第百三十九話 盛夏の逃げ水(4)
薄い衣をまとった女の人が床で身じろきしていた。部屋は暗くてよく見えないが可憐な印象の女性だ。
焦点の合わない目でエリッツの方をちらりと見たがすぐに床にぺったりと寝そべってしまう。具合が悪いのだろうか。それに目のやり場に困るほどはだけた胸元には大きな傷跡が見えている。
「大丈夫ですか」
声をかけつつも手を貸すのがはばかられる。触れていいものかわからない。
「ゼインさん?」
ずっと黙っていたゼインがエリッツを押しのけ、その女の人をそっとベッドに戻す。女の人はまるで人形のようにされるがままになっていた。
無言でエリッツを放置し部屋を出てしまう。仕方なくエリッツも後に続いた。
「わかっただろ?」
席に着くなりゼインに問われ、エリッツはいつも通りぼんやりと空中を見つめた。
「あの人、ゼインさんの恋人ですか?」
今度はゼインの方が何もない空間をじっと見ている。やがておもむろに口を開いた。
「――なんでそうなんの? お前、見ただろ」
「見ました。内緒にしてもいいです」
ゼインは大仰にため息をつくと、すべてを否定する様に頭をふる。
「確かに内緒にしてもらった方がいいんだが。うちのトップが弱ってることは他の間諜連中には知られたくない。とにかく化粧したり演技したりする気力もないみたいでずっと寝てる。あんなど素っぴんじゃわからないのも無理はないがな」
「なんの話ですか」
「お前が探してた人だよ。精神的な不調からまれに体調を崩す。今回は結構ひどい。ここ三日くらいずっとあの調子だ」
エリッツはまた首をかしげた。
「え? なんの話です? あれは誰ですか? ゼインさんの恋人ではなく?」
「その発想から抜け出せないのか。お前、本当にすごいな」
「ありがとうございます」
「全然褒めてねぇよ」
そのまま無言でキッチンに立つとがちゃがちゃと何かやり始めた。エリッツは一日の疲労からまたもやぼんやりしてしまう。そういえばとうに寝る時間を過ぎていた。
「こら、そこで寝るんじゃない」
乱暴に肩を揺すられて気づくとゼインが木のトレイに湯気のたつ器を二つのせて立っていた。どうやら気づかないうちに寝ていたようだ。
「ちょっと来い」
そう言って先ほどの部屋の扉をノックしている。
「指揮官、入りますよ。食事です」
「え? 指揮官って! え!」
「遅せぇよ。静かにしろ」
中からの返事を待たずゼインはずかずかと部屋に入っていく。来いと言われたのでエリッツも遠慮がちに部屋に入った。
ゼインはサイドテーブルに器をひとつのせ、もうひとつをエリッツの方に「ほら」と、つき出した。
「どうせ食べてないだろ」
受け取った器がゆっくりと指先を温めてゆく。麦か何かの穀物をミルクでやわらかく煮たものだ。病人食だろうが、それを見るとさすがに空腹だったことを思い出す。
「いただきます」
室内の椅子に腰かけ、匙を手に取る。きゅうと頬の辺りから唾液があふれるのを感じた。案外本格的にお腹が減っていたようだ。
「指揮官も食べてください。起きてますよね。さっきエリッツのことじっと見てたの、気づかなかったとでも思ってるんですか。気になってるんでしょう。どうもシェイルさんに何かあったみたいですよ」
エリッツはせっかくのごはんを噴きそうになってしまった。何もかもエリッツには察知できなかった事象である。しかもまだエリッツは何ひとつ話をさせてもらっていないのに、シェイルに関することだと気づかれていた。
「ほら、食べてください」
ゼインが女の人、いやマリルの体を起こして口元に匙を持ってゆく。エリッツは失礼かと思いながらまじまじとその姿を見てしまった。
マリルだといわれれば確かにそうだ。
目の色も髪の色も同じだが、顔つきがまったく違う。まるで十かそこらの少女のように見えた。はかなく頼りなげで、押したらそのまま倒れて死んでしまいそうなほどだ。いつだったか、男装でエリッツに斬りかかって来た人物と同じとは到底思えない。
さすがに頼るのは申し訳ない気がして、エリッツは一度ラヴォート殿下のところへ戻ろうかと思い始めていた。今にして思えば、ゼインがエリッツの持ち込もうとした厄介事を全力で拒否した理由がわかる。こんな状況で協力をあおぐなんてとてもできない。
「あの……」
「なんだ。おかわりか?」
「いえ、そうではなくて、やっぱりおれ……」
エリッツがもごもごとつぶやいている声はかすかなささやきのような声にさえぎられた。
「――話してください」
顔をあげるとマリルがエリッツを見ている。目の焦点がしっかりとエリッツに合っていた。だがそれだけで、弱々しい状態には変わりがない。
「ほら、指揮官の許可が出たぞ」
「いや、でも……」
「今朝よりだいぶ回復してる」
ゼインが言い添えてくれるが、これでだいぶ回復した状態なのかと逆に怖い。
エリッツは空になった器をサイドテーブルに置くと今朝からの出来事を順を追って説明した。
「西」
話を聞き終えたマリルはそれだけを言うと力尽きたかのようにベッドに顔を伏せる。
「西ってなんでしょうか」
エリッツはゼインの方に問いかけるが、ゼインは無言で扉を指した。確かに部屋を出てから考えた方がいい。
「お前、運がいいな。今朝までまったく意思疎通できなかったぞ。メシは食わねぇし、わけわかんないこと言ってたし」
ラヴォート殿下がマリルのことを、気がふれているといっていたのを思い出した。
「こういうのは前からなんですか?」
ゼインはしばらく黙っていたが、おもむろに「子供の頃に――」と、口を開いてすぐ思い直したようにゆっくりと首を振る。
「本人は何もいわないからな。話半分で聞いとけよ。俺も人から聞いた話をつなぎ合わせた情報しかない。簡単にいうと子供の頃に両親とお兄さんを虐殺されたみたいだ。その場面を意識しないところで何度も何度も思い出して具合が悪くなるって医者がいってたな。そのうち過去の出来事なのか何なのかわけわかんなくなるみたいで、この家に駆けこんでくる。そのときのための留守番だ。どうもこの家が無人になっているとそれが記憶のスイッチになって悪化するみたいで……。まぁ、そんなによくあることじゃねぇよ」
あまりのことにエリッツは何もいえないでいる。
「どうした? ご理解いただいたところで、『西』について俺の知っていることを話してやろう」
「ゼインさん、さっきの『西』って何のことかわかるんですか?」
「いや、正直わからん」
エリッツは脱力して天井を見る。深刻な話をしていたところからのギャップでエリッツ自身も体調を崩しそうだ。
「マリルさんのことだから、確信があって『西』って言ってるはずだ。さっきはちゃんと目が正気だった。そこから俺は逆算して考える」
「逆算?」
「シェイルさんが西に向かったことが真実だとしてその間を考察するんだ」
エリッツはぽかんと口をあけた。何を言い出したのかよくわからない。
「おい、アホみたいな顔をするんじゃない」
あわてて口を引き結ぶ。
「西に向かったことが真実だとするなら、考えなくても西に行けばいいんじゃないですか」
「西ってどこだよ」
「え?」
エリッツはふわふわと指先を戸口の方に向けて、考え直して少しばかり右にずらす。
「あっちら辺ですかね」
「見つかんのか? それで」
「無理ですね」
西側にはスサリオ山がそびえ立ち、その山頂を越えたところに国境がある。裾野の森は深く広大で大雑把に西というヒントだけでシェイルを探し出すのは無謀すぎた。
「わかりました。ゼインさんの話を聞きますよ」
「あ、何かその言い方、ムカつくな」




