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第一章 偽りの幕引き

 学生達にとって憂鬱(ゆううつ)な期末テストを控えた七月の初旬。

 ほんの二ヶ月前までは冬の残り香を(うかが)わせる肌寒さが残っていたのに、一週間後には突如灼熱の猛暑が訪れ、それからは延々とアスファルトでBBQ(バーベキュー)にでもされかねない()だる暑さが続いていた。

 地球温暖化はどこにいったと(うそぶ)いていた直後の、この連日連夜の熱帯地獄。体の弱いおじいちゃんおばあちゃんは、暑さで軽く黄泉の国への扉でも開いてしまうのではないかと、そこはかとなく心配になってしまう。

 勿論、暑さに参るのは何も高齢者だけじゃない。年齢に関係なく暑さでヘバっている奴なんて、そこら辺に吐いて捨てるほどいる。

 (げん)にこの界隈にある高校の通学路上で夏制服に身を包みゾロゾロと列をなす学生の群れが、珍しく物静かになっているのがその代表例だ。

 こいつらが平常運転の時は、それはもうバッファローの群れのように若さにかまけたしょうもない雑談でかしましいものなのだが、今はその(ほとん)どがまるでゾンビの行軍のような有様だった。

 まあ、騒音を()き散らす公害のようなガキ共が大人しくなるのなら、バカになってしまったお天道様(てんとさま)に一言くらいは礼を言ってもいいかもしれない。

 ただ、そうして汗だくになりながらダラダラ歩く死霊達の中で、一人だけ飄々(ひょうひょう)としている奴がいたりする。

 別にそいつは沖縄出身だから「暑さなんてナンクルナイサー」というわけじゃない。

 むしろ、こんな炎天下では学校なんてサボってお家でシーサーになっている(たぐい)の人間のはずなのだ。

 じゃあ、なんでそんな奴が体育会系の連中でさえヘバってしまう苛酷(かこく)な環境下で平然としていられるかというと、答えは単純明快。

 他の生徒諸君が気怠(けだる)いながらも己が体に(むち)を打ちながらエッチラオッチラ歩いているさなか、そいつだけは生徒達の脇を通り抜ける車中からその様子を悠然と眺めているからだ。

 そりゃ、車の中なら暑さや疲れとは無縁だろう。おまけに乗っている車がそこそこ有名な高級車で、座り心地のいい皮張りシートに踏ん反り返っていればなおさらだ。

 先に言っておくが、そいつは運転手を雇って送り迎えをさせられるようなどこぞのお坊ちゃまなどではない。

 それどころか、むしろ真逆でタイムセールや特売にアンテナを張り巡らせて倹約に(いそ)しむ一般庶民だ。

 それがこうして快適なVIP登校ができているのはひとえに車の所有者が彼に施す善意の賜物(たまもの)だとも言える。まあ、あくまで体裁だけの話なんだが......

「いや~、かなり遠回りになってしまうのにわざわざ家まで迎えに来て頂いて本当、申し訳ないです」

 車内で右から左に流れる学生達を窓越しに一瞥(いちべつ)しながら、そいつは運転手に向かって礼を述べていた。

 表情だけなら至って真摯(しんし)な気持ちで口にしているようにも見えなくはないが、騙されてはいけない。一見しただけではわかりにくいが、そいつの目には感謝の『か』の字も謝意が含まれていなかった。

「いやいや、何を言ってるんですかクロト君。私としてはこのくらいのことはさせて頂かないとねぇ」

 だが、ポーズでしかないお礼に、頭の禿()げ散らかった初老の運転手は気を悪くするどころか柔和な笑みを浮かべて()びるような猫撫で声で答えてくる。

「アハハハハ、本当いつも助かりますよ。教頭先生」

 クロトと呼ばれたその男子生徒は教頭のそんな言葉に、相変わらず上っ面だけの営業スマイルで感情の伴わない謝辞を繰り返し、退屈そうに窓から()うように歩く学生達を眺めていた。

 学校では上から二番か三番の重役であり、普段は職員室で偉そうにしている中年親父が年端(としは)もいかないガキにゴマをすり、足蹴にされている構図というのは中々にシュールな光景だ。

 さて、この明らかに異常な状況について説明する前に、まず教頭をパシリにしている不遜(ふそん)なこのガキについて紹介しておこう。

 彼のフルネームは(しかばね)黒斗(くろと)。一応全国的にもそれなりの知名度で、そこそこ偏差値の高い私立聖蓮(せいれん)高校に今年入学した一年生だ。

 運動神経は中の下。中肉中背で、成績は決して(かんば)しいものではなく、いつも赤点ギリギリで辛うじて補習は逃れられるくらいの低空飛行を維持している。

 ただクロトは、成績は悪くてもバカというわけではない。むしろ頭はキレる方で、恐らく純粋な賢さという意味なら他の秀才達よりも抜きん出ているだろう。

 それなのにクロトがいつも赤点スレスレをさ迷っているのは極力勉強せず、なおかつ追試や補習といった面倒事は避けたいという極めて怠惰(たいだ)な理由に起因している。

 要するに、頭は働くがやる気がない(なま)け者。クロトという個人の認識はそれで大よそ正しい。

 まあ、性格がかなり()じ曲がっていて腹黒いという点だけは補足しておかなければならないが......

 こうして教頭を(かしず)かせてコキ使っているのもその実例の一つだ。ことの発端は二ヶ月ほど前にまで(さかのぼ)る。

 高校入学という一つの節目を迎え、新しい生活にも馴染み始めたある日のことだ。クロトは登校途中の電車の中で不毛の荒野のような教頭の頭を見かけた。

 普段、ご自慢の愛車に(また)がり悠々重役出勤をかます教頭がこの時間帯に電車を使っていることを(いぶか)しむのは、まあ、当然かもしれない。

 それでも、普通はそこで小首を(かし)げる程度で他のことに考えが移るものだ。誰だって自分の学校の教頭が同じ電車に乗っていることに一々関心を寄せたりはしないものだからな。

 だが、残念ながら見られた相手が悪かった。

 クロトはそこで不意にニヒルな笑みを浮かべると、制服の内ポケットをまさぐって携帯を取り出したのだ。そして、朝の人混みで賑わう電車の中を教頭に気づかれないようにそっと近づいていった。

 それから数分後、電車が学校最寄駅のホームに滑り込むと教頭は人波に紛れるように下車し、(いさ)み足でトイレへと駆け込んでいった。

 当然、クロトもそんな不審な教頭の後を追跡し、入り口の陰からこっそり中の様子を窺う。

「ムッフフフフフフフフ。全く近頃の若い者はこんな破廉恥(はれんち)な下着ばかりつけおって。本当にけしからん。けしからんぞーーー♪」

 人気のないトイレの中で教頭は携帯のディスプレイに(かじ)りつきながら下卑た笑みを浮かべて興奮気味に(うな)っていた。画面に映っていたのは撮れたて新鮮のパンティー画像。

 それを小躍りしそうな勢いで鼻息を荒げて食い入るように凝視する教頭の姿は、聖職者というよりも性食者で、普段学校で振り撒いている威厳は完全に霧散してしまっていた。

 うん、見ていてとても切なくなる光景だ。良い子は絶対にこんな(ろく)でもない大人にならないように気をつけて欲しい。

 そんなお楽しみ中の教頭を陰からしばらく観察していたクロトだが、その光景があまりにも痛々しく見るに堪えなかったのか、小さく嘆息を漏らすと足音を立てないように中に入っていった。

「ムフフ♪ これは一度ウチの学校でも厳重に注意しておかなくてはならんな。これも教師としての責務というものだ」

「へぇ、じゃあそんな学生を指導すべき人が間違った行動をしていたら誰に正してもらうべきなんですか? 校長先生? それとも教育委員会? あっ、こういう場合警察にお願いするっていうのも一つの選択肢ですかね」

「なっ! 誰だ」

 教頭は突然現れたクロトに血相を変えて振り返った。

「いやいや、驚きましたよ。教頭先生が珍しく電車を使っていらっしゃると思ったら、まさかいい年して女子高生の下着を盗撮だなんて。正直あまりいい趣味とは言えませんよねぇ」

「な、なんのことかね? 言っている意味がわからん。着ている制服からすると君はウチの生徒のようだが。い、いきなり現れてその物言いは失礼だろう!」

 だが、教頭は一瞬驚愕を(あらわ)にしたもののすぐに落ち着いた表情を取り(つくろ)い、逆に声を荒げて非難の視線をクロトに向けてきた。

 往生際が悪いこと(はなは)だしい。

「おやおや、犯罪者がまさかの逆ギレですか?」

 教頭の強硬な姿勢にクロトは大仰に肩を(すく)めてみせる。

「だから、さっきからなんなんだね君は! 何を根拠に私を犯罪者呼ばわりしている。名誉毀損(きそん)で訴えるぞ!」

「やれやれ、無駄に知識と地位を得た老獪(ろうかい)というのはどうしてこうも見苦しいものなんですかねぇ。もう少し自分の立場というものを(わきま)えたらどうです?」

 どうせ学生が考えなしに青臭い正義感で突っ走っているだけ。物証など何も持っていない。恐らく教頭はそう考えていたのだろう。だからこそ、高圧的な態度でクロトを言い負かそうなんて暴挙に出てしまった。

 その(いさぎ)の悪さに辟易(へきえき)したクロトは大きくため息を吐くと、(わずら)わしそうに自分のスマートフォンの液晶画面を教頭の眼前に掲げてみせる。

 そこには携帯電話を女子高生のスカートの裾に忍ばす教頭の姿がバッチリ納まっていた。

「うっ、そ、それは.........」

 瞬間、それまで虚勢を張っていた教頭の顔が一気に青ざめて硬直した。さすがに目撃証言に加え、物証まで揃えば言い逃れなどできるはずもない。

「た、頼む。見逃してくれ。ちょっと()がさしただけなんだ」

 ようやく自分の置かれている状況を理解したのか、教頭は血の気の引いた顔でクロトに懇願(こんがん)し始める。

「おや? 随分頭()が高いですね。それになんですか、その上からな物言いは。人にモノを頼む時はどんな態度をとるかお母さんに習いませんでした? それともまだ自分の立場を理解していないんですかねぇ」

 だが、その態度が気に入らないクロトは僅かに眉を跳ね上ると、冷徹な笑みを浮かべて携帯電話の送信ボタンを容赦なくタッチしようとする。

「も、申し訳ありません。ど、どうかこのことは御内密にお願いします。私にできることならなんでもさせて頂きますから」

 直後、教頭は泣きそうな声で否応なしに汚い便所の床に膝を着いて、頭をこすりつけていた。

「フハハハハハハ。そうです、それでいいんですよ。安心してください。別に俺もあなたをどうこうしたいとか、そんなつもりはないんで」

 そして、クロトはそんな自尊心をかなぐり捨て、媚びへつらう教頭の土下座を見下ろしながら悦に浸った下品な高笑いをあげた。

 人間なんて簡単に屈服させられるのだと心底世界をバカにしたような笑い声は駅のトイレの中でしばらく響き続けていたのだった。

 と、こういった経緯を経て、教頭はクロトのコマ使いへと成り下がってしまったわけだ。

以来教頭はこうして日夜クロトのご機嫌取りに精を出すはめになっている。

 唯一の救いといえるのは、クロトが度を越した理不尽な命令や金銭の要求を一切しないことくらいだろう。

 もっともクロトがあえてそういった要求を避けていることは言うまでもない。

 やり過ぎればいずれ憎悪を抱かれ、厄介事を招いてしまう。(うら)みつらみとはそれだけ恐ろしいものだとクロトはちゃんとわかっているのだ。

 だから、あくまで相手が自主的に行動するように仕向ける。弱みを握られたわりに、この程度のことをやればすましてくれるのかと、むしろクロトに感謝の念を抱いてしまうように。

 ここまで(いちじる)しく性格の(ゆが)んだ鬼畜(きちく)っぷりを見せつけられるとある意味清々しい。

 まあ、それは同時に人として大きな瑕疵(かし)があるとも言えることなんだが。ただ、それでも怨みの脅威について理解している点だけは評価してもいいのかもしれない。

 何はともあれ、こうしていかにクロトがダメ人間かを長々と説明している間に車は学校の駐車場へと到着していた。


「あ、暑ちぃ~」

 教室に入って自分の席に着いたクロトは机に突っ伏して(うめ)き声をあげていた。

 登校中は教頭の快適なベンツに乗っていたおかげで暑さなど()でもなかったのだが、校舎に入った途端、今が真夏であることを嫌でも思い出さされたようだ。

「うぅ~、なんでウチの学校にはエアコンが完備されてないんだ。こんな劣悪な環境に人を押し込めて勉強させるなんて一種の虐待だろ」

 加えて、このクソ暑い中部活の朝練に精を出していたクラスメイト達が自分の席の近くに陣取って、何やら「二組の萩原(はぎわら)の胸がデカイ」だの「水泳部の斉藤(さいとう)の水着姿はエロい」だのと下世話な雑談に華を咲かせているせいで僅かに汗臭い男臭が漂い、クロトはますます顔をしかめてしまう。

「クソが、ここはアウシュビッツか。ガス室なんて学校には不要だろうが! あぁ~、こんな蒸し風呂状態がずっと続くくらいなら、多少教頭の怨みをかってでも脅迫して冷房を設置させるべきかなぁ」

「よく言いますよ。一人だけ教頭先生の車で登校しておいて」

 そうして(とろ)けたバターのようにだらしなく一人ブツブツ愚痴を漏らしていると、不意に不機嫌そうな声がすぐ隣から返ってくる。

 その声にクロトがダルそうに顔をあげると、そこには一人の女子生徒が(たたず)んでいた。

 ほんの少しだけ幼さの残る美しく整った顔立ちには、特徴的な赤縁の眼鏡。長く(つや)やかな黒髪はポニーテールに()わえられ、開け放たれた窓から入る風にのってフローラルなシャンプーの香りが漂い、クロトの鼻孔を洗浄してくれる。

 ただ、その少女はどうやら現在絶賛ご立腹(りっぷく)中のご様子で、愛らしい眉根を鋭角に吊り上げ、細い華奢(きゃしゃ)な腰に両手をそえて仁王(におう)()ちしていた。

「なんだ、サクヤか。どうしたんだ? そんなに目くじら立てて。あんまり騒がれると俺の迷惑になるからほどほどにしてくれよ」

 しかし、クロトにとっては彼女の不機嫌な理由などさして興味もないのか、適当な応対だけすると再び顔を(うつむ)けてしまっていた。

「誰のせいだと思ってるんですか!」

 そんなクロトの態度が余計癇(かん)(さわ)ったのか、サクヤは大声でまくし立てるとクロトが寝そべっている机にバンと手をつく。

「私、以前に言いましたよね。先生方をコマ使いにするようなことはやめてくださいって。それなのにどうして今日もまた教頭先生の車で登校してきてるんですか!」

 そして、続けざまに耳元で怒声のようなきつい声音で口撃を浴びせられる。

「はぁ。そんな瑣末(さまつ)なことでいちいち大声を出さないでくれ。だいたいあれは教頭が自分からすすんで送ってくれるって言ったことだ。俺に言われても困る」

 だが、机を揺さぶられ強制的に顔をあげさせられても、クロトは相変わらず面倒臭さそうな顔で嘆息するだけだ。

 まあ、そもそもこの程度の一喝でクロトが反省するはずもないのだ。

「表向きはそうなんでしょうけど。でも、実際はどうせあなたのことだから教頭先生の痴漢現場でも目撃して、それをネタに揺すってるんでしょ!」

 鋭い、ほぼ八割方正解だった。

 これにはさすがにクロトも寝ぼけ眼を見開いてしまう。

「すごいなお前。超能力でも使えるのか?」

「茶化さないでください。普段の生活態度を見ていればクロトのやっていそうなことくらい、だいたい察しはつきます」

「そうか。だったらお前もいい加減理解してくれ。いくらありがたい説教をしてくれたって直らないものは直らないってな」

「それは、クロトに直す気がないだけの問題です!」

 そこで開き直ったように屁理屈(へりくつ)をこねてみたが、サクヤがそんなクロトの言い訳を容認してくれるはずもなく、再び怒鳴られてしまう。

 さすが、伊達(だて)に学級委員長なんて誰もが煙たがる役職を自ら立候補してなっただけもことはある。実直なほど真っ直ぐな正義感は容易に折れてはくれないようだ。

 ただ、そんな彼女の正義感もクロトにとっては迷惑以外の何物でもなく、目に見えてうんざりしている様子だった。

 クロトがこうしてサクヤからお叱りを受けるのは、いわば毎朝の恒例となっている。クラスの中でクロトはまるで爆発物のように周囲から距離を置かれているのにだ。

 まあ、入学して早々この近辺では有名な不良グループ全員を警察署の前で土下座させたとか、成績を(えさ)に女生徒にセクハラ三昧(ざんまい)していた体育教師を辞職に追い込んだなんて物騒な噂が飛び交えば、お近づきになりたがらないのは当然だろう。

 それなのに、クロトが何か良からぬことをしたと聞きつければサクヤだけは毎朝毎朝口うるさく(たしな)めてくるのだ。

 折角周囲から信頼と人気を(はく)しているのに、自ら嫌われ者の自分に関わろうとする物好き。それがクロトの中での二神(ふたがみ)咲夜(さくや)の認識だった。

「はぁ。というか前からずっと聞こうと思ってたんだが。サクヤはさぁ、なんで俺なんかにこうして構うんだ?」

 朝一からいつものようにこのままお説教が続くのは辛過ぎる。だから、どうにか話題を変える目的と、この際ついでに今まで不思議に思っていた疑問を解消しようという思惑から、クロトはそんな問いを口にしていた。

「な、なんです突然?」

「まあ、確かに今さらな質問ではあるかもしれないが。改めて考えてみるとやっぱりおかしいだろ」

「な、何がですか?」

「いや、だって自分で言うのもあれだけど。お前も俺がこれまでどんなことしてきたかは聞いているだろ? それでクラスの奴も怖がって俺を避けているわけだし」

「そう、みたいですね」

「そんな奴と話すのに時間を費やすのは不毛じゃないのか? それだったら将来金持ちになりそうな奴と今のうちから仲良くなって、未来のコネクション作りに奔走(ほんそう)した方がよほど有意義だと俺は思うが」

 クロトは至って大まじめなつもりで尋ねていた。

「はぁ。私としては、頭はいいはずなのに、時々正常かどうか疑わしい発言をするクロトの方がよほど不思議ですよ」

 しかし、質問を受けてサクヤは深々と嘆息して頭が痛いとでも言いたげに呆れ果ててしまう。

「あのですね。先に言っておきますけど、普通高校生はそんな打算にまみれた目的で友達を作ったりしません。それと私がこうしてクロトに小姑(こじゅうと)みたいにあれこれ注意するのは、みんなのクロトに対する誤解を解くためです」

「はぁ? 誤解?」

 続くサクヤの言葉はクロトの意表を突くものだった。それにクロトは思わず素っ頓狂(すっとんきょう)な声音が漏れてしまう。

 まあ、当然だ。クロトからすればサクヤの言う誤解なんて皆目(かいもく)見当もつかないのだから。

「そうです。噂のせいでみんな怖がっていますが、実際クロトはすごく優しい良い人だってことを知ってもらいたいんです。そのためにはまずクロトのその著しく歪んだ性格を矯正(きょうせい)しないと」

 しかし、サクヤはそんなクロトの反応など意にも介さず、そのまま暴走機関車のようにクロトに顔をグイグイ近づけて雄弁に語る。歯が浮きそうな恥ずかしい台詞(せりふ)を恥ずかしげもなく熱心に語る。

「いやいやいや、ちょっと待て。ストップ。なんなんだいきなり。誤解とかわけのわからんことを言い出したと思ったら、今度は大声で羞恥(しゅうち)責めかよ。あれか、これは新手の虐めか?」

 こういう右斜め四十五度を突く(はずかし)めには耐性がないのか、クロトは若干顔を紅潮させ、慌てて立ちあがってサクヤを制した。

「そんなわけないでしょ。大体わけがわからないなんて失敬ですよ。私、ちゃんと知ってるんですから。不良グループのことも、体育の田村先生のことも、困ってる人を助けるためにしたことだって」

「は、はぁ!? 何を勘違いしてるんだお前は!」

 真剣な表情のまま訴え続けるサクヤにクロトは少し気圧されてしまうが、そこで引くわけにもいかず、さらに赤らんだ顔で必死に全否定した。

「違うんですか?」

「あ、当たり前だ。俺が見ず知らずの誰かさんのために面倒なことをするわけがないだろうが」

「じゃあ訊きますけど、クロトは何のためにあんなことしたんですか?」

「それは、ふ、不良共は家の近くのコンビニを溜まり場にしててうるさかったからで。田村は授業中女子を視姦(しかん)する顔が不快だったからだ。そ、それだけだ」

 ただ、勢いよく否定したわりには、その言い分にはあまり説得力がなかった。

「はぁ。私はそういう素直じゃないところを直して欲しいんですけど。でも、そこまで言うなら今日はそういうことにしておいてあげます」

 相変わらずなクロトの(ひね)くれ具合にサクヤは大きく嘆息する。

 ただ、これ以上は何を言ってもしょうがない。そう判断したのかサクヤは渋々そこで折れると、それ以上は突っ込まずに自分の席に戻ろうと(きびす)を返した。

「あっ、でも一つ言わせてもらいますけど、男の人でツンデレっていうのはどうかと思いますよ。まあ、私はそんなに嫌いじゃありませんけど」

 だが、珍しくクロトの取り乱したところを見られてそれが少し面白かったのか、サクヤは席に戻る間際、妖艶で悪戯(いたずら)っぽい微笑を浮かべるとそんな一言を残していった。

「お、おい。誰がツンデレだ。というか、その間違った認識を勝手に自己完結したまま行くな!」

 去り行くサクヤの背中にクロトは当然抗議の声をあげたが、それが届くことはなかった。

 結果、クロトがその後いつもの説教を受ける以上に憂鬱な気分になってしまったことは言うまでもなかった。

 

 朝方、サクヤにからかわれるという多少イレギュラーな出来事はあったものの、クロトの一日の過ごし方にはなんら支障をきたすことはなかった。

 ホームルームの時間は机に肘をついて窓の外を呆然と眺めて過ごし。一、二限の授業は内申点など知ったことか言わんばかりに堂々と爆睡を決め込む。

 体育の田村の一件は生徒だけでなく教師陣にも伝播(でんぱ)しているため、当然それを注意しようなんて無謀な猛者(もさ)がいるはずもない。

 教師だって自分の御身(おんみ)がかわいいのは当たり前だ。たかが不良生徒を改心させるために自分の首を賭けるなんてわりに合わないことをするバカはいない。

 だから、クロトはそのまま誰からも注意を受けることなく三限、四限も怠惰(たいだ)に過ごして着々と授業時間を睡眠時間へと変換していった。

 そうして惰眠を(むさぼ)りながら昼休みを迎えると、クロトは突然冬眠から()めた熊のようにムクリと起きあがる。

 そして、そこから碌にカロリーも使っていないくせに無駄にエネルギーを補給しに向かうのだ。

 ここ聖蓮高校はそれなりに有名であるせいか生徒数がかなり多い。

 そのため、学校全体の敷地は必然的に広く、学生が昼食をとるための施設は学食に、購買、加えてカフェテリアと三ヶ所存在する。

 ただ、それだけ設備が充実していても昼休みには当然食堂もカフェも学生でごった返すことになり、そうなると騒々(そうぞう)しい場所があまり好きではないクロトが(おもむ)く先は、購買の一択だけになる。

 無論、購買にだって腹をすかせた学生が大量に群がっていることに変わりはないが、長時間留まらずにすむ点まだマシに思えるのだろう。

 しかし、今日に限っては他を選択するべきだったとクロトは後悔することになった。

「おい、そこの貴様」

 クロトが購買のある一階へ降りようと階段の踊場に差しかかった時だ。クロトは突然誰かに背後から荘厳(しょうごん)な声音で呼び止められてしまう。

 その声に聞き覚えがあったため、後階段の先の角さえ曲がれば購買に行けたことが余計に恨めしい。

「なんですか? 今少し急いでるんですけど」

 一瞬無視して行ってしまおうかと逡巡(しゅんじゅん)したが、相手が相手だけにあまり面倒事にしたくなかったクロトは、不承不承(ふしょうぶしょう)振り返って用件を尋ねた。

「そうか、それは難儀なことだな。だが、それは貴様の格好が招いた結果だ。自重(じちょう)しろ」

 だが、折角欝陶(うつとう)しいのを我慢して応対したというのに、返ってきたのは尊大な態度から吐き出される辛辣(しんらつ)な言葉だ。

 もし相手が普通の生徒か教師だったなら身の毛もよだつ裁きを下すところなのだろうが、残念ながらこの男にはそれも中々難しい。

 渡来(わたらい)(さだめ)。サービス業から製造業まで手広く事業展開する国内大手企業ワタライグループホールディングスの会長を父親に持つ、いわゆる御曹子。

 成績は至って優秀で、スポーツ万能に抜群のルックス。プライドが高く、高飛車(たかびしゃ)なところはあるがこれに加えて生徒会長なんて肩書まで持っているのだから、学校中の女子から熱い視線を向けられるのも(うなず)けることだった。

「別に校則に触れるような服装はしていないつもりですけど?」

 言うまでもないが、クロトはこのワタライのことが嫌いだ。超嫌いだ。

 別に、理由は女の子にモテモテなのが(ねた)ましいからではない。まあ、全く妬んでいないと言えば嘘になるのだろうがメインの理由は他にある。

「何を言っている。そのズボンからはみ出したシャツに、緩んだネクタイは立派な校則違反だ。今すぐ正せ」

 そう、クロトがワタライを嫌う一番の理由は、この異常なほどにルールや倫理といった規範(きはん)遵守(じゅんしゅ)し、それを他人にも強要するところだ。

 しかも、ワタライの後ろ盾には巨大企業経営者のダディーがいるから罠にはめて黙らすこともできない。

「はぁ。そのくらい勘弁してくださいよ。うちの学校はズボン、ブレザーに加えてシャツまで黒なんですよ。これくらい緩めてないと熱中症になりますよ」

 それでも、クロトはワタライの言いなりになるのは面白くなかった。

「そんなことは私が関知するところではない。貴様はただ黙ってそのダラけた服装を直せばいい」

 しかし、クロトの反論にワタライが耳を貸すはずもなく、あっさりと一蹴されてしまう。

 決まり事にうるさい点ではサクヤも似ているのだが、サクヤの場合は相手の気持ちを考えて時には融通(ゆうずう)を利かせてくれる。

 だが、目の前のワタライには相手のことを(おもんばか)るという気概は一切ない。

「はぁ。わかりましたよ」

 (はなは)だ不本意ではあったがそれ以上噛()みついても時間を浪費するだけなのは目に見えていた。

 何よりこうしてワタライと話しているだけで、周囲の女子が「きゃあ! ワタライさんが一年の危ない子に絡まれてる~」とか「ちょっとワタライさんに変なことしたらタダじゃおかないわよ~」とでも言いたげな攻撃的な視線を向けてくることがもううんざりだった。

 だから、クロトは仕方なく言われた通りにネクタイを()め、シャツをズボンに入れる。

 そして、服装を正すとワタライを睨みつけて。

「もう、行ってもよろしいですか?」

 と自分の不機嫌さを隠そうともしないで吐き捨てた。

「ああ、さっさと行け」

 だが、育ちのよろしい高貴なワタライ坊ちゃまは一々下賎(げせん)な人間が気分を害していても相変わらず気にも留めないらしく、最後の最後まで偉そうな姿勢を崩さなかった。

 クロトもそんな胸糞悪いワタライの顔をいつまでも見ていたくはなかったので、いつか辛酸を舐めさせてやると(ひそか)に報復を誓いながらさっさと購買へと向かった。

 

 クロトが目的地に到着した時、購買のレジ前には既に長蛇の列が出来上がっていた。

「っち、ワタライの欝陶しい足止めのせいで完全に後手に回った」

 そのガンダーラまで続いていそうな人垣を目にしてますますワタライのことが忌々しくなる。

「はぁ。この様子じゃもう碌な物買えそうにないよな」

 ただ、ここでさっきの不幸をダラダラ引きずっていたところで、現状が好転するはずもないことはクロトもわかっている。

 だから、一人諦(あきらめ)にも似た呟きを漏らし、我慢するしかないかと教室に踵を返そうとした。

 だが、その時ちょうど。

「あれ? 随分前に教室を出ていったのにクロトは今きたんですか?」

 手にプリントの(たば)を抱えながら、長い列の間を慎重に通り抜けてきたサクヤがキョトンとした表情で声をかけてきたのだ。どうやら先生に雑用を頼まれて職員室に行った帰りのようだった。

「ああ。くる途中に頭のお堅い生徒会長様に遭遇してな。シャツだ、ネクタイだとあれこれ色々クレームをつけられたからな」

「あぁ、なるほど。確かにそれだとこれくらいの時間になってしまいますね」

 苦々しい表情で事情を説明するとサクヤは気の毒そうな苦笑を浮かべる。

「でも、それだとお昼はどうするんですか? この時間だともう購買で買うのは厳しいですし、今からじゃ食堂もカフェも席は空いてないと思いますけど」

 次いで、そう心配気に尋ねられるが、世の中にはどうにもならないことも多々あったりする。

「まあ、そうだろうな。仕方ないから我慢するさ。別に昼一食抜いたところで死ぬわけでもないし」

「そ、それはダメですよ。ちゃんとお昼をとらないと頭が働きません。ただでさえクロトはいつも授業を真面目に受けないのに、これ以上授業態度が悪くなるのは学級委員として看過(かんか)しかねます」

 確かに一日の食事の中で朝と昼は夕食よりも大事だとはよく耳にするが、それにしたってサクヤの反応は少し大袈裟(おおげさ)だった。

 どうせクロトは昼食をとっていようが抜いていようが、寝るかボゥと窓の外を眺めるだけで、それこそトチ狂って授業中にバトルロワイヤルでもおっぱじめない限り、授業態度など悪化のしようもないはずだった。

「そ、そう言われても、ないものはどうしようもないだろ」

 唐突なサクヤの言葉にクロトも多少困惑したのか、若干顔を引き()らせて眉根を寄せる。

「だから、仕方ないですから私のお弁当をあなたに半分わけてあげます。ただし、お礼としてこのプリントを運ぶのを手伝ってください」

 しかし、笑みを浮かべるサクヤの口から継いで出てきた優しい心遣いに、自然とその表情は微笑に変わっていた。

 平素から物怖()じせずに自分に注意することもそうだが、こうして時折困っていれば何の躊躇(ちゅうちょ)も目論見もなく手を差し伸べてくれる暖かさに、クロトはなんだかんだ好感を持っている。

「お前ってやっぱり変わってるな。よくそれだけ他人に純粋な善意を向けられるもんだ。正直脱帽(だつぼう)しちまうよ」

「なんですか、それ? 正直バカにされてる気しかしないんですけど」

「そんなことはない。捻くれ者の俺からすれば最上級の賛美だ」

 多少皮肉っぽく聞こえてしまうものの、それはクロトにしてみれば珍しく素直な気持ちの吐露だった。

「言われてみれば、そうなのかもしれませんけど。どうせなら素直に()めて欲しかったです」

「それはちょっと無理な注文だな。まあ、代わりといってはなんだが、その先生に押しつけられたプリントは俺が全部持たせてもらうよ」

 それでもサクヤは少し不満げで()ねた表情のままだったが、クロトがプリントを全部抱えて先を歩き始めると、クロトに見られないように密に嬉しそうに微笑んでいた。


 向かい合う形で机をくっつけて一つの弁当を突き合うという構図は、日常生活においてあまりお目にかかれる光景ではない。

 付き合い始めたばかりで、四六時中イチャイチャ乳繰(ちちく)り合うバカップルだとしても弁当は二つに分けるものだろう。

 だから、必然的にこの状況は教室内で嫌でも目立っていた。

 まして、その組み合わせが危険物のクロトとクラスの人気者で学級委員長でもあるサクヤならなおさら好奇の視線を集めた。

「というか、今さらなんだが本当に良かったのか? こうして弁当を分けてもらって」

 そんな遠慮を知らない不躾(ぶしつけ)な眼差しに辟易しつつ、クロトは疑問を投げかける。

「ええ、構いませんよ。そもそも私から言い出したことです。それに実は私、少食で大抵お弁当を半分以上残しちゃうからむしろ助かります」

 そういう意味合い以外にも、こんな目立つ場所で自分と弁当を一緒に食べていいのかという意味も含んで質問したつもりだったのだが、(はな)からサクヤは周囲の視線など気にしていないようだった。

 ただ、その反面。自分で食が細いと言ったわりに、クロトの目の前にサクヤが置いた弁当箱は、運動部に所属する男子が持ってくるような大きめの物だった。

「いや、この弁当箱でそう言われてもちょっと説得力に欠ける気がするんだが」

「ほ、本当ですよ。こ、これにはちょっとした事情があるんです」

 クロトがすかさず突っ込むとサクヤは頬を赤らめ、恥ずかしそうにしながら慌てて抗弁してくる。

「事情って?」

「んん~、支離滅裂(しりめつれつ)な説明になってしまいますが、元々このお弁当は二人分なんです」

「はっ?」

 それは確かに支離滅裂な説明だ、というか意味不明な説明だった。

 ひょっとすればサクヤなら、今日のクロトのようにお昼を入手し損ねた哀れな子羊を救済するために予め多めに用意しているのかとも考えられなくはなかったが、さすがにそれはないだろう。

「え~と、だからですね。ああ、もう、なんて説明すればいいんですかね。その、つまりは、このお弁当は私以外の人も食べるんですよ」

「いやいやいや。それって俺がもらうのまずいだろ」

 その説明でクロトはようやくピンときた。

「というか、時間をとらせてすまなかった。彼氏と食べるための弁当だったとは気づかなかったんだ。ほら、俺なんかに構わなくていいから早く彼氏のところにいってくれ」

 同時に申し訳ない気持ちで一杯になり、慌てて立ちあがったクロトは深々と頭をさげて、そう促した。クロトがここまで殊勝な態度になるのは相当レアなことだ。

 まあ、彼氏と食べるための弁当を困っている友人に分けようとしていたなんて、思い遣りに(あふ)れた行動を目の当たりにすれば、そうなっても仕方ない。

「あの、とりあえず座ってください」

 だが、そうして頭を下げるクロトにサクヤは何故か笑っているのにとても不機嫌そうにも見える冷ややかな笑みで、そう指示してくる。

「えっ、いや、でも」

「いいから、座ってください!」

 それに反論しようとはしたが、半ば命令するかのような強い語調で言葉を(さえぎ)られ、どこか怒っているような雰囲気まで(かも)し出されてしまうと、クロトは大人しく従うしかなかった。

「確かに私の説明の仕方も悪かったかもしれませんが、クロトのその勘違いは少し心外です。先に言っておきますけど、私に彼氏はいませんから」

 そして、続いて頬を膨らませて拗ねた表情でそう説明される。

「そ、そうなのか。何か妙な誤解をして悪かったな。そ、それじゃあ遠慮なく弁当頂くよ」

 とりあえず謝りはするが、クロトからすれば何故サクヤが怒ったのかわけがわからなかった。

 そもそも、彼氏のために二人分用意しているんじゃないなら誰の分なのか。疑問はいくつも残るものの、これ以上この話題を続けても良いことはなさそうだったので適当に話を逸らしてクロトは遅めの昼食を開始した。

 食事を始めても、最初サクヤはやはり機嫌が悪そうに眉間に(しわ)を寄せていた。

 だが、クロトが弁当に(はし)をつけて「うまい」と連呼しながら、次々おかずを口に運んでいくうちに自然と表情は和らいでいた。

 勿論、その感想は口からのおべっかというわけではなく、サクヤの弁当は本当に美味しいようだった。

 サクヤの機嫌も直ったことで、そこからはわりと話が弾んでいた。内容はお弁当のおかずはどう作ったのかとか、どこそこのスーパーの食材が安くて美味しいだとか、少し高校生には不似合いな家庭的な話題だ。

 まあ、こう見えてクロトは独り暮しをしていて、家事全般は一通りこなしているからその手の話題に意外と精通していたりもするのだ。

 そうして取り留めもない世間話に華を咲かせ、もうそろそろ弁当箱も空になりそうになった時だった。

「そういえば、最近この周辺でUMA(ユーマ)の目撃談が流行(はや)ってるみたいですけど、クロトは見たことあったりします?」

 とサクヤに若干唐突な話題を振られてしまう。

「はっ? UMAってチュパカブラとかビックフットとかのことだよな? いや、さすがにその手の眉唾(まゆつば)ものの生き物とは会ったこともないし、そんな話が流行ってることも初耳だが」

「そう、ですか。それなら、いいんです」

「ん? なんだ。サクヤはその手の話題に興味があるのか?」

「い、いえ。興味があるわけじゃないんですけど、ただ実際そんな生物がいたら危ないなと思いまして」

 いきなりの奇妙な質問に、クロトは少し怪訝(けげん)そうに眉をひそめて尋ね返したが、サクヤはまるでクラスのみんなが化け物に襲われることを危惧しているかのように、心配げに答えるだけだった。

 フン、なんとも白々しくも、空々しい。

「いや、ああいうのは基本CGとか着ぐるみとかの悪戯の産物だろ」

 だが、クロトはそんなサクヤの(げん)に苦笑いを浮かべ、安心させるようにそう一言呟くだけだ。

「ア、アハハ。それも、そうですよね」

 その様子にサクヤは安堵したように小さく吐息を吐くと、早々に空になった弁当箱を片付け始めてしまう。

 そして、いそいそと片付けを始めるサクヤに(なら)い、クロトは頭をさげながら合掌して「ご馳走(ちそう)様」と礼を述べると、くっつけていた席を元の位置に戻し始めるのだった。


 サクヤとはちょくちょく話しはするものの、クロトにしてみれば教室の中で人とあれだけ多弁にコミュニケーションをとるのは稀有(けう)なことだった。

 普段クロトは、誰かに話しかけられれば一部の例外(ワタライとか、ワタライとか、ワタライとか)を除いては人当たりのいい対応をしている。

 ただ、やはりそれくらいでは一度こびりついてしまったレッテルは()がれないし、起きているクロトが休み時間の教室にいること自体がそもそも珍しいことなのだから、そうなってしまうのも必然と言える。

 クロトは基本的に休み時間中は寝ているか、屋上にいることが(ほとん)どなのだ。

 別にクラスの連中に虐められて、教室にいるのがいたたまれないからとかそういうわけじゃない。

 そもそも、クロトは虐めに屈するほどの繊細さなど(はな)から持ち合わせいない。仮に虐めてくるような(やから)がいればそいつは間違いなく退学に追い込まれてしまうだろう。

 クロトは虐める側に立つことはあっても、虐められる側に立つことなどありえないのだ。

 では、どうして屋上に入り(びた)るのかというと、実はその具体的な理由はクロト自身も判然としていなかったりする。

 強いて言うなら、立入禁止になっている屋上の方が教室より落ち着くから。今はその解釈で十分だろう。

 さて、そうしていつもより賑やかなランチタイムを過ごしたクロトだが、それで午後の授業を(つつ)ましく真面目に受けるのかといえば、そんなはずはなかった。

 午前中同様、午後も相変わらずの怠惰な姿勢は崩さず、机の上に携帯を出して、何やら一人ポチポチ液晶画面をタッチし続けていた。

 そして、迎えた放課後。本来、部活や委員会などに所属していないクロトがやるべきことといえば、家に帰るだけなのだが、まだ自分の席で携帯と睨めっこを続けていた。

 画面に表示されているのは白と黒の升目(ますめ)が交互に並んだ盤面と十六の(こま)。つまりはチェスのアプリをしていたのだ。

 まあ、チェスに限らず将棋(しょうぎ)囲碁(いご)、カードゲームなど頭を使って相手を(おとしい)れる類のゲームはクロトの得意分野で。時折遊んでは、対戦相手をボコボコにして気晴らしをするのだ。

「な、なんでだ。なんで俺がコンピューター相手にここまで押される」

 当然、普段からプレイヤーに限らずコンピューターとも対戦していて、難易度をマックスにしても必ず圧勝していたのだが。今回に限ってはどうやら苦戦しているようだった。

「く、屈辱だ。たかがNPCの分際で」

 しかし、そう苦々しく呟く反面、クロトの表情は随分と楽しそうだった。

 基本、クロトはこの手のゲームで負け知らずだったのだ。

 勿論、相手がプロであったりするなら負けはするだろうが、遊びでやっているだけでこれほど手強(てごわ)い相手と対戦できることがクロトを夢中にさせた。

 ただ、そう言ったもののクロトの旗色はかなり悪い。六限目終了の十五分ほど前から始まった対戦だがクロトの手駒は既に五分の一ほどが奪われていた。

 普段のパターン化されているNPCの攻め方とは明らかに異なる変幻自在な戦術に若干翻弄(ほんろう)され、不覚にも厳しい状況に追い込まれたのだ。

「あんまり俺を舐めるなよ」

 だが、そこからクロトは下唇を舌で舐めて湿らすと、集中力を一気に高める。

 厳しい戦況であっても逆転できないわけではなかった。だから、クロトはそれこそ時間も忘れてただ目の前のディスプレイだけを見据え、必死に勝つための戦術を考え始めたのだ。

 そうして、クロトはそのまま異常に強いNPCと一時間以上も対局を続け、その結果僅差(きんさ)で敗れてしまった。

 当然、負けたことが悔しかったクロトはすぐに再戦する。

 だが、その時はもうNPCの強さはいつも通りに戻ってしまっていた。

「っち、さっきはあんなに強かったのに元に戻っている。ということは、さっきのはなんだったんだ。バグか何かか?」

 倒し甲斐(がい)のなくなったコンピューターを十分もかけずにチェックメイトに追い込むと、クロトはディスプレイをじっと覗き込みながら首を傾げる。

 だが、当然それに答えてくれるものなどいるはずもなく、訝しくは思いつつも時間も時間だっただけに、クロトは早々に思考を切り替えて帰り支度を始めた。

 教室から誰もいない廊下に出ると、窓の向こう側は既に西日が差し込み、(あかね)色に染まっていた。

 そして、いつもは体操着姿で賑わうグランドが今は無人になっている点に自然と目が止まる。

「そうか、今日からテスト一週間前だから殆どの部活は休みになっているんだったな」

 クロトは一人、誰もいない廊下でそう呟くと、もう一度周囲に視線を走らせた。

 すると、やはり視界に映るのは誰もいない蜜柑(みかん)色の廊下と窓の外の風景。それを改めて認識するとクロトはゆっくりと深呼吸し始めた。

 それはまるで、この空間に漂う雰囲気を自分の中に取り込むような、深くゆっくりとした深呼吸で、クロトの表情はどこか穏やかで、安らいでいるかのようにも見えた。

 普通なら誰もいない黄昏(たそがれ)時の校舎という情景は薄気味悪いだけのはずなのだ。

 だが、この空虚でがらんどうとした空間が、クロトには何故か酷く自分に似つかわしいものに思えて仕方がなかった。

 そう、まるで普段学生達で賑わっている空間に平然と混じっている自分が異物のような。いや、その表現は正確さをかくだろうか。どちらかと言えば、自分以外周りのもの全てが異物のような、虚構のような胡散臭(うさんくさ)さを感じてしまうのだ。

 だから、一人になることが落ち着く。誰もいなければ、その妙な違和感を覚えずにすむから。

 まあ、そう感じてしまうのも無理はないことだ。何故ならクロトの全てはもう終わってしまっている。

 そう、終わってしまっているのだ。

 その事実を、真実の中に嘘を混ぜ込むことで巧妙に隠してはいるが、所詮(しょせん)は時間稼ぎにしかならない。

 消費したわけではない想いは、記憶の改竄(かいざん)くらいじゃ誤魔化し切れるものじゃないから。

 だからクロトはもう一度始めるのだ。終わってしまった全てを取り戻すために。

 例え、それがどれだけ罪深いことだろうと、どんな犠牲を払うことだろうと躊躇なんてしない。するはずがない。

 ――ペタリ、ペタリ、ペタリ

 そうして、クロトが薄暗い廊下で一人景色を堪能しながら黄昏ていると、不意に誰もいないはずの廊下の奥から足音のようなものが聞こえてくる。

 さあ、お(ぜん)立ては充分してやった。そろそろこの退屈な茶番劇に幕を下ろそう。

「なっ! 何だ、こいつ......」

 そして、音に気づいてそちらに視線を向けたクロトは固まってしまう。

 その、目の前に佇むありえない物体に、ただ目を()いて硬直し、口を開いて唖然とするのだ。

 何故なら、そこに姿を現したのはこの世のものとは思えない異形の存在なのだから。


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