ある雪の日
★
見渡す限りの雪景色だった。
静かで、温かみを感じる街の風景。
そこに白い雪が覆いかぶさり、それを街灯が照らしていて、幻想的な情景だ。
このビルは、この辺りでは一番高い建物であるから、この景色がこの街の全容ということになるのだろう。
人生の最後に見るには中々悪くない眺めだ。
こんな景色を見てしまったせいで、未だに踏み出せないでいるのかもしれない。
私の人生を終わらせる、最後の一歩を。
なぜこの場所を選んだのか、そう問われれば、「当てつけ」と答えるほかないだろう。
台詞に直すなら
「あんたたちの都合で切った歯車が帰ってきたのだ」
とでもなるだろう。
子供っぽい、筋違いな理由だ。
だがそれをのみこみきれるほど、私は余裕のある人間ではない。
いや、無くなってしまった。そんな自分を省みて、また情けない、許せないと思う。
こんな情けない自分など、生きていても仕方ない、と。そう思ってここに来たはずなのに、中々踏み出せずにいる。
未練がましい。
ここに来るまでに散々そんなものは無いと確認してきたはずなのに。
これ以上生き恥を晒すぐらいなら、と心に決めて来たはずなのだ。そうこうしているうちにまた自分が情けなくなってくる。
既に日が昇り始め、季節相応に降る雪が、ろくに暖をとれない私に惨めさと「まだ生きている」実感を与えている。
そろそろ誰かに見つかって騒ぎになるかもしれないな、などと思っていた矢先、少し変化が訪れた。どこからともなく、シャンシャンシャン、と鈴の音が聞こえてきたのだ。
こんな季節だ。
こんな鈴の音はどこから聞こえてきても何の不思議でもない。
だが、踏み出すタイミングを決めかねていた自分にとって、どんな状況の変化だろうと、それは踏ん切りをつけるには都合のいいことだった。
少しずつ重心を傾け、後は重力に従った。
こんな明け方に、いったいどこから鈴の音が聞こえてくるのか、などと考える余裕は無かった。
☆
コーン、コーン、と掛け時計の音がする。どうやら寝てしまったらしい。
まだ少し瞼が重い。
机に突っ伏したまま、手元の懐中時計を確認する。
正午だ。
そろそろ終業式を終えて薫が帰ってくるだろう。
名残惜しいが、そろそろ寝ているわけにはいかないようだ。
体を起こし伸びをする。
そこで初めて自分が泣いていることに気が付いた。
「…どうしたんだろう」
なんだかとても悲しい気がしてくるが、それが何なのかは分からなかった。
冷蔵庫のケーキとクローゼットの大きなプレゼント袋を確認する。
プレゼントが出しっぱなしというわけでも、ケーキをしまい忘れていた訳でもなく、とりあえず抜かりはないようだった。
テーブルに5人分の皿を並べると、また一息つく。
ため息も少し混じっていたかもしれない。
それでも、今の現状は少し前に比べたら大分落ち着いた方で、こんなに気持ちに余裕があるのは久しぶりだった。
そのあたりはやはり明音に感謝するべきなのだろう。
今年のクリスマスは葵の家でパーティよろうよ、と親友の明音の言われたのは、つい先日のことで、その準備もあって少しばたばたしてしまっていたけれど、おかげで気持ちを切り替えることができた訳で。今思えばそういった気持ちを整理する時間を作らせようとしていたのだろう。
そのへんは流石学生時代からの親友、感謝するしかない。
「ただいまー!」
ぼんやり頭でそんなことを考えていると、玄関口から寒さなんか全く感じさない元気な声が聞こえてきた。
「おかえり。純ちゃんはどうするって言ってた?」
「いったん家に帰って純ちゃんのお母さんと一緒に来るって」
薫は玄関から上がると、自分の部屋に荷物を置き、リビングのほうにやってきてせかし始める。
「ねえママ、ケーキは?もうあるんでしょ!早く見せてよ!」
見てどうするつもりなのだろう。
「はいはい、手を洗って、うがいして、通信簿見せて、それで純ちゃんたちが来てからね」
それを聞いた薫は急にしおらしくなってしまう。
「あんた、また算数が悪くなった、とか言わないよね?」
「…細かいこと気にしてると、小じわが増えるよ!」
「いいからさっさと持って来い!」
そう叫ぶが早いか、薫は自室に駆け込んでいった。
あの子は今回の件に関しては間違いなく私以上に思うところがあるはずで、幼いながらにいろいろ考えている、と思うのだが、そんなことは少しも感じさせない明るい様子に私は少し安心する。
そして同時に、申し訳ないと思う。
私たちのせいであの子はこの難しい時期に余計な悩みを与えてしまっているのだ。
もしかしたら、私たちを気遣って明るく振舞ってくれているのかもしれない。
携帯電話にメールが入る。
明音からだ。
『ゴメン、急用できた。一時間くらいしたら行く。純は向かわせたから先やってて。』
どうやら薫は、ケーキお預けを回避したようだ。
それまでに通信簿を持って来ればの話だけど。
テレビでは、ビルからの飛び降り自殺のニュースが流れている。
楽しいパーティの席にはふさわしくないと思って、テレビを止める。
★
パチパチという、何やら懐かしい、暖かげな音で目を覚ます。
なんだ、囲炉裏でもあるのか、と少しぼやけた頭で辺りを見回す。
煉瓦作り、と言った雰囲気の部屋で、音の出どころらしき暖炉があった。
さらに、どうやら私は、毛布に包まって、椅子に座っているようだった。
暖かい。
とても久しぶりにそう思った。出来るならもうしばらくこうして居たいと思った。
思った後で、少し頭が働いてきて、自分がビルから飛び降りたことを思い出した。
これは果たしてどういうことなのだろうと私は困惑した。
毛布にくるまったまま体をあちこち触るが、なんともない。
ということは、私は救助されたのだろうか。
しかしあの時、私は確かに一人であったし、飛び降りる際にも下に救助隊のマットなんてものは見ていない。
私をあの状態から救助することは、私の知る限り不可能だった。ならば私は間違いなく地面に激突したはずである。
「ひょっとして、ここが死後の世界というやつなのか」
私はそのような迷信の類を一切信じていない人間だが、こんな状況になると、こう言った考えが生まれてくる。
そんなこと考えていたところで、背後から聞き覚えのある音がした。
飛び降りる前に聞いたシャンシャン、という鈴の音だ。
椅子から立ち上がって毛布に包まったまま様子を伺おうと振り向く。
情けない恰好だが、どうせ毛布を脱いでも惨めな格好には違いない。
振り向いた私は二度驚いてしまった。
まず一つ目に、そこには二匹の鹿がいたからだ。
あまり広くはないこの部屋に、角を立派に蓄えた鹿が、背中に何やらつけて佇んでいるのだ。
これには流石に声を出して驚いた。
「鹿が、鹿がなんでこんなところに」
こんな珍事の後なのだから、本来はもう一つのほうの驚きは小さく感じられるものだろう。
しかし、全くそんなことは無い。
むしろその鹿たちのおかげで、その事実がより奇妙な物となっている。
この部屋には、扉が無かった。
十字窓はあっても扉が無かったのだ。
ならばこの私や、目の前の鹿達は、果たしてどこからここへ入ってきたのだろう。
いや、私一人なら窓から入れるかもしれないが。
私は困惑する。
さっきも困惑したがさっきよりもさらに困惑する。
この奇特な状況を前に、なぜ自分がこうして無事でいるのか、と言ったことを疑問に思うことすら忘れてしまっていた。
「鹿じゃねえよ、おっさん」
突然、随分と不遜な物言いが聞こえた。
しかしこの場には私と鹿しか居ないはずであるので、私は声の主を探して狭い室内をきょろきょろと見回す。
が、声の主たる人影は見当たらない。
「こっちだよおっさん」
声の方へと振り向くと、鹿がこっちを見ている。まさか。
「この鹿が?」
そんな馬鹿な。
「だから鹿じゃねえって言ってんだろ! よく見ろ、トナカイだトナカイ!」
どうやらその馬鹿らしい。
その声は確かに、目の前の赤い鼻の鹿、ではなくトナカイから聞こえてきているようだ。
「全くあんたが橇に突っ込んで出きたせいで、こっちの仕事は滞りまくりなんだ! それに加えて鹿と間違えやがって!」
赤鼻のトナカイが一気にまくし立ててくる。
しかし私は、目の前の喋るトナカイに呆気にとられて、返す言葉が全く出てこない。
私がそうしているうちに、赤鼻のトナカイに答えるように、今度はもう片方のトナカイがしゃべり始める。
「もういいルドルフ。やめて差し上げろ。困惑している。」
「だけどよドナー、現にこいつのせいで俺たちの仕事が…」
「わざと橇に飛び込んでこれるはずがないだろう。悪気はないのだ、責めても仕方ない。それに、皆が遅れを取り戻そうと頑張っているのだ。その辺にしておけ」
ルドルフと呼ばれた赤鼻のトナカイは、舌打ちをしてそっぽを向いてしまった。
そして今度はドナーと呼ばれたトナカイがこちらに語り掛けてくる。
「連れが失礼した。彼はまだ若く、誰より一生懸命なのだ。気を悪くしないでやってくれ」
「い、いや、こちらこそ、どうやら迷惑をかけてしまったようで…」
正直呆気にとられていて、気を悪くするどころでは無かったのだが、丁寧な口調に釣られてしまった。
★
どれだけ私が、世間の流行に疎く、そういった類の話を馬鹿にしていようとも、さすがにこの状況が意味することの意味くらい理解できる。
よく見れば、トナカイたちの背中には、大きな橇が繋がれているし、首の鈴や、ルドルフという赤鼻のトナカイの存在と、「状況証拠」に関しては最早疑う余地は無い。
ならば問題は。
「この状況そのものが有りえないことだ。」
「まだ言ってるぜ、あのおっさん。」
ルドルフに毒付かれる。
だがしかし、いくら目の前の光景が完璧に「ソレ」の存在を認めていても、「ソレ」が存在し得ないのだから、最早「目の前にある現実」を疑うしかない。
「そうか、私は死に損なったのだ。落ちる前に変な音を聞いたせいで、意識のない中で、こんなくだらない夢を見ているんだ」
私は街が一望できる高さのビルから飛び降りたのだ
。万に一つも生きているとは思えない。
だが、目の前の光景を受け入れるより、僅かに現実的な気がした。
「まあ、気持ちは分からなくもないが」
「こっちとしてもまさか橇に人が飛び込んでくるとは思いもしなかったしなぁ」
二匹のトナカイたちにも私の心境は理解できるらしい。
らしいのだが。
「あなたは私たちの橇に物かって自殺に失敗し、今ここにいるのだ」
「いい加減納得しろって」
彼らはそういうことにしたいらしい。
「そんな話があるか!」
私だって、もう目の前の光景を否定するのを諦めていた。
だが、心のどこかの、「そんなことはあり得ない。認められない」と言う感情に引っ張られていた。
もう半分はやけくそだ。
「そんなに言うなら、証拠を見せてもらおうじゃ無いか、君たちの橇が、私受けけ止めたという証拠を!」
「なら、見てみるかの。」
突然の、背後からの声だった。
相当しわがれているが、ぼけた感じはなく、聡明な印象も受ける声だ。
私も決して若くはない、むしろ「中年」と呼ぶにもギリギリなくらいなのだが、声の主はどうやら私より年上のようだった。
遂に来たか、と思った。
私だってこの流れで次に「何が」登場するのかくらいわかる。
とうとう否定しようのない決定的証拠とやらが、このドアのない部屋に現れたと言うことだろう。
私が背後に振り向けないでいると、声が聞こえた方向から、パチン、と指を鳴らす音が聞こえた。
瞬間、私は空中に投げ出された。
周りを覆っていた赤煉瓦達は消え失せ、踏みしめる床を失った私はそのまま下へと吸い込まれていく。
「うあああああああああああああああああああああああああああ!」
そんなに高い場所から落ちた訳では無いらしく、すぐに地面が見えてきた。
下には結構な数の人影が見える。
ぶつかる、そう思って目を固く閉じると、襟首をぐっと掴まれ、その場に停止した。
「さっきは自分から飛び降りたくせに」
上から声が聞こえる。
「…覚悟して飛ぶのと、急に落ちるのとじゃ全く違う…」
力なくそう答えるのがやっとだった。
「ほれ、いつまでそうしておる。目を開けなさい」
どうやら引き上げてくれるのでは無いらしい。
いつまでもそうしているわけにもいかないので、私は促されるまま目を開けた。
橇に引っかかった証拠になるかは定かではないが、「この状況を信じる証拠を出せ」と言われて、これ以上の物は無いだろうという光景が、そこにはあった。
私だ。私であったであろう肉塊が警察に囲まれている。
私だからこそ、それが夢や妄想の産物などではなく、私自身だということに納得できた。
腹の奥から何かが込上げてくる。たまらず口を押えた。
声の主も汲み取ってくれたようで、また指を鳴らす音がして、気が付くとさっきまでの暖炉の部屋に戻ってきていた。
床に突っ伏して込上げるものを吐き出した。
不思議なことに物は何も出なかったが、それでも吐いた。
気持ち悪さを体の外に出し切りたかった。
「わしらの橇は、いやわしら自身も、分かり易く例えるならば魔法みたいなもので出来ておる。そこに、お前さん達の肉体のような実体は無い。じゃから、お前さんの魂は橇に引っかかっても、体は落ちていくだけじゃ。」
声の主、私を掴んだ真っ赤な服に真っ赤な鼻で、白くてもじゃもじゃの長髪で、白いひげを蓄えていて、見事な先折れ帽子までかぶった老人はそう説明した。
☆
「じゃあ、このユグドラシルって会社が全部悪いの?」
「そうでも無いんだ。このこうたって奴の言う通りにしても、結局最後にはみんな死んじゃうから、どっちもどっち。」
ケーキをつまみに薫と純ちゃんがテレビの話に花を咲かせている。より正確には、薫が純ちゃんに自分の知識をひけらかしているに近い。
連絡があった通り純ちゃんは一人で家にやってきた。
流石に「カッコつけたい」純ちゃんの横でお預けはかわいそうなので、ケーキを出しあげた。
我ながら甘い。
「ママ、ジュースー」
「ママはジュースじゃありません」
おかげで調子にのってパシリ扱いである。
後できっちりやり返させてもらうとしよう、なんて思いながら冷蔵庫に向かう。
台所でジュースを注いでいると、純ちゃんがやってきた。
「あの、これ、落としました」
と懐中時計を持ってきてくれた。
「ありがとう、ごめんね」
どうやら立ち上がる拍子に落としてしまったらしい。
時計を受け取ると、部屋の方から薫も出てきて、
「どうせもうすぐ買い替えるのに。」
と言ってきた。
「そうなの?」
「そうだよ。ほら、文字盤の上に、今年の数字が入ってるでしょ。」
純ちゃんも確認して「あ、本当だ。」と言う。
「だから、もうすぐ来年の奴を買うんだよ。だからこれはもう使わなくなるから、壊れても無くしても大丈夫」
「なわけないでしょ。適当言うな」
と、一喝。純ちゃんの前で知った口がききたかったのだろうかこいつは。
「どうせ仕舞ってあるだけなんだから、壊れてても同じじゃん」
そう毒付いて薫は部屋に戻っていく。
「あの、年の表示を動かせる懐中時計だってあるんじゃないですか?」
「ああ、違うの、これはね、『その年の証』なの。」
「その年の、証?」
「そう、またしっかり生きてやったぞ、っていう、『証』。」
☆
漠然と、「形の残るような生きた証」を作りたいと思っていた。
理由は、父へのあてつけ。あまり褒められたものではない理由だ。
私の父は、「許せない」人だった。
自分の価値観を絶対の基準として、その範囲外の物を認めることができない、許すことができない、とても不器用な人だった。
私はそんな父が嫌いだった。
父も、私のことが嫌いだった。
私は父にとっては、「自分の知らない許せないもの」だった。
だから私は、自分と言う存在が、しっかり生きていたのだという「証」を残したかった。
あなたの認めなかった私と言う存在は、立派に生きたんだと、父に証明するために。
そんな時に、街でオーダーメイドができる時計屋さんを見つけた。
時間と言う、ただ過ぎていくだけのものを、形として映し出す時計。
その時計には、私の生きた時間が記録されていくのでは無いか、そんな思い付きに、我ながら酔ってしまったのだろう。
それから毎年、その年その年の時計を作って今まで過ごしている。
父に見せる機会なんてないだろうに、自分なりの形で自分の人生を記録しているのだ。
★
久しぶりに一張羅を着て歩く自分の姿を見ても、湧いてくるのは虚しさだけだった。
今更になってから現世への未練なんて感じてきてもどうしようもないので、ある意味正しい反応なのだろう。
やはり私は、自分の自殺に何の後悔もないのだと実感する。
結果的に、こうして手荷物を抱えて未だに現世にとどまってしまっているが、これはもう私の人生ではなく、自然現象の一部なのだと思うと、とても気が楽だった。
もうあの惨めな人生を送っている私は居ないのだ。
★
「お前さん、落ち着いておるのう。中々にショッキングな状況だと思うのじゃが」
出すもの出して、落ち着いた私に、白髭の老人、サンタクロースは言った。
「元々、自分で飛ぶことを選んだんだ」
自分の死体は流石に堪えたが、今はそんなに悪い気分じゃない。
「むしろ中途半端に生きてなくて安心してるくらいさ」
病院のベットで一生誰かの世話になり続ける余生。ホームレスより惨めだ。
そんな状況になっていたらますます自分を許せなくなってしまっていただろう。
だが、この状態にも問題はある。
「何故そこまで自分を卑下し、消そうとする。お前さんの人生はそんなに無価値じゃったのか?」
「ああ。もう価値なんて無かったね」
仕事ばかりに一生懸命で妻が病気に倒れた時も碌に構ってやれなかった。
あいつは私の事を許してはくれないだろう。
子供は、いない。
会社にはお前のような頭の固いだけの男はもう必要ないと首を切られた。
貯金も無くなり、気が付けばただ生きているだけの畜生になっていた。
これ以上、惨めな姿をさらし続けることを、私自身が許せなくなった。
だから自分でけじめをつけた。
「そう、けじめだ。それだけのことだ」
サンタに語り掛けるというよりも、自分に言い聞かせるように、そう言い切る。
「だから、そうだな、強いて言えば、あんたに憐れみの目で見られたりすると、最悪だな。死んだ甲斐がない」
「わしは神では無い。お前さんに命の有難味とか、そういうことを説教する気もないし、資格もない。お前さんに後悔がないというのならば、それは事実なのじゃろう」
顎をさすりながらサンタクロースは続ける。
「しかしじゃ、お前さん、この後の予定はあるかの」
返答に困る質問である。
予定も何も、本来私はとっくにあの世とやらに居るはずで、こんな風に伝説の存在と会話している今の現状がすでに予定外だ。
そう考えると、新たな疑問も色々と浮かんでくる。
「私は今後、いつまでこうして意識を保っているのだ?」
こんな事すら分かっていない。
こんな状況で、今後の予定も何も無い。
「おっと失礼。それはそうじゃろうな。ではそのことも含めての相談なんじゃが、こっちもの、今こうしている時間も惜しい状況なのじゃ」
「おい旦那、まさか…」
「そのまさかじゃよルドルフ」
赤鼻のトナカイに返事をすると、サンタクロースは一息置いてこう続けた。
「少し、わしらの仕事を手伝ってはくれんか」
★
偉く抽象的な地図を頼りに歩いているのだが、不思議とどんどんと先に進んで行けた。
私がこの街で育ってきたというのもあるが、これがサンタクロースの言っていた、「送る力」なのだろう。
私がサンタクロースの仕事の手伝いをする。
その響きは最早完全におとぎ話のそれである。
「わしらの仕事は、『誰かに何かを送りたい』、そんな気持ちを叶えて運ぶことなんじゃよ。」
私が手伝ったら、それはサンタクロースからの贈り物ではなくなってしまうのではないか、と言う私の問いに、サンタクロースはそう答えた。
「わしは神では無いが、性質は神と同じじゃ。人々の『こうありたい、こうあって欲しい』、そんな願いからわしは出来ておる。わしの場合は『誰かに何かを送りたい』じゃ」
例えば我が子にプレゼントを送りたいと願うお父さん、お母さんの気持ちを、無事にその子まで届けるのがわしらの役目じゃ。
じゃから、全国のお父さん、お母さんが、枕元にプレゼントを置くのも、立派なサンタクロースの贈り物なんじゃよ。
とのことだった。
私にはそんな体験はもちろん無いので、共感は出来なかったが、たしかにその例えは理解はしやすかった。
「お前さんの魂は、本来なら肉体を離れてすぐに、お前さんらの言うあの世に行くはずじゃ。じゃがお前さんはわしの橇にぶつかって、わしらの力の源の、魔法のようなエネルギーを受けて、未だに形を保っているわけじゃ。そしてその源とは『誰かに何かを送りたい』という願い」
「つまり、あんたの仕事を手伝ってそれを消費すれば、私も成仏できると?」
「おおむね、そんなところじゃな」
勿論、ちゃんと出歩けるような恰好を提供するし、物に触れるようにする、と付け加えてられた。
そうして私は今、小包を持ってこの道を歩いている。
地図が確かならそろそろ目的地に到着するはずだ。
「あの、貴方もしかして…」
不意に、後ろから女性に話しかけられた。
知り合いに見つかったらしい。
面倒なことになったな、と内心で毒付く。
こんな状況で知り合いに会ったら、なんと話して切り抜ければいいのだ。
いっそ姿が見えない幽霊常態にしてほしかったものだ
そんなことを考えつつも、無視するわけにもいかない。
そういう性分なのだ。
損な性格に損な役回りだ、という思いを心に留め、恐る恐る振り返る。
「あ、やっぱり」
そこにいた婦人に、私は声を出せなくなってしまった。
「お久しぶりね。あの子の葬式以来かしら」
☆
「そういえば昨日、時計屋さんにこれ直してもらいに行ったんだけど、もう来年の時計出来たって伝えといてってさ。」
腕時計を指さしながら、明音は言った
「やっぱもう出来てたかぁ。今年もまだ注文してなかったのになぁ。」
苦笑いしながらそう答える。
何年か前から、時計屋さんは「葵ちゃんは貴重な常連さんだから」と毎年何割か引いて特注の時計を作ってくれてるけれど、それでも、時計屋さんからしたらいい商売だな、と思った。
「伝えてくれてありがとうね。」
「いいっていいって。送ってもらってるんだから、これでおあいこ」
明音の用事は思ったより長引いてしまったらしく、駅に着いてから捕まえる予定だったバスを逃してしまい、私がこうして車で駅まで迎えに来たというわけだ。
普段からよく会ってはいるけれど、最近は薫や純ちゃん、たまにうちの連れなんかも一緒だったので、こうして二人きりで話をするのはなんだか久しぶりだ。
「…純ちゃんもあんたも、いつも薫と仲良くしてくれてありがとね」
不意に、そんな言葉がこぼれた。さっきまで、楽しそうな薫を見ていたせいかもしれない。
「何言ってんのよ、それはこっちの台詞でしょ。薫君のおかげ、純もすっかり元気になったんだから、感謝するのはこっちの方よ」
明音は明るく答えてくれた。
「まあ、流石に最初はびっくりしたけどねぇ。でも薫君、すっごくいい子だもの。あんたに言われなくたって、こっちから仲良くしてやるところよ」
それにさ、と明音は続ける。
「純の時といい、今回といい、あの子本当に強いわよ」
そう、あの子は強くなった。
私たちのせいで、とても大きな逆境に立たされているのに、あの子はそれを跳ね除けるくらい強くなった。
けど、その強さに、私は不安を感じてしまうのだ。
★
私は弱かった。
人より体が少し小さかった。
だが、そんな弱さでも、小さい世界で虐げられるには十分な弱さだった。
人は自分より弱いものを虐げることで、一番手っ取り早く自分の地位を高めることができるからだ。
そんな私をあいつは助けてくれた。
支えてくれた。
あいつが居たから、私は、自分が弱いだけで、間違っていないことに気付く事ができた。
私は、自分の正当性を周りに説いて、自分が正しいのだと訴えた。
自分が正しくあるから、あいつが応援してくれるのだ、そうも思った。
いつしかそれは、『逸脱を決して許さない』という、自分すら縛る大きなルールとなっていった。
正しい自分であることに必死すぎて、周りを省みる余裕なんて無くなっていった。
気が付いたころには、あいつは病で床に伏していた。
私はあいつに、どれだけ迷惑をかけたろう。
幸せにできただろう。
私はあいつに、恨まれていない自身が無かった。
★
妻に手を合わせるのも、思えばとても久しぶりだった。
私の家にあった仏壇は、家と一緒に売ってしまったから、もうこんな機会は無いだろうと思っていた。
それがこんないい服を着て、またの機会があるとは夢にも思わなかった。
「お茶が入りましたよ」
道で出会った婦人、私の義姉の家は、そこからすぐ近くで、そこは地図が示す目的地だった。
義姉は買い物の帰り、不思議な音を聞いてぶらりとしていた所、私を発見したのだという。
「不思議な音?」
「ええ、しゃんしゃん、て、鈴の音がして。それがなんだか妙に自分に迫って来るように聞こえて」
それでうろうろしてたら、貴方に会うなんて、と義姉さんは笑う。
「…貴方の笑った顔なんて、二度と見られないと思っていました」
私は自然と改まった口調になる。
私はあいつに恨まれていない自身も、目の前の義姉に許してもらえる自身も無かった。
そんな私の空気を感じ取ったのか、義姉も改まって話し始めた。
「私もそう思っていたわ。貴方が、あの子にかけた苦労を思うと、私には、とても貴方を許す気にはなれなかった」
けどね、と義姉は続ける。
「それは昔の話でしょ」
「え?」
「人の心は変わるのよ?確かに、不変であることは大事かもしれないわ。それはあなたの強さだし、大事なことよ。でも、変わらないことが、常に正しいわけじゃない。時が経てば、人は変わるの。変わってもいいの。それが人の心なんだから。理屈じゃないの」
なーんてね、と義姉さんは舌を出す。
「半分くらい、あの子の受け売り」
私の背後の仏壇を見据え、彼女は言った。
「あいつがそんなことを?」
「ええ」
『変わらないことがあの人の強さなの。だから、私は、変われる強さを持って、あの人を支えてあげたい。それが私の幸せだから』
あいつはそう言っていたという。
「私も、それを聞いたときには、すぐに納得できなかった。けどさ、時がたつと、あーあの子の言ってたことにも一理あるかもなー、なんて思ったりもするのよ。そういう時に素直に『うん、あいつも正しい』、て言えるのが『変われる強さ』ってことでしょ?だから、私もあなたの事、もうとやかく言ったりしないの」
ふふっ、と義姉は笑った。
私の心の中で、何かが動いたような気がした。
★
「ありがとうね、これ。最高のクリスマスプレゼントだわ」
私が届けた小包には写真が入っていて、そこには小学生くらいの男の子と、女の子の写真が何枚か入っていた。
孫かなにかだろう。
「どういたしまして」
晴れて私のサンタ業も終わったわけだ。
「ねえ貴方、こんなふうに郵便みたいなことしてるの?」
「ええ、まあ」
急なうえに代理で、今その役割を終えました、とは言わない。
「もう一つ頼まれてほしい荷物があるのだけど、構わまいかしら?」
どうやらそうもいかないらしい。
私の姿は未だはっきりとしている。
サンタクロースの言っていた、「力の源」はまだ消費され切っていない、と言うことなのだろう。
あの爺め、これを見越して私をここに寄越したに違いない。
「構いませんよ。お預かりします」
「良かった! じゃあ待ってて、今地図書いて持ってくるから」
知り合ってから今まで、ここまで快活な義姉と会話したことは無かった。
まして、まさかあいつの件で和解できるなんて思ってもみなかった。
死んでも仲良くできない、と思っていたから、死んだおかげで仲良くなれたのかもしれない。
などとくだらないことを考えていると、義姉が玄関口まで戻ってきた。
「はいこれ。あんまり揺らさないようにお願いね。」
多分ケーキが入っているのだろう箱と、かなり大ざっぱな地図を受け取る。
『送る力』とやらで今回も大丈夫だといいのだが。
「それと、これも」
そういって、もう一枚メモを手渡してくる。
「これは?」
「…娘さんの今住んでいる住所」
その名を聞いて思考が止まるのを感じる。
「気が向いたら、会いに行ってあげて」
「…私に、娘なんて居ませんよ」
そういうのが精いっぱいだった。
恐らく、とても冷たい響きになっていただろう。
★
娘は、妻が持ち込んだ縁談の話を全て断っていた。
その理由を本人から聞かされた時、娘とは縁を切ってしまった。
私には娘が、とても受け入れがたいものに感じてしまったからだ。
◆
ママは純のお母さんを迎えに、車で駅まで出発した。
だから今、家には俺と純の二人だけとなった。
嬉しいような気もするけど、どうしていいか分からない、そんな気持ちで全然落ち着かなかった。
そんな時間が多分十分くらい。
そしたら別の車が帰ってきて、結局二人きりの時間に何もできなかった。
べつにいいんだけどね、俺は。
ほんとだよ?
「ただいまー薫。純ちゃんももう来てるのかな?」
「はい、お邪魔してます」
「おかえり、お母さん」
もう少し遅くても良かったのに、とは言わないでおく。
「ママと明音ちゃんはどうしたよ」
「私の母が今、駅で、葵さんがそれを迎えに」
「ほうほう、なるほどねぇ。こりゃもう少しゆっくり帰ってくりゃ良かったかね」
お母さんがにやにやしながらこっちを見てきて、とっても腹立たしかった。
☆
最初は、純ちゃんがいじめられた。
グループで一人だけ意見が合わなかったとか、たしかそんな理由だった。
これに異を唱えたのが、我らが薫と言うわけだ。
勿論、そんなことをしたんだから薫も一緒になっていじめられた。
だがそのうち、薫の「父親がいない」という境遇が馬鹿にされ、次第に標的は薫自身になった。
母親が二人、この特殊な状況が薫によくない影響を及ぼすのではないか、という私の不安が形となったわけなのだが、なんと薫は、母親が二人いることの利点を並べて、いじめてきたクラスメイト達を論破してしまったのだという。
まだ小学五年生にして、凄まじい逞しさを見せた薫だが、私にはそれが、父とかぶって見えてしまうのだ。
「またなんか余計な心配してるでしょ」
お見通しと言わんばかりに助手席から声が飛んできた。
「余計な心配って何よ」
「顔に書いてあるぞ。あの子が、どこかで見たような、エゴの塊になっちゃったらどうしようって」
「…そんなにハッキリわかる物?」
「あんたと何年つるんでると思ってんのよ。わかるってその位。あんた分かり易いしね。あんたが同性愛者です、って言うのも私が最初にしゃべらせたんだからね」
「…そうでした」
恐ろしい親友だ。
私は連れどころか、薫の嘘だって見抜いたことないのに。
「こういう風に、二人で物を言える機会なんて滅多にないから、はっきり言っとくね」
明音が改まる。
「まって、ちょっと心の準備させて」
この親友が、こうして改まると、決まって核心を突かれて言い返せなくなってしまう。
「そういう心配は、せめてあんたが時計集めをやめて、父親を許してからにしなさいよ」
分かってる。
分かっているんだ、そんなことくらい。
こうして目を背けたい事実から目を背けさせてくれないのが、この子の厳しいところで、やさしいところなんだなと、改めて思いなおす。
「ちょっとまって、なにあれ?」
その核心を突き過ぎた言葉に、私が言葉を失っている間に、明音は何かに気が付いたらしく、目前に迫った我が家を指さす。
私も慌ててその視線の先にある物を確認する。
「…え、あれって…」
どうやら薫と純ちゃんを数人のクラスメイトが囲んでいるらしかった。
★
まだ、私に娘が居たころの話だ。
その日は学校の学芸会の日で、普段家庭に何もできていなかった私は、その日は必ず行くと、娘に約束した。
ところが、その日に急遽、職務怠慢が深刻な工場の視察が入ることになってしまった。
なので私はその視察を、数少ない友人の一人に代わってもらうことにした。
快く了承してくれた彼の笑顔と、「たまにはサービスしてやれよ」という彼の言葉が、今でもはっきり思い出せる。
当日、視察先の工場で安全点検の怠慢から、爆発事故が起きた。
私が病院に駆け込むと、そこには、両足を吊るされた友人の姿があった。
どんなに回復しても、二度と杖なしで歩けないだろうと聞かされた。
彼は私と目を合わせることもなく、「出てってくれ」と言った。
その後彼は会社を辞め、二度と会うことは無かった。
そこに、私の正当性などかけらも無かった。
だから私は、自分が決して許せなかった。
★
「なんとなく、会えるような気がしていたよ。」
ああ、私もだ。
心の中で同意したが、声には出さなかった。
やはり私は道に迷うことは無かった。
目的地は今時珍しい、こじんまりとした時計屋だった。
店先で店主と思しき男が杖を持って立っていた。
「そんなところで何をしているんだ。あまり無理をすると体に障るだろう」
「なんだか不思議な鈴の音がしてな。それを聞いてたら、どうしてか前に会えるかも知れないと思って、こうして待っていた。」
彼は落ち着いた声でそう言った。
そこには、憎しみや怒りと言った感情は微塵も感じられなかった。
「狭い店だが、まあ入っていけ」
そういって彼は慣れた手つきで杖をつき、自分の店に入っていった。
◆
「薫君…」
結局、純も出てきて一緒に囲まれてしまった。
中に居ればいいのに。
まあこれで、絶対に負けられなくなった訳で、これはこれで悪くないかもしれない。
「何しに来たんだよお前ら」
周りには、俺や純にいろいろやってたクラスの連中がいる。
ほんじんきょうしゅう、て、やつらしい。
「今日は、すごく大事な話をしに来たんだよ」
リーダーがそう言ってこっちに近づいて来る。
とっさに身構える。
けど、流石に数が多いな、やっぱり純は中に居た方が…。
「ごめんなさい!」
「…へ?」
俺も純もキョトンとしてしまう。
それに合わせて、他の奴らも次々とゴメン、ゴメンナサイと頭を下げてきた。
「いや、ほんとは冬休みに入る前にちゃんと謝りたかったんだけど、中々言い出せなくてさ」
「それでも、三学期までには言っておきたくて、みんな集まってきたんだ」
「お母さんが二人いたって薫は薫だもんな。本当に今までいろいろごめんな!」
目の前で、この前まで俺たちにいろいろやってきた奴らが、しきりに頭を下げて謝って来る。
俺と純は顔を見合わせる。
今までされたいろいろと、目の前で謝っているみんなの事を考える。
純は、こっちを見てそっと頷いた。
そうだな、こんな事考える必要もない。
「よし、許す」
「えっ、ホントに!?」
「人が人を許すのに、理由なんていらないって」
★
「お、手作りケーキか、ありがたいねぇ。独り身のクリスマスには贅沢すぎるくらいだ」
荷はやはりケーキだった。あまり揺らさないように来たつもりだが、大丈夫だったろうか。
「私の…俺の義姉さんとはどんな知り合いなんだ?」
「ほう、あのおばさんはお前の義姉さんだったのか。まあ、常連客だよ。月に一回は振り子時計の調子を見てくれって頼まれる。こんな商売にとっちゃ貴重な常連様だよ。」
ということは、お互いに私のことを知らずに、こういった巡りあわせになったらしい。偶然にしちゃ出来すぎである。
サンタクロースを勘ぐるのが正解だろう。
その後は、お互いに次の一言を決めかねている沈黙があった。
「俺を恨んじゃいないのか」
沈黙を破ってそれを聞く勇気が、私にはまだ残っていたらしい。
「…そりゃあまあ、恨んださ。リハビリは大変だったし、恋人には逃げられたしな。一時期は本当に殺してやろうとも思った」
当然だろう。
この件に関して私が許してもらえる要素はかけらも無い。
彼には私を恨み続ける権利がある。
「けどな、もういいんだよ。気にすんな」
しかし、後に続いたそれは、許しの言葉だった。
「…え?」
予想しなかった、望んですらいなかった許しの言葉に、思わず言葉を失ってしまった。
「…どうして」
辛うじて口から出たのは、疑問の言葉だった。
「俺が君に許してもらえる理由なんて、どこにもないじゃないか」
「確かに、あの事故のせいで足はこんなで不便したけどな、今の今まで、全部が全部悪いことばかりだった訳じゃない。リハビリの合間に時計いじってたのが、今では小さくてもちゃんと店を持てるまでの特技になったし、先立たれちまったが、リハビリ中に知り合った看護婦はカミさんになった」
お前のお陰で、とは思えなくても、お前のせいで、と思うことは無くなったと。
人を許す理由なんてそんなもんで充分なんだよと。
「だから、もう気にすんな」
と、彼はそう言った。
彼の言葉は、私の心に巣くう何かを十分動かしてくれた。
決して動かしていけないと思っていた、決めつけていた何かを。
「けれど、ダメなんだ」
私は訴える。
いつの間にか涙を流していた。
「君が俺を許してくれても、俺が俺を許すことができないんだ」
それは私が今まで自分を守るために、心にずっと飼い続け、大きくしてきた「怪物」だった。
「お前ならそう言うだろうと思っていたよ。お前は不器用すぎるから、きっと今でもそうなんだろうと思っていたんだ」
彼は呆れた声で「だから言いたいことがある」と続けた。
「人を許すのなんてな、お前の自由なんだよ。どんなきっかけでもいい。全然そのことと関係無くたって。だから思い出してみろ。お前は、この人生、少しも幸せじゃなかったのか?お前の娘は、本当に存在さえ許せないのか?あの子ににはあの子の幸せがあって、それをお前が理解もせずに切り捨てちまってるだけなんじゃないのか?お前の中に、あの子の幸せを望む心が少しでもあるなら、お前は、あの子も、自分も、もう許していいんだ。もう背負い続ける必要なんてないんだ」
あいつの、そして葵の顔を思い浮かべる。
義姉さんは言った。あいつが俺を支えてくれているのが、あいつの幸せだったんだと。
あの子には『ルール』の外に幸せがある。
ならば私はあの子の幸せを願うことぐらい出来るのだろうか。
私は、二人の幸せを願う私なら、許せるかもしれない。
そこに幸せがあるなら、私は、私の『ルール』の外のことを許せるかもしれない。
ああ、なんだ、簡単なことじゃないか。
何かが、流れていく音がした。
蓋をしていた何かを、何かが流していくような、そんな音だ。
☆
「いるならなんで止めないのよ絢子!」
車内から、クラスメイトに囲まれる事件の頓松を見て、聞いていた私たちは、家に帰ると私の連れである絢子がすでに帰宅していた事を初めて知り、驚いた。
いや保護者として止めろよそこは。
「男の子の見せ場を取るもんじゃないでしょ」との事だった。
あれも私と、死んだ夫と、あんたの息子なんだからちっとは信頼しなさいよ、とも言われた。
「でも、良かったじゃない葵。当面の心配はなさそうよ、薫君」
明音の言うとおりだ。
薫はあの時、迷わず「許す」と言った。
「人が人を許すのに理由はいらない」と。
もちろん、薫はまだまだ子供で、まだ世の中をよく知らないからこその発言なのだろう。
流石に、全ての事を許すのに理由が要らないとは思わない。
思わないが、昔の恨み位なら、今のこの幸せでチャラにしていいのかも知れない。
「…今年の時計、キャンセル出来るかな」
そう呟いて、当初の予定より数段規模が大きくなったクリスマスパーティの切り盛りに戻っていった。
★
「これを届けて欲しんだ。今のお前になら任せられる」
そう言って旧友が手渡してきたのは、なんだか派手な懐中時計だった。
蓋を開けると、文字が刻んである。
「The coming future、…『これからの未来』?何だこりゃ」
「いつか機会が来たら、常連の娘に渡したいと思ってた品なんだ。記録じゃなくて、未来をしっかり見据えろ、てね」
「それで、今がその時だって?」
「おう、あんた以上の適任は居ない。これ、地図だ。頼んだぜ」
「…ああ、この住所ならもう持ってる」
「今日は会えて良かったよ」
「俺もだ。ずっと言いたかったことを伝えることができた。もしかしたら、あの鈴の音が、俺のプレゼントをあんたまで届けてくれたのかも、なんてな」
「…そうかもな。」
さて、そんな流れで、もう一品預かることになってしまった。
しかし、どうやら私の体を維持している『力の元』とやらはもう限界らしい。
積もる雪を掻きわける私の足が消えかかってる。
最初とは逆に、私が届けたくても力が届けられなようになってしまった。
すまないが、この荷物は知り合いに代わりに届けてもらうとしよう。
一番の適任とは行かないかも知れないし、私の人生観を人生が終わってからぶち壊してくるような食わせ物だが、物を運ぶのに関しては最高峰の安心とネームバリューがある人物だ。
そっちで勘弁してくれ。
この日に死のうとして良かった。
いい日だったなぁ。
◇
「そうそう、お前さんが飛びだす前に、鈴の音が聞こえたってのは本当かのう?」
「鈴の音?ああ、聞いたよ」
それを聞いたわしは少し嬉しくなると同時に、少し悲しくもなった。
その鈴はな、誰かに届けたい思いが無ければ聞こえないんじゃよ。
お前さんには、思い残すことも、誰かを思う気持ちも、まだあったんじゃよ。
とは、言わないでおいた。
「飛び降りる踏ん切りが中々つかなかったから、いいきっかけになった」
「…お前さん、その話は今後、あの世でもしないでくれよ。風評被害もいいところじゃ。」
☆
パーティは終わり、みんな寝静まった後、しゃんしゃん、という鈴の音で私は目を覚ます。
聞きなれたような音なのに、どうにも放っておけなくて、私はベットを抜け出し、玄関から外に出た。
玄関先に、包装紙に包まれた見慣れない何かがあった。
不思議と、危険な物には感じられなかった。
拾い上げ、抱きしめてみる。
雪の中にあった紙の袋なのに、なんだか暖かい気がした。
まだ耳元では、しゃんしゃん、と言う鈴の音が聞こえている。
この鈴の音に乗って、私の思いも、あの人に届いたら良いなと。
そう、思ったのだった。
了
☆あとがき
この物語は、私が敬愛する星新一氏のショートショート、『ある夜の物語』というお話に着想を得て書かれています。
ある不幸な少女の元にサンタが訪れ、願いをなんでも叶えてあげようと提案すると、少女は「私より不幸な人がいるはず、近くに誰も信じられないかわいそうな男の人が住んでいるの」として、近所に住むガラの悪い男の元に向かってあげて欲しいと言います。その通りにサンタがそちらに向かうと、男は、「こんな自分にも誰か思ってくれる人が居るのか」と感動し、彼もまたサンタに他の誰かの元に向かうように頼み、次の人も、また次の人も…というお話です。
この『ある夜の物語』はサンタが人々のやさしさに触れ、「今夜一番幸せだったのは私かもしれない」と満足げに帰っていきます。私はこの「それぞれが意識していない思い、優しさ」がまた別の優しさにつながる物語を子供ながらに素敵だと思いました。
そこで私は、主人公が人々の思いに触れて、結果的に救われる物語を作りました。サンタが盥回しなら、この主人公たちはわらしべ長者ですね。あるものは人の優しさに触れて、またあるものは純粋さに触れて、凍り付いてしまった自分の心を溶かしていきます。
『ある夜の物語』の様に、人が人の心に触れ、人の心を動かす物語を作ろうと心がけて書きました。
また、自分で決めたことは意地になって、ちょっとしたきっかけでは動かなくなってしまうものです。
そのちょっとしたきっかけとして、サンタクロースはまさにうってつけの存在なのです。
非常識な存在で、それでいて絶対に敵ではない。とても書きやすかったです。
サンタクロースはある意味、僕の思い描く理想の救いのヒーロー像なのかもしれません。
私もこの物語で、読んでいただいたあなたに優しい気持ちを届けることが出来ていたら幸いです。