還る
人は、忘れたことよりも、忘れたことに気づかないもののほうが多いのかもしれません。
鍵は、どこかで失くした。
いつだったかは覚えていない。だが、失くした瞬間だけは妙に鮮明だった。
自転車を停めた路地の角で、ジャケットのポケットに手を突っ込んだ。
指先に触れたのは、布の裏側だけだった。何もない。
その空っぽな感触が、今でも指に残っている。
そのとき俺は舌打ちをひとつして、とりあえず歩いて帰った。
翌日も、その翌日も電車で通った。やがて、自転車のこと自体を考えなくなった。
五年が経った。
あの路地を通ったのは、偶然だった。
近道のつもりで曲がった角に、ブロック塀と排水溝の隙間がある。
そこに、緑の塊が張りついていた。
最初は、何なのかわからなかった。
ツタが幾重にも絡み、葉がびっしりと覆っている。
輪郭だけを見れば、ただの植物だった。
だが、その奥に硬質なものがあった。
近づいて、指で葉をかき分ける。
赤茶けた金属が現れた。
かつてシルバーだったフレームは錆びつき、塗装は剥がれ、
ところどころ地金がむき出しになっている。
サドルはなかった。
植物に抱き込まれたのか、朽ちて落ちたのか、それすらわからない。
シートポストには太い蔓が三重に巻きついていた。
前輪は潰れ、タイヤには細かなひびが走っている。スポークの一本一本に苔がついていた。
金属の骨格に、別の生き物が肉を与えたみたいだった。
俺の自転車だった。
そう思った途端、記憶がいくつか戻ってきた。
ハンドルのわずかな曲がり方。
フレームの溶接跡。
買ったときから歪んでいた後輪の泥除け。
どれも、五年前のままだった。
いや。
五年前のままなのは、記憶のほうだった。
目の前の自転車は、もう別のものになっている。
葉の下を探ると、防犯登録のシールが残っていた。
文字はほとんど読めなかった。
それでも、間違いなかった。
奇妙な感情が込み上げてきた。
悲しみではない。
懐かしさとも違う。
強いて言えば、安堵に近かった。
五年間、この自転車はここにいた。
雨に打たれ、日に灼かれ、霜に凍り、蔓に絡まれ、葉を落とされる。
それを何度も繰り返してきた。
誰にも回収されず、誰にも盗まれず、ただそこにあった。
同じ五年間、俺は転職し、引っ越し、誰かと付き合い、別れた。
父が入院し、退院し、また入院した。友人に子どもが生まれた。
いろいろあったはずなのに、どれも、この錆の赤さほど鮮明ではなかった。
俺は自分の手を見た。
五年分の時間が、ここにもあるのだろうかと思った。
けれど、よくわからなかった。
葉を一枚、そっと持ち上げる。
裏側は白く、小さな虫が一匹、驚いたように走った。
撤去する気にも、持ち帰る気にもならなかった。
自転車はもう、ここにあった。
塀のそばに。
ツタの下に。
苔に覆われて。
俺がそれを自転車と呼んでいた時間だけが、もう終わっているような気がした。
立ち去りかけて、一度だけ振り返る。
緑の塊は塀に溶け込んでいた。
知らなければ、ただの植物だ。
鍵を失くしたあの日、俺は舌打ちをした。
そのことだけを、今日まで覚えていた。
だが、この自転車をどうやって手に入れたのか。
いくら払ったのか。
最後にどこへ向かうために乗ったのか。
もう、何も思い出せない。
覚えているのは、空っぽなポケットの感触だけだ。
自転車は何も言わなかった。
風もないのに、葉がわずかに揺れた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。




