04
そこは不思議な空間だった。上か下か、左か右か。流れる様に身体が揺蕩う。
流されるままに流れていくと、ある場所にたどり着いた。平衡感覚を取り戻した慧は何となく、立ち上がる。視界には永遠と続く景色が広がり色は安定していない。立っている地面だけが、唯一暗黒色で統一されていた。
ずっと歩き続ける。やがて暗黒色の上にやけに存在感を主張する、今度はこれ以上無いほど白い台座があった。
急いだ方が良い。そんな気がした。
駆け足で近づき、台座の上を覗くとやはりそこにはあの時計があった。針は不規則に時を刻み始み、慧が拾いあげた時、少し高い、耳にすっと響く声があった。
「初めまして私の所有者」
振り向くとそこには青地に白のシンプルなローブを羽織った人間がいた。フードを深く被っており、顔は見えない。唐突な声に慧が返事を出来ないでいると、その人物は続ける。
「私の名前はクロノ。能力名、刻時壊敗です」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君はそもそも何者だ?」
「言うなればマスターが身につけている時計です」
困惑する慧に、クロノと名乗った人物はゆっくりと説明する。時計、そう聞いて慧は茫然とした。いつの間にか手に持っていたはずの時計は首にかかっている。
「意思が、ある……のか」
「肯定します。とはいえ私がこうして姿を現せるのは、私が極めてマスターと相性が良く、そして私がそこらの能力と違い大きな力を有しているからこそ、です。他の能力にも意思と呼べるものはありますよ」
「なるほど、変な夢だ」
いきなり他の能力を侮蔑し始めたクロノに、慧は疲れてるんだな、と心の中で呟く。軽く溜息までつく慧に、クロノはやや苛ついたのか、
「マスター。自分の能力の言うことくらい信じましょう」
語気を強めてそう言った。
「さあてな。本当なら起きている間に声をかけてくれ」
「ちょっ、マスター!? 話を聞いてくださいマスターッ!」
慧は夢だと確信して目を閉じた。徐々に慧を呼ぶ声が遠くなる。
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「朝から最悪だ」
ザアザアと雨音が耳を打つ。外を眺めながら慧は無意識に時計を握る。
慧は雨が好きじゃない。これもあの変な夢を見たからか、などとそんなことを考えていると、
『どうしてでしょう?』
という聞き憶えのある声が頭に響く。慧は幻聴か、と思わなくもなかったが、起きている時に声をかけろと言ったのは他ならぬ自分自身である。
「まさか……」
『ええ、クロノですよ。せっかく私を行使する方法を教えようとしましたのに、どうも私のマスターはどうしようもないゴミカス野郎のようです。だからあのクソ女に殺されかけたんです。理解できていますか?』
「そこまで言わなくても……」
口うるさい上に口が悪い能力だ、と慧は頭の中で罵る。
『いいえ、言わなければ伝わらないことは多いでしょう。それと……』
「それと?」
『独り言はお止めになった方が良いのでは? 私には念じるだけで通じます。口うるさい上に口が悪くてどうもすみませんでしたね』
そのあまりの辛辣さに慧は目が覚める。と同時にゾクゾクと背筋に走る寒気に思わず身震いした。
「す、すいませんでした……」
『くれぐれもお気をつけください。邪なこともすべて筒抜けですので。例えばですね……いえ、やめておきましょう』
慧の額に汗が流れる。
本来、能力とは行使されるものであって決して能力者の上に立つことはない。だが今慧とクロノでは、慧が下に敷かれそうになるという物珍しい状況が起こっていた。
『……それで、どうすればクロノを使えるんだ?』
『マスターは言い方と言うものを知らないのでしょうか。まあいいでしょう。簡単です、イメージしてください。雨が、音が、空気が、そして自分以外のすべてが時を止めた世界を』
慧は深呼吸する。そしてイメージを始めた。雨が止まり、音が止まり、光が止まった。そんな世界を。
次の瞬間、慧の目に入った雨が動きを止めていた。何もかもが身じろぎ一つ許されない。そんな時間は決して長くは続かない。三秒と経たず、頭が焼ける様な感覚にケイは襲われ雨が再び音を奏で始める。
「うぅッ」
天井知らずの頭痛に思わず呻き声が口から出る。
『Well done! さすがはマスターです、いきなり成功するとは』
クロノの声は慧に届かない。あまりの痛みに頭を抱えて治まるのを待っていると、数分と経たずに勢いよく扉が開かれた。
「巨大な能力波長を観測したから来たけれど大丈夫かしら」
「問題、ない」
そう答えた慧に、乃彩は呆れたと言わんばかりに溜息を吐き、じとっと慧を見つめる。
「明らかに処理仕切れてないわね。何をしたのかは知らないけれど、抑えないとあなた死ぬわよ」
「よくわかったよ」
今まで経験してきたどんな病気もお話にならない頭の痛みに、慧は乃彩の言っていることが事実だと思えてしまう。いや、実際に死ぬのだろう。
「それより朝食、出来てるわよ。呼びに来る途中だったのだけれど朝から走る羽目になるとはね」
「悪かったな、今行くよ」
立ち上がろうとした慧は視界が歪み、思わずベッドに倒れ込む。
「ふぅ……良いわよ。待っていなさい」
「ありがとう」
微笑したあと乃彩は部屋から出て行く。
『癪な女ですね。まったく、マスターに馴れ馴れしいことこの上ない。ですが、あの女の言うこともあながち間違ってはいない、ですね』
『不機嫌だな』
『ええ、もちろんです。ですが今は優先順位があります。早く私を、刻時壊敗を使いこなすことです』
頭に直接響く声が苛立ちを含んでいることに慧は首を傾げる。
『いいですか、マスターはゲームでいうとLv3くらいのスライムです』
『スライムって、将来性あるのかそれ』
『しかし周りにいるのは、さっきの女でおよそ40。昨日の空間使いは90とかあるんです』
『スルーか……』
慧のその呟きにクロノが反応を返すことはない。
『マスターは何かの弾みでその青い粘液を地面にぶちまける事になりかねないということです』
『そう簡単になるか?』
『マスターの意識が完全に無くなれば私がのっと……失礼しました。代わりに敵を倒すことは出来るかもしれませんが、出来ない可能性の方が高いでしょう』
不穏な単語に慧は頬を引きつらせる。とはいえ、事実その状態に一度はなっており、感謝していないこともない。そうでなければ慧は間違いなく、この場に五体満足でいる事は無かったのだから。
『ですからマスターには早くあの空間使いをボロ雑巾のように出来るくらいになって頂かないと困るのです。わかりましたか?』
慧が返事をしようとしたその時、部屋の扉がノックされる。
「高塒くん、食事持ってきたわよ」
「これ、朝国が作ったのか?」
料理自体はシンプルなものばかりだが、自分が作るものとは比較にならず、慧は思わずその出来栄えに驚く。
「乃彩、で良いわ。作ったのは使用人よ。私が作っても良かったのだけれど、ここのところ仕事が詰まっていてね、朝と夜に仕事をしないと終わらないの」
乃彩がPBCの実質の社長だと思い出した慧は、思わず感嘆の声が漏れる。
『間が悪い女です。それにマスターも鼻の下伸ばしやがって、です』
落ち着け、という念を込めながら時計を優しく撫でると、ひゃっという悲鳴のようなものが慧に聞こえる。唸り声は聞こえるが撫でられること自体は嫌ではないようなので、慧はそのまま撫で続ける。
「そういえば、昨日の制服のままっていうのは嫌でしょう。後で新しいのを持ってくるわ」
「そんなことまでしてもらうわけには……」
「不衛生なのは良くないわ。それに同じ仲間となるのだから当然のことよ。食べ終わったら食器は部屋に置いておいて良いわ」
『あんな女より私の方が役に立つのに、マスターを支援出来るのに……』
扉から乃彩が出て行くなりクロノが恨めしそうな声を再度あげる。
「お、おい。落ち着けって」
そして時計を見て難しい顔をしながら小声で話しかける男。つまり側から見れば変な人がそこにはいた。
『私が顕現出来れば……』
『そんなこと、できるのか? えっと……時計なんだろ?』
『今マスターが私の能力を1%も使いこなせていないからです。あれは私の極々一部です』
『俺が能力を使いこなせればお前の見た目が俺に現れるってことか?』
身長はそれ程高くなく、ローブを着ていたためにあまりわからなかったが、手も真っ白で細かった。慧はどちらかといえばそこそこがっしりとした体躯をしている。あまりにアンバランスな自分を想像した慧はなんとも言えない表情となる。
『そうではなく……簡単に言えば私が現実に現れることが出来るということです。実体有りで』
『そう言えば鈴は戦闘の時に能力を顕現させていたのか?』
『させてないです。一つ聞きますが貴方は手に止まった虫を全力で払いのけますか?』
『そりゃ、しないけど』
クロノの言葉にかなりの棘がある。今の問いが機嫌を損ねたことは短い付き合いであれど、慧にはすぐにわかった。
『良いですか、あの空間使いは化物です。能力を完全に使いこなしていると思って良いでしょう。それでも顕現は疲れるんですよ、普段通りに能力を使うよりも遥かに』
それなのに顕現させようとしていたのか、という言葉は飲み込んで、慧はクロノの話に相槌を打つ。
『あの女は私たちと戦う前から既にかなりの能力を使用していました。どこかの空間の維持でもしているのでしょう。顕現しないのはキャパシティを超えないようにおそらく抑えているのだと思われます』
『本当に規格外だな』
『そうですね。私たちは本気で相手するまでもないということですよ。実際制圧されましたし』
『それは、そうだな』
能力を使用する難しさを少しとはいえ理解できた慧からすると、鈴を化け物と言ったクロノのこともわからないこともない。
『空間を形成し、物体を再現、配置し、剰え空間に条件付与までしている。あの口ぶりだと幾つか作成した空間は保存出来るのでしょう。その上で、恐らく物体干渉の能力も使用していました。正直人間の扱えるキャパシティを超えていると思いますね』
『お前は、能力とは一体何なんだ?』
『生物の持つ可能性、とやらでしょうか。マスターの願い、希望……そんなものを現実へと現すためのものが私です』
能力。慧は考えるほどにわからなくなる。今クロノが言ったこともよくは理解出来ていない。
『しかし、今はそんな事は些細なものです。今日から共に頑張りましょう、マスター』
そんな不安を祓うように、透き通るような声が慧の頭に響くのだった。




