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エルッヘンの首都であるアルトゥールは、森に囲まれた美しい街である。人々は活気づき、大陸を横断する街道沿いにあるため商売も盛んだ。
エルネスタは目を細めて頭を抑え、大きくため息をついた。
どうにも気分がすぐれない。久々に都会に来たからか、少し人に当てられたのかもしれないし、これから話をしなければならない相手のことを考えているからかもしれない。
考え事をしているうちに、馬車は街の中の大きな貴族屋敷の門の中へと入っていく。
そこは、元々はエルネスタの実家であるアメルハウザー家であり、今はエルネスタの姉のアデルハイドとその夫であるジークリードの屋敷であった。
「姉さま!」
馬車から降りると、喜びに弾けそうな声と共に、少女が走り寄ってきた。三人姉妹の末の妹であるレーネだ。
エルネスタの姉であるアデルハイドと同じ光に透ける金髪は肩よりも少し長く、風にきらきらと輝きながら靡いている。幼さを残した顔立ちは、はっとするほどに美しく成長していた。着ているドレスも、昔着ていたようなたっぷりとレースを使ったものではなく、シンプルだがすっきりと体のラインを見せる大人びたデザインのものになっている。
レーネは、いつも通りエルネスタに飛びつこうとして、何かに気づいたらしい。不自然に停止すると、慌てたように棒立ちになった。
「お久しぶりです。お姉さま」
右手でスカートの裾を両手でつまみ、左手を胸に当てて淑女の礼を取る。
それでもちらりとエルネスタを見てしまうのは、褒めて欲しくてエルネスタの反応が気になって仕方ないからだろう。
エルネスタも同じく淑女の礼を取る。
「お久しぶり、レーネ。もうすっかり淑女になったのね」
彼女が望むように褒め、彼女の礼に応えると、レーネはぱあっと花が咲いたかのように喜色満面の色を顔に浮かべた。レーネは、エルネスタに、淑女になったと褒めてほしかったのだ。
可愛いレーネ。エルネスタは、彼女を見て悲しい気持ちになった。
末っ子のレーネは、家族全員に甘やかされ、かわいがられて育った。レーネは素直で良い子だ。しかし、同時に、今まで小さな世界で彼女の手に入らないものはなく、欲して得られないものもなかった。
だから、すべてが彼女の思い通りになると、悪意なく素直に信じている。
「お兄様が待っていらっしゃるわ。お部屋まで一緒に行きましょうね!」
レーネは、エルネスタの手をぎゅっと握った。
「これはこれは、我が義妹殿。わざわざ遠いところをよくいらっしゃいました」
ジークリードはエルッヘンの辺境の騎士階級の出である。驚くほどのハンサムだ。黒髪と日焼けした肌はエキゾチックで、冷たい青い瞳に見られただけで女性は歓喜の悲鳴を上げる、と歌ったのはどこの吟遊詩人だったか。
もちろん、吟遊詩人に歌われるほどに、相当の腕の持ち主だ。戦場では鬼神の如き振る舞いで数々の戦功を立て、異例の出世を遂げた。そして、アルトゥールから見て辺境とはいえ豊かな土地と商売地の領主でもあるため、金持ちでもある。貧乏な貴族から見ると、涎を垂らして飛びつきたいような結婚相手であった。
その中でもエルネスタの姉であるアデルハイドを選んだのは、ジークリードが貴族の身分を得たかったからということもあるだろう。
しかし、アデルハイド自身も求婚者が引きも切らず現れるほどの美女だったため、めくるめくロマンスがそこにあったのだと巷では言われている。
少なくとも、エルネスタは、アデルハイドからはそう聞いた。
「こちらこそ。お邪魔して申し訳ございません。義兄上にわざわざもてなしていただいて、恐縮ですわ」
「いやいや、エルネスタ殿に義兄と呼ばれると、どうにも照れますな」
メイドがお茶を置く。レーネと同じくらいの年齢だろうか、ブラウンの髪と目の、エルネスタが見たことのないメイドだ。エルネスタが彼女の顔をじっと見ると、その視線を避けるようにさりげなく視線を外し、部屋を出た。
「姉が初子を身籠っているというのに、臨月になるまで見舞いもせず、失礼をいたしました」
「……いや、喪はもう明けたとはいえ、旦那様がお亡くなりになったのですから、仕方のないことです」
そう言いながら、その瞳は傍若無人なまでにエルネスタを値踏みしている。男ならば仕方ないとはいえ、エルネスタは不快な気分になった。
さっさと話を切り出すことにする。
「申し訳ございませんが、実は今日はジークリード様に内密のお話があって来ましたの。そこの従者を下がらせてくださらないかしら」
ジークリードは少し考え、従者に目で合図をした。茶色の癖毛と青い目をした初老の従者は、戦場でもいつもジークリードにつき従っている者としてよく知られている。初老の従者は一瞬、戸惑った顔をしたが、一礼をして下がった。
「人払いをしてまでの話とは、何でしょうか」
ジークリードの問いに、エルネスタは小細工なく言い放った。
「レーネに手を出すのは諦めて頂戴。あの子はまだ14歳よ」
ジークリードが息を飲むのがわかった。
「どこからそんな噂を聞いたのかは知りませんが、私はそのようなことはしていません」
鉄面皮とはこのことか。ジークリードはうろたえた様子もなく、心外なことを言われた誠実な男のように振る舞った。いや、エルネスタが確信を得ていなければ、きっとここで迷ったことだろう。
しかし、エルネスタは迷わない。
「人目につかずレーネと二人になる機会なんていくらでもあるわね。最近、アデルハイドが身重なのをいいことに、代理としてレーネをエスコートして出かけることが増えているみたい」
「女主人のアデルハイドが動けない代わりを姉妹に頼むなど、よくあることではないですか」
「そう、おかしなことではないわ。でも、その名目で大人のドレスや装身具をプレゼントし、レーネに甘い言葉を囁いて、馬車の中で軽い触れ合いを楽しむことはできるわよね」
「誤解です。私はアデルハイドを愛している。そのような節操のないことはしない。……いったい誰からそのようなことを聞いたのです?」
怒りの色さえ顔に浮かべるジークリードに、エルネスタは静かに首を横に振った。
「エルネスタ殿、ことはこの私、ひいてはアメルハイザー家の名誉にもかかわることなのです。どうか、その不埒者が誰かを教えていただけないでしょうか」
「噂にはなっていないわ。まだ。だから、今のうちに来たの」
「それはどういう……?」
意味がわからないという表情で言いつのるジークリードの眼前に、エルネスタは右掌を静止するように出した。
「お互いに本音で話しましょう。レーネのことは噂になっていないけれども、それ以外のことならば私は知ってるわ。あなた、この屋敷のメイドにも手を出しているし、外にも囲っている女がいる。女騎士や貴婦人の中にもあなたと熱い仲のご婦人が何人もいる。かかわった女すべてに手を出す勢いね。遠い地にいるという帝王のハーレムでも真似ているのかしら」
「……」
それまでの礼儀正しい態度をかなぐり捨てたように、ジークリードの眼光が鋭くなる。
「隠し通せるとまでは思っていないでしょう。まあ、姉を大切にしてくれるならば、そこまで私は干渉しないわ」
戦場で幾多の敵を怯ませたその眼光に、しかしエルネスタはたじろいだ様子すら見せなかった。
「でも――レーネはやめて。あの子はまだ14歳で、あなたの妻の妹なのよ」
ジークリードは、一つ息をつくと、鋭い眼光を収め、再び紳士の顔を取り戻した。
「私はあくまでも、レーネのことは妹だと思っています。しかし、エルネスタ殿に誤解されるような行動は、今後慎むことと致します」
それでいいだろう、と言わんばかりの男の様子に、エルネスタは悲しげに首を横に振った。
「いいえ、あなた、まだわかっていないわね」
エルネスタは無言でジークリードを見つめた。
「一つ、面白い話をしてあげるわ。――私は、人の『死の瞬間』が見えるの」




