国がまだ平和だったころは、国境ならではの商売が活発だったようだが、今や警備している軍人相手の商売くらいで、それも新規参入は容易ではない。つまりオエディシスに向かう人は軍人かそこの住人くらいということだ。
「あれは……町あかりかな」
このままでは野宿になるかもしれないと思いかけたとき、遠くに光が見えてきた。自然に足早になる。
しかし光に近づくにつれ、エリッツは嫌な予感に襲われていた。自然に歩みが遅くなり、完全に立ち止まる。しかし「向こう側」は、そんなエリッツを見逃してはくれなかった。
「誰だ。止まれ」
もう止まっている。エリッツは武器を持っていないことを示すために両手をあげた。
さほど心配はしていない。なぜならそれはレジス軍の兵だったからだ。なぜ警戒されているのかはわからないが、こちらに害意がないと知れれば乱暴をされることは無いだろう。
「おい」
一人の兵が顎でエリッツを示すと、控えていた他の兵がエリッツの体を探りはじめる。武器を持っていないかを確認しているのだろう。実際、ゼインが貸してくれた小型のダガーナイフはすぐに取り上げられてしまった。
「あの、ここはオエディシスの町ですか?」
兵たちは顔を見合わせてからまたエリッツを見る。
「何だ。迷子の旅行者か?」
「ここはレジス国境警備軍の駐屯地だ。町はだいぶ向こうだぞ」
そういって、エリッツが思っていたよりもずっと北の方を指さした。どう間違ったらそうなるのだろう。エリッツは首をかしげた。
「ここは一般人立ち入り禁止だ。悪いが引き返してくれ」
別の兵が有無を言わさぬ調子で言う。もう暗くなっているのにここから引き返すとなるとやはり野宿になってしまう。迷子になったエリッツが悪いのだが、時間もかなり浪費してしまうことになるだろう。絶望的な気分で肩を落していると、さらに別の兵が厳しい調子で口を開いた。
「待て。町に向かっていてこんなところに着くなんてどうもあやしい」
あやしいと言われてもエリッツ自身がなぜこんなところに迷いこんだのか不思議に思っているくらいだ。返答のしようがない。
「何か身元のわかるものは持ってないのか」
ふたたび兵がエリッツの服などを探りはじめ、やがて一枚のカードを取り出した。ゼインの上着から出てきたものなのでエリッツのものではない。
カードを見つけた兵はすぐさま顔をこわばらせて、他の兵たちを呼び寄せた。額を突き合わせるようにカードを見ていた兵たちも次々に表情をこわばらせ、各々がエリッツとカードを見比べるように視線を動かす。
やがてその場を仕切っているらしき兵の一人が「――入れ」と、親指で駐屯地の中を指した。




