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第二章 ただ、主のために

 目の前に現れたのは真っ黒な犬。

 ただ、それは果たして犬と呼べる代物なのかは微妙なところだった。

 姿形だけで判断するなら、それは間違いなく犬なのだが、大きさは家では絶対に飼えないような体躯(たいく)で、動物園にいるライオンとかよりもさらに一回り大きい。

 加えて、その体はまるで煙か何かあやふやなもので構成されているかのようにシルエットが揺れていた。

「な、なるほど。昼間サクヤが言っていたUMA(ユーマ)ってのはこれのことか。ただ、これってどう考えてもチュパカブラとかの親戚とか、そういう(たぐい)のものじゃないよな」

 その奇妙な物体を前にしてクロトは悲鳴をあげることもできなかった。ただ、浮世(うきよ)離れした光景に唖然とした呟きを漏らすだけだ。

 しかし、それは恐怖を感じていないわけではない。(げん)に少しでも距離をとろうと後退(あとずさ)りするクロトの足は小刻みに震えていた。

 それだけ、眼前のそれは異質で、重苦しい重圧を放っていた。それこそ、それが生き物の中にカテゴリーしていいのか疑ってしまうほどの雰囲気だった。

「お、俺なんか食ってもうまくないぞ。脂肪も筋肉も中途半端だし、普段から不摂生(ふせっせい)だし。そ、そうだ。どうせ食べるなら国語の太石(おおいし)先生なんかいいんじゃないか? 名前の通りメタボリックな体で、多分松坂牛くらい美味しいと思うぞ」

 とりあえず、クロトは言語が通じるとも思えなかったがワンチャンにそんな提案をしてみた。

 まあ、当然無駄だ。

 ワンコロは太石教諭を召し上がりに職員室に駆け出すこともなく、真っ赤な眼球を妖しく光らせたままクロトを捉え続けている。

 しかも時折、グルルルルと喉を鳴らし、鋭く(とが)る巨大な牙があしらわれている口端(くちは)からは、(よだれ)のような得体の知れない液体を(したた)らせるのだ。

 冗談じゃない。何が悲しくて犬の晩御飯なんかにならなきゃいけない。犬なんぞ尻尾振りながらジャーキー(かじ)っていれば充分だろうが!

 冷や汗をダラダラ()らしながらクロトは内心そんなことを愚痴(ぐち)るが、残念なことに眼前の化け物は今宵の献立(こんだて)を既に決めてしまっているようだった。

 だが、クロトだって大人しく食われるつもりは毛頭ない。

 犬の標的が自分から他に移らないと悟ると、クロトは唐突に手に()げていた(かばん)を窓に叩きつけた。

 その瞬間、破砕したガラス片が犬に降りかかり、一瞬だけ(すき)が生まれる。

 そこからは全力のダッシュ。

 それはもう、まさに脱兎(だっと)のごとく、脇目も振らずひたすら逃げる。

 だが、相手は仮にも犬の姿を(かたど)っているのだ。クロトがどれだけ渾身(こんしん)の力を振り(しぼ)って足を動かしても、化け物は一向に振り切れない。

 しかも、その化け物が廊下の床を駆ける度に、四肢に伸びる鋭利な鉤爪(かぎつめ)が安っぽいリノリウムの床を深々と(えぐ)る。

 あれに引っ()かれたら、自分がどうなるかなんてわかり切っていた。自分が血肉を()き散らしながら、ミンチに加工される様は想像するだけで身震いする。

 だから、クロトは走った。死にもの狂いで走った。

 だが、角を曲がろうと、階段を駆け降りようと、教室に逃げ込もうと、直ぐに犬はクロトを見つけ出してしまい、化け物との距離はむしろ徐々に縮む一方だった。

「クソッ、なんなんだあいつは!」

 近づく化け物の息遣いと足音。それが大きくなるに連れてクロトの焦燥も次第に肥大していく。

 何か、何か手段はないか。

 焦りで真っ白になる思考を必死に手繰(たぐ)りよせて、クロトはこのリアル鬼ごっこの打開策を画策するが、相手が何かもわからないこの状況では空回りするばかりだった。

 そうして、背中に生暖かい化け物の吐息の感触が伝わってくると、いよいよ泣きそうな気分になってくる。

 だが、そんな時だ。

 不意にクロトの視線上ちょうど走っている廊下の先の角に、赤い消化器の姿が飛び込んでくる。

 その赤い筒がクロトには一縷(いちる)の望みに見えた。普段なら消化器なんて火事が起きなきゃただの置物か、せいぜい悪戯(いたずら)の標的にされるガラクタにしか見えないはずのものがこの場合は違った。

 重厚な金属の筒の中にギッシリ詰められた消火剤。その重量は軽く十キロ以上はあり、使い方次第では立派な鈍器になりえると思えたのだ。

「うおおおおおおお!」

 クロトはそこで柄にもなく雄叫びをあげた。疲れて重くなり始めた両足を叱咤激励して必死に床を蹴った。

「くたばれれれれ!」

 そして、化け物との僅かな距離を保ったまま廊下の角に辿り着くと、設置されている消化器を無我夢中で(つか)み、それを一心不乱に放り投げた。

 消化器はブンブンと回転し、鈍い風切り音を鳴らしながら緩やかに放物線を描いて飛翔する。

 次の瞬間、クロトの渾身の力で投擲(とうてき)された消化器は、猛スピードで迫る化け物の額にカウンターの要領でジャストミートした。

 ゴンッと鈍い音と同時に、キャウンっと甲高い化け物の悲鳴が廊下に響くと化け物は五、六メートルほど吹き飛んで廊下に倒れ込んだ。

「ハァ、ハァ、ハァ。ハッ、ハハハ。フハハハハハハハハハ!」

 そうして、吹っ飛んで床に伏す化け物を遠目から見下ろし、クロトは乱れた息を整えると肩を震わし高笑いしだした。

「ざまあみろ、化け物が! 人間様をあんまり()めるなよ」

 そして、左手を力強く胸の前に掲げると中指を立てて(ののし)る。

「フン、犬の分際で身の程も(わきま)えずに人間を喰らおうとした罰だ。フハハハハハハ」

 化け物を撃退できたことがよほど痛快なのか、クロトの罵倒と嘲笑はどんどんヒートアップしていく。

「フハハハハ、ハ、ハ、ハ............」

 だが、その爽快な笑い声も長くは続かなかった。それどころか呆気なく沈黙するはめになってしまう。

「お、おいおい冗談だろ。消化器で頭を殴られて、なんでピンピンしてるんだ」

 そう、倒したと思っていた化け物が、再びムクリと立ち上がったのだ。それもダメージらしいものを全く(うかが)わせない、至って平然とした動作でだ。

 おまけに、ダメージは全く受けていなくても、どうやらストレスだけはばっちり受けたようで、化け物は先程以上に気が立っている様子だった。

「はぁ。本当、マジでもう勘弁してくれよ」

 その絶望的な状況を前にしてクロトは、もはや半ベソで弱音しか出てこない有様になってしまう。

 無様だ。実に嘆かわしいほどの醜態だ。

 だが、まあ人間死ぬかもしれない状況に直面すれば最後まで足掻くものだ。誰だって死ぬのは嫌で我が身が大事なのだから。

 当然クロトもその例には漏れず、満身(まんしん)創痍(そうい)疲労(ひろう)困憊(こんぱい)であろうと逃げないわけにはいかない。だからクロトは再び踵を返して走り出そうとする。

 まあ、当然無駄だった。

 クロトは走り出そうとする前に背後から化け物にあっさり押し倒され、そのまま馬乗りにされて身動きを封じられてしまう。

「ック、は、離せこのバカ犬が!」

 それでも、化け物の重みで全身を激しく圧迫されながらクロトは必死に抵抗を試みる。

 だが、化け物の四本の足はクロトの四肢をガッチリと抑えつけていてビクともしない。

 さすがにこれはちょっとマズイ。いくらクロトでもこの状況を覆すのは難しい。

 どうする? 今の接触で再起動は完了した。でも、ここには奴らの目がある。まだ知られるわけには......

 そうやって、僕が僅かに焦りを募らせた時だった。

「そのまま、絶対にそこを動くんじゃねぇぞ!」

 そんな女の叫び声が突然薄暗い廊下にこだましたのだ。

 そして、直後にはドーーンとけたたましい銃声が廊下全体に轟く。

 次いで、クロトの眼前を一筋の光が通過し、その光線は化け物のドテッ腹に命中する。

 それら一連の流れを、クロトが視認した時には既に化け物はぶっ飛んでいた。

 消化器をぶつけた時などとは比べものにならないほどの勢いで、化け物は反対側の突き当たりの壁まで吹き飛ばされ、そのまま体の三分の一ほどを壁にめり込ませていた。

 クロトは床に伏したまま、視線を声が聞こえてきた方へと向ける。するとそこに、薄暗くなった廊下の陰で顔は見えないが女の子が立っているということだけはわかった。

 しかも、その少女の手には、先程化け物を撃ち抜いたと(おぼ)しき巨大なライフル銃が握られていた。

「次から次へと、なんなんだよこの状況は」

 あまりに目まぐるしい事態の変化にいよいよクロトもついていけなくなる。もはや、意味不明なんて範疇(はんちゅう)はとうに通り越しているようだ。

 そりゃ、いきなり学校で得体の知れない化け物に襲われたかと思えば、今度は戦車も一発で撃ち抜けそうなライフルを持った女の子に助けられたのだ。何がどうなっているのかを冷静に分析するのもバカらしくなってしまうというものだ。

「何をボサッと寝てんだ。さっさと起きろ! あいつはまだ生きてんだろうが!」

 だが、今のクロトには頭を抱えて(うずくま)る暇さえ与えられていなかった。

 少女に怒鳴られ、慌てて立ち上がって化け物の方を一瞥(いちべつ)すると、そいつは確かに生きていた。

「ったく、なんで私が自分の弁当をかっさらったクソ野郎を助けなきゃならないんだ。最悪だぜ。しかも、よりにもよって相手は一千万クラス。こんなの一人でどうこうできるレベルじゃないっての」

 メキメキと半ば壁に埋まっていた体を(わずら)わしそうに引き抜く化け物は、あの銃撃を受けても大したダメージはなさそうで、それを見て少女は忌々しそうに吐き捨てていた。

「ほら、さっさと逃げるぞ! 走れ!」

 そして、半ば棒立ちになって化け物を見詰めていたクロトの手を強引に掴むと、そのまま力任せに引っ張って走り出した。


 それから数分間、クロトはただ黙って少女に引かれるまま走り続けた。

 相変わらず化け物は執拗(しつよう)に追跡してきたが、時折少女がライフルで牽制(けんせい)してくれたこともあり、校舎二階のトイレに隣接する教室に身を潜めることでなんとか化け物を()くことには成功した。

「ふう、どうやら向こうはこっちを見失ったみたいだな」

 日も沈んで暗くなった教室の壁に背中を押しつけながら、少女は小さくは呟いた。

「そう、みたいだな」

 クロトも少女に(なら)い、息を潜めながら外の気配を壁越しから確認し、それでようやく胸を撫で下ろすことができた。

「助かったよ。君がいなかったらこうして逃げることもできなかった」

 そして、ひと心地つけたおかげか、まだお礼を言っていないことを思い出すと、クロトは改めて少女の方へ振り返り「ありがとう」と言おうとする。

「あ......」

 だが、クロトの感謝は言語化されない。それどころか、その表情はさっきの化け物を始めて目にした時同様に硬直してしまっていた。

 窓から差し込む僅かな光に照らされて(あらわ)になった少女の顔が、クロトにはあまりに見覚えがあったからだ。

「お、お前、もしかしてサクヤか?」

 そう、さっきまで化け物にライフルをぶっ放して大立ち回りを繰り広げていた人物は紛れもなく、品行方正で時折口うるさいおしとやかな我らが学級委員長二神(ふたがみ)咲夜(さくや)その人だった。

「なんだ、急に狐にでもつままれたような顔をして。普段見慣れてる私の顔がそんなおぞましいのか?」

 茫然自失で目が点になってしまう。

 よくよく聞いてみれば声もまんま普段聞き慣れているサクヤのもので、普通ならもっと早く気づいていてもおかしくはなかった。

 だが、その平素とあまりに落差のある口調がクロトを盲目にしていた。だから、豹変とも言えるその変貌ぶりに受けたショックは当然大きかったのだ。

「アハハハハハハ。なんだそのマヌケ面! そこまで衝撃受けるなよ。冗談だ、冗談。安心しろって。私はサクヤじゃない。半分はそうだが半分は別人だ」

 そんなクロトの顔を見て、不意にサクヤはニンマリと嫌味な笑みを浮かべ小バカにし。かと思えばさらに意味不明な発言を続けた。

「はあ?」

 当然、クロトの口から漏れるのは疑問符のみ。もしかすると、サクヤは危ない薬でもキメているのだろうかと疑いたくなってしまっていた。

「まあ、いきなりこんなこと言われてもそりゃ意味不明だよな」

「いや、自覚してるなら最初からもう少しわかりやすく説明してくれ」

「仕方ないだろ、そんな単純じゃねぇんだよ。そうだな~、まずは私の自己紹介を先にしといてやるか。私の名前は二神(ふたがみ)今宵(こよい)。まあ、簡単に言えばサクヤの中のもう一つの人格だ。といっても記憶は共有しているから、全くの別人格ってわけでもない。だから私は、半分はサクヤであり半分は違うとも言える。理解したか?」

 サクヤの別人格とやらは自らをコヨイと名乗るとそんなとんでもないことを暴露する。

「はあ、まあ、一応理解はできたが......」

 クロトとしては正直、サラっとそんな重大発表をされても反応に困ってしまう。この場合は最寄りのいい精神科医でも紹介すればいいのだろうかと顔をしかめて考え込んでしまっていた。

「バーカ。何、深刻そうな(つら)してんだよ。私達のこれは別に病的なものじゃねぇ。サクヤの性格的じゃ〈怨鬼(レギオン)〉とガチのデスマッチするのはちょいと厳しいってことだから、本人了承の上で〈因子(アプリ)〉が〈(エン)〉を使って生み出したものだ。だから、まあ安心しろ」

 そこで、クロトの内心を察してか、コヨイは軽い調子でそんな説明をつけ加える。ただ、今のクロトには説明の内容が完全にちんぷんかんぷんだった。

 当然、はぁっ?〈怨鬼〉?〈因子〉?〈怨〉? 意味がわからん。ちゃんと日本語を喋れ。そんな説明で何をどうすれば安心できるんだ。とでも言いたげな顔になっていた。

「ああ? なんだ? 私の言ってることが理解できないって顔だな」

「ああ、さっぱり」

「お前、本気で言ってんのか?」

 そんなクロトを見て、コヨイは訝しそうに眉を寄せて、じっとクロトの顔を覗き込んでくる。

 ただ、まあ疑わしげに凝視されたところでわからないものはわからない。

 むしろクロトからすれば何を疑っている? という気分で、できることならさっきから立て続けに起きている不可解な事象諸々について、懇切丁寧にレクチャーしてもらいたいところだろう。

「おい、あんまり私を見くびるなよ。そんな三文芝居が通じるとでも思ってるのか? ああん!」

 だが、そこで突然。何故かコヨイは怒り出す。しかも、あろうことかライフルの銃口をクロトの口に突っ込んできた。

「ふぐんーーーー! ふぐんんーーーー!」

 クロトとしてはもうわけがわからなかった。

 ええ! 何この子? 何で怒ってるの? 俺、何か気に(さわ)ること言ったか? と恐怖と焦りでフンフン喚きながらただパニックに(おちい)ることしかできない。

「うるせぇ! ガタガタ騒ぐじゃねぇ。口の中に風穴開けて、今流行(はや)りのクールビズ仕様にするぞ!」

 しかし、目の前のキレ児は混乱することさえ認めないらしい。本当に理不尽極まりない。

 当然、そうやって脅迫された上に、引き金に指までかけられるとクロトは黙るしかなくなる。

「お前に嘘をつく権利はない。当然黙秘権もな。だから訊かれたことには包み隠さず正直に答えろ。わかったな?」

 コヨイの命令にクロトは静かに一度だけ(うなず)いた。

「〈怨鬼〉と接触して何か思い出したか?」

 勿論クロトは首振る。

 だが、やはりというかなんというか、どうやらその回答はコヨイのお気に召さなかったようで。

「おいおい、今親切にも忠告してやったところだろ? 嘘はつくなって。ったく、これだから罪人は。そんなに死にたいなら望み通りぶっ殺してやるよ。地獄でたっぷり反省して、今度は正直者に生まれてくるんだな」

 じゃあ、どう答えればいいんだよ! と内心クロトは憤りを感じるが、それを言葉にすることもできず、コヨイは容赦なくトリガーにかけていた指に力を込め始める。

「ふぐーーーー! ふぐぐぐーーーーー!」

 クロトは必死に喚きながらブルブル首を振って嘘なんてついていないと主張した。

 だが、コヨイの指は止まらない。指に食い込んだ引き金はコヨイの意思に従い、一ミリずつゆっくり、ゆっくり押し込まれていく。

 そして、完全に引き金が引き絞られクロトは思わず目をつぶった。

 その瞬間。

 ――カチッ

 室内に響いたのは、そんなすかしっ()みたいないな撃鉄が空を叩く音。当然クロトの咥内に激痛が走ることもなかった。

「ほお。ここまでされて何の抵抗もしないってことは、どうやら本当みたいだな。まあ、〈怨鬼〉に追い駆けられてたところからずっと見てたが、反撃する様子もなかったし、そうかもとは思っていたが」

 コヨイはクロトの反応を見て詰まらなさそうに銃口を口から引き抜くと、そう呟いた。

 だったらこの手の込んだ芝居はなんだったんだ。危うく漏らしちゃいけないものを漏らすところだったぞ! というか、こいつさっき俺が化け物から追われていたのにずっと観察していたのかよ! (たち)が悪いな!

 クロトの内心を代弁するならこんな感じだろうか。当然その後、クロトはコヨイを睨みつけ、文句を言ってやろうとした。

「ああ? なんだその反抗的な目は? 何か文句でもありそうな感じだな」

 だが、再び黒光りする銃口を向けられながら、ドスの利いた声でそう尋ねられるとあっさり押し黙ってしまう。

 もうどうにでもしてくれ。そんな投げやりな諦念(ていねん)だけがクロトの心を埋めていった。


 世の中にはいくつものルールだの、法則だのと小難しい(かせ)数多(あまた)も存在する。

 そう枷だ。

 不可能と可能を隔てる枷。良いことと悪いことを隔てる枷。

 万有引力とか、物理法則といった名称で勉強大好きなガリ勉君が発見して理論立てた自然の掟もあれば。これまた賢い学者が理屈をこねくり回して生み出した法律や倫理なんてものと種類や内容は様々。

 でも、それらには共通して縛る力がある。できないことを、やってはいけないことを規定する力がある。

(エン)〉はそれら、どんな枷をも超越して願いを叶えることができる。

 どんな願いだろうと〈因子〉に求められる量の〈怨〉さえ供給し、消費すれば叶えることができる。

 つまり、〈怨〉は〈因子〉に願いを叶えてもらうために支払う代価物、要するに金と似たようなもので。そんな歪んだ力〈怨〉が凝り固まって生まれる化け物が〈怨鬼〉だ。

 枷を歪ませる強いエネルギーが生み出した、存在しないはずの歪んだ化け物。〈怨〉に惹きつけられ、(むさぼ)り食らって体内に蓄え続ける化け物。

 当然、そんな強大な力を持つ化け物と戦うには同じく強大な力が必要不可欠になる。

 そこで使用されるのが、〈因子〉それぞれが戦闘用に〈怨〉の運用法を特化させた武器、固有(こゆう)兵装(へいそう)だ。

 〈因子〉に〈怨〉を供給して固有兵器を具現化して〈怨鬼〉を狩る。そうして〈怨鬼〉の中に溜め込まれた〈怨〉を奪い、自分のものにしていく。〈怨〉を使い〈怨〉を増やしていく。ちょうど金を使って金を増やす投資のような要領で。

 無論、それだけリスクが伴い、強大で希少な力を内包している〈怨〉には莫大な価値が生まれる。現金で直接取引され、換金することのできる裏市場も存在する。

 そうやって〈因子〉を持ち、〈怨鬼〉を狩り、〈怨〉を増やし貯蓄する連中は〈理外者(りがいしゃ)〉と呼ばれている。

〈理外者〉達は毎日大量に()く〈怨鬼〉を日々狩り続ける。競うように、争うように、まるで何かにとり()かれたように。

 それはそうだ、誰にだって叶えたい願いの一つや二つはあって当然なのだから。むしろ、それがないなんていう方が胡散臭(うさんくさ)いだろう。

 だから、みんな必死になって狩るのだ。自分が少しでも多く〈怨〉を集められるように。〈怨〉で願いを叶えたり、金に換えたりするために。必死に、必死に狩るのだ。


「............」

 そうコヨイに説明され、クロトは日常の中に、そんな〈怨〉を取り巻く裏側が存在していたことにただ言葉を失ってしまっていた。

 単に襲ってきた化け物について訊くだけのつもりが、随分と妙なところまで話が発展してしまい、中々頭の中で整理がつけられずにいるのだろう。

「それはまた、随分と都合の良いものが世の中にはあるんだな」

 だが、そのわりにようやく口を継いだと思ったクロトの感想は淡泊なものだった。

 別に全く信じていないわけじゃない。

 勿論、疑り深いクロトにとって、話の内容は半信半疑であることは事実なのだが、それ以上に〈怨〉なんてものが存在することを、ただ(むご)いと思ったのだ。

 そんなものがあったら、諦めることができないから。どこまでも永遠に追い求め、(すが)りつき続けてしまうから。

 だから、クロトは酷く惨いと思ったのだ。

「まあ、実際はそんな便利でもないがな。何てったって〈怨鬼〉は本物の化け物だ。赤ん坊がプロボクサーを殴り倒さなきゃならないに等しい。それくらい、人間と〈怨鬼〉の間に力の差があるんだよ」

 だが、コヨイはクロトの皮肉のこもった呟きを逆の意味で捉えたのか、おどけたように揶揄(やゆ)してくる。

「ハハハ、それはおっかないな」

 だから、クロトもその妙に的を()た例えに苦笑を返して鬱々(うつうつ)とした気持ちを振り払った。

 そう、現状において、そんな感慨に(ふけ)っている余裕などない。なにせ、自分達はその恐ろしい化け物が徘徊(はいかい)する校舎の中にいるのだ。今はまずは何よりもここから逃げることが優先だった。

「さて、それじゃ私達がここから脱出できる妙案を頑張って考えてくれ」

 そう考えを切り替えようと思った矢先、突然コヨイがクロトの肩をポンと叩いて全てを丸投げしてくる。

「いや、待て。それは普通に考えて無理だろ?」

 無茶(むちゃ)振りもいいところだった。

「何言ってやがる。そのために私は面倒臭いのにわざわざ長ったらしい説明をしてやったんだろうが。得意なんだろ? そういう(こす)い作戦を考えるのは。つうか、やらないとここで死ぬぞ」

 だが、コヨイは脅しの時に浮かべる蠱惑(こわく)的な笑みではなく、淡々と、ただ事実を告げるような無表情でそう口にする。

「それは、お前じゃあの〈怨鬼〉には勝てないってことか?」

「ああ、無理だ。なんてったってあれは〈怨〉を一千万以上溜め込んだ大物だ。私程度の〈理外者〉じゃ逆立ちしたって勝てない」

 感慨もなさ気にあっさり期待をへし折られ、クロトは顔しかめてしまう。

 夢も希望もありゃしない。そんな碌でもない状況に辟易せずにはいられなかった。

「はぁ。まあ、仕方ないな。ここで死ぬのは俺だって御免だ」

 だが、それで自分の命を諦めたりはしない。

 力のない弱っちい虫ケラはこの程度の絶望など日常茶飯事で、足掻(あが)き続けることにも慣れているのだ。

「いいだろう。考えてやる、あの化け物を出し抜くための策をな」

 だから、クロトはそこで酷悪な笑みを浮かべる。いつもの不敵で何か良からぬことを考えていそうなそんな笑みを。

 そして、普段は碌なことに使わない頭をフル回転させ始めたのだ。

 その後、二人は気配を殺しながら校舎の玄関へと向かっていた。

 無論、そのまま〈怨鬼〉に見つからずにすむなんて甘いことは考えてはいない。だから、目的地を目指す前に二人は途中自分達の逃げ込んだ隣の教室に立ち寄っていた。

 それはクロトの秘策を実現するためのとある秘密兵器を調達するためだ。

「本当にそんなのが通用するのか?」

 だが、暗い廊下の中でコヨイは疑わしい視線をクロトに向けていた。

「さぁな。あの化け物については俺よりお前の方が詳しいんだろ?」

「知るかよ。そもそも〈怨鬼〉相手にそんなふざけた作戦を実践しようとする奴なんて見たことないからわかんねぇよ」

「ふうん。まあ、つまりやってみなくちゃわからないってことか。命を賭けるにしては随分チャチな策だが......」

 クロトは自嘲気味に呟くと、左手に握っているものを一瞥(いちべつ)する。くる途中に教室から拝借したスーパーのビニール袋に包まれた物体。それが自分達の命運を左右するかもしれないと考えるとあまりに心許ないのだが、今は閃いた天啓(てんけい)にただ(すが)るしかない。

「ふう。それに、言っているそばから(やっこ)さんは俺達に気づいたみたいだしな」

 そして、先行き不安な状況にため息をこぼしていると、その時にはもう〈怨鬼〉は廊下の向こう側から紅い(まなこ)をこちらに向け、大きな漆黒の体躯を屈めて(たたず)んでいた。

 既に二匹の獲物を狩る準備は整っている雰囲気だ。

「そうみたいだな。これでもう後には引けないってわけか。んじゃ、せめてお前の陳腐(ちんぷ)な策が通じることを祈りながら、さっさとおっぱじめるとするか。生き残るためにも」

「ああ」

 コヨイの言葉にクロトが短く返事をすると、彼女はもう自慢の固有兵器であるライフルを構え、照準を〈怨鬼〉に定めていた。

 そして、直後にはドーン、ドーン、ドーンと重い空気を震わせる三つの咆哮(ほうこう)をほぼ同時に響かせる。

 狙ったのは頭、脇腹、右足の三箇所。仮に敵がかわそうと動いたとしても、どれか一発は当たるようにとわざと弾道をバラしたのだ。

 だが、犬はそんな小細工は無駄だと嘲笑うかのごとく大きく地を蹴り、弾丸のように中空で体を螺旋(らせん)状に(ひね)ってあっさりとかわしてしまう。

 もうコヨイの攻撃は、牽制どころか足止めにすらならなかった。

 そして、そのまま着地すると、まるで何事もなかったかのようにゆっくりとした足取りで距離を詰めてくる。悠然と逃げても無駄だと行動で意思表示してくる。

「っち、くそ! 化け物がふざけんじゃねぇぞ」

 バカにされた。知性も理性もない〈怨〉の塊に。

 それが酷く腹立たしかったのか、コヨイは大きく舌打ちを打つとライフルを構えたまま走り出してしまう。

 その行動にクロトは制止を呼びかけようとしたが、途中で言葉を引っ込めた。

 元々作戦を立てたといっても細かいことまで打ち合わせる時間はなかったのだ。それなら、ここはコヨイのアドリブに自分が合わせようと考えたのだろう。

「通常弾じゃもうかすりもしないなら、とっておきを食らわせてやる。20(ヴァンティエンム)〈怨〉三十万分の氷結弾を装填しろ!」

『yes』

 コヨイが一人そう叫ぶと、誰もいないはずなのに彼女の胸ポケットから電子音の返事が返ってくる。

 恐らくそれが彼女の携帯に取り込まれている〈因子〉の声なのだろう。

 その証拠に返事が聞こえた瞬間、コヨイの固有兵器の銃口尖端部分が(あお)く発光する。

 コヨイはその光を確認すると再び引き金を絞った。

「今度は避けられねぇぞ」

 言葉と銃声がハモると同時に、銃口から再び怨弾が吐き出された。

 だが、今度の弾道は愚直な直進はしない。疾駆する〈怨鬼〉の一メートル手前で、不意に爆砕したのだ。

 そして、そこから幾重にも細かく青い筋が放射状に延び、直後には〈怨鬼〉とその周囲の空間を丸ごと巻き込んで瞬間凍結させる。

 教室に隣接する廊下一区画分が完全に凍りつき、〈怨鬼〉の黒い体も全体が凍りに覆われていた。

「へぇ、そんなことまでできるのか。というか、さっきまで弱気なこと言ってたわりに、一人でなんとかしてるじゃないか」

 その光景にクロトは圧倒されながらも、感嘆の声を()らした。だが。

「バカ野郎、なに優雅に構えてるんだ! こんなのはただの足止めだ。さっさと準備しろ!」

 コヨイに怒鳴られ、クロトは一瞬顔をしかめるが、改めて眼前の〈怨鬼〉を一瞥すると既にビキビキと音を鳴らし氷の節々に亀裂が走り始めていた。見ていたクロトの表情も自然と凍りついてしまう。

「氷漬けにしても生きてるって。本当に、頭が痛くなりそうだな」

 だが、そんなことで一々戦慄している暇もなかった。

 だから、クロトは敵のおぞましさに辟易しつつも右手に持つ、ビニール袋に密閉していた中の布袋に手を突っ込む。

 クロトの立てた作戦は実に安易で馬鹿げたものだった。

 本当に、こんな恐ろしい化け物相手に実践しようなんて頭がおかしいんじゃないかと疑ってしまいそうなほどに馬鹿馬鹿しいプランだ。

 それでも、クロトにはそんな策でも実行するに値すると思えるだけの根拠があった。

 クロトは先程、この目の前の化け物を一度撒くことができたことに疑問を抱いていた。

〈怨鬼〉はクロトがどれだけ逃げても追い駆けてきていたし、当然先程のように教室に隠れてやり過ごそうなんてことも試していた。だが、化け物はその度にクロトを瞬時に見つけ出し追い詰めてきた。

 それなのに、コヨイと逃げた時は振り切ることができたことにクロトはずっと不可解な思いを抱いていたのだ。

 最初はコヨイの牽制があったから、あるいは彼女を警戒していたから見失ったのだろうかと考えていた。

 だが、こうして改めて対峙してみれば〈怨鬼〉がコヨイの存在など気にも留めていないことは明らかで、それが逆にクロトの根拠を確信へと変えた。

 そう、そもそも二人が教室に避難した時もこの化け物は自分達を見失ってなどいなかったのだと。ただ嫌悪して近づかなかったのだと。

「中身は化け物だとしても犬の形を象っている以上はやはり犬ってことには変わりないんだな」

 一人小さくクロトが呟くと、それに呼応するように〈怨鬼〉を覆っていた氷が砕け始める。

 そして、〈怨鬼〉はまだ体の殆どが氷に覆われている状態にもかかわらず強引に駆け出すと、クロトよりも近くに位置取っていたコヨイを無視してクロトへ飛びかかろうとした。

 だが、その時にはもう準備は整っていた。

 一度実際に圧しかかられているためか、恐怖もなんとか振り払えていた。

 だから、クロトは露出した敵の頭部が接近するのをただ待つ。

 そして、自分の手の届く範囲まで頭が接近した瞬間、クロトは脳内で何度もシュミレーションしていた作戦を忠実に再現するかのように、袋の中からそれを取り出し、〈怨鬼〉の頭に被せる。

 それは、どこからどう見てもただ体操服だった。白い布地に赤い縁取りの入った聖蓮指定のごく普通の体操服。

 強いて奇異な点があるとすれば、クロトが着るには明らかに大き過ぎるダルンダルンなXXXLサイズという点ぐらい。

 まあ、言うまでもないが、それはクロトのものではない。当然サクヤやコヨイのものでもない。

 体操服の持ち主は聖蓮の中でも最重量、最多発汗量で有名な一年五組所属の豚田太士(とんだふとし)だ。

 そして、豚田は同時に体育の後でも中々体操着を持って帰らないことでも有名だった。

「今日の気温は四十度近い真夏日。加えて五組でやった体育はマラソンだったそうだ」

〈怨鬼〉の口から首筋にかけて体操着にすっぽり覆われた姿を確認して、クロトはニヤリと勝ち誇った微笑を浮かべていた。

「さあ、夏の太陽の下、青春の体液をたんまり吸い込んだ酸っぱ臭い体操着の香りを存分に堪能するがいい」

 視界を遮られ、床に倒れた〈怨鬼〉を見下しながらクロトは高らかに宣言した。

 ――ブルァアアアアアアアアアアアアアアア

 途端に、廊下全体には苦しそうな耳をつんざく咆哮が響き渡る。

 まだ、体の半分以上が凍りついているのに、それに構わず〈怨鬼〉はその場でのたうち回って(もだ)え苦しみ始めた。

 だが、いくら暴れ回っても頭をスッポリ覆っている体操着は一向に脱げない。

 今も〈怨鬼〉の鋭敏な鼻孔に、酸っぱ臭い豚田汗の香りを拡散させ、〈怨鬼〉に堪えがたい苦痛を与え続けている。

「フハハハハハハ。どうだ、古い皮脂や雑菌にまみれた悪臭の威力は? お前のように鼻の利く化け物にはさぞきつい拷問だろう? なんてったって俺達でさえ鼻がよじれそうなほどの臭いなんだからなぁ」

 そんな苦しそうな化け物の姿に、クロトは体操着を掴んでいた方の手をハンカチでゴシゴシ拭いながら笑っていた。それはもう(たの)しそうに嗜虐(しぎゃく)的な笑みで。

「ま、まさか本当にこんな策が通用するとはな......」

 その様子を(かたわ)らから見ていたコヨイの表情はどこか引き攣っていて、心なしか〈怨鬼〉を気の毒そうに見下ろしていた。

 まあ、コヨイが複雑な心境になってしまうのも無理はない。

 クロトのしたことは例えるなら、クラスの嫌いな奴の机に犬の糞を置くような、そんな悪質で陰湿な嫌がらせみたいなものだ。

 正々堂々と戦って肉体的にダメージを与えていくのではなく、ネチネチと精神的に相手をいたぶる搦手(からめて)なのだ。

 そんな姑息な手段が通じたことにも驚きだが、何よりそれを考えて実行するクロトに少し呆れてしまったのだろう。

 そんな風にコヨイが顔を曇らせていると、いよいよ臭いで錯乱したのか。〈怨鬼〉は覚束(おぼつか)ない足取りながらも無理矢理体を起き上がらせると、廊下の壁や窓に体をぶつけるのも構わず、猛然と走り出す。

 そして、そのまま狂ったように悲鳴を上げて突き当たりの窓を破って外へ逃げていた。

「フハハハハ、本当に尻尾を巻いて逃げやがった」

 その光景にクロトは相変わらず、愉快そうに下品な高笑いをあげるだけだ。

「こ、こいつ、絶対碌な死に方しねぇな」

 傍らでコヨイが完全にドン引きしたような冷たい視線を向けてそんな言葉を漏らしていたが、クロトの耳に届く気配はまるでなかった。


 その後、なんとも胸を張りがたい微妙な手法で〈怨鬼〉を撃退したクロトはというと。コヨイに「今日はもう帰れ」と銃口を向けながら告げられて、半ば強制的に学校から追い出されていた。

 だが、そうやってコヨイに脅され、追い立てられるように家路につかされたものの、クロトは始めからさっさと家に帰るつもりでいた。

 勿論、クロトの頭の中にはいくつも不可解に思うことは去来していた。

 そもそも自分はどうして〈怨鬼〉に襲われたのか、どうしてコヨイがその場に居合わせていたのか、〈怨〉なんて強力なものがどうして存在しているのかなどetc。疑問は次から次へと降ってくるかのように沸いてくる。

 しかし、クロトはそれらを一々コヨイに質問して解消しようなんて思わなかった。

 興味がないかと問われれば嘘になるだろう。だが、それ以上にクロトは知ることを恐れたのだ。

 仮にそれ以上〈怨〉にまつわる裏側のことを知ってしまえば、自分は必ず足を突っ込んでしまう。そして、惨ったらしい裏側の事情に染まり、狂ってしまうと。いや、歪んでしまうと。そうクロトは思ったのだ。自分の性格は自分が一番理解していると思っているからこそ。

 まあ、当然と言えば当然だ。

〈怨〉にはそれだけの魅力(みりょく)がある。〈因子〉が求める量を供給してやれば、ありとあらゆる枷を()じ曲げて願いを叶える。

 人間からすれば、それは喉から手が出るほど欲しい代物だろう。大きな夢や望みを持っていればいるほどに、深い闇を抱えていればいるほどに。

 クロト自身、今はこうして知ることを拒否することで踏み止まることができているが、それだってあくまで『今は』でしかない。

 だからクロトは何も訊かなかったし、訊くつもりもなかったのだ。

 幸い、コヨイもあの〈怨鬼〉をどうにかするためにやむをえず大まかな情報を話しただけで、それ以上の情報を漏らすつもりはないようだ。ただ今日あったことを一緒にある人物に報告して欲しいと言うだけだった。

 そして、そんなコヨイの対応にクロトは内心安堵していた。

 全くもって滑稽(こっけい)な話しだ。

 もうとっくに狂って捩じ曲がっているくせに、そんな矮小(わいしょう)なことを今さら気にするなんて勘違いも甚だしい。

 惨ったらしい裏側にくることが、自分が歪んでしまうことが怖いだって? おいおい、何を言ってるんだ。世迷言もほどほどにしろよ。

 この世界は表だろうと、裏だろうと、どこだろうと、何だろうと惨いじゃないか。歪んでいるじゃないか。なのに拒否するだって?

 そんなのはクロトらしくない。そんな強者が吐くような偽善的な台詞(せりふ)はクロトらしくない。

 まあ、でも今さら嘆いていても仕方がない。クロトがこうなることも予め筋書きに書かれていたことだ。

 だから、今の僕はただ指示に従って筋書きを実現するだけだ。それが主に仕えるものの使命だ。

 ただ、まあ、これは少し皮肉が利き過ぎている気もする。

 自分のことがまるでわかっていないのに。結局、何よりも誰よりも自分のことを理解しているのがやっぱり自分自身だなんて......

 


 クロトが帰った後も、コヨイはまだ学校に残っていた。それどころか〈怨鬼〉が蹴破って粉々になった窓の前から一歩も動くことなく、今も夜の(とばり)に消えた化け物の姿を追っているかのように、その一点をじっと見据えていた。

「それで、〈怨鬼〉と接触して奴はどうなった」

 そうしてしばらく彼女が廊下で立ち尽くしていると、不意に彼女の背後に一人の人影が立ち、そう問う。

「いえ、色々と試して確認してみましたが何も」

 コヨイはそれまで手にしていた固有兵器を霧散させてサクヤと入れ替わると、振り返らないまま答える。

「それは君の〈因子〉20も、ということか?」

「はい」

「ふむ、それは妙だな。主が〈怨鬼〉と接触すれば〈因子〉の防衛プログラムが起動して再起動するはずなんだが」

「ですが、彼は〈怨鬼〉に襲われても、一度も固有兵器を展開させませんでした。それは20も確認していることなので間違いありません」

「なるほど。確か、襲ってきたのは一千万級だったそうだな?」

「はい」

「だとすれば、確かに固有兵器を展開しないのは妙だ。いくら奴でも、相手が一千万級では〈因子〉なしで勝てるはずがない。そんな自分が死ぬかもしれない状況で、足掻かないほど奴は(いさぎよ)い人間ではないからな」

「では、やはり元には......」

「いや、それだけでその結論を出すのは早計だ。相手は兇器(キラーマシーン)の二つ名を持っていた男。どんな薄汚い手段を使ってくるかわからん」

 背後から、そう無感情な声音が聞こえてくると、サクヤは顔を僅かに曇らせる。

「あの、彼は本当にそれだけ危険なんですか?」

 そして、恐る恐る窺うように疑問を口にしてしまう。

「なんだ? 我々の言っていることが信じられないか?」

 返ってきたのは先程までの淡々とした事務的な口調から、ほんの少しだけくぐもった、どこか不機嫌そうにも聞こえる声音だった。

「い、いえ、そういうわけではないんですけど。ただ、どうしても普段の彼を見ていると、ビショップで説明された人物評価との間に乖離(かいり)があるように思えてしまって」

 その微妙な変化を敏感に感じ取ってしまったサクヤは、少しだけ申し訳なさそうに顔を(うつむ)かせる。

 だが、それでも自分が感じた正直な思いは口にせずにはいられなかった。

「まあ、そう感じてしまうのは当然だろう。我々は奴に封印を施している。今の奴は脱け殻同然。だが、これだけは忘れるな。奴は五年前、我々〈理外者〉の間では絶対に犯してはならないとされていた禁忌に触れようとした。そして、あろうことかそれを阻止しようと派遣した我々の同士十五人を再起不能に陥れた」

 釘を刺されるようにそう告げられ、サクヤは一層顔を曇らせてしまう。

 禁忌を犯し、追手を再起不能に追い込む。それは紛れもなく罪人の所業で、罰せられるべき行動だったからだ。

「その、もし差し支えなければ、五年前の事件についての詳細を教えて頂けませんか?」

 だが、それでもサクヤは納得できなかった。いや、納得したくなかった。

 例えどのような背景があろうと、その罪が許されるべきことではないとはわかっているのに、自分の中の一部分がその事実を拒絶していたのだ。

 だから、納得するためにも詳しく知りたかった。自分の反発する一部の感情に、反論の余地を与えない徹底的な悪を求めた。

「それはできない。これは第二級秘匿(ひとく)事項だ。まだビショップに入って一年足らずの君に教えられる領分ではない」

 だが、そんなサクヤの願いはあっさり突っ()ねられてしまう。ただ、サクヤもそれで折れることはできない。

「で、ですが」

「このままでは納得できない、か?」

「は、はい」

「ふむ、そうか。だったらはっきり言おう。君が納得する必要などないとな」

「ど、どういう意味ですか?」

「どうもこうもない。別に我々は君に納得してもらう必要などない。いや君に限らず、誰かに納得してもらう必要なんてない。そういう意味だ」

「それは私が下っ端だからですか?」

 その横暴な物言いにはさすがのサクヤも苛立ちを募らせたのか、振り返ってそこにいる人物を鋭く睨みつけていた。

「いいや、違う。別に下っ端だからとかそういうことではない。さっきも言っただろう、誰かに納得してもらう必要なんてないと」

「どうしてです?」

「わからないか? 我々の存在理由は裏側の秩序の維持。表と裏の調整。そして絶対正義の全う。つまり、我々は常に絶対的に正しくあらなければならない」

「そんなことは私もわかっています。だから私はビショップに入ったんですから。でも、今それと何の関係が......」

「大有りだ。正しくあるとは、時として『小を切り捨て、大を救う』非情さが必要なのだからな。いいか、絶対悪なんてものはこの世には存在しない。正義や悪など視点や境遇が異なれば簡単に引っ繰り返る。それでも時として悪と断じ、罰を与えなければならない。それが正しくあるということだ。君はそれら一つ一つに一々納得しなければならないのか?」

「そ、それは......」

 サクヤは言葉に詰まってしまう。それがあまりにも正論で、反論する隙間もなかったから。

 そう、全てのことに納得できるほど世界は単純な仕組みで動いていない。納得できないことなんて無数に存在するだろうし、理不尽なことだっていくらでもある。

「我々はただ正しくあればいい。そして、君はただ与えられた役割を全うすればいい。Noblesse(ノブリス) oblige(オブリージュ)それが、我々持つべき者の果たすべき義務なんだからな」

「......はい」

 もはや、サクヤにできるのは唯々(いい)諾々(だくだく)と返事をするだけだった。

「わかったのなら君はこのまま奴の、屍黒斗(しかばねくろと)の監視を黙って続けろ。ああ、それと今回、人払いは私の方でやっておいたが、今後はこういう手抜かりはないように」

「申し訳ありませんでした」

 言いたいことだけ言い終えるとその人物は歩いて行ってしまう、サクヤの内心などまるで鑑みる様子も見せずに。

 その対応にサクヤは少しだけやるせない気持ちになった。

「はぁ」

 そして、もの悲しげな表情で小さくため息を漏らし、〈怨鬼〉との騒ぎで破損した箇所の修復を始めるのだった。



 自宅に帰りつくなりクロトは携帯を自室の机に放り投げて、制服のままベッドに仰向けで横になっていた。

 制服を着たままそうしていると服が(しわ)になってしまうのだが、あれだけの事があった後ではそんな些事(さじ)にまで気を回す気力も残っていないらしい。

「はぁ。なんか、今日はどっと疲れたな」

 クロトは顔を手で覆ってダルそうな声で(うめ)く。

 時折、つい数時間前の出来事と〈怨〉にまつわる裏側の事情が脳裏をかすめるが、クロトはその度に頭を軽く振って余計な考えを追い出した。

 小難しいことをあれこれ考えるにはいささか疲れた。クロトが今考えていることはただそれだけで、一秒でも早く寝入ってしまいたい様子で(まぶた)を閉じてしまう。

 正直、そんなクロトの疲れ切った様子を目の当たりにしていると、そのまま寝かせておいてやってもいいんじゃないかと思わなくもない。

 ただ、それでは困る。

 僕の再起動が実現し、連中の監視が緩んでいる今は絶好のチャンスなのだ。恐らくこの期を逃せばもう二度とこんな機会は巡ってはこないどろう。

 だから、クロトを寝かせるわけにはいかない。もっと言えば、僕は全力で寝るのを邪魔しなければならない。

 実際そんなことをするのは僕だって心苦しいんだ。嫌で嫌でしょうがないんだ。

 それでも、その役割を担っている以上は果たさなければならない。

 本当、大義名分というのは実に都合の良い言葉だ。それさえ、備わっていれば、例え相手がどんなに嫌がり、鬱陶(うっとう)しがろうと「仕方がない」の一言で片付けることができるんだから。

 僕はそんな風に自分の役得に喜々として心躍らしながら、早速僕達の出会いに相応しいシチュエーションの演出にとりかかった。

『ダン、ダン、ダン、ダッダダン、ダッダダン♪ ダン、ダン、ダン、ダッダダン、ダッダダン♪』

 手始めに軽い嫌がらせのつもりで、僕は自身の寄生先であるクロトの携帯を弄り、ダースベーダーのテーマソングを最大音量で流した。

「............」

 だが、クロトはあろうことかそれを無視した。

 いやいや、その反応はおかしいだろ! この曲はクロトの携帯には入っていないはずの音楽データだ。なんで無視できる! 普通起きるだろ。というか驚くだろ。自分がダウロードした覚えもない音楽がいきなり自分の携帯から流れてるんだぞ。

 あまりに突っ込みどころの多いその無反応っぷりに内心絶叫してしまうが、やはりクロトは全く気にしていないのか、先程からこちらを一瞥するどころか閉じた瞼を開こうともしなかった。

 ック、さすがは()()けていても僕の主だけはある。この程度の嫌がらせに屈するような繊細さは持ち合わせてはいないらしい。

 こうなってしまえば、こちらも意地だ。もう、手段など選んでいられない。

『せ、先生。私は悪い子です。だ、だから先生のその立派な棒でお仕置きして下さい』

『ふっ。全くお前はどうしようもなくはしたない生徒だな。そんなにお仕置きして欲しいなら、コレが欲しいならたっぷりその体に教えて込んでやる。そりゃ!』

『あっ! ああぁ~ん♪』

 そうして、今度は女の子の(なまめか)かしい声を室内に轟かせる。若干マニアックな高校物のAV音声を再生させてやったのだ。

 さて、これならさすがに......

 って、おい! 何ちょっと嬉しそうに顔ニヤけさせてんだよ! というか、その全く気になってませんよ的にわざとらしく反対側向くのやめろよ!

 結局、クロトはそっぽを向いたまま顔を耳まで真っ赤にするだけで、この異常な状況に対してはなんらリアクションを見せてくれなかった。

 ただまあ、普段は悪態をついていかにもクールキャラクターを気取っているクロトが、実はこういうのに興味津々なムッツリ野郎だと判明したのはちょっとした収穫だ。

 その後も、僕はありとあらゆる方法でどうにかクロトに反応してもらおうと執拗に嫌がらせを続けた。

 ネット上から色々なデータをダウンロードしてヘビメタからアニソンまで各ジャンルの音楽を流したり、黒板の引っ掻き音や酔っ払いの愚痴なども大音量で再生させたりした。

 しかし、やはり相変わらずクロトはふてぶてしく無視を続けるだけだった。

『ああああ、もう! いい加減に起きろよ。僕はこんなくだらないことで時間を無駄にしたくないんだよ!』

 結局、先に根負けしたのは僕だった。クロトの沈黙に耐えかねた僕はいつの間にか大声で怒鳴っていた。

 まあ、これはしょうがないだろう。ここまで(かたく)なに無視され続ければ昨今のキレやすい若者じゃなくとも我慢できない。

「うるせぇんだよ、ボケ! 俺は今疲れているからさっさと寝たいんだ!」

 だが、クロトはそこで急にベッドから起き上がると、あろうことか僕が寄生している携帯を思いっきり壁に投げつけた。自分の携帯だということも気にせず、それはもう思いっ切り。

 幸い携帯はソフトケースに入っていたおかげで壊れはしなかったものの、正直クロトに逆ギレされるとは思わなかった......というかここまでしなくてもいい気がする。

 そりゃ、散々鬱陶しいことをしたのは僕なのだが、何でもかんでも暴力で解決するのは悲しいことだ。きっとこういう野蛮な奴がいるから世界から戦争がなくならないのだとしみじみ痛感する。

 ただまあ、ようやくクロトが反応してくれたのだ。ここで僕が黙るわけにもいかない。

 相手がどんなにご機嫌斜めだろうと話しかけなければならない状況というのは人生において多々あるものだ。

『いや~、ごめん、ごめん。まさかそこまで怒ってるとは思わなかったんで。とりあえず話しを聞いてもらえる?』

「っち」

 そう思い直して譲歩したつもりで話しかけてみたのだが、クロトはやはり返事をしない。ただ煩わしそうに舌打ちをくれるだけだ。

『コラっ! 人に話しかけられたらまず元気よく「はい」って返事でしょう。幼稚園の先生に習わなかったの?』

 相変わらず不機嫌そうなので、おどけたお母さん口調で気を紛らわそうと僕はそう言ってみた。

 しかし、それはどうやら逆効果のようだった。

 眉間に深い皺を穿(うが)ったクロトは、今度は椅子を掴み携帯を叩き壊そうと無言のまま大きく振り上げてきたのだ。

『わぁーーーー! ごめんなさい、ごめんなさい。もう調子にのったこと言いません。だから携帯を壊すのだけは勘弁してください』

 僕が謝罪すると、そこで心優しい僕のご主人様は怒りを堪えてくださったようで、未だに怖い顔をしたままだがなんとか携帯の破壊だけは踏み止まってくれた。

『あ、あの。喋ってもよろしいでしょうか?』

 恐る恐る僕がそう尋ねるとクロトは僕の姿が映し出されている、床に落ちた携帯の液晶画面を睨みながらくっと顎を一度だけしゃくって続きを促した。

 本当、僕は素晴らしい主に恵まれた幸せ者です(これは皮肉だ)。

『で、ではまず。僕が何ものかはご存知で?』

 瞬時にクロトは一度だけ首を振る。

『ないですよねぇ』

 まあ、当然だ。今クロトは携帯の画面に黒一色で人型のシルエットをデフォルメしたキャラクターを目にしているだけだ。それが僕の容姿なのだが、当事者のクロトからすればそんなのを見たって、単にどこかのパソコンオタクが無駄に手の込んだ性質(たち)の悪いウィルスでも作って、それが自分の携帯に感染したとしか思わないだろう。

 だから、それを順序立てて一から説明しようと口を開こうとしたのだが。

「だが、まあ、察しはついている。お前がさっきコヨイの話に出ていた〈因子〉なんだろ?」

 さすがだった。腐ってもやはりこの男は屍黒斗だった。

 恐らくコヨイから聞いた話と彼女が20に話しかけ、それに20が返事していたことから推測したのだろうが、たったそれだけの情報で僕の存在を言い当てたのは驚きだ。思わず嬉しくなってしまう。

『ニヒヒヒヒ、相変わらずの慧眼(けいがん)には脱帽(だつぼう)してしまうよ。ご明察の通り僕は〈因子〉で、名は0(ゼロ)』

「それで、その〈因子〉が俺になんの用だ?」

 ただ、そんな僕の称賛にもクロトは相変わらず眉一つ動かさない素っ気ない態度で、ただ先を促してくるだけだ。

『いや、その(げん)には少し訂正が必要だよ。用があるのは僕じゃない。君の方だよ』

「俺が、お前に?」

 だが、その意味深な僕の言葉にはクロトも怪訝そうな顔を浮かべていた。どうやらようやく僕に対して興味を抱いてくれたようだ。

『そう、君は覚えていないだろうけど、君は僕の主だった。多くの〈理外者〉達が欠陥品と罵る僕を唯一使いこなし、色んな敵を排除してきた。そんな中で君は僕を使ってある望みを叶えようとする途中だったんだよ』

 それはクロトにとって最も大切な情報。知っておかなければならない事実。それが彼にとって全てだと言っても過言ではないほどの。

 だが、クロトは僕の話に対してこいつは何を言っているんだと訝しむような、疑っているような視線を向けてくるだけで何も言わなかった。

 まあ、そうだろう。それもわかっていたことだ。

 僕のような存在もあやふやで、どこの馬の骨ともわからない奴の言葉を疑り深いクロトが鵜呑(うの)みにするはずなんてないことは、彼自身もわかっていたことだ。

『そんな顔するなよ。わかっていても、信用されていないって事実を改めて突きつけられるのは何気にショックなんだかさ。君は疑り深い。そんな君が、言葉だけで信用しないのも筋書通りだ。だから無理に理解は求めないよ』

 だから、僕は別に無理に信じてもらおうと躍起(やっき)になったりはしない。大人しくあっさり引き下がる。

 だってそうした方が気になるものだろう。まあ、これも結局は割り振られた演目の一つなんだけど。

「なんだ、随分あっさり諦めるんだな。だったらさっさと消え失せろ」

 おおっと、ここで向こうもあっさり興味を失くすなんて事態は予定外だ。

 さすがは捻くれ者のクロトだと、若干感心してしまいそうになる。だが、それはマズイ。非常にマズイ。

『ちょ、ちょっと待ってよ。なんだよ、もう少し食いついてくれてもいいだろ?』

 こういうアドリブを利かせなくてはならない状況は苦手だった。だから僕は目に見えて焦りを露呈(ろてい)してしまう。

「だったら、まどろっこしい遠回りな物言いはやめることだな。見ていて苛々(いらいら)する」

 だが、クロトは忌々しげに僕を見下ろすと冷たくそう吐き捨ててくる。

 なるほど、つまり僕の魂胆(こんたん)は初めから全てクロトに見透かされていたわけだ。

 忠実に言いつけを実行しようと頑張ってはいたけど。こういう風に不得手なくせに、無理して下手くそな駆け引きに興じる必要はなかったようだ。

 全く、空っぽだろうと日進月歩で成長するところは成長しているってことか。だったら話しは早い。

『そうか、じゃあ単刀直入に言わせてもらうよ。僕は君にあるモノを手に入れてもらい、それを起動してもらいたいんだ。別に入手することも、起動することも、これといって難しいことは一切ない。その一連の作業をしてもらえれば、君は僕が言っていることが全部理解できるし、僕としても君に信じてもらえないであろうことを延々と説明するなんて不毛なことをせずにすむ。どう? 簡潔かつ明瞭(めいりょう)な話だろ』

「それを俺がして何かメリットがあるのか?」

 ただ、それでもやはりクロトは中々首を縦には振ってくれなかった。

『う~ん、そればっかりは実行してもらってからじゃないと理解してもらえないよ。今の僕の状況で、君にこの場で提示できるメリットなんて放課後の時みたいにチェスで一戦交えるくらいだからね』

「ほお、あれはお前だったのか?」

 だからダメもとでどうでもいいことを口にしてみたのだが、それが以外にも功をそうした。

『まあね。過去の対戦データとかプロの対局データとかをコピーしたり学習したりと、色々チート紛いなことができるからね。この携帯を使ってやるゲームに関しては少なくとも、君を退屈させないことは保証できるかな』

「ふん、まあいいだろ。その話のってやるよ。お前が言っていることが事実なら、俺は既に〈怨〉にまつわる裏側にどっぷりはまっていることになる。だったら何もわからない状況でいるのは危険だろうし、それで全ての不可解な点に答えが出るならやってみる価値はある」

 まあ、一から十まで全部クロトに関する事柄なのだが、何はともあれその返事は僕にとってこの上ない吉報だった。

「それで、その手に入れて欲しいモノっていうのはなんだ? どこにある?」

『まあ、待ってよ。それを今取りにいくとちょっと面倒なことになるんだ。だから、タイミングを見計らって改めて僕からお願いするよ』

「はぁ? そういう欝陶しい真似をしてくるなら断るぞ」

『そ、そんなこと言わないでよ。予定では明日か、明後日には条件が揃う。そのくらい待ってくれてもいいだろ?』

「......まあ、いいだろう。一週間だけ猶予(ゆうよ)をやる。ただし、それ以上は待たないからな」

 一瞬、ヒヤッとするようなことを言われたが、なんとか思い止まってくれたことに僕は胸を撫で下ろした。

 相変わらず自分勝手で気難しい主だが。まあ、それでも意外に優しい一面もあったりする。

 そう、優しい一面。それは(はた)から見れば、ただ凶悪で、悪辣(あくらつ)なだけに見えてしまうかもしれない。

 だが、僕は彼のそんな部分に心底惚()れている。だから、こうしてなんだかんだ文句を垂れながらも彼の傍らに居続けているのだ。


 翌朝、クロトの寝覚めは酷かった。

 ベッドから起き上がるなりクロトは強面(こわもて)閻魔(えんま)大王でもチビってしまいそうなほど血走った目で僕を睨みつけると、そのまま携帯を掴んで寝室から出る。

 そして、トイレに駆け込むと、僕の収まった携帯を便器に投げ込もうとしたのだ。

 便器の排水溝が恐ろしく見えてしまうなんて初めての経験だった。

 綺麗なものから汚いものまで見境なしに吸い込む穴はまるでブラックホールで、僕にとっては三途の河を垣間見るよりもおぞましい光景だ。

 ちなみに、クロトが怒った原因はというと、どうやら僕が気を利かせて目覚ましのつもりで鳴らした音がマズかったらしい。

 昨日あんなに嬉しそうだったから喜ぶと思って朝一番から近隣のご迷惑も顧みず、大音量でAVの音声をかけてやったのだが、どうやらお気に召さなかったらしい。

「せめてもの情けだ。最後に言い残しておくことは?」

『だ、だったら、田舎に隠居したお袋に産んでくれてありがとうって』

「そうか。まあ、下水道がそこまで繋がっているといいな」

 無情にもクロトはそう言い放つとあっさりと携帯を放す。

『ええーー! ちょ、ちょっと待って。絶対そんなところまでは繋がってないから。ってか、ちょ、う、うわーー!』

 幸い、携帯は便器の中に落ちはするがまだセーフだった。まだ便器の上でそこから水の溜まっている排水溝へは流されていない。

 だがそこで、クロトは何を思ったのか洗浄ボタンに指を伸ばす。それもよりにもよって大の方だ。

 さすがにこれを喰らうと、いくら防水性の携帯でも生還できる見込みは0だ。

『あ、あのクロト様。それだけはどうかご勘弁して頂けないでしょうか。気を回したつもりだったんです。ポンコツなりに快適な目覚めを提供しようと。で、ですから情状(じょうじょう)酌量(しゃくりょう)の余地ありとして、今回は何とぞご容赦を』

「ふん、だったら誠意ってものを見せてみろ。人に許してもらうためには何より真心を込めた誠意が大事だって、お前も田舎のお袋さんから習っただろう?」

 いやいや、そんなこと言われたって、たかが〈因子〉の僕にどうしろと? 実体も持ち合わせていない僕にできることなんて限られている。それこそポケットのないドラえもんよりも役立たずだ。第一、当然ながら僕にはお袋さんなんていないんですけど。

 内心そんな愚痴を漏らしてしまうが声には出さない、出せる雰囲気ではなかった。

『あ、あの。僕は何をすれば許してもらえるでしょうか?』

「はぁ? 誠意といったらコレしかないだろうが。他に何がある」

 窺うようにビクビクしながら質問してみると、クロトは相変わらず冷徹な無表情で親指と人差し指で輪っかを作った。

 本当、夢も希望もないな。当然のように誠意=(イコール)金ってどれだけ貧相でドス黒い発想しか持ち合わせていないんだよ。

『いや、金と言われても。外に出ることもできないのに一体どうやって?』

「お前はバカか? 銀行にハッキングして俺の口座を改竄(かいざん)するとか、悪徳詐欺(さぎ)サイトを運営して荒稼ぎするとか、やりようはいくらでもあるだろうが」

『いや、確かに僕はクロトの携帯の中にいて、ウィルスまがいなことも散々やってきたからそんな風に誤解されても無理はないけど。出られないっていうのは物理的だけじゃなくて、データとしてもってことなんだ。僕達〈因子〉は寄生している端末本体は自由に操作できるけど、他は基本的に別の〈因子〉がいる端末を除いて行き来することはできないんだよ。できることなんて精々覗きくらいのものさ』

「っち、この役立たずが」

 僕の救いがたい無能っぷりを理解すると、クロトはまるでゴミ(くず)を見るような冷めた眼差しで吐き捨てた。

「はぁ。バカらしい。次似たような真似をしたらスクラップにするからな」

 そして、今度は疲れたようなため息をこぼし、ボタンから手を離してトイレから出て行ってくれた。どうやら怒りが臨界点を越えて怒るのも面倒になったようだ。

 何はともあれ、僕は首の皮一枚のところでどうにか助かることができた。

 その後しばらく、誰もいない便器の上で放置プレイされてしまうことを除けば......


『あっ、そうそう。秘密主義者のクロトには言うまでもないことかもしれないけど僕のことは誰にも喋っちゃダメだよ』

 登校途中、クロトが時間を確認しようと携帯を取り出した際、僕は思い出したように釘を刺しておいた。

 ちなみに、あの後クロトは結局僕を回収して一生懸命携帯をタオルで拭いていた。

 まあ、携帯は現代社会においては必需品の一つだからどれだけ不本意だろうとそうせざるをえないのだが、自分でやっておきながら汚れを気にして一生懸命携帯を磨くクロトの様は少し滑稽に映った。

 もっとも、僕に対してはやはり今朝方のことが尾を引いているためか、話しかけても基本無視。声を聞くのも欝陶しいのか、マナーモードにまでされてしまう。

 まあ、そんなことしたって勝手に解除できるから無駄だけどね。

 ただ、そうして無視されることは別に構わないが、これだけは失念されては困る。

 ここで僕が再起動していることが外部に、特にビショップの連中に知られることだけは避けなければならない。

「だったらこんな道端で喋りかけてくるな。黙っていろ」

 憮然(ぶぜん)とした表情のままもっともらしい指摘をされて、一瞬言葉が詰まりそうになってしまう。こういう揚げ足を取る才能は一級品だ。ただ、それでも実際本当に理解しているのかどうか怪しい以上、黙るわけにもいかない。

『いや、そうなんだけど。これだけはどうしても肝に銘じておいてもらわないと困ることだから』

「なんだ? ムカつくお前がそんなに困ってくれるのなら余計に言いふらしたくなるな」

『いや、だからそれは本当にマズいんだって。それに僕以上に君がマズイことになる』

「ふん、まるで主人想いの従者みたいな口振りだな」

 いや、実際そのつもりなんだけど、どうせ信じてはもらえないんだろうな。

 クロトの嫌味を聞いて僕は内心そんな愚痴をこぼすが、当然口にはしないで聞き流した。まあ、実際僕がいらんことしいなのは紛れもない事実だし。

「安心しろ。自分の置かれている状況くらいある程度は理解している。最初から誰かに喋るつもりはない。特にサクヤにはな」

 だが、僕がそうやって一人でいじけていると、クロトは不意にそんなことを呟きながらニヤリと訳知り顔で笑ってみせてくれた。

 やはり、わざわざ釘を刺すまでもなかったようだ。

 彼はちゃんと理解してくれている。昨日のあの状況でコヨイが助けにきたことが偶然でなく、自分が見張られていた可能性をちゃんと察してくれている。

 だったら、僕も奴らに悟られないようにただ黙っておくことにしよう。着々と準備が整うのを待ちながら、今はクロトの日常をもう少しだけ傍観させてもらうとしよう。

 そう考えて、僕は携帯の深奥(しんおう)へと身を潜めた。

 

 クロトが教室に着いた時、窓の外からは夏の風物詩とも言える(せみ)の鳴き声が響いていた。

 教室内には人気はなく、クロト以外の生徒の姿は見受けられない。

 今日はクロト専属運転手である教頭が用事で迎えにこられないことに加え、僕が無駄に早く起こしてしまったせいでどうやら普段よりも少し早めに到着してしまったらしい。

 ただ、朝からゴタゴタした上に電車と徒歩で登校したためクロトは既に疲れたように机に項垂(うなだ)れていた。

「あれ? クロト。今日は珍しく早いですね」

 そうして少しの間、蝉の声を(わずら)わしそうに聞き入っていると教室の扉が開いてサクヤが入ってきた。

「そういうお前も随分お早い到着じゃないか」

「ええ、まあ。でも、私はいつもだいたいこれくらいの時間には登校してますから」

 死んだ魚のように覇気のない顔でクロトがサクヤに訊き返すと、サクヤは、クロトとは対照的に爽やかな顔で答えてくる。

 さすがは優等生。どこかの(なま)け者と違って平素から時間に余裕を持って登校してくるらしい。爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい気分だ。

「へぇ、それは毎朝ご苦労なことだ。こんな暑いだけの教室に早くくるなんて俺には絶対真似できないな」

「でも、今日は早くきてるじゃないですか?」

「ああ、これは朝色々あって早く目が覚めたからな。今日は教頭も使えないってことで早めに家を出たんだよ」

「あはは、まあクロトのことだからそんな理由じゃないかとは思いました」

 そんなクロトの返答にサクヤは苦笑いを浮かべる。それにクロトも適当な苦笑を返していた。

 なんとも仄々(ほのぼの)とした光景。お互い昨日からのゴタゴタなんてまるで窺わせない実に自然な振る舞いだった。

「ところで、一つ確認しておきたいんだが昨日の一件について俺は詳しく説明してもらえるのか?」

 だが、そこでクロトが何気なく昨日のことを確認するとサクヤは急に緊張した面持(おもも)ちになった。

 まるで敵を目の前にしているかのようなそんな表情。

 無論、クロト自身こんな質問をすればサクヤが警戒することは重々わかっていた。加えて、実際のところクロトは昨日の一件について詳しい事情を訊きたかったわけでもなかった。

 仮に自分が裏側に関わっていようといまいと、それについてはいずれはっきりするからだ。

 しかし、昨日コヨイが詳しい説明を省いて追い立てるようにクロトを帰らせている以上、ここで何も訊かないのは不自然過ぎる。だからクロトはあえて質問したのだ。

「ど、どうしてですか? クロトは何故昨日のことを気にするんです?」

「いや、昨日あれだけ色々あったのに碌に説明もしてもらえなかったんだぞ。気になるのは当然だろ」

 その質問にサクヤはクロトの胸中を探るように視線をすぼめるが、クロトは平然とキョトンとした顔を浮かべてみせる。それはまるで、何の目論見ないと言外に訴えるようなそんな自然な態度だ。

「それは単に純粋な好奇心からということですか? それとも他に意図があっての質問ですか?」

 だが、サクヤはさらに猜疑心(さいぎしん)を込めるように鋭い視線でクロトを見据える。

「どういう意味だ?」

 そして、その表情にクロトは眉をひそめて尋ね返す。

 互いに腹の探り合い。それはクロトからすれば少し意外な展開だったのかもしれない。

「いえ、確かに気になるのは当然だと思います。あんな恐ろしい思いをした直後ですから。でも、それは逆に言えば、あれだけ危険な体験をしたのならそのことを考えたくない、早く忘れたい。そう考えるのが普通だとも考えられますよね?」

「それはつまり好奇心からの質問なら聞かない方がいいっていう親切な警告か? それとも俺には他意があると勘繰(かんぐ)っているのか?」

「それはクロトの答え次第です。そもそもクロトはどうして〈怨〉にまつわる裏側の情報を知りたいと思ったんですか? 叶えたい願いがあるからですか、それとも何か思い出したからですか?」

 真剣な表情でまるで睨むようにサクヤは詰問(きつもん)してくる。

 疑問に疑問を返すことで延々と続く問答。

 だが、この問いがサクヤの口から(つむ)がれた瞬間、クロトは内心ほくそ笑んでいたことだろう。

 そう、探り合いはこの時点でクロトの勝ちだった。何故ならサクヤはクロトの目的を()き違えているからだ。

 元からクロトは何も思い出してなどいない。加えて欲に駆られたわけでもない。単に質問の意図は自然さの演出に過ぎないのだから。

 嘘を証明することは途方もなく手間のかかる作業だが、事実を証明することはさして難しいことではない。

 だから、クロトは予め用意していた答えを口にする。何の嘘も交えない、百パーセント正直な意見を口にする。

「ふぅ、なんか面倒になってきたな。サクヤがそこまで渋るなら、聞くのは遠慮しておくよ」

「っえ! き、聞かないんですか?」

 その瞬間、それまで漂っていた緊迫した雰囲気が一気に霧散する。

 そして、サクヤはまるで予想していなかったというような呆然とした表情で、少し声を上ずらせながら訊き返してきていた。

 まあ、サクヤからすれば肩透かしもいいところだ。多少マヌケな表情にもなるのもしかたないだろう。

「ああ、別にいい。元々訊こうかどうかは迷っていたことだし、サクヤの雰囲気を見ていれば相当やばいってことが伝わったからな」

「そ、そうですか。はい、そうですね。私もクロトはこの件には関わらない方がいいと思います。だから、昨日のことは忘れてください」

「いや、人間の脳みそはそんな都合よくできてないだろ。まあ、でも極力考えないようには努めるよ」

 苦笑を浮かべながらクロトが軽口を返すとサクヤは安堵(あんど)と呆れが入り混じったように肩を(すく)めながら柔和な笑みを浮かべる。

 そんなサクヤの反応にクロトはまた微苦笑を返すと、今度は窓の外へ視線を向けるのだ。

 そして、一人物思いに(ふけ)る。

 頭の中にあるのはサクヤとのやり取りで確信に至った一つの事実。

 それは僕の話が「真実かもしれない」から「真実だ」と思える確信だ。

 サクヤが自分を監視していることは明らかで、それに加え、昨日のコヨイとさっきのサクヤの「思い出す」という言葉。

 それはクロトにとって己に瑕疵(かし)が存在することの証明として充分だった。

「なるほどな。普段の生活の中で違和感を覚えるのも当然だったってことか......しかし、そのことにあんなガラクタが現れるまで気づかなかったというのは我ながら無様な話だ」

 そうクロトは一人自嘲的に呟く。

 傍らで黙々と鞄から教科書を取り出し机にしまうサクヤに聞こえないように。ニヒルな笑みを浮かべながら小さく密やかに。

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