第9話 二人の設計図
設計図の最後の一線を引いたとき、フリーデの手は震えていた。
帝国滞在三週間目の午後。会議室の長い机に広げられた巨大な図面。国境交易構想──北部の鉱物資源と帝国の工業力を結ぶ交易路の全体設計図。
フリーデの経済計算が青いインクで。ヴォルフの軍事設計が黒いインクで。二色の線が一枚の紙の上で交差し、絡み合い、一つの計画を形作っている。
「……完成、ですね」
「ああ」
ヴォルフが腕を組んだまま、図面を見下ろした。長い沈黙。この男は完成の喜びを言葉にしない。だが──腕を組む力が、ほんの少しだけ緩んだのがわかった。
(この人なりの、達成感の表し方なのだろう)
三週間。毎日朝から夕方まで、この部屋で数字と図面を突き合わせた。ヴォルフが戦略を描き、フリーデが数字で裏付ける。フリーデが経路を引き、ヴォルフが安全保障の穴を塞ぐ。
最初の一週間は探り合いだった。互いの計算方法を理解するまでに時間がかかった。フリーデの経済計算のモデルをヴォルフが理解し、ヴォルフの軍事設計思想をフリーデが掴むまでに。
二週目から、噛み合い始めた。フリーデが図面に一本の線を引くと、ヴォルフがその線の周辺に安全圏を設定する。ヴォルフが防衛拠点を置くと、フリーデがそこを中継点に組み込んで輸送効率を上げる。
三週目には、言葉すら減った。目が合えば次に何をすべきかわかる。ペンを渡すタイミング。計算書を差し出すタイミング。無言の連携が、図面の上で形になっていく。
一人では、この図面は完成しなかった。絶対に。
「将軍」
「何だ」
「この計画は──あなたがいなければ、絵に描いた餅でした。経済設計だけでは、安全保障が伴わない。実現不可能な美しい計算で終わっていた」
正直に言った。お世辞ではない。数字は正直だ。軍事的裏付けなしに交易路を引けば、一度の盗賊襲撃で全てが瓦解する。ヴォルフの安全保障設計がなければ、この計画は紙の上の理想に過ぎなかった。
ヴォルフは数秒の間を置いた。
「あなたがいなければ、ただの安全な空き地だった」
──安全な空き地。
その表現に、思わず笑いが漏れた。この人は将軍のくせに、時々おかしな比喩を使う。
「将軍、それは比喩としてはやや乱暴では……」
「事実だ。軍事的に安全な区画を確保しても、そこに経済を乗せる人間がいなければ意味がない。私にはその能力がない。あなたにはある」
言い切った。表情は変わらない。だが、その真っ直ぐな言い方が──不思議と、胸の奥を温めた。
この人の言葉には嘘がない。手紙でもそうだった。評価する時は淡々と、だが的確に。批判する時も同じ温度で。自分にないものを認め、相手に求める。それを「弱さ」ではなく「合理性」として。
(嘘をつかない人だ)
クラウス殿下と比較するのは、もうやめよう。意味がない。終わったことだ。
◇
その日の夕刻、皇帝アウグスト二世から招集がかかった。
皇帝の私室は質素な部屋だった。窓際に大きな地図台。壁には帝国全土の軍事地図が所狭しと貼られている。机の上には報告書の山。実務家の部屋だ。
「図面を見せてもらった。見事だ。帝国の文官が三年かけても出来なかったものを、三週間で仕上げた」
皇帝が図面を広げたまま、椅子にもたれた。鷹のような目がフリーデを射る。
「ノルトシュタイン嬢。我が帝国に、顧問として残る気はないか」
フリーデの目が見開いた。予想していなかったわけではない。だが、正式に言われると重みが違う。
「……顧問、ですか」
「帝国顧問。正式な役職だ。報酬と住居を保証する。交易構想の実行責任者として、ヴォルフと共に計画を動かしてほしい。──率直に言って、あなたの能力は帝国にとって極めて価値がある」
極めて価値がある。皇帝がそう言った。実利主義者の口から出た評価だ。お世辞ではない。
「陛下」
ヴォルフが口を挟んだ。珍しいことだった。皇帝の言葉を遮るなど。
「フリーデ嬢の判断に委ねるべきだ。我々が囲い込むものではない」
皇帝が片眉を上げた。それから──笑った。
「お前が口を挟むとはな、ヴォルフ。よほど大事なのだろう」
ヴォルフの表情は動かなかった。だが、耳の先が──ほんの僅かに赤くなった。
(……耳?)
フリーデは見てしまった。見なかったことにしたかったが、遅かった。
「……ありがたいお申し出です。検討させてください」
無難に返した。頭の中では計算が回っている。帝国顧問の地位。報酬と住居の保証。交易構想の実行権限。──条件としては申し分ない。
だが、同日の夕方に届いた別の知らせが、全てを複雑にした。
王国からの正式な書簡。今度は宰相府ではなく──国王フリードリヒ三世の署名。
『フリーデ・フォン・ノルトシュタイン嬢
王国は貴嬢の帰還を正式に要請する。北部の窮状は貴嬢の能力なくして打開し得ない。貴嬢の功績を、王家は正しく認識している。
帰国の上、改めて話がしたい。
国王フリードリヒ三世』
国王の署名。これは──無視できない。
非公式の宰相府からの打診なら黙殺できた。だがこれは国王陛下の直筆署名だ。辺境伯令嬢として、国王の要請を無視することは政治的に不可能に近い。
フリーデは書簡を机に置いた。指先が冷たかった。
帝国顧問の提示と、王国からの帰還要請。
右手に未来。左手に過去。
どちらを選んでも、今の場所を離れることになる。今の──ヴォルフとの共同作業を。
(……なぜそれが真っ先に頭に浮かぶの。仕事の問題でしょう。政治の問題でしょう。個人的な──)
思考を切った。ここから先は、考えてはいけない領域だ。
(選ばなければならない。だが、今日ではない。まだ──もう少しだけ、この計算を)
答えは出なかった。
廊下でヴォルフとすれ違った。夕暮れの光が窓から差し込み、将軍の影が長く伸びていた。
ヴォルフは立ち止まり、フリーデの顔を一瞬見て──何も言わず、歩き去った。
その横顔が、いつもより少しだけ硬かった。唇が一文字に結ばれている。
(知っているのか。王国からの書簡のことを)
帝国の情報網なら、把握していてもおかしくない。
だが──ヴォルフは何も聞かなかった。何も言わなかった。「残れ」とも「行くな」とも。
フリーデは、その沈黙の意味がわからなかった。
──わからなかったことにした。




