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第四章 求めよ、されど与えられん

 翌日、クロトは普通に教室にいた。

 相変わらず教卓に立って一生懸命教鞭(きょうべん)をとっている先生方をバカにでもするかのように怠惰(たいだ)(むさぼ)っている。

 (はた)から見ればまさにいつも通りのクロト。兇器(キラーマシーン)としての面影など微塵(みじん)(にじ)ませない。

 といっても元々周囲からは危険物として認識されているし、記憶が戻っただけで人格まで変異するようなこともないのでそれは当然と言えば当然だった。

 クロトはそのまま午前中白雪姫のように眠り続けていた。見かねたサクヤが何度か注意しにクロトの席にやってきたが、どうやら彼女は王子様にはなりえないらしく、どんなに耳元で大声を出してもクロトを(うつつ)へ呼び戻すことは叶わなかった。

 そして、クロトはこれまたいつも通り、まるで体内にアラーム機能でも備わっているのかと疑いたくなるほどの正確さで、四限の授業終了からコンマ数秒の誤差もなくパチリと双眸(そうぼう)を開眼させた。

「サクヤ、少し頼みがあるんだが?」

 ただ、定型化されたクロトの行動パターン的にはここから購買部に直行することになるのだが、今日はどうやら違うらしい。

 クロトは朝学校に持ってきて机に吊るしていた紙袋を持つと、ノソノソとダルそうに足を引きずりながらサクヤの席に近づいてそんな言葉を切り出していた。

「頼みですか? 何です」

「ああ、ワタライって昼飯どこで食べているのか教えてもらいたくてな?」

 そう質問した途端サクヤは若干眉をひそめる。疑うとまではいかないが、何故そんなことを尋ねるのか不思議といった表情だ。

「安心しろ。何か揉め事を起こそうなんて考えていない。むしろその逆だ。昨日あんなことがあったからな。一応和解くらいはしておきたいと思っただけだ」

 胡散臭(うさんくさ)いにもほどがある。あのクロトがニッコリ爽やかな笑みを浮かべながらワタライと仲直りしたいなんて到底信じられない発言だ。

「わかりました。そういうことなら案内します。私もその方がいいと思いますし、きっと会長もそういうことならクロトへの態度を改めてくれるかもしれませんから」

 だが、サクヤはクロトの言葉をあっさり信用してしまう。むしろ、クロトの口からそんな言葉が飛び出したことに喜んでいるかのように目が爛々(らんらん)と輝かせていた。

「助かる」

 クロトはサクヤの喜色満面の笑みに再び不似合いな爽やかスマイルを返す。全く、何を(たくら)んでいるのやら。

 ここから先のことは僕の与えられた筋書きには記されていないことだ。だからこれからクロトがどう立ち振る舞うのか、何をするのかまでははっきりとはわからない。

 まあ、事態がどう転ぶにせよ、僕としてはその様子を面白おかしく鑑賞させてもらうだけだ。

 

 クロトがサクヤに案内されたのは生徒会室だった。

 それは、まあ当然だろう。ワタライは仮にもこの聖蓮(せいれん)高校の生徒会長なのだから、生徒会室にいるのは至極当たり前のことだ。

 ただ、入室して目に飛び込んできた光景は残念ながらあって(しか)るべき当然の光景とは言いがたいものだった。

 生徒会室はワタライ好みの仕様に改築されていた。床にはレッドカーペットが敷かれ、校長室にある物より立派なソファーとテーブルに執務机。ガンガンに効いたエアコン、冷蔵庫、大画面テレビ、パソコン。加えて、壁に面した装飾過多な洋式箪笥(たんす)の上にはワタライの愛用しているマグカップに、今まさに絶賛稼働中のコーヒーメーカーまで備わっている。

 そして、その部屋の主たるワタライは優雅にソファーに腰かけながら昼食のピザを咀嚼(そしゃく)中だった。

 その光景は正直忌々しくなるほど(うらや)ましいものだった。

「いいんですか? 会長自らがこれだけの校則違反を堂々として」

 だが、クロトはそこで顔を歪めるのをぐっと堪えて、いかにも快適そうな室内を見回し、今まさにポコポコ音を鳴らすコーヒーメーカーを間近でじっと覗き込みながら皮肉を漏らすに留めた。

「ふん。呼んでもいないのにきたかと思えば、そんなことか。安心しろ、これらは全て学校から許可を得ている。私は何一つルールは犯していない」

 ワタライはクロトの嫌味を一笑にふすとそう主張する。

「い、いや、そういう問題じゃない。これは職権濫用(らんよう)以外のなにものでもないだろ」

 さすがにその言い分には納得しかねたのか、クロトはワタライの正面に座ると苦々しい表情で苦言を(てい)した。

「何を言っている。私は与えられた特権に見合うだけの義務と働きをきっちりこなしている。故にこれは職権濫用ではない」

 実にワタライらしい反論だった。

「はあ、あっそうですか」

 クロトはその台詞(せりふ)に言葉を返す気を失う。別に言い負かされて納得させられたわけではない。ただ、こいつとこれ以上議論を続けても永遠に平行線を辿るだけなのは目に見えていたからだ。

「それで、貴様は私に何の用だ? 正直、貴様の顔など長く眺めていても不快なのだが?」

 だが、ワタライはそんなことにはお構いなしで、相変わらずクロトへの尊大で辛辣(しんらつ)な態度を崩さない。

 それにクロトは必死に我慢する。本当かどうかは怪しいが一応は仲直りするために訪れているので、ぎこちないながらも笑顔を取り(つくろ)う。

「ま、まあ、そう言わないでください。俺もあんたとギクシャクしたままってのはよくないと思いましてね」

 そう言うとクロトは持参していた紙袋を出し、中の物をすっとテーブルの上に置いた。

「これは?」

「ちょっとしたお()びの印ですよ。よかったら後で召し上がってください」

 クロトがテーブルに出したのはお歳暮(せいぼ)やお見舞いの品で定番の、ちょっとだけ高級そうな菓子折りだった。要するにちょっとした粗品で手打ちにしようということらしい。

 ワタライはその菓子折りを数秒見下ろす。そして、おもむろに手に取るとそれをヒョイと無造作に背後に投げ捨てた。

「なっ!」

 ワタライの行動にクロトは目を見張る。そして、それは背後に立っていたサクヤも同様の反応だった。あまりにもモラルを逸脱した行動だとそこにいた誰もが思ったことだろう。

「ふん、貴様の腹はよめている。菓子の中に薬を盛って昨日の報復をするつもりだったのだろう?」

 だが、ワタライはクロトに冷厳な視線を向けて、そう言い放つ。

「っぐ」

 図星だったのか、クロトは苦々しく顔を歪めて(うめ)いていた。

 なるほど、合点(がってん)がいった。どうしてクロトがこんな気色悪い奇行をしていたのかと疑問だったが、たった今綺麗に融解した。

 どちらかと言えば、この行動は実にクロトらしいアルゴリズムに則っていたわけだ。

 そして、ワタライの言葉とクロトの反応を見て背後に(たたず)んでいたサクヤも深い深い嘆息を漏らしていた。

「さて、くだらない遊びに付き合っていられるほど、私も暇ではない。早々に引き取れ。さもないと昨日のように実力行使することになるが?」

 ワタライは一言警告だけし、それ以上クロトに視線を向けず立ち上がると、愛用のカップに()れたてのコーヒーを()む。

「なんでだ、なんでわかった?」

 クロトはそんなワタライの背中を恨めしく見詰めながら悔しそうに尋ねる。

「何度も言わせるな。貴様の浅はかな計略くらいは見抜けて当然だ。その程度のこともできなければ貴様の監視など務まらんからな」

 ワタライは心底クロトを見下したようにコーヒーを(すす)りながら答えた。もはやワタライにとってはクロトなど視界に納める価値すらないようだ。

 だが、その直後。

 ――ギュルルルルルル

 突如、そんな不吉な音が室内響く。

「はう! ぐっ、う、ううーー! き、貴様! 何をした?」

 そして、ワタライは持っていたカップを床に落とし腹を抱えながら(うずくま)り、悲痛な表情を顔面に刻みながらクロトを()めつけた。

「フハハハハハハハハハハハハハハハハハ」

 クロトは大爆笑。辛そうに無様に(ひざまず)くワタライを見下しながら気持ちよさそうに、(たの)しそうに高笑いをあげていた。

「何が俺の計略はお見通しだ。片腹痛いわ。どうだ? 本来動物用の即効性が高い超強力下剤の威力は?」

 どうやら、クロトの本当の狙いはこっちだったらしい。先程コーヒーメーカーをしげしげと眺めていたのもこのためのようだ。

「貴様! 薄汚い真似を! ぐっ! ぐっは! あっ! ああ~~!」

 ワタライは内股になりプルプルと足を震わせながらクロトに襲いかかろうと一歩踏み出す。だが、その途端再び腹部が(うな)りをあげ、勢いは情けない悲鳴となって消沈する。

「はうっ、ぐっ、くあ~! あっ! お、おのれーー! 貴様だけは絶対に許さんからな」

 ついに限界点を突破したワタライは弱々しくそんな捨て台詞(せりふ)を吐くと、内股で小さくなる歩幅をどうにか速度で補おう高速に足を動かしながら生徒会室を出ていく。

 クロトはその滑稽(こっけい)なワタライの格好を携帯のムービー機能でしっかり撮影しながら相も変わらず腹を抱えていたことは言うまでもない。

「何が仲直りですか! 真っ赤な嘘もいいところじゃないですか!」

 ワタライが去っていった後、生徒会室でクロトはサクヤから雷を落とされていた。ただ、クロトに反省する様子はなかった。

 まあ、そりゃそうだ。別にクロトからすれば昨日の報復をしたに過ぎない。自分が反省しなければならない要素など一ミクロも見出せない。

「もう知りません。後で会長に何されても私は(かば)ってあげませんからね!」

 ふてぶてしいクロトの態度に今回ばかりはサクヤも我慢できなかったのか、一言吐き捨てると頬を膨らませてプリプリ憤然としながら出ていってしまう。

 クロトはそんなサクヤの業腹(ごうはら)っぷりなど気にも留めず、去っていくサクヤの背に手を振ってみせていた。


 それから三十分後。腹の中にあった物と一緒に体力と気力をトイレに流し、フラフラな状態でワタライは生徒会室に戻ってきた。

「よお、随分遅かったじゃないか」

 そこで、その場にまだ残っていたクロトは執務机に腰を預けながら帰ってきたワタライに視線も向けず無表情で挑発した。

「ほう、いい度胸だな。私にこんな仕打ちをしておいて。その上、その場に居残っているとは余程死にたいらしい」

 クロトの姿を確認したワタライは刹那(せつな)驚いたように目を見張ったが、すぐに表情を改めクロトを睨んでくる。

「こんな仕打ち? はっ。笑わせるな。お前達が俺やハルカにしたことに比べればこんなの些事(さじ)もいいところだろ?」

 自嘲気味にクロトは吐き捨てながらワタライと視線を交錯させると、同時に固有兵装を展開し、小声で「Z‐34、解放」と唱える。

 ワタライは今度こそ驚愕を(あらわ)にした。が、声を出す暇も身構える余裕もなかった。

 直後にワタライの背後にあった窓の硝子(がらす)が突然粉々に自壊し、その破片がワタライに襲いかかった。

 予め硝子の耐久力と時間を斬り、合図と同時に破砕するようにしていたクロトの仕込みだ。

 だが、その先制攻撃は制服を着ていたためか飛び散った破片で肌の露出している顔や手の甲に小傷を負わせる程度に留まった。

「ふん、貴様十八番(おはこ)の不意打ちか。だが、まさかこんなしょぼい攻撃で私を()れるとでも思ったか?」

 ワタライは浴びせられた硝子片を鬱陶(うっとう)しそうに払いながらクロトと対峙し、双眸(そうぼう)を鋭く(しぼ)って尋ねてくる。その声音はもう落ち着きを払っていて完全に冷静さを取り戻した様子だった。

「別に、単にこれから多量に〈怨〉を使うだろうから惜しんでケチっただけだ。まあ、お前にはこれで十分だろうが」

「舐められたものだな。果たすべき義務を放棄し、ただ己が欲求を満たすことしか頭にない、(くず)の分際で」

「屑で結構。別に俺は自分が優れているなんて傲慢(ごうまん)さは持ち合わせていないからな」

「なるほど。その愚かさはどうやら死ぬ以外に治す術もないらしい。なら、ここで処刑してやる。貴様には、悔い改める猶予(ゆうよ)を与える価値もない」

 ワタライはそう吐き捨てると分厚いハードカバーの本を顕現(けんげん)させる。それこそがワタライの〈因子〉16(セイズィエム)の固有兵装だった。

赤滅(レッドラム)

 ワタライは無感情な声音でそう唱えた。

 すると、ワタライの正面に幾何学(きかがく)模様の方陣が瞬時に浮かび上がり、その円陣が(まばゆ)いほどの光を明滅させる。

 そして直後、円環からは真っ赤に染まった閃光が音もなく放射された。

 ワタライからの攻撃にクロトは咄嗟(とっさ)に跳び退(すさ)り、紅色の波動に触れないギリギリのところで何とかかわすことはできた。

 だが、傷こそ負わなかったものの背中には冷たい汗が(にじ)んでいた。

 横をかすめただけで肌には照りつけるように残るピリピリとした感触と圧力。その威力が尋常ではないことは容易に感じ取れたのだ。

 そして、クロトのその直感を証明するように元いた場所の背後の壁面には、まるで十トントラックにでも突っ込まれたような大穴が穿(うが)たれていた。

 改めて音もなく壁を(えぐ)り取られた攻撃痕(こん)を一瞥するとクロトは顔をしかめたくなった。

「これはまた、随分と派手な攻撃だな。その魔法みたいなのがお前の武器の特性か?」

「いかにも。この本には無数の術式が封じられている。その術に〈怨〉を(かよ)わし、具現化する」

「はっ、それはまた大層な性能を持った武器だな。リアル魔法使いを相手にしないとならないなんて憂鬱極まりない」

 だが、クロトはそう愚痴(ぐち)りながらも既に対策は講じていた。どんな魔法があるのかまでは()し測れないが、少なくとも攻撃できない状況に持っていくことは可能だった。

「だったら、こうするとどうなるんだ?」

 クロトはそこで不意に移動した。他の教室が隣接する壁が背後にくるようにワタライの側面を位置取ったのだ。

「それだけの破壊力のある武器だ。こんな薄壁一枚は軽々と貫通してしまうんじゃないか?」

 クロトの取った作戦、それは一般の生徒を人質に取るというなんとも下衆(げす)い戦法だった。そして、この手法はビショップの一員であるワタライには実に効果的なものでもあった。 

 絶対正義を司る裏側の番人。そいつらが追求するのは完璧な正しさだ。無論、時として犠牲を(いと)わない場合もあるが、ここでクロト一人の抹殺と、無関係な生徒と教師数名の命ではどちらに比重が置かれるかはわかり切っていた。

「貴様は、そこまでするのか?」

「ああ。俺はお前らに奪われたハルカを取り戻すためなら何だってする。例え、悪魔に魂を売ろうと、悪党に成り下がろうと、そんなものどうだっていい」

「そんなに大事か、あの〈怨鬼〉が? 貴様は〈理外者〉だろうが! 何故わからん! 我々〈理外者〉は〈怨〉という常軌(じょうき)を逸した特権を享受(きょうじゅ)している。ならば、脅威足りえる全ての〈怨鬼〉を滅し、表の安全を維持する義務を担わなければならないのだ。それが然るべき我々の正しい姿なのだ。何故貴様はそれを理解できん!」

 そこで初めてワタライは声を荒げた。それまで常に平静で、冷徹で、感情など持ち合わせていない機械人形のように映っていたワタライがだ。

 それほどワタライにとってクロトの行動は許しがたい蛮行だったのだろう。

「痛みも知らない偽善者が()き違えるな」

 だが、熱くなって怒鳴るワタライにクロトは冷たい瞳を向けて心底軽蔑するように、冷笑しながら一言そう呟いた。

「偽善者だと......この私が偽善者だと。フ、フフフフ。いいだろう、だったら貴様に思い知らせてやろう」

 ワタライは目に見えて憤っていた。これ以上ない屈辱を受けたようにプルプルと両腕を震わせ、狂ったような笑み浮かべながら本を高らかに掲げる。

痛紺(インディゴペイン)

 ワタライがそう術名を紡いだ瞬間。再びワタライの眼前に魔法陣が形成される。そして、そこから放出されたのは紺色の瘴気(しょうき)

 瘴気はゆっくり空中を僅かな間たゆたうと、不意にクロトに覆い被さるように放射状に包囲してくる。

 クロトはそれを避けようとはしなかった。避けても無駄だとわかっていたし、何よりそれがどんな威力を秘めているかが推し測れない。

 仮にこの攻撃が先程の術と同程度の威力があれば本当に背後にいる無関係な人間を巻き込んでしまうことになる。それはクロトの望むところではない、あくまで人質はブラフでしかない。だから避けなかった。

 瘴気はクロトを完全に包囲すると、まるで(むしば)むように体に入り込んできた。そして、直後クロトの痛覚を激しく揺さぶった。

「クハハハハ、どうだ? その術は私が今まで感じた精神的な、肉体的な全ての苦痛をまとめて貴様に与えるものだ」

 術が完全にクロトを寝食したことを確認するとワタライは勝ち誇ったように満足そうな顔でそう()えていた。

「......ぬるいな」

 だが、クロトはその術に平然としていた。こんなものかと心底くだらなさそうにワタライを見下ろしていた。

 無論、クロトの体には今途方もない苦痛が(ほとばし)っている。だが、それはやはり彼には軽かった。所詮は強者が痛みと称する程度のものでしかなかった。

 クロトはバカにする。心底バカにする。やっぱり正しさなんて求める愚か者は強者の妄想だと。

 別にクロトは自分が不幸だなんて、そんな自意識過剰(かじょう)なことを思っているわけじゃない。自分以上に不幸で、悲惨で、可哀相(かわいそう)な奴などこの世には腐るほどいることなどちゃんと理解している。

 クロトはただ、滑稽なのだ。正しさを免罪(めんざい)()か何かと勘違いし、くだらない見栄と意地とプライドなんかのために平然と優しさを捨てた目の前の人間が、愚かな道化に見えて仕方ないのだ。

 そして、そういう連中に限って何も見えていなかったりする。

 当然だ、全部『正しさ』に任せてきたのだから。何をどうすればいいのかも、何がどうあるべきなのかも。

 そうして、自分で判断することも放棄して定められた基軸(きじく)(すが)りついてだけなのだから己のことなど見えるはずもなかった。

「な、なんだ。体が......」

 自分の攻撃が通用しなかったことに驚愕し、(おのの)いていたワタライはそこでようやく自身の体に訪れた変調に気づいた。

 だが、気づいた時にはもう手遅れだ。既にクロトの勝利は揺るぎない事象(じしょう)として確定していた。

「な、何をした。き、貴様、私の体に何をした!」

 ワタライは力の入らなくなった体を床に転がしながら、どうにか動く口を懸命に動かして震える声音で訊いてくる。

「言っただろう、お前にはこれで十分だと。二度も同じ手に引っかかるとはつくづくバカだな」

「ま、まさか。あの硝子片には」

「そうだ、べっとりと麻酔(ますい)薬が塗ってあった。一度効果が出れば一日はまともに動けなくなる強力なやつがな」

 クロトは悪虐な笑みを浮かべてワタライにネタをバラしてやる。そして、おもむろにワタライの耳元に顔を近づけるとそっと(ささや)く。

「ハルカに感謝するんだな。あいつが俺にあんなお願いをしてなければ、俺はここでお前を殺していた。だから忘れるな、お前を救ったのはハルカの優しさだ。お前らは一片足りとも見せなかった優しさだ」

 底冷えするように低く、冷たい声音でクロトはそれだけ伝えるとワタライの持つ〈因子〉の納まっている携帯をヒョイと取り上げる。

 それをワタライの目の前で床に落とし、踏み(くだ)いた。何度も何度も踏みつけ、殺したい衝動をそれで我慢するかのように。

 そして、クロトはワタライを完全に無力化すると立ち上がった。

 最大の邪魔者を排除したクロトが向かう先は決まっている。

 もう、自分の願いを阻む者など、止めることができる者など誰もいないかのように口元を醜悪に歪ませて、クロトは生徒会室をあとにした。


 

 クロトを一人生徒会室に残し、先に教室に戻ったサクヤは未だ時化(しけ)の大海のように心中穏やかではない様子だった。

「もう、なんなんですか! クロトのあの行動は、全く」

 珍しく周囲の人間に気遣うことも忘れてサクヤは自身の机をガンガン叩きながら大音量で一人愚痴った。

 そんなただならぬ雰囲気を発散するサクヤの傍には誰も近づこうとはしない。

 いつもは常にクラスメイト達が自然と駆け寄ってきて、そこから他愛(たあい)もない世間話に華を咲かせるのだが、今は取り乱すサクヤを物珍しそうに遠くから観察する傍観者と化していた。

 サクヤが業腹な理由は言うまでもなく先程のクロトの蛮行に起因している。

 ようやく自身の熱心なお説教が実を結び、少しは素直になってくれたのかと喜んだ矢先、期待させるだけさせておいてあっさりぬか喜びに終わったことが余計に彼女を落胆させたのだ。

 無論、クロトの気持ちもわからないわけではない。ワタライに対してあれくらいの仕返しをしたい気持ちはサクヤも充分に理解できる。

 ただ、それでも。それならそうと嘘を吐くなんてことはして欲しくなかった。まあ、クロトが正直に話していれば当然案内はしなかっただろうが、それでも騙されたという結果についてはショックを感じてしまう。

 ごまかしや話を(にご)す程度の嘘なら構わない。そのくらいの嘘を容認できないほどサクヤも幼くはない。

 ただ、騙すというのは少し意味合いが違う。そこには明確な悪意が介在する。だから嫌だったのだ。少し悲しかったのだ。

「はぁ。やっぱり私ってクロトに信頼されてないんですよね。でも、それも当然なんですよね」

 同時にサクヤは激しい自己嫌悪にも(さいな)まれる。自分だって同じなのだ。むしろ、何も知らないクロトに、何も言わず味方面(づら)して傍らから見張っている自分の方がよほど悪辣で醜悪だと思えて仕方なかった。

 そして、それを理解していてなお、クロトの嘘に腹を立てている自分を自覚していることがサクヤを余計に落ち込ませる。

「私って自分勝手で最低ですね」

 自嘲的な苦笑とぼやきが漏れる。

「なんで、クロトを見張るなんてそんな......」

 その先の言葉だけはなんとか飲み込むことができた。口に出したくもない現状。望んでいない結果。

 だが、それでも重く()しかかる十全たる事実。クロトの敵として傍にいるのだという事実。

 それがサクヤには悲しかった。どうしてこんなことにと、後悔の念を抱かずにはいられなかった。

 サクヤがクロトに執着するには理由がある。きっとクロト自身は、覚えてさえいない取るに足らないことなのだろうが、サクヤにとっては大事な思い出だった。

 サクヤはこの学校に入学する二年ほど前にクロトに出会っている。当時のサクヤはまだ〈理外者〉でもなくビッショップのメンバーでもなかった。

 二年前のその日、サクヤは強面(こわおもて)の男子高校生三人組に人気のない街の裏通りに連れ込まれ、恐喝(きょうかつ)にあっていた。

 当時、何の力も持っていなかったサクヤはそれにただ(おび)えることしかできなかった。言われた通りに持っていた財布を差し出し、震えながらこの怖いお兄さん達がどこかに消えてくれることを心中で願うことしかできなかった。

「あれ、よく見るとこの子結構可愛いじゃん」

 だが、しげしげと差し出された財布の中身を数える連中の一人が突然そんなことを言い出し、サクヤは肩をビクリと大きく跳ねさせた。

 下劣な笑みに薄汚い下心のこもった視線。サクヤはそれになす術もなく震えていた。このまま自分がどうなってしまうのかなど想像もしたくなかった。

 そうして、不安と恐怖に耐えかねて涙を瞳に()め込んでいた時だった。

「ひぎゃーーーーー!」

 突然、その場にいた一人が体を小刻みみに震わせながら奇声をあげて昏倒(こんとう)したのだ。

「なっ、お、おい。どうし――ぎゃああああああ!」

 続いてもう一人も同じように悲鳴をあげて倒れる。

 残った一人は唐突に仲間が倒れたことに警戒して、さっとその場から離れ、仲間が立っていた場所の背後に鋭い視線を向けた。

 立っていたのはサクヤと同年代の男の子。それがクロトだった。

 クロトは右手にバチバチと(いなな)きをあげるペン型のスタンガンを(たずさ)えていた。

 そして、クロトは向けられる視線にニヒルな笑みを返して。

「バカが。折角上手くいっていたのに変な欲を出すからだ。だからこうして横から実入(みい)りをかっさらわれるはめになる」

 なんてことを呟いていた。そう、別にクロトは正義の味方とかではなかった。

 どちらかと言えば同じ穴の(むじな)。カツアゲに成功した奴から、さらにカツアゲする。そうクロトは言ったのだ。

「って、てめぇ。同業者狩るとはいい度胸じゃねぇか。覚悟はできてんだ――ぎゃああああ!」

 突然の闖入(ちんにゅう)者に最後の一人はお決まりの台詞を吐こうとしたが、言い終える前にそいつは他の二人同様にスタンガンの餌食(えじき)にされてしまっていた。

 三人を始末したクロトはその場に落ちていたサクヤの財布を拾い上げる。何も言わずにちらりとサクヤの方を一瞥すると財布をズボンの後ろポケットに()じ込んで踵を返す。そして、そのままスタスタと行ってしまおうとする。

 サクヤは何も言えず涙の溜まった瞳で見詰めるだけだ。新たに現れたその男も結局は他の三人と同じ、怖いことにはなんら変わりなかった。

 だが、背中を向けて立ち去ろうとしたその男は、そこで急にわざとらしくポケットを(まさぐ)る。

 そして、その時に拾ったサクヤの財布がポロリと地面に落ちたのだ。

「あっ!」

 思わずサクヤは声を漏らしていた。だが、クロトはそれも聞こえていないような素振りで、そのまま去ってしまったのだ。

 それが、サクヤとクロトの初めての出会い。

 その時のことを今改めて思い返せば、やっぱりクロトは自分を助けてくれたのだとサクヤにはわかる。

 口や態度では散々悪ぶってはいるが、やはりなんだかんだ優しいところがあるツンデレさんなんだとサクヤは思ったりもする。

 サクヤはそんなクロトの優しさに憧れていた。〈理外者〉となりビッショップに所属しているのも実はクロトに助けられたことに影響されてのことだった。

 悪い奴を倒す正義の味方とまではいかないが、困っている人がいれば迷わず手を差し伸べる。サクヤは自分もそんな人間になりたいと願っていた。

 だから、サクヤは困惑していたのだ。クロトと敵対しなければならないこの状況に。

「ウジウジ悩んでいても仕方ないですね。この際、はっきりさせましょう」

 だが、そこで急にサクヤは決意めいた表情で立ち上がった。そして、それから毅然(きぜん)とした足取りで再び生徒会室へと歩き始めた。

 サクヤはワタライにどうしてクロトを見張るのかその理由をはっきり問いただすつもりだった。

 そして、もしそこで前回のように答えてもらえないならビショップを辞めるつもりだった。

 サクヤの足取りに迷いはなく、目的の場所にはすぐに到着した。

 生徒会室の前に立ったサクヤはいつもするように扉をノックしてワタライの返事を待つ。しかし、どういうわけか返事は一向に返ってこない。

 ひょっとすると出かけているのだろかと思ったサクヤは、そこで念のため扉に手をかけてみる。だが、出かけているならば鍵がかかっているはずの扉は、サクヤの手の動きに何の抵抗もなく従い、スルスルと横にスライドしていく。

 そして、扉の向こう側に広がった光景にサクヤは絶句してしまう。

 外側に面した壁には大穴を穿ち、部屋の真ん中にはワタライが床に横たわり、その付近には粉々になった携帯の残骸(ざんがい)が散らばっていた。

「か、会長!」

 サクヤは思考回路が停止しそうになるのをどうにか制止させてワタライの元に駆け寄った。

「や、奴を、(しかばね)を止めろ。や、奴は兇器に戻っている。こ、このままでは禁忌を犯し、〈軍馬(スレイプニル)〉を生み出す......」

 サクヤに支えられて、上体を起こしてもらったワタライは上手く動かない口を懸命に動かしながら現状を伝えようとした。

「そ、そんな。クロトがそんなこと......」

「いや、奴はする。それだけ奴にとってあの女は大事だ。それがどんな災厄を招くことになるか知っていても、今の奴は気にしない」

 その瞬間、サクヤの背筋に戦慄(せんりつ)が走り、それと同時に頭の中で何かが音を鳴らして崩れ去った。

 崩れ去ったのはクロトに抱いていた信頼か、はたまたもっと別の何かか、それはわからない。サクヤ自身にもわからない。

 ただ、少なくともそれが大事な想いで、壊れたことによって深い絶望と失望に苛まれていることだけはわかる。

「コヨイ、お願い」

 サクヤは力のない声音でそう懇願(こんがん)した。泣きそうな表情でそれだけ呟いていた。

 そして、そんなサクヤを(おもんばか)るように音もなく静かに固有兵器が展開されるとコヨイはサクヤと入れ替わる。

「任せとけ。お前はそこでゆっくり休んでろ」

 コヨイは優しい表情で内に沈んでいったサクヤに一言囁く。

「あの野郎は私が止める。止めて償わせてやる。サクヤを裏切ったことを」

 そして、今度は真逆の憤怒(ふんぬ)の形相を浮かべるとゆっくりと立ち上がった。僅かに肩を怒らせながらコヨイは愛銃を強く握り、生徒会室から駆け出していった。



 午後から急に降り始めた雨はほんの数分後には雨脚(あまあし)を一気に強め大きな音を鳴らしながら硬い地面を打ちつけていた。

 空を覆った分厚い雲のせいで町全体は薄暗い(おぼろ)に包まれ、周囲に人の姿は全く見受けられない。恐らく突然の豪雨に一時建物内に非難しているのだろう。

 最近流行(はやり)のゲリラ豪雨。そんな荒れ狂う雨天の下、クロトは(かさ)も差さずに全身濡れ(ねずみ)になりながらそこに(たたず)んでいた。

 市街地から少し距離を置いた、広大な敷地に野晒しにされた鉄骨で組まれた骨組みとそれを覆うシート。建設途中で放棄された工事現場。行政の箱物計画が途中で頓挫(とんざ)し、凍結された怠慢の産物。

 そして、そこは五年前に〈軍馬〉と戦った場所でもあり、同時にハルカが消滅した場所でもあった。

 鉄筋が僅かに腐食していることを除けばまるっきり変わっていないその場所を懐かしむようにしばらく呆然と眺めると、クロトはビチャビチャとぬかるんだ地面を蹴散らしながら敷地内内に入っていく。

 そして、そのまま、コの字状に鉄骨の建つ敷地中央の開け放たれた場所まで行くと足を止める。

「ようやく。ようやくだ。やっとお前に会える。やっと約束を守れるよ......ハルカ」

 そう一人呟くと、クロトはポケットから自分の携帯を取り出した。だが、そこで。

「動くんじゃねぇ!」

 不意にガチャリと重厚なライフルを構える音と一緒に、聞き覚えのある声が背後から響いてきた。

「なんだ、きたのか。折角、この件からは遠ざけようとわざと怒らせたのに、どうやら徒労に終わったみたいだな」

 クロトは振り返りもせずに淡々とした声音でそう呟く。

「お前、何してんだ? 私は忠告したはずだぞ。サクヤを裏切るような真似だけは絶対にするなって。なのに、こんな所で何をするつもりだ!」

 背後から聞こえるコヨイの声は怒りに震えていた。だが、やはりクロトは振り返らない。

「説明する必要があるのか?」

「いや、要らなねぇ。だが、理由は聞かせろ。私としてはどうでも良いことだが、少なくともサクヤはお前のことを信じていた。それを裏切ったんだから、せめて申し開きくらいしてみせろ」

「別に弁解する余地なんてないだろ。俺は自分が何をしようとしているのか十分理解している。人を生き返らせれば漂う周囲の〈怨〉を嫉妬(しっと)させ、嫉妬で集まった〈怨〉が〈軍馬〉を創り出すことも知っている。それが多大な被害を生むこともな。それはどんな理由があろうと正当化できないし、元より正当化するつもりもさらさらない」

「つまり、お前は自分が(ろく)でもない災厄を生み出そうとしていることを自覚している。その上で私達を騙し、自分の欲求を優先させるってわけだ。っは、最低だなお前。サクヤほどじゃないが、私もお前はもう少しマシな人間だと思ってたよ」

「ハハハ、買いかぶり過ぎだよ。俺はどうしようもない屑だ。そんなこと自分が一番よくわかっている」

 クロトはそこで自嘲的な笑みを漏らしていた。だが、それでも彼の揺るぎない信念はピクリとも揺れない。ブレない。

「だったら、私はお前を止める。例えそれで、お前が私を(うら)むことになってもな。それがサクヤの望んでいる結果だ」

「足りないよ。そんな全部守って、手に入れようなんて理想論じみた、綺麗で欲張りな覚悟じゃ。まるで足りない」

 コヨイが憤怒と決意を込めた言葉を投げつけ、引き金に指をかけるとそこでようやくクロトは対峙するように振り返った。

 そして、嘲笑うかのように余裕の笑みをくすりと浮かべ、音もなく左手に真っ黒い刀を顕現させる。

「本気で止めたいなら、俺を殺すつもりでこいよ。じゃないとお前が死ぬことになるぞ」

「ほざけーーーー!」

 コヨイの怒声と同時に黒光りする銃身が火を噴いた。

「G‐21、解放」

 だが、それはクロトの生み出す空間の裂け目があっさり弾く。

 コヨイは構わず弾幕を張るように次々怨弾を連射する。

 しかし、やはりそれはクロトには届かず、弾かれるかかわされるだけだった。

 その身のこなし方は実に洗練されていた。無論、クロトは運動神経が優れているわけではないので個々の動きは俊敏とは言いがたい。

 だが、極端に無駄がなかった。まるでコヨイが次にどんな攻撃をしてくるかを把握しているかのようなそんな動きだった。

「っけ、一昨日犬に散々追い駆け回されて、ヒイヒイ言ってた野郎と同一人物とはまるで思えないな。それが兇器なんて大層な通り名を持ってるお前の本性ってわけか?」

 コヨイはクロトに絶え間なく凶弾を浴びせながら苦々しく吐き捨てていた。

「............」

 だが、クロトはコヨイの(げん)にもう一々反応を示すつもりない。ただ、単調な作業をこなすように裂け目を盾にしながらコヨイとの間合いをジリジリと詰めていく。

「っち、(だんま)りかよ」

 コヨイは冷静過ぎるクロトの戦い方に思わず顔をしかめる。

 間合いはコヨイにとっては生命線だった。銃器と刀剣では優劣を決するのは双方の間合いをいかに活用するかに左右される。

 その優位性を真っ先に(つぶ)しにかかるクロトの戦い方はやはり熟練されていることを嫌でも痛感させられる。経験値に圧倒的な格差を思い知らされてしまう。

「でもな、私もお前にただやられるわけにはいかないんだよ! 20(ヴァンティエム)氷結弾だ」

『yes』

 コヨイの指示と同時にライフルの銃口が僅かに(あお)い輝きを放った。そして。

「絶対零度の監獄の中でしばらく反省してやがれ!」

 叫んだ瞬間、それは撃ち出される。周囲十数メートルを白銀の氷界へと(いざな)う怨弾。雨天下においてはその威力も普段の何倍にも増す、凍てつく冷気。

「その攻撃は一度見ている」

 だが、コヨイの切り札にクロトはまるで驚くこともなかった。小さな声で仕掛けてあった傷の番号を口ずさみ、「解放」と最後に締め(くく)る。

 すると、飛来する白銀の弾丸が拡散する寸前で、レールのように上方へ緩やか曲線を描いた裂け目が出現し、銃弾の軌道(きどう)がレールにそって僅かにズレる。

 一度標的を違えてしまえば放たれた弾丸が再び対象を捉え直す術もなく、コヨイの氷結弾はクロトの遥か上空で降り注ぐ雨を巻き込んで巨大な白い花を咲かせた。

「っな! マジかよ? おい!」

 コヨイはその光景にただ呆気にとられてしまう。

 その隙にクロトはコヨイとの間に残っていた数メートルの距離を一気に駆け、懐に潜り込んだ。

 そして、静かな所作で左手に持っている刀の(つか)に手をかける。

 終わりだ。クロトも僕もそう思った。だが、その刹那。

「な~んてな♪」

 突然、コヨイが笑った。クロトのお(かぶ)を奪うような悪そうな笑みを顔に浮かべ、してやったりと言いたげに、あえて聞こえる声量で囁いていた。

 そして、本来二メートル以上はあるはずの固有兵器の銃身がそこで不意にガシャッと音をたててパージされる。

「嘘だろ!」

 既に短くなった銃口はクロトの脇腹を見据えていた。この0距離では体を(ひね)ってかわすことも、仕掛けておいた裂け目を呼び出して弾くことも、無論、物理的干渉のできない僕の固有兵装で防ぐこともできない。

 これはクロトとしても予想外だった。

 サクヤと違い、コヨイはもう少し短絡的で直情的な性格だと思っていた。それがまさかこんな形で逆にはめられてしまうとは(つゆ)ほども思っていなかったのだ。

「あんまり私を舐めるなよ!」

 コヨイが言い放つと同時に砲声が(とどろ)く。殺さないように、だが戦闘能力を奪うには十分過ぎる威力のこもった怨弾が直線の軌道を描いてクロトに接近する。

「......惜しいな」

 だが、クロトはすぐに驚愕の表情を苦笑に変えていた。

 そして、そこで突然クロトの傍らに神々しいまでに美しく、禍々しい威圧をまとった剣が地面に突き立ち、コヨイの放った銃弾を弾き飛ばす。

 咄嗟(とっさ)にもう一つ、7(セティエム)の固有兵器を眼前に呼び出し、コヨイの攻撃を弾いたのだ。

「加減せずに頭を射抜いていればコンマ数秒の差で展開が間に合わなかったのに......俺なんかに情けをかけるからだ」

 クロトは自嘲的な呟きを漏らすと右手で改めて掴んだ刀の柄を横に振り抜く。

 黒一色の()ぎの一閃はコヨイの体を何の抵抗もなく過ぎると再び鞘に収められた。

 最初コヨイは何をされたのかわからなかった。当然だ、刀で斬られたはずなのに体は真っ二つに裂けるどころか微塵(みじん)も痛みを感じなかったのだから。

「お前、なんのつもり――!」

 興味を失ったかのように背中を向けたクロトにコヨイは声を発しようとした。だが、そこでコヨイの体を急激な倦怠感(けんたいかん)が襲う。

 まるで自分の体じゃないかのように手も足も口も動かなくなり、立ってさえいられなかったコヨイはその場に崩れるように倒れ込んでしまう。

 そして、地面に伏したコヨイはまともに喋ることも動くこともできず、ただ遠退くクロトを薄ぼんやりとした視界に納めることしかできなくなっていた。

 クロトがさっきの一撃で斬ったもの、それはコヨイの体力だ。コヨイが何もできなくなるほどクロトは根こそぎ彼女の体力を()ぎ落としていた。

「く、そ、や、ろう、が」

 コヨイはそこで引きずられるままに意識を失う。

「安心しろ。俺は何も得ない。だから失われるものなんて何もない。お前はそこで黙って眠っていろ」

 クロトはそんなコヨイに、もう視線すら向けずそっと言い残すと元いた場所に戻って行く。

 そして、クロトは携帯に貯まっていた〈怨〉を僕に注ぎ込み始める。

 周囲に黒い光を放射させながら僕に一億千二百万という途方もなく膨大な量の〈怨〉を注入する。たった一つの目的のために地べたを()(つくば)り、泥を(すす)りながらも掻き集めた〈怨〉を惜しみもなく大量に。

「......頼む、ハルカを生き返らせてくれ」

 小さな、僅かに震える声音でクロトは願いを紡いだ。

 無論、僕がその願いを突っ()ねる道理はない。だから僕もクロトの願いを実現するために尽力する。

 注がれた〈怨〉を力へと変換させると僕は瞳を凝らし上空彼方(かなた)を見上げた。

 そこに広がるのは幾千、幾万の文字列が球体を形成し、その球体がまるで鎖にでもなっているかのように世界を包囲し、繋がり並んでいる光景だ。

 鎖の(かなめ)の部分には十個の球体が円環を(かたど)り、そこから放射上に直線の球体の直列が幾本も伸びている。

 それは人間には決して見ることもできない絶対的な(かせ)が存在している領域。世界を象る枠が並ぶ領域。事象と思考が折り重なってできあがった別世界。

 僕はその鎖の中から要の部分に程近い場所に存在する球体に注視した。名は『死生(しせい)典範(てんぱん)』、生と死を規定する上位法典だ。

 僕が狙うのはただ一点『死者が蘇ることは絶対にない』という文面のみ。

 上空へと舞い上がり、球体の傍らへと近づくと僕は〈怨〉によって顕現させた刃を振りおろした。

 だが、森羅(しんら)万象(ばんしょう)の一編を担う枷はそんな僕の刃に強く反発してくる。まるで矮小(わいしょう)な〈因子〉ごときが絶対の存在に歯向かうなとせせら笑うように。

 さすがは『死生典範』。倫理や法律といった薄っぺらい紙切れのような枷とは次元が違い存在の絶対性は頑強で堅牢(けんろう)だ。

 ただ、そんな絶対の枷も圧倒的な物量を前にすれば(ひび)が走り、ついには割れ目ができる。

 僕は亀裂の生じたその文面に手を突っ込み、まず『死生典範』第三節、第一章の奥底に存在する死者の名簿へと手を伸ばした。

 何兆、何京(けい)と名前が記載されているリストの中から『姫宮(ひめみや)春香(はるか)』の名を検索し、(けず)り取る。

 そして、今度はそこから隣の生者の名簿を開き、削り落とした名前を逆に(きざ)みつけた。

 僕が割れ目から腕を引き抜くと、同時に裂け目は(ふさ)がってしまう。だが、既に僕のやるべき工程は終了していた。

 その瞬間、書き換えられた法典に呼応して、世界が歪む。枷に従い象られていた現実が歪む。ちょうど、器の変化に中の液体が呼応していくように。

 そう、死者を生き返らせるとは、願いをかなえるとはこういうことだ。僕達〈因子〉は現実に対して固有兵装を用いる以外には殆ど干渉することはできない。できるのは現実を規定する枷に対してのみ。

 だから、書き換える。本来死んでいる人間を死んでいないことに書き換える。

 そうすれば、後は枷によって勝手に現実が矛盾に対しての修正を施し、結果死者を再生させるのだ。

 空が七色に明滅する。空間があちこちで歪み(うず)巻く。だが、この過程は人には見えない。これは現実とは別の領域での事象だから。

 しかし、そこから生み出される結果は現実に絶対的な影響を及ぼす。

 予兆はすぐに現れた。不意にクロトの懐に忍ばせていたハルカの携帯が淡い光を放ち始めたのだ。

 それをそっとクロトが取り出すと携帯の液晶画面からは美しいプリズムの光がゆらゆらと外へと()れ出していた。

 漏れ出した光はクロトの眼前で一つの球体を形成すると、今度はその光の周辺の空間が陽炎(かげろう)のように揺らめく。揺らめいた陽炎は徐々に何かを思い出すかのように色づき、質感を()びていく。

 そして、陽炎の揺らめきが波紋のようにゆっくり静まった時には既にクロトの見知った人の姿がそこにあった。

 細く折れてしまいそうな華奢(きゃしゃ)な肢体に、出るとこはしっかり出ている女性らしい体。長く美しい光沢を伴った黒い髪に、つぶらな瞳が印象的な愛らしい顔立ち。自分の知っている頃よりかは大分大人びて、より美しく、愛おしくなった人間のハルカがそこにいた。

「ちゃんと約束守ってくれたんだね」

「ああ、こんなに時間がかかったけどな。ごめんな、お前には辛い思いをさせた」

「うんん、平気。クロトはきっと守ってくれるって信じてたもん」

「よく言うよ。一千万級の〈怨鬼〉を生み出してしまうくらい苦しんでたくせに」

「アハハ、バレちゃってた?」

「まあな、でもいいよ。全部悪いのは俺だから。あの時守れなかったのも、こんなに待たせたのも俺が弱いせいだから」

「も~、相変わらずそういうところだけは卑屈なんだから」

 クロトが泣きそうな顔で謝ると、ハルカはくすりと微笑んでそっとクロトの頭を抱き寄せた。

「いいよ、そんなの。ちゃんと優しいままでいてくれた。こうしてまた一緒に傍にいられる。それだけで私は十分だよ」

「だけど、これだって、すぐに......」

 そんな風に耳元で優しく囁かれてしまうとクロトの顔はますますクシャクシャに歪んでしまう。

 やっとハルカが帰ってきたという事実は喜びでクロトの心を埋め尽くした。

 ハルカの懐かしい体温をこうして実際に感じることができることは言葉で言い表せないほど嬉しくて仕方なかった。

 五年もかかったのだ。誰よりも大事で、誰よりも愛しいハルカとようやく再会できたのだ。嬉しくないはずがなかった。

 この笑顔と暖かさがあったからこそクロトは、それこそどんなことでもできた。汚れることも、()じれることも、壊れることもできた。

 だが、この先のことを考えればどうしても心が痛む。散々待たせ、寂しい思いをさせ、苦しめたのに。またハルカに辛い思いをさせてしまうことに心が痛まないはずがなかった。

「大丈夫だよ。クロトが辛かったことも全部わかってる。そんなので私はクロトのこと嫌いになったりしないよ。これからはずっとクロトの傍にいるから。だから、ね。今は素直に再会を喜ぼうよ」

 ハルカは優しくそう呟くとクロトをぎゅっと抱き締めた。十年前、クロトにそうしたように強く、暖かく抱き締めた。

「......そうだな。というか、今さらだけど、その、お帰り」

 クロトもハルカに(なら)い、華奢なハルカの体を抱き締めて照れ臭そうにそう言った。

「も~、ホントだよ。どうせなら最初に言って欲しかったな。でも、まっ、いっか。ただいま」

 二人はそのままずっと抱き合っていた。失われた時間を埋めるように、あるいは、与えられた僅かな時間を少しでも暖かいものにできるように必死に身を寄せ合い、互いの体温と存在を確かめ合っていた。


 その五分間は二人にとっては至極の幸福だったことだろう。その僅かな時間の中で二人は色々なことを話した。二人の間にぽっかりと空いてしまった五年の間に何があり、何を思ったのかを。

 ハルカの声を聞く度にクロトの頭の中にあの幸福だった時の記憶が走馬灯のように再生された。暖かく、優しい時間。確かにこの手で掴んだ僅かな希望。

 だが、安らいでいられるのもそこまでだった。ハルカが生き返ってからきっかり五分後、そこで兆候が訪れた。

 周囲に濃霧のような黒い気体が立ち込めると、それは二人の眼前で()り固まるように密集し始めたのだ。

 無論、二人はそれが何かは知っていた。嫉妬に駆られた膨大な〈怨〉。つまり、今まさに二人の目の前で〈軍馬〉が産声(うぶごえ)をあげようとしていることを意味していた。

「どうやら、時間切れのようだな」

 クロトはため息混じりにそう漏らすとハルカから離れ、辟易(へきえき)した様子で生まれつつある〈軍馬〉へと近づこうとする。

「やっぱり、戦うの?」

「正直言えば、知らん顔してトンズラしたいところだがな。でも、そんなことすればお前は俺を嫌いになるだろ?」

「う~ん、嫌いにまでなるかはわからないけど、ちょっと落胆はしちゃうかも。でも安心した。クロトの一番良いところは変わってないんだね。ずっと見てたけど、本音を言うとちょっとだけ不安だったんだ」

「ハハハ、俺って信用ないんだな」

「日頃の行いが悪いからね~」

 手厳しい言葉にクロトが苦笑を浮かべるとハルカもそれに悪戯(いたずら)っぽい微笑を返していた。

「それじゃあ、戻って早々で悪いが手伝ってもらえるか?」

「最初からそのつもりだよ」

 クロトが差し出したハルカの携帯をハルカは満面の笑みで受け取る。正面を見据えたまま、双方が各々の固有兵器を展開させると眼前の〈怨〉の塊にも変化が生じた。

 球体に密集していた黒い瘴気が次第に形を形成し始める。両脇から腕が()え。続いて、胴体、足と徐々に形が整っていく。

 そして、最後に頭部が胴体から出てくるとそいつは地面に足をつけた。

 全身は黒一色、それは大方の〈怨鬼〉に共通していることだ。だが、その筋骨隆々たる人間のような姿形は〈軍馬〉特有のもので、眼前に(たたず)んで風に(あお)られるかのように三メートルはある巨体をゆらゆらと揺らす様は不気味以外の何物でもない。

 単調な外観の中で唯一目につくのは顔。他は適当なのに、その一点だけは趣向の凝らされた道化のような気色悪い仮面みたいな造りをしていた。

 ――アアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァ!

 生まれたばかりの〈軍馬〉は文字通り産声を上げた。高周波のような頭に響く不快な咆哮を周囲に()き散らせる。

「はぁ。これと今から殺り合うのかと思うと怖気(おぞけ)が走るな」

 そんな(やかま)しい嘶きに両耳を塞ぐクロトはうんざりしたように愚痴をこぼしていた。

 こうして、近くに立っているだけでも〈軍馬〉の存在感はありありと伝わり、自然と自分達が無残に殺されるイメージを想起させられてしまっていた。

 絶望的なほどの力の差。得意の小細工程度では埋めることができないと理性でなく、感性で理解させられてしまう。

 だが、それでもクロトは逃げようとはしない。逃走するだけならハルカと一緒に無傷で、それこそ比較的容易に実現することが可能なのだろうが、それはしない。

 自分の中の、変に捻くれた信念に基づいて『逃げる』という選択を拒否する。

 そんな二人を視界に捉えた〈軍馬〉は早速動いた。

〈軍馬〉は再び耳障(ざわ)りな咆哮をあげると高く跳躍する。二人の頭上十数メートルのところまで舞い上がり、鉄骨の上に足を置くと細い双腕を掲げた。

 直後、腕は伸び、二人に接近する途中で幾本にも分裂すると、細く先端の尖った針となって二人に襲いかかる。

 クロトとハルカはそれぞれ的を散らすように反対方向に走る。そして、クロトは頭上を見上げて迫る針の軌道の中から危険なものだけを選別する。

「R‐32、34、43、56、解放」

 識別コードの発声と同時にクロトとハルカの前に薄く細くはあるが、強固で絶対の防御力を誇る盾が生成され、それによって〈軍馬〉の攻撃を(さば)く。

 攻撃を防がれた〈軍馬〉はそのまま、高所から二人の立っていた地点に落下してくる。

 地響きがクロトの足に伝わり、盛大に泥が周囲に飛び散った。

 しかし、〈軍馬〉は止まらない。陥没(かんぼつ)した地面から再び跳躍すると、今度はクロトの方へ跳びかかってくる。

 その軌道を阻むようにいくつも断裂を生み出すが、〈軍馬〉は断裂に体をぶつけながらもクロトの元へと降ってくる。

 地面を陥没させる巨躯(きょく)でこの俊敏さと頑強さは反則だろ! と、そんなことを考えながらクロトは冷静にかわそうと足に力を込めた。

 だが、そこで思わぬアクシデントが発生する。

 先程までは普通に踏ん張ることのできた地面がぬかるみ、思うように蹴ることができなくなっていたのだ。

「おいおい、冗談だろ。さっきの震動で地盤が緩んだのか」

 それはさすがのクロトにとっても予想だにしていない事態だった。狙ってやったのかどうかは定かではないが少なくとも、運動音痴(おんち)なクロトにこんな劣悪な環境下でまともな跳躍は到底期待できない。

 このままいけば人間ミンチの一丁上がり。クロト自身の脳裏にもその光景が()ぎったのか額に脂汗が噴き出す。

〈軍馬〉着弾まで残り二、三秒。慌てたクロトはもつれる足を必死にバタつかせながらその場を離れようとするが到底間に合う気配はなかった。

 だが、そこでハルカがクロトのカバーに入った。隣まで駆け寄ったハルカは愛用の長剣を高々と振り(かざ)すと、落下してくる〈軍馬〉の勢いを利用して腹部を貫いた。

 深々と刃の突き立った〈軍馬〉は三度(みたび)絶叫を上げながら、着地と同時に体が裂けるのも構わず二人の元から距離を置いた。

「悪い、助かった」

「もう、しっかりしてよ。相変わらず動けない人なんだから」

 ほっとした表情でクロトが礼を言うとそれにハルカは呆れていた。

 だが、そんな余裕もすぐに消え失せる。二人の傍から離れた〈軍馬〉は腹に穿った傷を一瞥すると、その部位をそっと手で撫でる。それだけで開いていた穴は綺麗さっぱりなくなってしまったのだ。

「今のでいくら注いだ?」

「百万くらいかな」

「となるとハルカの残高は九百万弱か。あいつの総量は軽く見積もっても一億前半。百万以下の攻撃はダメージすら与えられないだろうな」

「多分ね」

「はぁ、わかっていたつもりではいたが。実際、かなり厳しいよなぁ」

「倒せるかな?」

「まあ、呼び出した以上は俺達でどうにか片をつけないとな。一応、いくつか考えもある。ハルカ、無茶な注文で悪いが攻撃は奴の頭部だけに集中してくれ。それ以外のところを狙っても恐らく今みたいにすぐに再生されるからな」

「わかった。正直ちょっと自信ないけどやってみる」

 ハルカはクロトの無理難題に対しても嫌な顔一つ見せなかった。そのことに感謝しながらクロトは近場に転がっていた鉄パイプを拾い上げる。

 固有兵装以外で攻撃したところで、与えられるダメージなど微々たるものだとわかってはいたが、物理干渉のできない僕の固有兵装だけではあまりにも心許ないからだろう。

「奴の注意は俺が引きつける。ハルカはその(すき)を」

 ハルカはクロトの指示にコクリと頷いた。それと同時に二人は散開、クロトは〈軍馬〉の正面から、ハルカは側面から各々〈軍馬〉へと詰め寄っていく。

〈軍馬〉は最初、〈怨〉の所持量の多いハルカを標的として捉えようとした。だが、そこでクロトが手にしていたパイプを、近場に置かれる資材に打ちつけ音を鳴らして注意を引きつける。

 例え、圧倒的な暴力の権化である〈軍馬〉でも、所詮エネルギーの塊。おつむの方はそれ程発達していない。その証拠に〈軍馬〉はあっさり音に釣られた。

 その隙に乗じて、ハルカの剣戟(けんげき)が閃く。

 百万の〈怨〉が込められた凶悪なハルカの一撃は的確に〈軍馬〉の側頭部を捉え、仮面に皹を入れながら、〈軍馬〉の体が吹き飛ぶ。

 宙に舞った巨躯はそのままシートに覆われた鉄骨群に受け止められ、頑丈な鉄骨が〈軍馬〉のシルエット状に(ひしゃ)げていた。

 だが、それだけだった。すぐに曲がった鉄骨から巨体を引き抜くと〈軍馬〉は何事もなかったように地に降り、首を左右に傾げるだけで、既に仮面の亀裂も再生していた。

「......マジかよ」

 その何かしたか? とでも言いたげな〈軍馬〉の反応にはさすがにクロトも絶句した。

 無論、今の攻撃で倒せるなんてことは露ほども思っていなかったが、少なくとも大抵の〈怨鬼〉の急所に当たる頭部を攻撃して一切のダメージが見受けられないのはショックだった。

「こいつ、前にハルカが戦った固体より強いよな?」

「うん。あの時の奴は傷の回復速度ももっと緩慢だったし、ここまで防御力は高くなかったかな」

 それはまさに絶望的な情報だ。〈軍馬〉が恐れられている一番の要因はその暴力的な破壊力や再生能力に起因するものではない。勿論それらも他の〈怨鬼〉と比較すれば比べものにならない脅威に違いないのだが、もっとも留意すべきはそのタフさだ。

 一般的に〈怨鬼〉は身体を構成する三分の一以上を欠損すれば〈怨〉の結合が保てなくなり、自壊するのだが〈軍馬〉はその例外に属する。それは集積している〈怨〉の性質上個々の結束が異常なほど強固なことに起因するのだが、それ故に内包する〈怨〉全てを削ぎ落とさなければならないのだ。

「つまり、地道に削って弱らせることも無理ってことか。ならハルカ、次はあいつに全力の攻撃を叩き込んでくれ」

 ハルカはこの無謀(むぼう)とも言えるクロトの要請に僅かに逡巡(しゅんじゅん)を見せた。

 当然だ。〈怨〉の全喪は戦う手段を失うことと同義である上に、残りの八百万を込めた攻撃を放ったところで〈軍馬〉を倒せる見込みは0なのだ。

「......わかった」

 だが、それでもハルカは最終的には頷いてくれた。クロトを信じて自分の身を危険に晒すことを了承してくれたのだ。

 二人が僅かな間の作戦会議を終了させるとクロトはこちらを警戒して見据えていた〈軍馬〉に向かって疾駆(しっく)する。

 それに反応して〈軍馬〉も静止を解いて動く。地面のぬかるみも無視して凄まじい俊敏さでクロト目がけて走り出す。

 クロトは〈軍馬〉の進行を阻害するかのように断層をいくつも展開させるが、〈軍馬〉はそれを滑走(かっそう)するようにユラユラ体を揺らしながら避ける。

 そして、(またた)く間にクロトに接敵すると今度は重い拳を振り抜き、クロトの腹部に突き立てた。

「っぶふぅ」

 咄嗟に体と拳の間に断裂を(はさ)み込んで拳は止めたが、細い線状の空間の断層は拳から繰り出される衝撃波までは防いではくれず、届いた衝撃は体内に嫌に鈍い音を響かせ、同時にクロトが吐血する。

「ク、クロト!」

 体がくの字に折れ、口から血を吹くクロトの姿にハルカは悲鳴をあげ、思わず駆け寄ろうとする。

「くるな! 確実に一撃を叩き込める瞬間を狙え!」

 だが、クロトはそんなハルカを怒鳴りつけて制止させる。

 そこからは、一方的な展開だった。

 先程の一撃で肋骨(ろっこつ)の折れたクロトの動きは鈍り始め、〈軍馬〉の動きに翻弄(ほんろう)され始める。

 それでも、クロトは攻撃を受ける度に断層を器用に挟み込んで致命傷は回避するが、空気を伝う波動によってクロトの体はその都度随所から悲鳴をあげていた。

 ハルカはその様子を指を(くわ)えて見ていることしかできなかった。ただ、それでもクロトを信じて化け物の黒い巨躯に、確実に攻撃を与えられるチャンスを辛抱強く待ち続けた。

 そして、ハルカが待ち望んだ瞬間はその直後にようやく訪れることになる。

 いよいよ、立っているのもやっとな状態になっていたクロトだったが、化け物がまるでクロトを(なぶ)るのを楽しむように一旦距離をとろうと後方に跳躍した時だ。

「B‐29から54、解放」

 クロトはその地点に〈軍馬〉が立つのを待っていたと言わんばかりに目を見開き、仕掛けておいた大量のトラップを一気に発動させる。

 瞬間、〈軍馬〉の体を包囲するように数本の断裂が生じ、四肢を拘束した。これ以上ないほどの絶好の隙が生まれたかに見えた。だが。

 そこで、〈軍馬〉は自らの体を不意に動く範囲内でくねらせる。すると、その筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)な厳しい体躯がまるでスライムのように軟体なものに変異し、断裂の合間をスルスルと抜けてくる。

 飛び出そうとしていたハルカはその光景を目の当たりにして動きが止まってしまう。クロトも同じだった。

 二人の途方に暮れる様を嘲笑うように〈軍馬〉は断裂の檻を抜けるとクロトの眼前で再び元の形態に戻る。そして、仮面のような口元をカパリと開くとクロトの肩に(かじ)りついた。

「うわあああああああああああ!」

 こだまするのは凄惨な悲鳴。クロトは必死にもがいて〈軍馬〉の体を引き離そうとする。だが万力のような強力な圧力に捉えられた肩から、〈軍馬〉の(あぎと)が外れることはない。

「クソがーーー!」

 激痛に発狂しながらもクロトは右手に掴んでいた鉄パイプを〈軍馬〉の腹に突き刺す。

 多少の効果はあったのか〈軍馬〉は悲鳴のようにくぐもった鳴き声をあげるとクロトの肩口から一瞬だけ牙を抜いた。

 それだけで十分だった。

〈軍馬〉は再びクロトに噛みつこうと口端を開いたがその時には既にハルカが怒りの形相で傍らに迫っていた。

 そして、けたたましい轟音と共に〈軍馬〉の体は腹に鉄パイプの刺さったまま吹き飛んでいた。

 今度は先程の八倍の勢いがあるためか、受け止める鉄骨ごと引き千切り、〈軍馬〉は建設途上の建物基部のコンクリートを砕いて地面に突き刺さった。

 まるで隕石が落下したかのような凄まじい地鳴りを響かせ、〈軍馬〉の巨躯が緩くなった地面に沈み込んだ光景はハルカの放った一撃の重さを物語っていた。

「Aナンバー全解放」

 クロトは地面に半ば埋まりながら横たわる〈軍馬〉の状態を遠目から確認すると、弱々しく立ち上がり呟く。

 雨と自重(じじゅう)によって柔らかくなった粘土質の泥に半身が埋没(まいぼつ)している〈軍馬〉はもがきながら這い上がろうとする。だが、もがけばもがくほど、重い巨体は流体(りゅうたい)に包まれ、一層身動きが封じられていた。

 そして、極めつけがこれだ。

 クロトが命令を発した瞬間。それまで戦いの中でも毅然として屹立(きつりつ)していたはずの鉄骨群が、不意に金属のこすれる不協和音を奏でながら崩落を始めたのだ。

 ただでさえ基部を砕かれて(もろ)くなっているところに、支柱の耐久力をたった今全て無にされたのならば倒壊を止める手立てなどあるはずもなかった。

〈軍馬〉は沈み行く地面と雨霰(あめあられ)のように降りかかる瓦礫(がれき)の群れに、ただ雄叫びを上げるだけだ。

 その光景を目の当たりにして僕は実に嫌らしくクロトらしい戦略だと感心してしまう。

 倒せないなら埋めてしまえばいい。そうすれば倒すのに必要な〈怨〉を掻き集める猶予ができる。問題の先送りとも言えるが実際今の状況ではベストな策だと言えた。

 倒壊が静まり〈軍馬〉が瓦礫と共に地中深く沈みこんだことを確認すると、ハルカは緊張の糸が切れてしまったかのようにその場にへたり込んでしまっていた。

 無理もない、あれほど死と隣り合わせの極限状態の中に身を置いていたのだから仕方のないことだ。

 ただ、そんな脱力したハルカを一瞥してクロトは、刹那苦笑を垣間見せたもののその面持ちは未だに強張っており、ハルカの傍から離れて確認するように瓦礫の山を登っていく。

 その用心深過ぎるクロトの行動に僕もハルカも苦笑してしまっていた。いくら化け物でも埋もれてしまえば為す術などないとそう思っていたからだ。

 だが、正しかったのはクロトの方だった。この無情なる暴君は時間すら与えるつもりはないらしい。

 そこで突然、瓦礫と泥の僅かな隙間から黒い瘴気が立ち込めた。完全に全身が地中に埋没していた〈軍馬〉が自らの体を構成する〈怨〉の結合を解いたのだ。

 そして、噴き上がったドス黒い気体は誕生した時と同じように〈軍馬〉へと再結合を行い、瓦礫の山の上に沈む前と全く同じ、まるでそこにいて当然と言いたげに悠然と立った。

「そ、そんな......」

 目の前の光景が理解できなかったハルカは戦慄を覚え、ただ眼前の光景に目を疑った。当然だ、ここまで絶望的な状況と言うのも他にはないのだから。

〈軍馬〉は左右それぞれに佇む、全身ボロボロのクロトとガス欠状態のハルカを交互に一瞥する。そして、一瞬の逡巡も見せることなく即座にクロトのいる方向へ照準を合わせ、駆け出した。

 もはや抵抗する術など何も残っていない。あらゆる策を用いて、なんとか地中に埋もれさせたのにそれが時間稼ぎにすらならなかったのだから。

 だが、ハルカはそこでクロトがニヤリと笑ったのを見逃さなかった。

 そう、笑ったのだ。まるで完全な勝利を確信したように自分に向かってくる〈軍馬〉を悠然と眺めていたのだ。

 クロトは最初から今ので〈軍馬〉を封じられるなんて思っていなかった。目的はもっと他にあった。

〈怨鬼〉は〈怨〉に引き寄せられる。だから、クロトはハルカの所持している〈怨〉を使い切らせた。〈軍馬〉に自分を狙わせるために。

 そして、〈軍馬〉が再び出てきた時、調度その地点を通るようにわざわざ瓦礫の山を登ったのだ。

 そこでようやくハルカと僕はクロトの意図に理解が及んだ。いや、及んでしまった。

 最初から勝ち目などなかったのにどうして〈軍馬〉と対峙したのか、理由も全て納得がいってしまった。

「ああ......そっか。さっき言ってたのはそういう意味だったんだね......」

 ハルカは少しだけ悲しげで、寂しげな表情を浮かべていた。

 そりゃそうだ。だってクロトは()しがたいほどのバカ野郎なのだ。この結末を選択したことには正直僕も驚いている。

 僕はクロトがハルカを生き返らそうとした理由は我欲だと思っていた。ハルカが大切で傍にいて欲しいからだと思っていた。

 だが、それは違った。クロトがここまで必死になってハルカを救い出そうとしたのは自分の幸福ではなく、ハルカに幸せになってもらいたかったからで、そこに自分のことは一切含まれていなかったのだ。

 正直、脱帽(だつぼう)してしまう。歪んで、捻くれているとは思っていたけど、ここまでとは思っていなかった。ここまで歪んだ優しさを僕は知らない。

 だってそうだろう。たった一人好きな女の子のために、汚れ、壊れ、苦しんで、なおかつ自分には一切の利がないのに誰も犠牲にしない道を選ぶなんて狂っている。正常とは到底言いがたいことだ。

 できることなら踏み(とど)まって欲しかった。それは僕も、きっとハルカも思っていることだ。

 だが、実際このままでは〈軍馬〉によって茫漠な人間が殺されてしまう。力がない故に理不尽に殺されてしまう。

 それを防げるのは残念ながらクロトの選んだ方法だけだ。

 だから、クロトは止まらない。

「Z‐1、開放」

 接近してくる〈軍馬〉を見据えながら、クロトは予め大量の〈怨〉を注いで仕掛けておいた仕込みを発動させる。

 恐らくクロトはこの結末を、記憶を失った五年前の段階では覚悟していたのだろう。

 ここに仕掛けられているトラップは全て五年前に用意したもの。その中でもこの仕込みを施した理由が僕はずっと謎だった。

 一立方メートル分の空間内の時間断裂。

 それは敵の動きを停止させる効果としては絶大な威力を発揮するが、同時にその時間の概念が切り取られた隔絶空間内においては当然通常の固有兵装では攻撃することもできなくなってしまう。

 だから、ずっと不思議だった。決して安くはないコストを費やしてまで敵を閉じ込めることに意味があるのかと。人間相手ならばいざ知らず、体力や耐久力なんて概念の存在しない〈怨鬼〉に対してどんな用途があるのかと。だが、その疑問も綺麗に融解した。

 時間の停滞した空間に囚われた〈軍馬〉は何もできなかった。それどころかその空間内に降っていた雨粒も中空で停止し微動だにしない。

 頭上から降りしきる雨も、その時間の切り取られた空間に弾かれて、時間の停止している空間を明瞭にするように規則正しいキューブのシルエットを浮かび上がらせるだけだ。

「0(ゼロ)、俺の中にある〈(エン)〉をくれてやる。それであいつの『存在』を斬り裂け」

 そして、クロトは僕にそう命じた。〈怨〉でなく〈縁〉を使えと命じた。

 クロトの中に存在する〈縁〉で、〈軍馬〉を(ほうむ)り去れるものなどたった一つしかない。それはハルカとの絆だけだ。

『本当に良いのかい?』

「いいからやれ!」

 思わず訊き返した僕にクロトは泣きそうな顔で怒鳴っていた。その顔を見てしまうと僕はただ黙って従うしかない。

 辛くないはずがない。自分の中から大切なものが全て消え失せてしまうのだから。

〈縁〉の消費とはそういうことだ。忘れるのではなくなかったことになる。ハルカとの思い出も、温もりも、想いも全部水泡のように。

「ごめん。また、ハルカに辛い思いをさせることになる。本当、自分勝手でごめん」

 クロトは真っ黒な刀を(さや)から引き抜きながら()びていた。

「もう......本当だよ」

 そんなクロトの言葉にハルカも涙と苦笑の入り混じった顔でぼやく。

「けど、それで俺のことは忘れて幸せになってくれなんて気障(きざ)な台詞吐いたらぶっ飛ばすからね」

 しかし、ハルカはそこでクロトが思ってもいかなかった言葉を口にした。

「でも、俺はハルカのことを......」

「いいよ。全部なかったことになっても。一番大切なのはクロトがそこにちゃんといてくれることだもん。それになくなっちゃったらまた一から作っていけばいいよ。さっきも言ったでしょ。私はずっとクロトの傍にいるって。それで、もう一回クロトを私の方に振り向かせてあげる」

 そう言うとハルカはゆっくりクロトの傍に歩み寄り、そっと(くちびる)を重ねてきた。

「それにね。私はやっぱりクロトのそういう自分勝手なところも含めて好きなんだよ。(ひね)くれてて、陰険で、結構残忍で。でも、それ以上に優しいクロトが好きなんだよ。色恋は()れた方の負けなんて言うけど、本当にその通りだよね。もう、私にはクロトの隣にいる以外考えられないんだもん。だから、私は大丈夫。そりゃ、辛くないって言えば嘘になるけど、それでも大丈夫」

 そして、目頭(めがしら)に涙を溜めながらではあったがハルカはそう言ってニコッと笑って見せていた。

 充分過ぎた。それだけでクロトは救われたように穏やかな表情になっていた。

「そう言ってもらえると、少しだけ安心する」

「えぇ、少しだけ?」

「いや、かなりかな」

 クロトの言葉にハルカは不満そうに()ねるので、クロトも苦笑を浮かべながらその点にしっかり訂正を入れる。

 もう、クロトに怖いものなんて何もなかった。辛さが消えたかと言えばそれは違うのだろうが、それでもこの選択を選んだことへの後悔だけは拭うことができていた。

「じゃあ、そろそろ」

「......うん」

 クロトはそれだけ言い残すと抜き身になった刀をゆっくりと振り上げた。

 僕の固有兵器の中で唯一〈怨鬼〉を殺すことができる方法。対象の蓄積している〈怨〉と同等のエネルギーをぶつけて対消滅させる、個の『存在』という概念を攻撃する凶刃。

 クロトはそれを振り下ろす。時間の停止している空間の中においても僕の固有兵装は一切影響を受けず重力に従うように落下する。

 近づいてくるドス黒い刃に時間の止まっている〈軍馬〉は何ら抵抗できない。

 そして、〈軍馬〉を殺す刃は〈軍馬〉の頭部へと深々と突き立った。

 悲鳴はあがらない。構成している〈怨〉も全く飛び散らない。それでも黒い刃は〈軍馬〉の『存在』を斬り刻んでいった。

 クロトの一番大切なものも一緒に巻き込みながら............


 意識が戻った時、コヨイは自分の視界に映った光景にただ唖然(あぜん)としていた。

 いや、固有兵器を納めているこの状況では主人格はサクヤに入れ替わっているのかもしれないが。ただ、どちらにせよ、彼女は現状何が起きているのかを把握することができずにいたのだ。

 目の前ではクロトに刀を突き立てられながら完全に沈黙している〈軍馬〉の体が、徐々に薄らみながら消滅し始めていた。

 ビショップでも〈理外者〉が十数人いなければ対処できない〈軍馬〉が消えいくその光景はサクヤに大きな衝撃を与えていた。

「そ、そんな! でも、どうして......」

 ヨロヨロと立ち上がったサクヤは覚束(おぼつか)ない足取りでゆっくりとクロトと〈軍馬〉の傍に歩み寄ろうとする。

 サクヤはクロトが〈軍馬〉と戦うなんて、ましてや倒すなんて思ってもいなかった。

 自分の願いを叶えれば、後のことなど知ったことかと遁走(とんそう)する。それが我欲に駆られた過去の罪人達の行動パターン。

 当然、クロトもそうするだろうと考えていた。だから、サクヤは困惑していた。

「クロトは始めから〈軍馬〉を倒すつもりだったんですか? 誰も犠牲にならないように......」

「そうだよ。クロトは始めから私を救ってその上で、誰も傷つけないように〈縁〉を使って生まれてくる〈軍馬〉を倒すつもりだった」

 そこで、突然隣からサクヤの疑念の答えを紡ぐ声が聞こえる。

 振り返るとそこにいたのは自身と同年代の女の子だった。雨で湿(しめ)った長い髪を輝かせる綺麗で優しそうな女の子。

 サクヤは彼女こそがクロトが取り戻そうとした大切な人だとすぐに理解できた。

「じゃあ、もしかしてクロトの使った〈縁〉ってあなたとの?」

「うん。私とクロト、二人の今までの絆全部」

 少しだけ物憂げで、寂しさを滲ませた表情で答える彼女の一言で、サクヤはさっきクロトが呟いていた言葉の意味を理解した。

『安心しろ。俺は何も得ない。だから失われるものなんて何もない』それはつまりそういうことだった。

〈縁〉を失い、記憶も、思い出も、想いも、何もかも失うクロトは大切な人を蘇らせても結局何も得ていないのと同じ。

 得をする者がいないなら損をする者も必然的にいなくなる。そういう理屈っぽいクロトらいしい言葉だったのだ。

「じゃあ、クロトは始めから自分のためではなく......」

「うん、クロトは優し過ぎるから......でも、本当、自分勝手だよね。残される側のことも少しは考えて欲しいよ」

 彼女は苦笑いを浮かべながら愚痴っていた。

「あなたは......辛くないんですか?」

「辛いに決まってるじゃない。でも、いいの。確かに思い出や関係はなくなっちゃうけど、一番大切なのはその人が傍にいることだから」

「......強いんですね」

「ううん。そんなことないよ。私も、それにクロトも弱い。一人じゃなんにもできないもん。それに私は別に(あきら)めたわけじゃないよ。絆がなくなっちゃったんだったら、もう一度作ればいい。どんなにクロトが嫌がったって諦めてなんてあげないつもり」

 サクヤはそう言われて不覚にも敵わないなぁと一瞬思ってしまっていた。

 この二人はどこまでもお互いを信じ合っていて、どこまでもお互いを大切に想っている。それはきっとサクヤの抱いていた感情よりも遥かに深く、濃い。

 そして、それがあったからこそクロトはここまでできたのだと思う。

 ルールを逸脱して咎人(とがびと)()ちることも、周囲から断じることも(いと)わず真っ直ぐ突き進めた。間違いとわかっていても間違いを貫く原動力を得られた。

 きっとそれは、傍から見ればどんなに取り繕っても、(いびつ)で汚らわしい行動だろうし、やっぱり間違っているとも思うだろう。

 だがその反面、サクヤにはそれが透き通るほど純粋で、真っ直ぐなもので、何より優しいものに映っていた。

 サクヤは眩しそうに、羨ましそうにハルカに向けていた視線を再び、クロトへ移す。

 すると、そこで存在が薄弱になり、全身が半透明になっていた〈軍馬〉がいよいよ完全に消滅しようとしていたところだった。

 そして、数瞬後には〈軍馬〉の姿は影も形も残さず綺麗に消え去った。

 クロトはまるで糸の切れたマリオネットのようによろめきながらその場に崩折れる。同時にそれまで展開させていた僕の固有兵器も消えてなくなった。

 地に座り込んだクロトはその後しばらく虚ろな表情で〈軍馬〉のいなくなった荒れ果てた工事現場を呆然と見詰め、時折何かを探すように双眸を右往左往と泳がせていた。

 もう、クロトの中にはハルカに関する記憶は一片たりとも残っていない。だから、今のクロトはきっと言葉に表しがたい奇妙な感覚に苛まれ戸惑っているのだろう。

 さっきまで自分が〈軍馬〉と戦っており、それを倒したことはわかる。だが、どうして自分が〈軍馬〉と戦うことになったのか、どうして禁忌を犯すなんてことをしたのか、その原因がまるでわからなかったのだ。

 今のクロトにあったのはただ何かを失ったという認識と、妙に空虚感を伴うもどかしさだけだった。

 そんな、混乱するクロトの様子を眺めていたサクヤは傍らに佇むハルカを見詰めた。

 ハルカは瞳に溜まっていた涙を一生懸命拭い。そして、表情から、悲しさや寂しさを窺わせる痕跡を綺麗に隠して穏やかな笑みを浮かべると、ゆっくり静かな足取りでクロトの背後に近づいて行った。

 ハルカがすぐ後ろまで歩み寄ると、そこでクロトも気配に気づいて振り返る。

 二人は何も言葉を交わさず、しばしの間お互いを見詰め合った。存在するのはただ土を叩く雨の音だけ。

「何か探しもの?」

 沈黙を破ったのはハルカだった。

「わからない。何か探さないとダメな気がしたんだが、何を探せばいいのかも、何をなくしたのかも、まるでわからない」

「わからないことが怖い?」

「ああ、少しな。何かとても大事なもののような気がするから」

「大丈夫だよ」

「えっ......」

「君はなんにも失くしてたりなんてしてないよ。大事なものはきっとすぐ傍にずっと在り続けてる。きっと今はそれに気づいてないだけだよ」

「そう、なのか?」

「そうだよ。だから、今はそうやって後ろばかり気にしてないで前に進むことを考えてみたら?」

 名前もわからない女の子にそう言われ、クロトはしばし逡巡したように顔を(うつむ)けた。だが、すぐに。

「そう、だな。君の言う通りかもしれない。わからないことをいつまでも考えていたって仕方ないか」

 そのクロトの呟きに、ハルカは一瞬だけ表情に寂しさを滲ませてしまう。だが、それもすぐに払拭して尋ねた。

「ねぇ、あなたの名前は?」

「ん? ああ、屍だ。屍黒斗」

「そっか、クロトって言うんだ。うん、すごく優しそうでいい名前だね」

「そ、そうか?」

「そうだよ。あっ、私は姫宮春香って言うんだ。よかったらハルカって呼んでね」

「あ、ああ」

「初めまして、クロト」

 ハルカはそう言うとニッコリと微笑みながらそっと自分の手を差し出した。

 クロトはそんなハルカの行動に少し戸惑った。こんな風に優しく屈託のない表情で手を差し伸べられることに慣れていないから......

「は、初めましてハルカ」

 だが、それでもクロトはハルカの手を握る。そして、クロトはハルカの手に触れて、起こしてもらいながら「暖かい」なんて感想を抱いた。

 二人はそのまま、繋がった手を(ほど)かずにしばらくずっとその場に佇んでいた。互いの手の温もりを確かめ合うようにずっと手を握って、互いの瞳を見詰め合っていた。

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