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第三章 兇器(キラーマシーン)の凱旋(がいせん)

『この世界で最も歪んでいるものは何か?』そう問いかけられたらどんな返答が得られるだろうか。

 恐らく人によって、戦争、社会、性格、はたまたおばあちゃんの歯並びと千差万別の答が返ってくることだろう。

 当然だ。そもそもこんな禅問答(ぜんもんどう)じみた曖昧(あいまい)な議題に明確な解を出すことなどできるはずはないし。この世界においては(ゆが)みなんて(あふ)れ返っている。

 それこそ、僕達〈因子(アプリ)〉や〈(エン)〉や〈怨鬼(レギオン)〉と言った存在そのものが歪みと言っても過言じゃないものまであるくらいなのだ。

 別に自暴自棄になっているわけじゃない。これは覆しようのない事実だ。バファリンのように半分は優しさで出来ていたりしたならまだ弁解の余地はあるのだろうが、残念ながら僕達は純国産百パーセントで品質保証までついている。

 だから、その点については今さら言い訳がましいことを口にするつもりはない。

 ただ、歪みの塊である僕が言うのもおこがましいことかもしれないが、人だって十二分に歪んでいると思う。というより、彼らが歪んでいないはずがない。

 そりゃそうだ。人なんて折角自由な身で生まれてきているのに、ルールを発見解明したり、作り出したりすることで自らを律し、規定してしまう。そんな縛られたがりの被虐快楽主義者達が歪んでないはずがない。

 加えてなまじ『思考する』なんて(さと)さを兼ね備えているが故に、ルールが矛盾していようが解釈一つであっさり解決させてしまう。

 その温床が、裏側にはびこる〈怨〉や〈怨鬼〉、はたまた僕達〈因子〉だ。

 ドMのくせに人一倍幸福に貪欲な連中は二十四時間、三百六十五日、他者に対して欲し、怨み、(そね)み、(ねた)み、怒り、後悔を繰り返す。

 そして、要らなくなれば〈怨〉として放出し続ける。〈怨鬼〉を生み出し、あまつさえ、()づけまでするのだ。

 それで、襲われるから、あるいは自分の欲を叶えたいからという理由で一生懸命狩り続ける。〈怨〉の本質が何かも考えないまま。

〈怨〉にどうして(かせ)を曲げるだけの力があるかなんて単純な理屈だ。積もりに積もった負の

情念には、元々それだけの力があるからだ。思考を歪めるのに感情ほど打ってつけのファクターはない。

 例えば、憎しみで怒り狂ってしまえば人は簡単に人を殺すだろ? ()えに耐えかね苦しめば盗みを働いてしまうことだってあるだろう? 倫理や法律で禁止されているのにそれらを逸脱(いつだつ)してしまうことなんて良くあること。つまりはそういうことだ。

 元々〈怨〉の原材料たる負の感情にはそれだけの力がある。だから、その濃縮エネルギーである〈怨〉にも枷を歪める力があって当然なのだ。

 勿論、こういう力を持ったエネルギーは負の感情なんて悪玉コレステロールから生まれる〈怨〉だけとは限らない。

(エン)〉という正の感情から生まれるものもあるにはある。実際、僕達〈因子〉にとっては〈怨〉より〈縁〉の方が格段にエネルギー変換効率は高かったりする。

 ただ、悲しきかな。〈縁〉は実用性が(とぼ)しい。

 人を(うら)むなんて簡単にできることだ。それこそ、気に食わないことがあればそれだけで私怨(しえん)なんて生まれる。

 しかし、愛だの、善意だの、感謝だのといったその手のものは中々簡単には生まれてこない。そういう感情を(はぐく)むには他者と関係を築いてあれこれ色々しないといけない故に、当然相応の時間が必要になってしまう。

 加えて、〈(エン)〉を消費してしまえば、折角育んだそういう大切な感情が綺麗さっぱり消滅してしまうのだから、誰も使おうなんて思うわけがない。

 それだったらいらない負の感情を切り捨てるに決まっている。別に他者への憎悪が消えても困ることなんて何もないんだから。

 そりゃ、そんなことを延々と続けていれば世界中歪みだらけになるのも(うなず)ける。要らないものを無慈悲に捨てて、殺して、リサイクルまでするんだから、グニャグニャにならない方が不思議だ。

 でもまあ、僕はそれで良いんじゃないかとも思う。

 いや、それこそが普通だと思っている。誰だって、何だって本当は(いびつ)にひん曲がっていて当然なんだ。人だろうと世界だろうと本当は歪であるべきなんだ。

 それなのに真っ直ぐあろうとする方が僕からすればよほど胡散臭(うさんくさ)く、醜く歪んだものに見えてしょうがない。

 だから、僕なら最初に出てきた質問にこう答えるだろう。この世で最も歪んだもの、それは『優しさの欠けた、(むご)ったらしい正しさ』だと......


 二時限目の現国の授業中、クロトは相変わらず我が道を突き進むかのごとく先生の存在を気にもしないで爆睡していた。

 それはもう、固いはずの机が実は綿(めん)百パーセントの安眠磁気枕(じきまくら)ではないのかと錯覚してしまいそうなほどの熟睡ぷりで。おまけにその口端(くちは)は僅かにニヤついていて、どこか安らいでいるかのように気持ち良さ気な寝顔だった。

 クロトがこんな笑顔を浮かべているなんて珍しい。悪巧(わるだく)みをしてそうな冷厳で悪辣(あくらつ)な笑みならしょっちゅう浮かべているが、楽しそうな微笑みというのは本当にレアだ。はぐれメタル並にレアだ。

 だから最初、僕はエロい夢でも見てムフフな空想世界を堪能しているのだろうかと思っていた。

 だって、クロトがそういう顔を浮かべているところなんて昨日僕がエロ音声を再生した時くらいしか見てないし、実際クロトがムッツリ野郎であることは昨夜の一件で証明されている。

「......ハルカ」

 ただ、どうやら僕のその予想は見当ハズレだったらしい。クロトが今見ている夢は昔の思い出だった。

 今から五年以上も昔の大切な記憶。だが、彼には思い出すことが絶対にできない鍵のかかった引き出しの奥深くに追いやられた記憶。

 それは例えるなら眠ったときだけ省みることのできる桃源郷のようなものだろう。

〈怨〉による封印は完璧だ。こうして無意識下においては思い出すことはできても意識が戻ればどんな夢を見ていたかさえ忘れてしまう。

 だから、せめて今くらいはゆっくり幸せな時間を堪能していろと影ながら僕は思ったりしていたのだが、残念なことに、どうやらその希望は叶えられないようだ。

 それは授業が中盤に差しかかり、前方の黒板が白文字で一杯になって先生が黒板消しに手を伸ばしたタイミングだった。

 ――ピンポンパンポーン

『生徒の呼び出しをします。一年二組の(しかばね)黒斗(くろと)君、同じく一年二組の二神(ふたがみ)咲夜(さくや)さんは至急生校長室まできてください。繰り返します。一年二組の......』

 授業の真っ最中であるにもかかわらず、突然そんな放送が校舎全体に鳴り響き、クロトの眠りを妨げたのだ。

「んあ?」

 その放送で折角のまどろみから意識をサルベージされてしまったクロトは苛立った表情で顔をあげる。そして、同時にそれまで(つつ)ましく授業を受けていた他のクラスメイト達もざわめき始める。

 まあ、授業中に校長室に呼び出されるなんてことは異例なことだから周りが騒ぐのも当然だろう。

 クロト自身も最初、自分が何故呼び出されたのかさっぱりわからなかった。

 ただ「おいおい、こいつら一体何やらかしたんだ」的な好奇の視線とヒソヒソ話をする周囲を呆然と眺めていると、次第に寝起きで鈍っていた頭が働き始める。

 思い出されたれたのは昨日別れ際にコヨイが言っていたある人への報告という話。

「ああ、これがそうか」

 自分だけならまだしも、優等生のサクヤも一緒に呼ばれている時点で間違いないだろうと思い、そこでクロトはサクヤの方を一瞥(いちべつ)した。

 すると案の定、少し神妙な面持(おもも)ちでこちらを見ていたサクヤと視線がかち合い、彼女がコクリと一度頷いたことではっきりした。

「ある人というのはサクヤやコヨイの上司に当たる人間だよなぁ。それとこれから御対面となると少し憂鬱(ゆううつ)だな」

 クロトはコヨイに言われた時点で、そのある人というのが自分の監視をサクヤに命じているのだろうとなんとなく想像はついていた。

 そして、そいつに直接会ってあれこれ報告するということは、つまりはそれが尋問だということも。

 だからクロトは憂鬱なのだ。正直、尋問なんて面倒臭いことはできることならボイコットしたいところだろう。

「はぁ。でも、行かないわけにもいかないんだよなぁ」

 だが、相手が見逃してくれるとも思えなかった。わざわざ自分に監視をつけるような奴だ、どうせスッポカしたところで(あきら)めるわけがない。むしろ、そんなことをしたら後々拉致(らち)監禁でもされかねない。だったら憂鬱だろうと億劫(おっくう)だろうと素直に要請に応じておくのが賢明な判断だろうとクロトは考える。

 それに、何よりクロトは自分に欠損があることを自覚したことで、この状況の意味をもう理解していた。僕が欠損の復元に必要な作業を引き延ばした意味にも気づいてくれていた。

 そう、これは必要な工程の一つ。今のクロトが連中に会うことが重要なのだということをクロトは察してくれていたのだ。

 だから、クロトは渋々席を立ち上がる。

 そして、自分のもとに近づいてきて、少し申し訳なさそうな顔で。

「それじゃあ、お手数ですけどお願いしますね」

 と呟くサクヤに嫌味たらしく大きく嘆息を吐いて。

「まあ、仕方ないだろ」

 と受諾し、相変わらず重い足取りで先導する彼女に追従して教室をあとにした。


 校長室という場所に一般の生徒が立ち入る機会はそうそうあるのもじゃない。それこそ、実際に目にするよりも学園もののドラマなどで目にする機会の方が圧倒的に多いだろう。

 ただ、まあ、だからといって実は校長室には想像を絶するような特殊設備があるとか、実は絢爛(けんらん)豪華(ごうか)なマハラジャが住んでそうな内装とかが施されていることはまずない。

 実際の校長室もテレビで見たままで普通だった。

 ちょっと広めの室内に応接セットを置いて、ほんの少し豪華そうに見えるように取り(つくろ)っているだけの部屋。()いて関心する点をあげれば、冷房完備で快適な室温が保たれていることぐらいだ。

 まあ、クロトにはそれが少し(うらや)ましいようで校長室に入ってから時折冷房の方に視線がいっているが、とにかく部屋自体には大して奇異(きい)なところはなかった。

 ただ、代わりにその部屋の状況は少し妙だった。

 そこには本来部屋の主であるはずの校長の姿はなく、代わりに応接セットのソファーにコーヒーカップ片手に偉そうに足を組んで腰かける男子生徒がいたのだ。

「っち、よりにもよってこいつか」

 そいつの姿を目にしてクロトは顔をしかめて小声でぼやく。

 まあ、それも仕方がない。そこにいたのはクロトの大嫌いな生徒会長のワタライだったのだから。

「はぁ。別に誰が待っていても不思議じゃないとは思っていたが。まさか、あんたがサクヤの上司だとは思わなかったよ」

 そして、今度はこれ見よがしに目を細め、嫌そうな表情で正直な感想を相手に聞こえるように漏らしていた。

「ふん、本来貴様ごときが知る必要はないことだった。だが、貴様が〈怨鬼〉と接触してしまった以上は私自ら確認する必要があるからな」

 それに対して、ワタライはコーヒーを(すす)りながらクロトに一瞥もくれないで答える。

 相変わらずの尊大な態度。人を偉そうに呼び出して最初に口から出てくる言葉がそれかとクロトはますます苦々しい顔をするがワタライは気にも留めないようだった。

「それで、俺はあんたに何を報告すればいいんだ?」

 ただ、それでもクロトは煮え立つ(はらわた)を必死に抑え、とりあえずワタライの正面に座る。

「報告といっても貴様の言葉は信じるに(あたい)しない。だから貴様は喋らず黙ってここにいるだけでいい。その間にこっちはこっちで勝手に調べさせてもらう」

 だが、ワタライはぶっきら棒に言うだけで、おもむろに自分の隣に置いていた分厚いハードカバーの本を手に取りペラペラとページをめくり始めてしまう。というかクロトやサクヤがいることを完全に無視して読書を開始してしまう。

「お、おい。調べるなら早くしてくれないか?」

 その唐突で意味不明なワタライの行動にクロトは当然苛立ちを覚えた。だが、それにワタライは何も答えず読書を続けるだけだ。

 (たま)りかねたクロトが(かたわ)らに(たたず)むサクヤに視線を向けると、どうやらサクヤもワタライの意図がわからないようで、少し戸惑った表情で小首を(かし)げてくる。

「お前、いい加減にしろよ! 人を呼びつけておいて無為に時間を浪費させるんだったら帰らせてもらうぞ」

「黙っていろ。貴様にはそもそも文句を言う権利は与えられていない。罪人は罪人らしく檻の中では大人しく言うことを聞いていればいい」

 さすがにここまでコケにされればいくら相手がワタライでも我慢しかねたのか、クロトは正対するワタライをきつく(にら)みつけて声を荒げていた。

 だが、それにワタライはまるでゴミでも見るような冷淡な視線を向けて、クロトにはわけがわからない罵倒を口にするだけだ。

「そうか。だったら俺はさっさと帰らせてもらう。お前はそのままそこで偉そうに踏ん反り返っていろ!」

 そう吐き捨てると憤慨(ふんがい)したクロトはソファーから立ち上がった。だが、その瞬間。

「誰が勝手なことをしていいと言った」

 突然ワタライが本を片手に持ったまま席から飛び上がり、一切無駄のない流麗(りゅうれい)な動きでクロトの足を払って腕を()める。

 その(みが)き上げられた軍隊格闘技のような拘束術に、相手が片手であるにもかかわらずクロトは抗うこともできずあっさり床に組み伏せられてしまう。

 正直、ちょっと情けない姿だった。自身もそれを自覚しているのか、クロトは苦虫を()み潰したように渋い表情になっていた。

「クソが、離せ!」

 叫びながらクロトはどうにか拘束を解こうともがいた。だが、いくら暴れても全くの無意味。

「ふん、憐れだな。あれだけ周囲から恐れられ、兇器とまで呼ばれていた貴様も檻に入れられてしまえばこうもあっさり脆弱(ぜいじゃく)で無様な姿を(さら)す。本当に憐れで、滑稽だ」

 返ってくるのはワタライの悪辣な言葉。何を言っているのか意味もわからない罵倒の連続。そして、徐々に()め上げられて腕に走る激痛だけだ。

「なんなんだよ、お前は! 一体何がしたいんだ!」

 だが、それでもクロトはワタライに屈することだけは我慢ならないらしく、痛みに悲鳴をあげることもなくただひたすらワタライを睨み続けていた。

 そこで、ワタライの表情に初めて変化が生じる。

 それまでただクロトを見下すだけだった冷淡な瞳が苛立ったように吊り上がる。そして、不意にパタンと片手に掲げていた本を閉じ傍らに置くと、今度は懐から何かを取り出しクロトの首筋に突きつける。

 天井の蛍光灯の光を鈍く反射させながらクロトの肌に冷たい感触が伝わる。それは、刃渡り十五センチはあるサバイバルナイフだった。

「何がしたいかだと? そうだな。強いてあげるなら、私は今この場で貴様を殺しておきたい。こんな面倒な検査は省いて貴様のような危険因子は早々に排除しておきたい」

 ワタライはクロトの首筋に()うようにナイフを当てがいながらドスの効いた声で(ささや)いていた。

「私は貴様のように義務を果たさず私欲に走る屑には反吐(へど)が出る。だが、残念ながら封印が解けていない限り我々は貴様を生かしておかなければならない。膨大に貯め込んだ〈怨〉を暴走させるわけにもいかないからな。だから、貴様は今生きていられる。いや、正確には我々に生かされている。結局、貴様は檻で飼われている家畜(かちく)となんら変わらん」

 それは警告のようだった。だが、クロトからすればやはり身に覚えのない文言の羅列(られつ)にしか聞こえない。

 それでも、業腹(ごうはら)だった。意味もわからず酪農小屋のブタ扱いされたことが腹立たしくてしょうがなかった。

「調子に、のるな!」

 だからクロトはそこで我慢することをやめる。固められていない方の手をそっと制服の胸ポケットに忍ばせる。

 そこには三本のボールペンが刺さっていた。赤、青、黄色とまるで信号機のような配色の三本のペン。

 それが何かというと。普段から人の弱みに突け込み、揺すり、コキ使うといったことを平然とやっているクロトらしい常備品だ。

 いくら怨みをかわないように気を遣っているとしても、やはりやばそうな連中に囲まれてリンチにされそうになる状況は起こりうる。だから囲まれた時のために予め備えをしている。青はスタンガン、黄色は催涙(さいるい)スプレー、赤はクロロホルムといった具合に普通の高校生は絶対に持ち歩かないような物を持ち歩いているのだ。

 クロトが取ったのは青のスタンガンだった。小型だが、出力は十分で一発かましてやれば相手はピクピクと陸に上がった魚になってしまうような特注品。

 それをそっと抜いて、馬乗りになっているワタライにお見舞いしてやろうと足裏に忍ばせる。

 だが、クロトが何かしようとするのを敏感に感じ取ったワタライは突然、クロトの拘束を解いてスッと背中から退(しりぞ)いた。

「ふん、牙がなくとも狂犬は狂犬か。本当に(しつけ)がなっていない。誰かれ構わず()みつこうとするとは実に愚かだ。ここで少し、調教しておいてやろう」

 そして、嘲笑いながらワタライは敵意のこもった視線をクロトに向け、傍らに置いていた本を拾い上げる。

「やれるものなら、やってみろ。逆に俺がお前に人と話す時の礼儀ってやつをその体に教え込んでやる」

 それに、クロトも張り合うように挑発し返す。

 互いが互いに殺してやるとでも言わんばかりに殺気を立ち込めさせた一触即発の状況。

 別に僕は止めに入ったりはしない。こうして携帯の奥底から高みの見物をさせてもらうつもりだ。

 まあ十中八九、今のクロトではワタライにフルボッコにされてしまうことは目に見えていたが、それはある意味封印が機能している証拠にもなる。

 今の僕は例えクロトが半殺しにされようが筋書きを全うすることを優先する。それが僕なりの主に対する忠義だ。

 まあ、あのクロトがボロ雑巾のようにズタボロにされるところが見てみたいという気持ちがないとは言いがたいが。

「ふん、くだらんな。そんな玩具(おもちゃ)しか使えない今の貴様など相手をする価値もないか」

 だがワタライはそこで突然、興が冷めたかのように本をパタリと閉じると手にしていたナイフをしまい、ソファーに座り直してしまう。

「もう用はすんだ。さっさと失せろ」

 そして、相変わらず偉そうな態度でクロトに退室を命じる。

「はぁ? なんだそれ。俺はそんなんじゃ全然腹の虫が納まらないんだが」

 当然、クロトとしてはまるっきり納得できない。

 気勢を()がれ怒りの矛先が僅かにブレてしまいはするが、煮え(たぎ)った怒りは一向に収まらず未だにボールペンを構えたままワタライに視線を刺し続ける。

「貴様の都合など知ったことか。私はもう用がすんだ。だからさっさと消えろ」

 しかし、やはりもうクロトに興味がないのか、ワタライはクロトの方を見もしないでテーブルに置いていたコーヒーを啜り始めてしまう。

 その、あんまりな態度にクロトは余計に憤ってプルプルと肩を震わせる。

「さ、さあ、もう良いみたいですから、いきましょうクロト」

 だが、そこでサクヤが慌てたようにクロトの手を握り急いで退室を促すと、そのまま少し強引にクロトの手を引いて校長室を出ようとする。

 そうされてしまうとクロトも怒りを納めざるおえなくなる。

 ここで仲裁に入ったサクヤの制止を振り切ってワタライに殴りかかるようなみっともない真似はできなかったのだ。

「っち」

 クロトは仕方なく苦々しい表情でワタライに向かって舌打ちを打つと渋々部屋の扉を開く。ワタライは相変わらずそれに何の反応も見せなかったが、腹に抱えた苛々を必死に抑えて、そのまま校長室をあとにした。

 

 ◇

 

「それで、調べた結果はどうだった16(セイズィエム)」

 クロトとサクヤが退室した後、ワタライは傍らに置いた本にそっと触れて固有兵器の具現化を解くと一人呟いた。

『マスターのご命令通り、マスターが屍黒斗に施した封印に(ほころ)び、あるいは欠損がないか確認致しましたが、異常は全く見られませんでした』

「つまり、やはり記憶は戻っていないということか?」

『肯定です』

「〈因子〉の再起動の方は確認できたか?」

『いえ、それは外部からの調査では......』

「判断できないか?」

『肯定です。ですが、仮に0(ゼロ)がもし再起動していた場合、あのような状況で何もしないことはありえないかと』

「何故そう言える?」

『はい、0は欠陥品として今まで何度も所持者が入れ替わっています。そんな中で兇器は唯一0を使いこなした逸材。0にとって彼の存在は特別であり、いくら性格が悪く、意地汚い0であったとしても兇器に対してのみは、並ならぬ忠誠心を抱いていると判断します』

「つまり、そんな主想いの0が主に危険が迫っている状況で何らアクションを見せないのはおかしいと?」

『肯定です』

「なるほどな。となるとやはり元には戻っていないということか」

『現状においてはそう判断せざるをえないかと』

「ふむ。だが、相手はあの兇器。警戒するに越したことはないはずだ。もうしばらく様子を見ておくことにしよう。上への報告は白と断定できた時でも遅くはないだろう」

『肯定です。そうすることが最良かと判断します』

 そう結論づけるとワタライはソファーから腰を上げる。

 そして、ふと誰もいなくなった校長室の中を見回す。自分以外誰もいない空虚な室内を見回す。

「私は一人、だな」

『どうかなさいましたか?』

「いや、なんでもない」

 そして、小さくそんなことを呟くとワタライは校長室を辞するのだった。

 

 ◇

 

「その、本当にすいませんでした」

 校長室を出て教室に戻ろうとする道中。クロトの手を引いたまま唐突にサクヤが申し訳なさそうに頭を下げて謝罪してきた。

「ん? 何だよ。別にお前が謝る必要はないだろ」

「いえ、私がクロトに一緒にきてもらうようにお願いしたわけですし。それであんなことになってしまったのはやはり申し訳なくて」

 正直、それは気にし過ぎだとクロトは思った。いくらワタライと上司と部下という関係があるといってもそれをサクヤが気に病む必要はないことだ。

 だから、クロトはサクヤに詫びる必要はないと言ったのだが、当のサクヤは全然納得しなかった。

「いや、本当に気にするな。お前だって、ワタライにそうするように指示されただけだろ」

「それは、そうですけど。でも、私が直接の報告は必要ないともっと強く進言していればクロトもあんな不快な思いをしないですんだのは事実です。だから謝らせてください」

 だが、やはりどれだけ言ってもサクヤは一向に頭を上げようとしない。

 そのサクヤの殊勝過ぎる対応がクロトには逆に心苦しかった。

 確かにワタライから屈辱的な仕打ちを受けたのは事実だ。だが、クロト自身も清廉潔白(せいれんけっぱく)とは言いがたいのだ。

 僕の存在を隠蔽(いんぺい)し、この報告に対しても思惑があって臨んでいる。むしろ、腹の中はワタライよりもクロトの方が余程真っ黒だった。

 だから、クロトは少しだけ悪いと思ってしまう。心配げに気遣ってくれているのにその優しさを踏みにじってしまっていることに罪悪感を抱いてしまう。

 きっとクロトとしても、サクヤがワタライ同様に不遜(ふそん)で横暴な態度であって欲しかったところだろう。

 そうであったならこんなことで背徳感を覚えずにすんだだろうし、もっと素直に敵として認識しやすかったはずだ。

 しかし、サクヤはやはり優しかった。監視対象であるはずの自分に、こんなにも真摯(しんし)に接してくれる。

 それがクロトには少しやるせない。

「はぁ。どうしてこんなにややこしいことになったんだろうなぁ」

 だが、結局クロトは嘆息を漏らしながらボソリと呟くだけだ。

 本当のことを打ち明けるでもなく、サクヤの優しさを踏みにじることを覚悟するわけでもない宙ぶらりんで中途半端な誤魔化(ごまか)し。

 今のクロトにはそうすることが精一杯だった。

 だから、クロトはこの場も誤魔化すことにする。得意の屁理屈をこねくり回して無理やりサクヤを納得させることにする。

「だったら、これでお互い様ってことにするのはどうだ?」

「ん? ええっと、何がお互い様なんですか?」

 切り出したクロトの言葉に当然サクヤは不思議そうに首を傾げていた。

「よく思い返してみろ。元々俺をワタライに引き会わせたのはコヨイだろ。昨日あいつが一緒に報告しにきてくれって言ったから俺はこんな目にあった」

「確かにそうですけど......」

「つまり俺に不快感を与えた元凶はコヨイってことになる。ただ、不快感を与えたってことなら俺もコヨイに似たようなことを昨日しているわけだ」

「そんなことしてましたっけ?」

「何言ってる。俺はコヨイの弁当を食べただろ。昨日サクヤが俺に分けてくれた分って、実はコヨイのだったんだろ?」

「え、ええ」

「つまり、コヨイも俺もまさか(のち)にこんなことになるとは知らないままお互い不快な思いをさせてしまったわけだ。そして、コヨイとサクヤは同一人物。なら、やっぱりこれでお互い様、イーブンってことになるだろ」

「それ、なんだかちょっと無理やりなような気がするんですが......」

「いいんだよ。それで納得してろ。大体ここでお前に頭を下げられたままだと、まるで俺がお前を虐めてるみたいに見えるだろが。ただでさえ、嫌われているのにこれ以上周囲から敵視されるのはさすがの俺でも遠慮したいんだよ」

「うっ、ううん」

 そこで、ようやくサクヤは(うつむ)けていた顔を上げた。

 未だに納得はいっていなようで眉間に(しわ)を寄せていたが、謝ることが逆に迷惑をかけてしまうとなるとサクヤも頭を上げるしかない。

「なんだか、ちょっとずるい気がします」

「まあ、それが俺だからな」

「はぁ。わかりました、クロトがそう言ってくれるならそれで納得しておきます」

 サクヤは不満げに口を(とが)らせて抗議するものの、クロトが苦笑しながら開き直ってしまえばもうサクヤは反論できなくなってしまい、ため息交じりに渋々納得するしかなかった。

 そして、ようやく漂っていた気まずさが払拭(ふっしょく)され、クロトはそっと胸を撫で下ろす。

「でも実際、昨日家に帰った後のコヨイは少し荒れていて大変でした」

 ただ、その後に苦笑しながら何気ないことのように漏らしたサクヤの話はクロトにとっては冷や汗ものだった。

 まあ、昨日あれだけ無茶苦茶なことをされて散々な思いをしたのだ。その悪女が自分のことを根に持っていると知らされれば肝が冷えるのも当然の反応といえる。

「そ、そうなのか?」

「はい。私がお弁当をあげたことに憤慨(ふんがい)して、もう夜中だっていうのにご飯を作れってうるさかったんです」

「それは、なんか逆に申し訳なくなってきたな。悪い。あっ、後、頼むから銃身を口に突っ込むのだけは勘弁してくれって伝えてもらえるか」

「アハハ、それは大丈夫ですよ。それにクロトが気に病むことじゃないですよ。元々私が提案したことですから。ただ、それで料理を用意したまではよかったんですけど、戦闘で疲れていたせいかコヨイの食べる量が尋常じゃなくて。夜中なのにご飯を二合も食べてしまったんです。もう絶対太ってしまいますよ」

「ひ、一人で米二合って.........どれだけ食うんだよ。まるでダイソンだな」

 それはつい口にしてしまった一言だった。だが、それは取り返しのつかないとんでもない失態でもあった。

「ちょ、ちょっとマズイですよ。そんなこと言ったらコヨイが............」

 その失言にサクヤも気づいてアタフタし、慌ててクロトに注意を呼びかけようとしたが残念ながら最後までサクヤの言葉が(つむ)がれることはなかった。

「ほお? 誰が吸引力の落ちない唯一(ただひと)つの掃除機だって? どうやら、お前は存在ごと綺麗さっぱり掃除してもらいたいようだな」

 代わりにクロトの耳に届いたのは明らかにご機嫌斜めなコヨイの声音だ。

 そして、その時には既にいつの間にか具現化していた固有兵器がクロトの咥内に押し込まれていた。

「いいぜ。お前の望み通りその(ろく)なことに使わない脳みそを軽く弾いて、東京湾に不法投棄(とうき)してやるよ」

「ふんんーーー! ふんふふんーー!」

 当然、恵方(えほう)()きくらいあるぶっとい金筒を口に()じ込まれたクロトはまともに喋ることなどできず、昨日同様フンフン喚くことしかできない。

「ああ? なんて言ってるか全然わかんねぇな。何々『さっさと頭を吹っ飛ばせ』って、仕方ねぇな。出血大サービスだぞ」

「ふんんん、ふんふんふん! ふんふんふんふふんふふふふんふんーーー!」

 人のフンを勝手な翻訳(ほんやく)してんじゃねぇ! 第一出血するのはお前じゃなくて俺だろうが!

 クロトはそう叫んだつもりだったが、それもやっぱりフン語にしかならなかった。

 昨日と(ほとん)ど同じ展開。正直、クロトは段々面倒臭くなってきていた。

 そりゃ、確かに悪口は言ったがこれからまた昨日と同じ展開が繰り返されるのかと思うと抵抗する気力も()えてきてしまったのだろう。

 だから、クロトは一々騒ぐのもバカらしくなり、辟易(へきえき)しながら肩を竦めて「ぶふぅ」とくぐもったため息を吐く。

「っち。なんだよ、ノリが悪いな。昨日はもっと慌てふためいて無様な醜態を晒してくれたのによぉ。なんか、そんな疲れたリアクションをされるとこっちも(しら)けるぜ」

 このあからさま過ぎるクロトの嘆息にはさすがに傍若無人(ぼうじゃくぶじん)のコヨイでも気勢を()がれてしまったのか、それまで意気揚々(ようよう)としていたのに一言愚痴るとあっさり口から銃身を引き抜いてくれた。

 それにクロトは安堵したような表情を浮かべる。それが脅迫からの解放によるものか、面倒な(から)みから解放されたためかは定かではないが、とにかくほっとしたような表情を浮かべていたことだけは事実だ。

「ったく、折角出てきたのにしけてやがるな。だいたい喧嘩(けんか)売ってきたのはお前の方だろうが」

「ああ、その、なんだ。悪かった」

「ふん、別に構わねぇよ。それにこうして出てきたのは小言を言うためだけでもなかったからな」

「というと俺に何か用が?」

「ああ」

 そこでそれまでおチャラけていたコヨイが急に真剣な顔をする。

「なんだ、用って?」

「別に大したことじゃねぇんだが、一応お前にちょっとした忠告をしておこうと思ってな」

「忠告?」

 改まったコヨイの態度には若干の敵意が含まれているようなピリピリとしたものがあったので、クロトは僅かに眉をひそめて身構えていた。

「そうだ、忠告だ。サクヤはお前を信頼している。だからそれを裏切るような真似だけはするなよってな」

 意外と鋭いな。そうクロトは素直に感心してしまう。少なくとも今までの自分の行動に抜かりはなかったはずだった。

 最初から黒と疑ってかかってきたワタライならともかく、サクヤやコヨイの前でそれらしい振る舞いは一切見せていないつもりだった。

 それなのにコヨイはこうして真っ正面から警告してきた。まるでクロトがこの後身を(ひるがえ)すとわかっているかのように。

「はぁ。俺ってよっぽど信用ないんだな」

「いや、そうでもないさ。少なくともサクヤはお前のことを全く疑ってないぜ。まぁ、だからサクヤの分も私が警戒して、疑ってやってるのさ。あいつはちと純粋過ぎるところがあるからな」

「それは、また随分と美しき姉妹愛なことで」

「そりゃ、少し違う。昨日も説明したが私とサクヤは、半分は同一人物なんだ。だからこれは自分のためだ。私は自分のためにあいつを守り続けるんだよ」

 それは飾り気のない随分と淡白な言葉にも聞こえる。だが、コヨイの言葉はクロトにとってはこれ以上ないほどの説得力があった。

 誰かのためだとか、そんな美辞麗句を盛り込んで耳障(ざわ)りのいい詭弁(きべん)をぬかすことなど簡単だ。コヨイの(げん)がそういう胡散臭(うさんくさ)い見かけ倒しのハリボテのような忠告だったならクロトは警戒などしなかっただろう。

 だが、コヨイは明瞭(めいりょう)に言い切ったのだ。自分のためだと。

 だから、クロトは表情や雰囲気には出さないが全身に緊張感を走らせる。こいつは危険かもしれないと認識を改める。

「ふっ、そりゃおっかないな。精々期待を裏切らないように励むとするよ」

「そうしろ。じゃないと私は本当にお前を殺することになる」

 この『殺す』はさっきまでのシャレとは異質で、本気だ。それはクロトにも嫌というほど伝わってきた。

「私だってお前と()り合いたいわけじゃない。お前みたいなど汚ねぇ作戦をポンポン思い浮かぶ奴なんて殺りにくくてしょうがねぇからな」

「それはお互い様だろ。俺だってお前みたいな危なそうな奴を敵にするのは御免だよ」

「ハハハハ、まあ、誉め言葉として受け取っておいてやる。さて、んじゃ私はそろそろ引っ込むとするかな」

「ああ、わざわざご苦労さん」

 そんな適当な挨拶だけすませると、コヨイは展開していた固有兵装をすっと霧消させてサクヤの中に引っ込んでいった。

 それを見ながらクロトはただただ思う。本当にそうならないことを祈るよと、少しだけ切なげに思う。

 この先、自分がどんな行動をするのかはクロトにもわからない。何も知らない以上は推測することもできない。

 ただ、少なくともサクヤやコヨイにとって望ましい未来が待ち望んでいるとは思えなかった。

 そのことだけは今のクロトでもなんとなく想像できてしまい、僅かなもの悲しさを覚えるのだった。


 クロトの家は普通、独り暮らしの学生が住むようなワンルームとは違って一世帯が悠々生活できるくらいの立派な二階建ての一軒家だ。

 といっても、独り暮らしの人間にはそんな無駄にだだっ広い敷地を与えられたところで持て余すことは目に見えており、実際クロトの場合も居間と水場に、後は二階の自分の部屋以外は使わず(ほこり)を被っている状態だ。

「ふう~」

 学校から家に帰ってきてもクロトはただいまなど言わない。まあ、言ってたら、言ってたで誰に向かって言ってるんだよと突っ込みたくなるが。

 (くつ)を乱雑に脱ぐとそれを整えることもせず、クロトは自室に直行する。そして、鞄を適当に部屋の中に投げ込むと今度は一階に降りていく。

 庭に干していた洗濯物をこれまた乱雑な手つきで取り込み、その後は冷蔵庫を開けて中身を確認。買い出しするものを覚える。

 そして、帰ってきてからまだ三十分と経っていないのに再び玄関に向かうのだ。

 靴を履き、軒先に出るとクロトは鍵もかけずに近所のスーパーへへとさっさと歩き出す。

 クロトは基本的に家に鍵をかけない。学校に行っていようが、買い物に出かけようが鍵をかけない。

 それは()られて困るものがないからだ。

 勿論、通帳やキャッシュカードは肌身離さないようにしているが、それ以外でなくなって困る物など本当にないのだ。

 高価な物は勿論、これといった思い入れの品も思い出もない。だから、入りたければどうぞご勝手にという姿勢なのだ。

 ただ、まあ実際はここまで無用心だと泥棒はかえって警戒するのか、今まで盗みに入られたことは一度もない。

 だから、もしかするとそうなることを狙ってあえてそうしているのかもしれないが、答えはクロトにしかわからない。

 それから買い出しをすませた後、夕食を手早く用意するとクロトは一人静かに食べる。一言も、何も喋らずただ作業的に(はし)を動かし今日消費したカロリーの補給を行う。

 そして、それが終わると今度は黙ったまま片付けをして、自分の部屋に戻っていく。

 僕にとって、クロトの家での一連の過ごし方を見るのは初めてじゃない。むしろ見飽きた光景だ。

 ただ、正直なところこの光景だけは何度目にしても慣れない。どうしても見ているだけで陰鬱になってしまう。

 だってそうだろう。こんな誰の声もしない空っぽで寂しい空間の中で、ただ過ぎる時間の奔流(ほんりゅう)に流されて毎日を消費するだけなんて、死んでいるのと何も変わらない。

 でも、そんな無為の中にいるのに当人はそれに気づくこともできない。そういう仕掛けを施されている。

 よくもまあ、こんな残酷な檻に人を放り込むなんて真似ができるものだ。僕から言わせてもらえばこんなことするほうが余程非道だ。鬼畜だ。下衆(げす)だ。

 といっても、それでもやっぱり正しいのはあいつらなんだよなぁ。僕の主にこれだけの仕打ちをしていてもこれは正当な罰ってことになっちゃうんだよなぁ。

 まあ、でもそうやってグチグチ愚痴るのもここまでだ。ここからは僕達のターンなんだだから。

『さて、必要な下準備もすんだことだし。それじゃあそろそろ昨日話した例のブツの回収に取りかかろうか』

 装飾品と呼べるものが一切ない、ただ机とクローゼットとベッドが置かれているだけの殺風景な自室に戻ってきたクロトに僕は声をかけた。

「なんだ、もういいのか?」

『またまた。僕がなんで昨日の時点で取りにいくのを待ってもらったか、もうわかってるくせに』

「まあな。ということは俺を監視しているのはサクヤとワタライだけってことか?」

『いや、そういうわけじゃない。君を監視しているのはビショップっていうもっと大きな組織だ。でも、何せあの一件から結構時間が経っているからね。監視の目も随分緩くなってるんだ』

「一体、俺は何をやらかしたんだ?」

『その答もブツを回収すればわかるよ。一々言葉にして説明するなんて無意味なことは省こうよ』

「無意味?」

『そう、無意味だよ。だって言葉だけじゃ何があったのか、事象だけを説明することはできても。その時、君が何を思い何を感じたのか、その経験までは伝えることはできない。だったらやっぱり口での説明は無意味だ』

「そういうものなのか?」

『そういうものさ。でも安心しなよ。ブツさえ手に入れればそれも全部解決する』

「ふうん。まあ、いいだろ。なら在りかをさっさと教えろ」

 僕の説明に納得したのかどうかはわからないが、クロトはコクコクと小さく二、三度頷くとそう促してきた。

『まあ、待ちなよ。その前に僕は君に確認しておきたいことがあるんだ』

「なんだ?」

『もし、もしもだよ。君が今の生活を大事にしたいんだったら、ここでやめたほうが良いと思う。君がそれを望むなら僕は消えるし、そうすればきっと今まで通りの生活は送れるだろう。でも、アレを手にしてしまえばきっと君は引き返せなくなる。裏側にどっぷりはまり、二度と今みたいな平々凡々(へいへいぼんぼん)でのんびりした日常には帰ってこられない。それでも君は良いのかい?』

 これは筋書き上にはない質問だ。そして、ある種の背信行為でもあった。

 そう、僕はこんな質問をするように命令されてなどいない。この質問は珍しく僕がアドリブを利かせたものだ。

 だが、やはりこれは訊いておく必要があると思った。

 僕としてもクロトを檻の中に放置するのは心許ないことだし、何より退屈ではあるが、これだけは確認しておかなければならなかった。

 思い出さなければ良かったなんて記憶は、人にはいくらでもあるものだ。それこそ、消してしまいたい過去だって腐るほどあるはずだ。

 クロトが失った欠損はクロトにとっての全てだ。だが、同時に忘れていた方が幸せな過去とも言えるかもしれない。それは僕には判断できない。クロトにしかわからない。

 だから確認するのだ、何もわからなくてもクロト自身に。そうすればそれは自分の決断だと諦めをつけられるから。

「ふん、責任の丸投げか。今の俺にそれを判断できるだけのものがないってわかってるくせに」

『ニヒヒヒ、まあね。でも世の中ってそんなもんだろ? わからないなりに判断して責任を負わされる。むしろ、ちゃんと理解した状況で判断を迫られる状況のほうが稀有(けう)だ。だから、考えろよ。この先にどんな結果が待ってるか、得意の思考で予想しろよ。わかってるだろ? 甘えたって誰も助けてくれないなんてこと。世の中は正しくても優しくないんだよ』

「ふん、偉そうに。たかが〈因子〉の分際で説教をするな。そんなことはお前に一々(さと)されなくてもわかっている」

『おや、だったらこの質問も野暮(やぼ)だったってことかな?』

「そうだな。無駄な問答だ。もう、俺の中では答えは出ている。だから、さっさと教えろ。俺の欠損が隠された場所を」

 クロトがそうきっぱりと言い張った瞬間、僕は顔をニヤリとニヒルに(ほころ)ばせる。

 そうでなくては詰まらない。君が僕の主で良かった。僕はそう改めて実感した。

『そうか、なら教えよう』

 クロトの心境を確認できて一安心した僕は早速話を本題に戻し、クロトもそれに呼応して腰かけていたベッドから立ち上がる。そして、僕の入った携帯を手にとって僕をじっと見据(みす)えてくる。

 クロトにとっても緊張の発表とでもいったところだろうか。例えるなら、ミステリーで探偵が犯人の正体を暴露する瞬間。あるいは受験生なら最終合否結果が張り出される瞬間。

 まさに、今の状況はそれに近いかもしれない。だから、クロトもほんの僅かだが強張った面持ちをしていた。

 まあ、()らした上にあれだけ意味深で思わせぶりなことを言いまくったのだ。気になってしょうがないのは無理もないし、自然と(りき)んでしまうのも、当然と言えば当然だ。

 ただ、まあ、実際はそんなに気張る必要はない。別に魔王を倒すための聖剣を取りに呪いの森に入らなければならないなんて展開は待っていない。それこそ「ちょっとそこのコンビニまで」くらいの心持で充分過ぎる。

『ククク、そんなに緊張する必要はないよ。言っただろ、これといって難しいことはないって。僕は君みたいな嘘つきじゃないからね』

御託(ごたく)はいい。さっさと教えろ!」

『はいはい。全く、相変わらず気が短いねぇ。それじゃあ、怒られる前にさっさと案内するとしようかね』

「懸命な判断だな」

 クロトが(わずら)わしそうに僕の軽口を流したところで、僕は早速目的地へのナビゲートを開始する。さしずめユーザーと会話できるカーナビにでもなったつもりでせっせと誘導し、そんな僕の指示に従いクロトは自分の部屋をあとにした。

 といっても僕の似非(えせ)ナビゲーションはほんの十五秒足らず終了することになる。

 そりゃそうさ、僕が発した指示は『部屋を出て』と『廊下を突き当りまで歩いてくれ』の二言だけで。クロトは一々そんな細かいことまで言われなくてもわかっていると口を開こうとしていた。

『はい、到着』

 だが、そこで僕はクロトが何か文句を言うよりも先にそう告げた。言外(げんがい)に「ほらね、これといって難しいことはないだろ」と昨日の言葉を証明するような含みのある声で。

「はぁ? おい、ふざけているのか?」

 当然、クロトは耳を疑うような、どこか不機嫌そうな声音で僕を睨んでくる。

 そんな怖い顔で睨んでこられても困るのだが、まあ自分の家の中で、しかも一階に続く階段の前で到着したなんて(ざれ)(ごと)を吐かれたらイラッとくるのも妥当な反応かもしれない。

 背後にあるのは自分の部屋に続く廊下、前方と左手には白い壁、右手には階段。周囲にあるのはそれだけで、仮にそのブツとやらが家の中にあるのだとしてもここのどこに隠しているんだと反論したくなる気持ちも大いにわかる。

 だが、実際ここにあるのだからしょうがない。

『まあ、疑いたくなるのはわかるけど、まずはちゃんと確認してからにしてよ』

「確認も何も、見るからに何もないだろうが」

『本当にそうかな? 狡猾(こうかつ)で用心深い君なら実に妥当な隠し場所だと僕は思うけどねぇ。大事な物は手元に置いておきたいと思う、かといって誰かに見つけられるわけにもいかない。そういう意味では最適じゃないかな。(げん)にこうして当の本人も(あざむ)けてるわけだし』

 嫌味な笑みを浮かべながら僕が呟くとクロトは急に黙り込んで何事かを考え始める。

 そして、左側一面に広がっている壁面におもむろに手を着いて全体を満遍(まんべん)なく撫で始め、かと思えば今度は壁をコンコンとノックしていく。

 ――ゴンゴン、ゴンゴン、ゴンゴン、コンコン

 すると、壁の一区画だけ、それまで鈍く重たい響きだった音が(わず)かに高くなった。

「はぁ、なるほどな。これなら確かに誰かに見つけられる心配はないな。我ながら随分大胆で手の込んだ真似をしたものだ。ただまあ、どうせなら回収する時のことも勘案していてもらいたかったな」

 一つ嘆息を漏らすとクロトは掌で疲れたように顔を抑えながら一人ぼやく。そして、一度踵(きびす)を返して自分の部屋に戻ると右手にカッターナイフを(たずさ)えて再び壁の前に立った。

「はぁ。壁の修理代いくらくらいかかるんだろうなぁ」

 憂鬱そうな顔で恨めしく純白の壁を眺めながらクロトはまたため息を吐く。だがいくらそうやっていたところで立ちはだかる壁は開いてくれるはずもない。

『おいおい、早くしなよ。そうやって呪文みたいに小言を呟いていても無駄だよ。それともアリババみたいに「開けゴマ」って唱えてみるかい?』

「黙っていろ! お前に一々言われなくてもわかっている」

 あんまりウダウダしているから僕が(はや)してみると逆ギレされてしまった。どうやら壁紙代がよほど()しいようだ。まあ、限られた貯蓄でコツコツ生活を営んでいるクロトからすれば結構な葛藤(かっとう)があるのだろう。

「ああ。っち、クソったれーー!」

 ただ、いつまでもそうしているわけにもいかないことはクロト自身も重々承知している。だからクロトは誰に向かってかはわからないが、そんな罵声を叫びながら断腸(だんちょう)の思いで壁にカッターの刃を突き立てた。

 きっと、福沢(ふくざわ)()(きち)を自ら切り(きざ)むような感覚なのだろう。

 まあ、壁紙の張替えというのも決して安いものではないからしょうがない。

「フハハハハハハハハハハハ、(こま)()れにしてやる、どうせ金がかかるんだ。だったら一思いにズタズタに引き裂いてやる。フハハハハハハ」

 しまいには、クロトはおかしなテンションになって不気味な笑い声を上げ始めていた。まるで日頃の鬱憤(うっぷん)でも晴らすように必要以上に壁に刃を走らせていく。

 その様子は傍から見ていてもちょっと怖いが、今は何も言わずクロトの好きにさせようと僕は沈黙しておいた。

 そうして、若干息を荒げながら細切れにした壁紙の向こうに現れたのは扉だった。

 ドアノブが取り外されて壁と水平になるように調節された扉で、その扉には標札の役割を担うシールが貼られていた。

『ハルカの部屋』それが、その部屋の主の名前だった。

 だが、クロトにはそれが誰なのかわからない。どうして自分の家に知らない誰かの部屋があるのかもわからない。

『さあ、中に入ろうか』

 扉の表記を見て、僅かにクロトは眉間に(しわ)を寄せて(いぶか)しげな表情を浮かべるが僕は構わず入室を促した。クロトも黙ってそれに従った。

 照明を点けて室内の様子を確認するとまず気になったのは部屋の中に充満している(よど)んだ空気と、床や棚やベッドと至るところに埃が堆積していることだった。

 それだけでこの部屋が随分長い間放置されていたことが(うかが)える。

 だが、部屋自体の印象はどこか可愛らしい。白と淡い紅を基調にしたコーディネートで整理整頓の行き届いた部屋の各所にはぬいぐるみや愛らしいキャラ物雑貨が並び、まさに女の子の部屋といった様相だった。

「............」

 そんな部屋の中央に佇んでもクロトは何も喋らなかった。ただ目を()らすように室内に視線を巡らせ続けていた。

『さて、それじゃあ机の一段目の引き出しを開けてもらえるかな。その中に目的のブツが入ってる』

 クロトは返事をしない。ただ、それでもまるでそこに引き寄せられるようにすっと机の前まで移動する。

 少々背の低い子供用の机。クロトは少し躊躇(ためら)いながらも言われた通り一段目の引き出しに手を伸ばす。そして慎重に、まるで割れ物を扱うかのようにそっと開けた。

 中にあったのは携帯だった。赤いだいぶ型の古い機種で、それでも持ち主が丁寧に扱っていたためか、目立った傷もない綺麗な状態だ。

 そして、その携帯を視界に捉えた途端だった。

 突然、クロトの頬を一筋だけ(しずく)が伝う。

 クロトはそのまま言葉を口にせず携帯に触れようとする。大事そうに、切なそうに、それでいてどこか(おび)えているかのようなおっかなびっくりな手つき。

 きっとクロトにも今自分に何が起きているのか理解できていないだろう。

 もしかすると自分が涙したこともわかっていないのかもしれない。それくらいクロトの表情は虚ろでちぐはぐだった。

 そうして、どこかあやふやで弱々しく伸ばされた指が筐体(きょうたい)に触れた瞬間。

『所有者がアクセス権を承認した〈理外者(りがいしゃ)〉の存在を確認。再起動並びに既定プログラムを実行します』

 携帯からそんな僕とは違う女性のような声が響いた。そして、同時にクロトの頭の中に膨大な量の情報が流れ込む。

 それは幸せな一時の記憶、それは絶望の(ふち)()ちた時の記憶。だが、流入してくるのは記憶だけではない。

 喜びも、悲しみも、怒りも同時に流れ込んでくる。書き換えられた五年前以前のありとあらゆる情報全てが、クロトにとっての全てが流れ込んでくる。流れ込んでクロトの中で暴れ回る。

 見たこともない自分の記憶の断片映像が次々頭の中に浮かび上がり、その都度無性に腹が立ったり、嬉しくなったりを繰り返す。

 それは、塗り替えられていた、失っていた、クロトの全てを再構成しているからだ。

 この、ほんの僅かな時間の間に(いじ)くられている全てのことを追憶させ、経験させ、実感させているからだ。

だから、もうほんのしばらくかかるだろう。全ての復元と整理が終わるまで、本当のクロトが帰ってくるまで。

 それまでは僕も黙って見守るとしよう。その間にせいぜい昔のことを振り返って、主が帰還した時に命一杯歓喜する準備でもしておこうかな。

 そんなことを考えながら僕は呆然と立ち尽くし、目まぐるしく表情を変化させるクロトを眺めながら今か今かと待ち続けていた。


◆ ◆ ◆


 もうずっと昔、それこそ十年ほど時間を巻き戻した話になる。

 当時、屍黒斗は一人ぼっちではなかった。

 普通に父と母の三人で、今住んでいる家で仄々(ほのぼの)とした日々を過ごしていた。

 その頃のクロトは今みたいに(こす)く、腹黒いヴィッチ野郎ではなく。素直で、正直で、思慮深い、まさに子供らしい子供で、ご近所でも評判の良い子ちゃんだった。

 というのも、それはクロトの両親の影響が強かったからだろう。父親には厳しく良識や道徳観や規範を教え込まれ、母親からは愛情と(いつく)しみを充分に受けて(すこ)やかに育った。

 クロトは父のことも母のことも大好きだった。だから両親から言われたことを忠実に守っていたのだ。

 そこに広がっていたのはきっと円満な家庭の典型例だったのだろう。家族に囲まれ、笑顔に囲まれ、幸福に囲まれる通常の形。一般に認識されている、あって(しか)るべき家族の在り方。

 そして、この普通だった頃のクロトには家族以外にもう一人かけがえのない存在が近くにいた。

 それが姫宮(ひめみや)春香(はるか)だ。彼女はクロトにとって俗にいう幼馴染みという奴だ。

 姫宮家は屍家のお隣さんで、両親はクロトが産まれる前から親交があり、お互い子供が産まれてからも家族ぐるみで付き合いは続けていた。

 そうなると必然的にクロトはハルカと頻繁に会い、時間を共有することも多くなる。だから、クロトが物心ついた頃にはハルカが隣にいるのが当たり前になっていた。

 二人は毎日同じ顔を見ていて飽きないのかと突っ込みたくなるほど一緒に遊び、一緒に帰ってきていた。

 お互いがお互いのことを好き合って「将来は結婚するんだ」なんてことまでのたまっていた。

 加えて、そんな二人の仲睦(なかむつ)まじい様子に互いの両親も「将来はお互い親戚になりますねぇ」なんてお決まりの冗談を交わし、ますます懇意(こんい)に接するようになるのだからもう殆ど両親公認の夫婦のような状態だった。

 実に微笑ましい光景。至って結構なことだ。

 僕からすれば変化に乏しく面白味の欠けてしまう退屈な光景ではあったけど......でも、嫌いじゃなかった。

 そういうありふれた普通を享受(きょうじゅ)し、その状況を維持するのは言うほど簡単なことじゃない。日の当たらないところで挫折(ざせつ)と努力を繰り返し、地べたを這いつくばってでも掴みとる地味な栄光の積み重ねだったりする。

 むしろ、普通であり続けるなんてことは特別になることより余程難しいかも知れないくらいだ。

 意図的に変わろうとすることは難しいが、変わらないためにだって努力は必要だ。

 だから、確かに見ていて直ぐに飽きてしまう眺めではあったが、別に僕はこのささやか安寧の価値を否定するつもりはない。きっとお金で買えないプライスレスが十二分にあったのだと思う。

 だが、悲しきかな。自ら変わろうとすることや不変を維持することは困難でも、意図せず変わってしまうことは容易だったりする。本当にあっさりと、なんら抗うことができずに(へん)じてしまうことなんてザラなことだったりする。

 クロトに訪れた最初の変化。それはハルカとの別れだった。

 まあ、幼少期に築いた絆など往々にして薄弱(はくじゃく)だったりするのは世の常。一度(ひとたび)引越しでもして遠退いてしまえば疎遠(そえん)になり、そのまま関係性が消失することなどよくある話だ。

 この場合は姫宮父が転勤の辞令を受け、一家揃って地方都市に引っ越すことになったのだ。

 勿論、クロトは離れ離れになることを悲しんだ。それはハルカも同じだろう。しかし、親の後見(こうけん)を受けている未成年者にその障壁を解決するだけの能力はない。

 引越し当日、クロトもハルカもワンワンキャンキャン泣いていた。「手紙書くから」とか、「離れていてもずっと一緒だから」とか、「いつか必ず再会して結婚しよう」なんて定型化された台詞(せりふ)稚拙(ちせつ)な約束を交わす。

 果たしてそのテンションは一ヶ月保つだろうかと疑わしかったが、とにかく二人はそうして離れ離れになったのだ。

 そして、ハルカとの別れから半年ほど経過した頃、もう一つの変化が起きた。

 クロトの両親がポックリ()ってしてしまったのだ。

 原因は交通事故。お盆休みに入ったことで父が張り切って家族サービスのつもりで(ぼう)有名テーマパークに連れ出した出先での出来事だった。

 脇見運転をしていた車に衝突されたのだ。

 運転席と助手席に座っていたクロトの両親は即死。クロトも一時は意識不明の重体に(おちい)ったが幸い一命を取り止めた。

 無論、相手方の運転手は危険(きけん)運転(うんてん)致死傷罪(ちししょうざい)でブタ箱送りになったが、クロトにとってはどうでも良いことだ。そんなことよりもふっと吹き消された灯火(とうか)のように両親が消えてしまったことにただ困惑した。何をどうすればいいのか、これからどうなるのか、もう何もかもがわからなかった。

 それからは、まるで順調に稼動していた歯車がズレたように(ろく)でもないことが連鎖的に続いた。

 こんな不幸話は世間では吐いて捨てるほどあるありふれた話なのかもしれないが、少なくともクロトからすれば地獄だった。

 クロトは遠い親戚の家に引き取られることになったのだが、これまたそこの人間がとんでもない下衆(げす)だった。さすがクロトと似通(にかよ)った血が流れているだけのことはあり、それはもう()れ惚れするような狡猾さと非道さを持ち合わせた連中だった。

 そいつらはクロトの両親が残した遺産を、何もわからない無知なクロトから根こそぎ奪うと、何の躊躇(ちゅうちょ)もなくクロトを誰もいないこの家に突き返し、そのまま置き去りにしていったのだ。

 しかも、ご丁寧なことにそいつらは問題が露見(ろけん)しないようにちょっとした細工まで仕込んで。

「あの子はおかしいわ。ウチの子に入院するような大怪我(けが)を負わせたり、物を投げて私達を殺そうとするの」とそんなデタラメな噂をこの区画一体に吹聴(ふいちょう)したのだ。

 その結果どうなるかといえば、周囲がクロトに向ける視線が変わる。いや、誰も見なくなったと表現する方が正しいかもしれない。

 近所の人間は大人であるクロトを捨てた屑共の虚言を鵜呑(うの)みにして関わらないようになった。クロトが助けを求めようとしても、誤解を解こうとしても誰も耳を貸さない。徹底的に無視するようになった。

 以前までの倫理や規範を重んじていたことで得られた『良い子』なんて評判もあっさり()がれ落ちて、何の役にも立たなかった。

 まあ、大人と子供どちちの言葉を信じるかなんて(はかり)にかけるまでもないこと。ましてや『近づいただけで何をしてくるかもわからない危ない子』なんて先入観を持たれてしまえばなおさらだ。

 孤立したクロトはずっと孤独だった。電気もガスも水道も止まった、日中でも薄ぼんやりとした家の中で膝を抱えて一人泣くいことしかできなかった。

 頭の中には「どうして誰も助けてくれない」「俺が何か悪いことした?」「どうしてこんなに辛い思いをしないとダメなの」とそんな弱音だけを延々と反芻(はんすう)していた。

 だが、膝を抱えて(うずくま)るだけでは何も解決などしない。

 しまいには、腹が減り、喉が(かわ)く。でも、蛇口(じゃぐち)(ひね)っても水は出ない。冷蔵庫を開けても食べ物はない。買いにいくにもお金がない。

 じゃあ、どうすれば? どうして? と再び始まる無意味な自問自答。そんな不毛な思考と苦悩、原因の究明の繰り返しをクロトはループさせ続けた。

 そんな状況は二週間続いた。()えは道端の草をむしり腹に()じ込み、渇きは公園の水飲み場で(うるお)すことで(しの)ぎ、どうにか命を繋ぐ。

 しかし、やっぱり誰も助けてはくれない。クロトの異常な行動に忌諱(きい)の視線を浴びせることはあっても、慈愛の視線など向けられることはなかった。

 クロトの心はどんどん(すさ)んでいく。ドス黒く、汚らしく、ボロボロに傷ついて、綻び、剥がれ落ちて、崩れていく。壊れていく。

「フッ、フハハハハハハハハハハ。アハハハハハハ」

 そして、思考がある結論に到達した途端、クロトは暗い家の中で笑ったのだ。

 まるでずっとわからなかった難問を解き明かしたみたいに、小声で嬉しそうに、怪しく陰惨に。

「なんだ、そういうことか。そんなことだったのか。全部、全部、やっとわかった......」

 自身の至った解答を紡ぐクロトの声は、今にも途切れそうなほどかすれて弱々しかった。

「俺が弱いからいけなかったんだ。ここでは弱いことはあらゆる(とが)より罪深いってことだったんだ」

 その言葉が、単純に腕力を指しているのか、あるいは権利や人としての能力、財力、知識といった諸々全ての力に対してなのかは僕には断言できない。

 ただ、少なくともその意見には僕も同調できた。

『いい。君、凄くいいよ。僕はその考え方を支持するよ』

 だから、僕は彼の前に現れた。別に救ってやろうなんて高尚(こうしょう)なことは考えていない。そんなのはいるかどうかも怪しい神様の仕事だ。

 僕は単にクロトのことが気に入っただけだった。こいつならひょっとすれば欠陥品と(さげす)まれた僕を使いこなしてくれるかもしれないと思っただけだ。

「なんだお前? どこから()いてきた?」

 電池が切れてテーブルの上で野晒(のざら)しになっていた携帯が、不意に画面を明滅させて僕の姿を映し出したことにクロトは驚くよりも先に、(にご)って虚ろになった瞳を向けて尋ねてきた。

『別になんでもいいだろ?』

「............それも、そうだな」

『ねえ、お腹空いてる?』

「......空いてるな」

『喉渇いてる?』

「......渇いてるな」

『もし、僕が君を強くしてあげられるって言ったら君はどうする?』

「......強くしてもらう」

『それが、ルールを破る行いであっても?』

「.........どうだっていいだろ。そんなこと」

 満足のいく回答だった。焦点の定まらない無表情でぼやきのように声はくぐもり、呂律(ろれつ)もあやふやだったが百点満点で花丸をあげたいくらいの返事だった。

『そうか、じゃあ今日から君は僕の主だ。長い付き合いになると思うから精々よろしく頼むよ』

「............」

 ちょっとした親睦のつもりで挨拶をしてみたが、クロトは沈黙していた。

 どうやら憔悴(しょうすい)し切ってもう喋る気力も残っていないみたいだ。ただ、それでも(まぶた)をつぶりながらも僅かばかり首をコクリと頷かせてくれた。

『さて、挨拶はこのくらいにしておいて、まずは君に元気になってもらわないと。折角理想的な主に巡り会えたのに、ここでくたばられちゃったら意味ないからね。一応、僕なりに手は打ってあるけど、果たして彼女はどう動くかなぁ。上手くことが運べばいいけど』

 僕が一人呟くとタイミングを見計らっていたかのようにその音は聞こえてくる。

 ――コンコン、コンコン

 不意に、訪れる者などいないはずの屍家の玄関をノックする音が室内に鳴り響いた。それはきっとクロトにとっては福音(ふくいん)であり、僕にとっては祝砲だった。

 しかし、音のする玄関の方をクロトは一瞥するだけで床におろしていた重たい腰を一向にあげる気配はなかった。

 ――ドンドンドンドン

 再び扉を叩く音。今度は少し強めで叩くテンポも(あわただ)しかった。

 だが、やはりクロトは微動だにしない。もしかすると、もう意識も残っていないのかもしれなかった。

 ――ガチャ

 次に聞こえてきたのは玄関を開ける音。そして、トタトタと廊下を駆ける音。

 朦朧(もうろう)としながらも何とかクロトはそこまで認識することはできていた。だが、直後に突然何か暖かいものに包まれる感覚が全身を伝ったところで何が起きたのかわからなくなる。

 暖かい。回転の鈍くなった頭で考えられたのはそんな単調な感慨だけだった。

 とても心地よく、どこか懐かしい暖かさ。

 それは冷え切ってボロ雑巾のように汚くズタズタになっていた心と体を優しく拭い、癒してくれる。

 それはきっと、クロトがずっと欲していたものだ。それが何かもわからなくなってしまうほど()がれていたものだ。

 クロトは重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。どうしてこんなにポカポカするのか確かめるように、何が自分を包んでいるのか確かめるように。

 そして、視界を暗澹(あんたん)から現実へ引き戻して驚愕する。僕を目にしても何のリアクションも見せなかったクロトが目を剥く。

 彼をぎゅっと強く強く抱き締めていたのはハルカだった。半年前に離れ離れになってしまったはずのいつも隣にいた女の子だった。

「ど、どうして?」

「いつまで経っても会いにきてくれないから私から会いにきちゃった」

 ハルカはクロトの問いに悪戯(いたずら)っぽく微笑んで答えると抱き締める力を一層強めた。

「寂しかったんだね、一人で。ごめんね、きてあげるのが遅くなっちゃって。でも、もう大丈夫だから。これからはずっと私が傍にいる。死んでも傍にいてあげるから」

 そして、ハルカはクロトの耳元で優しくそう囁いた。クロトの腰に回した華奢(きゃしゃ)な腕が折れてしまうんじゃないかと心配になるくらいぎゅっと、ぎゅっと、ぎゅっと力を込める。もう離さないと言わんばかりに強く、暖かく体を密着させる。

「うん、うん」

 それにクロトは泣きながら、自分もハルカを抱き締め返した。力は出ないが、それでもできる限りの強い力で抱き寄せる。

 お互いがお互いの存在を、温もりを共有し、確かめ合うように強く抱擁(ほうよう)していた。


 どうして、ハルカがクロトのもと現れたのか? ネタバレしてしまうとそれは僕の仕業(しわざ)だ。

 僕はずっと前からクロトに目をつけていた。だから、クロトがどういう状況にあるのかは誰よりも詳しく把握していたのだが、何せ僕は実体を持たない〈因子〉。ちゃんとした寄り(しろ)も持たない僕がクロトを助けることは当然できない。

 そこで思いついたのがハルカだった。

理外者(りがいしゃ)〉となった彼女にクロトの現状を話せばどうなるか、ひょっとすれば僕が望む通りにことが運ぶんじゃないだろうかと考えたわけだ。

 案の定、作戦は大成功。まあ、お互いがお互いのことを大切に思っていたのだ。もっと噛み砕けば愛し合っていて、それが唯一残った絆だったのだ。なら必死になるのも当然だろう。

 何はともあれ、僕の浅はかな計略は上手くいった。上手くいったどころか思っていた以上にドラマチックな盛り上がりを見せてくれた。

 そして、僕の睨んだ通りクロトは最高の逸材だった。ハルカと僕に裏側のあれこれを手解(てほど)きされるとクロトは直ぐに順応した。

 欠陥品である僕の(くせ)の強い固有兵装を上手く使いこなし、ハルカとの連携を磨き、我武者羅(がむしゃら)ながらもメキメキ実力を伸ばしていった。

 それはクロトにとっても順風満帆(じゅんぷうまんぱん)な日々だったことだろう。裏ではハルカと共に大量の〈怨鬼〉を狩まくって荒稼ぎし、表では毎日毎日ハルカと二人イチャイチャラブラブ乳繰(ちちく)り合う。それこそ、二人で住んでいるのを良いことに人目も気にしないで四六時中仲睦まじい様子を見せつけられて()(ざわ)りなくらいだった。

 ただ、満たされていたのはクロトだけではない。僕は僕で最高の主に巡り会えたことで満足だったし、ハルカも実に幸せそうな笑顔を絶やすことがなかった。

 全員が全員幸福な時間を共有する。それはまさに至極の幸福とも呼べた。

 だからだろう。僕達は不覚にも失念してしまっていたんだ。山があれば谷があることを。やっぱり弱いことは罪だということを。

 それは、僕達が共に生活をするようになってから五年が経過した頃だった。

 この頃にはクロトの小賢(こざか)しさにも一層の磨きがかかり、二人は裏側でもそれなりの実力者として名を()せていた。

そんな時、二人のもとにビショップから救援要請の書簡(しょかん)が届けられたのだ。

 裏側の番人ビショップ。その名前は〈理外者〉の間で知らない者などいない。

〈怨〉には絶大な力に加えて、現金に還元するための市場が存在するほどの価値も内包している。

 当然、それを不正取得、不正利用しようとする〈理外者〉は少なくない。〈怨鬼〉を狩らず〈理外者〉を狩って所持している〈因子〉と〈怨〉を奪う者。あるいは〈怨〉を用いて表側に甚大な厄災をもたらそうと画策する者。例をあげれば切りがない。そういう(やから)はどんな環境だろうとどんな時代だろうと腐るほどいる。

 また、〈怨〉にまつわる諸々は表側には秘匿(ひとく)されている。故に外部に情報や痕跡(こんせき)を漏らさないように隠蔽(いんぺい)する必要もある。

 そういった面倒事を一手に引き受けている、言うならば警察のような連中がビショップだ。

〈理外者〉〈怨〉〈怨鬼〉を監督統治し、管理することで表と裏、双方の秩序を守る公安組織。絶対正義を司り、優秀で秀逸な人材が集まってできている、泣く子も黙る裏側で最大最強の〈理外者〉集団。

 そんなビショップが二人に寄越した要請はある〈怨鬼〉の殲滅(せんめつ)に協力して欲しいという内容だった。

 ただ、内容を聞いた時、僕もクロトも明らかな嫌悪を(にじ)ませた。

 それもそのはずだ。この要請にあった討伐(とうばつ)対象は〈軍馬(スレイプニル)〉だったのだ。例えビショップとの共闘であったとしても嬉々として引き受けようなんて思えるわけがない。それほど〈軍馬〉は危険な固体なのだ。

 蓄積した〈怨〉の総量は最低でも一億を超え、さらにある特定の条件下においてのみ誕生する変種の〈怨鬼〉。それが〈軍馬〉。

〈軍馬〉の強さはまさに(けた)はずれ。そこらにいる十万、百万、一千万など比較することすらおこがましいというレベル。

 一般的には一千万級ですら〈理外者〉三人以上の徒党を組んで組織的な集団戦で対処しなければ勝てないと認識されているのに、その一千万級すら(あり)に等しいような化け物の強さなど想像しただけで胸焼けを起こしそうな勢いだ。

 しかも、要請書にはご丁寧にその〈軍馬〉によってビショップの討伐部隊十四人が既に血祭りにあげられ、一般人百余名が殺されていると記載されていた。

「却下だな。こんなのに協力しようなんて自殺志願者のすることだ」

『僕も同感。一緒に戦うビショップの方も既に結構な痛手を受けてるわけだろ。向こうの戦力もあまり期待できない。そんな状況で〈軍馬〉と殺り合ってもなんの得にもならないよ』

 当然、クロトと僕は口を揃えて反対に票を(とう)じた。

「私は協力してあげたい、かな。やっぱり見過ごせないよ」

 だが、ハルカは少しだけ寂しげに表情を俯かせながらそんな意見を口にした。

『おいおい。正気かよ? なんでだよ? 無理して引き受けて何の得になる?』

 当然僕は耳を疑い反駁(はんばく)した。クロトも若干戸惑ったように眉をしかめていた。

「でも、このまま放っておけば関係ない人がもっと殺される。それは理不尽(りふじん)だよ。私は救える命は助けてあげたい」

『ハハハハ、何を馬鹿げたことを。外野なんて無視しろよ、知ったこっちゃないだろ。忘れたのか? そいつらだって誰も君達を助けてくれなかったんだぞ。それに、そういう仕組みを作ったのはそいつら自身だ。そんな連中をわざわざ自分の身を省みずに助けてどうなるって言うんだ?』

 僕はハルカの偽善を一蹴した。自分達の受けた仕打ちを掘り起こすように、あえて五年前のクロトのことを示唆(しさ)するような辛辣(しんらつ)な言葉を持ち出した。

「だからだよ。だから、私はせめてそうならないようにありたいの。ここで見ない振りをしたら私達も同じになっちゃうから。正直に言っちゃえば私だって0の言う通りだと思う。誰もあの時クロトに手を差し伸べなかった。それはやっぱり許せない。みんな死ねばいいって思う。でも、だからこそ私だけはそんな臭いものに(ふた)をして、自分は間違ってないって顔をする人間にはならなりたくない。ずっと隣にいてあげたいから。だから、これは私の()(まま)、単なる自己満足のための」

 ずるいな。僕は純粋にそう思った。

 そんなことをここで吐露されればクロトは頷かざるをえなくなるじゃないか。お前達はどこまで弱いんだ。切り捨てるべきものを切り捨てることもできないなんて酔狂(すいきょう)過ぎる。

 そして、危惧した通りクロトはハルカの言に頷いてしまった。

 バカばっかりだ。弱いくせに意地っ張りで自分の信念にだけは正直な連中だ。ただ、まあ僕も人のことは言えないかもしれない。僕だってそんなバカで弱っちいこいつらのことが嫌いになれない。うんざりしてもやはり見放すことなんてできなかった。

 でも、やっぱりこの世界は(むご)い。弱い奴の気持ちなんて優しさなき正義に簡単に踏み(にじ)られるのだから。


「なんでだ! なんでお前らは。やめろ、やめてくれ、ハルカが、ハルカが!」

 クロトは悲痛な叫びを漏らしていた。だが、クロトには何もすることができない。(けが)れなき純白のロングコートを羽織った数人の〈理外者〉に取り囲まれ、身動きが取れないように拘束されていた。

「頼む、やめてくれ! 離してくれ! 何だってする。持っている〈怨〉も全てやるから」

「ダメだ。それは認められない。ここで〈軍馬〉も、諸悪の根源となっているあの女も滅する」

 だが、無情にもクロトを床に抑えつけている男は彼の懇願を棄却する。

「貴様も〈理外者〉としての自覚を持て。あの女は〈怨鬼〉だ。あの女の蓄積している〈怨〉が〈怨鬼〉を呼び寄せ、〈軍馬〉を呼び寄せた。脅威はここで全て払拭しなければならない。それが力を享受している我々の義務だ」

 そして、さらなる残酷な一言をクロトに浴びせる。まるでそうするのが当然だと言わんばかりに、ダダをこねる子供を諭すように。

 眼前では〈軍馬〉とハルカが戦っていた。そして、その周りを包囲するようにビショップの〈理外者〉十余名がその場を固めている。

 だが、ビショップの人間は誰もハルカに加勢せず、単なるギャラリーと化し、加えてその内の数人がクロトの動きを封じていた。

 クロトの背に(またが)っているクロトと同年代のビショップの少年は言う。ハルカは五年前に強盗による一家惨殺で既に死亡しており、その時〈怨鬼〉となったと。そのハルカがこの街に〈怨鬼〉を呼び寄せるのだと。だから、ここで〈怨鬼〉同士で殺し合いをさせ双方の脅威をここで断ち切るのだと。そして、そのために二人はここに呼び出されたのだと。

 最初、クロトは世迷言をぬかすなと思っていた。

 だが、実際〈軍馬〉と戦い、傷つくハルカからは血が流れなかった。ただ、傷ついた分の〈怨〉が黒い粒子となって体から噴き出すだけ。

 そう、ハルカは人ではなかった。それは僕も知っていることだった。

 彼女は死んでいた、クロトと再開する数日前に。いや、死にかけていた。自宅に押し入った強盗が彼女の両親を刺殺し、一部始終を目撃したまだ幼いハルカにも容赦しなかった。

 腹に穿(うが)った刺傷はハルカから血液を、体温を奪い去り小さな体に宿った生命力は空前の灯火(ともしび)になっていた。

 彼女は犯人を(うら)んだ。両親を奪ったことを。そして、何よりここで死んでしまうことを。そんな彼女の底知れぬ膨大な〈怨〉を()ぎつけるかのように7(セティエム)が彼女の前に現れた。

 7は僕がクロトにしたような問答をハルカにした。死にたくないの? どうして生きたいの? と。

 それにハルカはこう答えたのだ。「まだクロトと再会してない」と、「約束したから、ずっと一緒だって。だから死ねない」と律儀(りちぎ)にも、健気(けなげ)にも、愛らしくそう答えたのだ。

 だから、7は彼女に唯一助かる選択肢を提示した。

 それが肉体を放棄し魂を別の器に移す、つまりは〈怨鬼〉となること。それが彼女の持っていた〈怨〉の総量で可能な唯一の手段だった。

 ハルカは迷うことも、躊躇することもなかった。喜んで人であることを捨てた。ただクロトに会いたいという一心の想いで。

 だが、そんな彼女のことをビショップの連中は〈怨鬼〉だとして断じようとする。クロトにとって何より大切な存在をあっさりと利用して切り捨てようとする。

 クロトはそれが許せなかった。自分もハルカのことが好きだったから。例え、ハルカが人間だろうと、〈怨鬼〉だろうと関係なかった。そんな事実を突きつけられたところでクロトの心には小さな波紋すら浮かばなかった。

 だから、クロトは必死に叫び、抗った。

 だが、無駄だった。

 目の前で大好きなハルカが〈軍馬〉にズタボロにされていても助けることができない。身動(みじろ)ぎ一つできない。

 そして、ハルカの存在がいよいよあやふやになると体が半透明になり始める。もう、いつ消えてしまってもおかしくないほど軽く、薄く、(はかな)く成り果ててしまう。

 そこでようやくビショップの連中はクロトの拘束を解き、クロトに一言。

「これは、我々からのせめてもの情けだ。最期を(めと)る猶予を与えてやる」

 と呟くと〈軍馬〉に一斉攻撃を開始した。

 クロトはハルカのもとに駆け寄る。必死で、泣きそうな形相で駆け寄る。

「ハルカ、ハルカ、ハルカ」

 クロトは優しく抱きあげながら、彼女の名前を(しぼ)り出す。

「ごめんね。こんなことになっちゃって。ずっと一緒って約束したのに」

 ポロポロと泣きじゃくるクロトにハルカは()(じょう)にも弱々しく自嘲気味な苦笑を浮かべながらただ謝った。

「お前は悪くない。だから謝るな。絶対に、絶対に俺がなんとかする」

「無理だよ。自分のことだもん。どうなるかなんてわかってる」

「ふざけるな。お前は約束を守ってくれた。俺を救ってくれた。一緒にいてくれた。だから、お前が諦めても俺は諦めない。お前が俺のために人間であることを捨ててくれたのなら俺も捨てる。なんだってする」

「ダメだよ。そんなこと言っちゃ。そんなこと言われたら諦められないよ。期待しちゃうよ。我慢できなくなっちゃうよ」

 そこで我慢できなくなったのか、ハルカも顔を歪めて泣き出してしまう。ダムが決壊したかのように大量の雫を目元から溢れさせる。

「我慢なんかしなくていい。時間はかかるかもしれないが。絶対、絶対にお前を取り戻す。だから、少しの間待っていてくれ」

 クロトの言葉にハルカは涙を拭いながらまた苦笑する。拭っても次から次へと溢れ出すとはわかっていても、せめて(いと)しい人の記憶の断片に残るなら笑顔でいたかったのだ。

 クロトがハルカにした約束はそれだけ途方もないことだ。守ることができたとしても、それはきっと遥か未来の話。ひょっとすればやっぱりこれが今生(こんじょう)の別れになるかもしれない。

 だから、ハルカはできうる限り笑ってみせる。少しでも可愛くクロトの瞳に映るように必死に取り繕う。

「本当にクロトは我が儘で、ちょっとだけ残酷なんだから。一人ぼっちで待つのって結構辛いんだよ? その辺わかってる?」

「ごめん」

 ()ねたように悪戯っぽく頬を膨らませて苦笑するハルカにクロトも苦笑しながら謝った。涙でクシャクシャになっていて、とても笑っているようには見えなかったがそれでもクロトもハルカと同じ考えを持って笑うことを心がける。

「しょうがないよね。私はクロトのそんな自分勝手なところも大好きなんだから。あっ、でも一つだけお願いしてもいいかな?」

「なんだ?」

「クロトは、クロトだけは優しいままでいてね。どんなに変わっても、歪んでも、黒く染まってもいいから、それだけは変わらないでね」

「ああ、善処(ぜんしょ)するよ」

「あは、そこでわかったって言ってくれないのがクロトらしいね」

(ひね)くれてるからな」

「うん。じゃあ、そろそろいくね。ちょっと疲れちゃった」

「ああ。0、7頼む」

『『了解』』

 そう返事をするとクロトは〈因子〉達に命じた。その瞬間、僕は所持していた全ての〈怨〉を7に譲渡する。〈軍馬〉によって空っぽにされた7に〈怨〉を供給する。

 7はその全ての〈怨〉を消費して消え行くハルカの精神を、魂を携帯の中に保存した。暗い筐体の中に彼女の存在を繋ぎ留めた。

 そして、ハルカは消え去った。その体を構成する粒子一つ残さず、跡形もなく消滅してしまった。

「うあああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 クロトは泣き叫んでいた。ハルカのいたその場所に(うずくま)り、まるで消えてしまったハルカを捜し求めるように地面を掘り、恥じも外聞もなく喚き続けた。

 ハルカと戦い、消耗した〈軍馬〉を十人以上の物量で片付け、ビショップの連中が去っていた後も、声が()れても涙が枯れてもクロトは一晩中そこから動くことなく(うめ)き続けていた。

 そして、彼は改めて痛感する。やはり弱いことは罪悪なのだと。弱いものには夢も希望も救いもありはしないのだと。

 だから、クロトは捨て去る。『弱さ』ではなく『正しさ』を捨て去る。

 幼い頃に両親に教え込まれた良識も常識も正義も倫理も規範も道徳も全部全部、捨て去り唾棄(だき)して踏み砕く。

 何故なら、クロトにはわかってしまったから。正しさに優しさは含まれていないことを。正しさなんてものは所詮(しょせん)強い者を守るために存在していることを。

 昔、近所の人達がクロトにしたことも、今回ビショップがしたこともやはり客観的に見れば正しいのだ。

 自分に危害を加える恐れのある人間を助けないのは当たり前だし、人ではない一体の化け物を犠牲にするだけで数百人の命を救えるなら犠牲にするのも正しい。少なくとも間違っている要素など欠片(かけら)もない。

 だから、クロトは捨てた。正しくあることなど何の意味もないと、喜んで悪となることを受け入れた。もう、正当である必要などない。クロトが望んだのはただハルカを取り戻すことだけだった。

 クロトは完全に壊れた、歪んだ、()じれた。

 こうして、クロトは兇器となった。()()かれたように〈怨鬼〉をひたすらに狩り続けた。

 ハルカを(よみがえ)らせるために必要な〈怨〉を手当たり次第に掻き集めた。人間の蘇生が最大の禁忌(きんき)として禁止されていようが知ったことではなかった。

 悪いからなんだ? 罪だからなんだ? そうせせら笑ってみせ、ついには人間の蘇生に必要な一億という膨大な量の〈怨〉を貯蓄した。

 だが、当然クロトの行動をビショップが見過ごすはずはない。

 それでも、クロトは止まらなかった。自身を拿捕(だほ)するために派遣されるビショップの〈理外者〉達を、クロトは逃げ回りながら罠にはめ、半殺しに痛めつけ、〈因子〉の寄生している端末を破壊し再起不能にし続けた。

 だが、それもすぐに限界を迎えた。相手は最大最強の裏側の番人。その圧倒的な物量差にはクロトがどれだけ秀逸な実力と知略を備えていても抗いきれない壁があった。

 追い詰められたクロトは僕に筋書きを用意した。連中を出し抜き、目的を達成するために必要な筋書きを考察し、僕に全うするように命じたのだ。

 膨大な〈怨〉を所持する自分や僕を始末すれば〈怨〉が暴走を起こすため、ビショップは自分達を処分することができない。だから、連中は自分の記憶を奪い監視するだろうと。そして、僕は機能を奪われ携帯の奥底に封印されるだろうと。

 そう、先のことを僕に示唆し、何をすべきかを事細かに指示した。必要な記憶のバックアップを7に託し、ハルカの携帯を部屋ごと隠した。

 そして、クロトはビショップに捕まった。抗うことも虚しく記憶も、力も、ハルカへの思いさえも剥奪され、嘘で固められた日常に幽閉されたのだった。

 

◆ ◆ ◆

 

「フハハハ。そうか、そういうことか。ようやく、ようやく全部思い出したぞ。フハハハハハハハハハハハ」

 自分の欠損を取り戻した主は笑っていた。あの日以来、枯れていた涙を両の(まなこ)から溢れさせながら狂ったように笑っていた。

 それは(まが)うことなき兇器の姿で、僕は心の中で密かにお帰りと呟く。残酷(ざんこく)で、悪質で、凶悪で、でも優しい主の帰還に歓喜する。

 そして、クロトの笑い声が徐々に小さくなり、部屋の中に溶け込んでいくとゆっくりとした足取りで部屋の入り口に一匹の〈怨鬼〉が現れる。

 黒い犬の姿を(かたど)った〈怨鬼〉。ハルカのクロトへ焦がれる気持ちが生み出してしまった醜い化け物。

 そいつはまるでクロトが帰ってくるのを待っていたかのように彼の背後に佇むとじっと見据えていた。

「ごめん、ハルカ。こんなに待たせてごめん。こんな思いをさせてごめん」

 クロトは〈怨鬼〉の方を振り返ることもなく、呻くような弱々しい声音でハルカの携帯を胸に抱き寄せて懺悔(ざんげ)の言葉を紡いでいた。

 見ないでもわかってしまう。ハルカがどれだけ寂しい思いをしていたのか。どれだけ切ない思いをしていたのか。そして、同時に自分のことをどれだけ想っていてくれたかも痛いほど伝わってきてしまう。

「0、貯め込んでいた〈怨〉は?」

『バッチリだよ』

「よくやった。お前はクソみたいなポンコツだが、そういう抜かりのないところだけはやはり信用に足るな」

『ニヒヒヒ、まるっきり信用なんてしてないのにどの口が言うんだよ。だいたい君だってクソみたい性格じゃないか。僕に劣らず弱っちいし』

「ふっ、違いないな」

 クロトは僕とそんな軽口を応酬させると僕の固有兵装を左手に展開させる。

 黒い霧状の〈怨〉が携帯から散布されるとそれはクロトの左手の中で武器の形に結集する。

 出現したのは(さや)に納まった真っ黒い刀。(つか)(つば)も刃も鞘も全て、何もかも吸い込むような深い深淵(しんえん)の暗色。それが僕の固有兵装の全容だった。

 クロトが武装するのに呼応して、〈怨鬼〉も身構える。喉を鳴らし、牙を剥き出しにしてクロトに混じり気のない純粋な殺意と狂気を向けてくる。

 しかし、クロトは動じない。武器を呼び出し、〈怨鬼〉と正対するだけで構え一つとろうとしなかった。

 そんな体勢を整えようとしないクロトに構わず、〈怨鬼〉は地に着いた足に力を溜め始める。そして、次の刹那(せつな)にはクロトに飛びかろうと地を駆っていた。

「N‐21からN‐25、M‐4からM‐8、解放」

 迫る〈怨鬼〉にクロトはやはり抜刀(ばっとう)しない。ただ小さな声でアルファベットと番号を口ずさむだけだ。

 だが、その瞬間〈怨鬼〉の切っ先を妨げるかのように空間に裂け目が生じ、勢いを潰す。

 裂け目は正面だけでなく〈怨鬼〉を取り囲み、身動きを封じるように四方にも発生していた。

 それが欠陥品と罵られ続けていた僕の固有兵器の特性。触れることはおろか、見ることも斬ることもできない概念に対して攻撃する能力。

 それは即ち、実体のない。もっと言えば物質を伴わない、あるかどうか定かではないものに対して攻撃することを意味する。例えそれが、時間だろうが、空間だろうが。要するに斬れないもの全般を斬る能力だと捉えて貰って差し支えない。

 ただ、それは逆に言えば実体のあるものには一切のダメージを与えることができず、物理的攻撃力が皆無(かいむ)であるとも言える。一応、方法がないわけではないがそれには莫大なコストが必要になってしまう。

 だから、僕は欠陥品と呼ばれていた。まあ、常に生死の境界線をさ迷う〈怨鬼〉との戦闘において、戦闘力0でおまけにバカスカ〈怨〉を(むさぼ)る燃費の悪い僕が、役立たず呼ばわりされるのは道理だ。

 だが、クロトはそんなTNP(ていねんぴ)とはほど遠い僕を使いこなす。空間と時間を同時に裂き、任意に裂け目を発生させられるように街中の至る所に裂け目を仕込んでいる。

 故にクロトは戦闘において刀を抜くことはない。戦闘が始まる前には既に斬っておきたいものは斬っており、抜かなくても敵の動きを容易に封じられるから。

「さて、この後俺は〈怨〉を大量に消費しなければならない。だから今はなるだけコストは節約する必要がある。7」

『それが私のマスターのためなら』

 クロトが7に呼びかけると、7は自身の固有兵装をクロトの右手に展開させて貸し与える。

 浮かび上がったのは装飾過多な麗美(れいび)(つるぎ)。七つの形と特性を備えるハルカが愛用していた武器だ。

 クロトはその中でも最強の破壊力を持つ形状を7に象らせると、剣を大きく振りかぶる。

〈怨鬼〉はもがいた。逼迫(ひっぱく)する危機を本能的に察知して、どうにかかわそうと()えて身動ぐ。

 だが、いくら力を込めて、暴れても無駄だった。空間の断裂は物理的な力をどれだけ加えたところでなんの意味もなさない。

 そして、高らかに掲げられた刃は振り下ろされる。まるで処刑台のギロチンのように風を切裂く音も鳴らさずストンと落ちる。

 刃が部屋の床に刺さった時、既に一千万級〈怨鬼〉の首は宙を舞っていた。悲鳴のような咆哮をあげる暇もなく静かに舞う。

 そして、首が床にポトリと音を立てて落ちると同時に、〈怨鬼〉は〈怨〉となり、黒い瘴気(しょうき)を飛散させ、ハルカの携帯の中に吸い込まれていった。

 圧倒的、これが兇器と称されたクロトの力だ。

 表でも裏でも何ら変わらない、相手を罠に陥れ潰す。実にクロトらしい力。

「さて、筋書きも佳境(かきょう)に入った。後は目障りなビショップの監視者を始末するだけだ」

 クロトは嬉しそうに、そして悲しそうに静かにそう呟いた。

 ハルカの携帯を強く、優しく握り締めながら、ただ主なき部屋で一人ひっそり決意めいた表情でしばしその場に佇んでいた。


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