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還る

作者: 黒江秋水
掲載日:2026/09/06

人は、忘れたことよりも、忘れたことに気づかないもののほうが多いのかもしれません。

鍵は、どこかで失くした。


いつだったかは覚えていない。だが、失くした瞬間だけは妙に鮮明だった。


自転車を停めた路地の角で、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。

指先に触れたのは、布の裏側だけだった。何もない。

その空っぽな感触が、今でも指に残っている。


そのとき俺は舌打ちをひとつして、とりあえず歩いて帰った。


翌日も、その翌日も電車で通った。やがて、自転車のこと自体を考えなくなった。


五年が経った。


あの路地を通ったのは、偶然だった。


近道のつもりで曲がった角に、ブロック塀と排水溝の隙間がある。

そこに、緑の塊が張りついていた。


最初は、何なのかわからなかった。


ツタが幾重にも絡み、葉がびっしりと覆っている。

輪郭だけを見れば、ただの植物だった。


だが、その奥に硬質なものがあった。


近づいて、指で葉をかき分ける。


赤茶けた金属が現れた。


かつてシルバーだったフレームは錆びつき、塗装は剥がれ、

ところどころ地金がむき出しになっている。


サドルはなかった。


植物に抱き込まれたのか、朽ちて落ちたのか、それすらわからない。

シートポストには太い蔓が三重に巻きついていた。


前輪は潰れ、タイヤには細かなひびが走っている。スポークの一本一本に苔がついていた。


金属の骨格に、別の生き物が肉を与えたみたいだった。


俺の自転車だった。


そう思った途端、記憶がいくつか戻ってきた。


ハンドルのわずかな曲がり方。


フレームの溶接跡。


買ったときから歪んでいた後輪の泥除け。


どれも、五年前のままだった。


いや。


五年前のままなのは、記憶のほうだった。


目の前の自転車は、もう別のものになっている。


葉の下を探ると、防犯登録のシールが残っていた。

文字はほとんど読めなかった。


それでも、間違いなかった。


奇妙な感情が込み上げてきた。


悲しみではない。


懐かしさとも違う。


強いて言えば、安堵に近かった。


五年間、この自転車はここにいた。


雨に打たれ、日に灼かれ、霜に凍り、蔓に絡まれ、葉を落とされる。


それを何度も繰り返してきた。


誰にも回収されず、誰にも盗まれず、ただそこにあった。


同じ五年間、俺は転職し、引っ越し、誰かと付き合い、別れた。

父が入院し、退院し、また入院した。友人に子どもが生まれた。


いろいろあったはずなのに、どれも、この錆の赤さほど鮮明ではなかった。


俺は自分の手を見た。


五年分の時間が、ここにもあるのだろうかと思った。


けれど、よくわからなかった。


葉を一枚、そっと持ち上げる。


裏側は白く、小さな虫が一匹、驚いたように走った。


撤去する気にも、持ち帰る気にもならなかった。


自転車はもう、ここにあった。


塀のそばに。


ツタの下に。


苔に覆われて。


俺がそれを自転車と呼んでいた時間だけが、もう終わっているような気がした。


立ち去りかけて、一度だけ振り返る。


緑の塊は塀に溶け込んでいた。


知らなければ、ただの植物だ。


鍵を失くしたあの日、俺は舌打ちをした。


そのことだけを、今日まで覚えていた。


だが、この自転車をどうやって手に入れたのか。


いくら払ったのか。


最後にどこへ向かうために乗ったのか。


もう、何も思い出せない。


覚えているのは、空っぽなポケットの感触だけだ。


自転車は何も言わなかった。


風もないのに、葉がわずかに揺れた。







最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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