第8話 交易路の沈黙
南部の港から、最後の商船が出ていった。
その知らせが王宮に届いた時、宰相ゲルハルトは執務室の椅子から立ち上がれなかった。
南部交易路──ヴァイセン王国の経済の大動脈。年間の国庫収入の四割を支える物流網。それを維持していたのは、制度でも軍事力でもなく、フリーデ・フォン・ノルトシュタインの個人的な信用だった。
商人たちは金で動いていたのではない。フリーデの約束で動いていたのだ。
彼女が「来年の交易量は増える」と言えば、商人たちはそれを信じて投資した。「この港の整備は三年計画で進む」と言えば、三年先を見越した契約を結んだ。
その信用が、消えた。
フリーデが王宮を去って以降、商人たちへの連絡は途絶えた。約束していた港の整備は中断。来年の交易量の見通しも、誰も示せない。
商人たちは静かに動き始めた。最初はグラント商会が船を引き揚げた。次にミュラー商会。ベッカー商会。三週間で、南部の主要港から商船が姿を消した。
──商人は金で動くのではない。信頼で動くのだ。
その信頼を一身に背負っていた女性がいなくなった。代わりは誰もいない。
「ゲルハルト宰相、国庫収入が前年比で四割減の見込みです」
財務官の報告に、ゲルハルトは目を閉じた。
(……あの時、フリーデ嬢を止めていれば)
止められたはずだ。国王に進言していれば。だが保身を選んだ。王太子の機嫌を損ねたくなかった。
そのツケが、今──数字となって突きつけられている。
◇
──同じ頃、帝国では。
「フリーデ嬢。こちらの経路図、第二区間の通過量を修正してもらえるか」
帝国宮殿の会議室。ヴォルフが図面を指しながら声をかけた。
フリーデは頷いて計算を始める。二週間の共同作業で、二人の役割分担は自然に固まっていた。ヴォルフが全体の戦略設計を描き、フリーデが経済計算と物流設計で肉付けする。
パズルの二枚のピースが噛み合うように、仕事が回る。計算を渡せばヴォルフが軍事面から検証し、修正点を返してくる。その修正にフリーデがまた計算で応える。一つの図面の上で、二人の思考が重なっていく。
こんな感覚は初めてだった。王宮では、フリーデの計算は一方通行だった。提出して、終わり。検証する人間はいなかった。ここでは計算が往復する。それが──不思議と楽しかった。
会議を終えた午後、帝国軍の定例軍議にヴォルフが出席するという。フリーデは同席を求められなかったが、夕方になって軍議の議事録が届いた。
ヴォルフの部下が「将軍からです」と言って置いていった紙の束。その中の一文に、フリーデの目が止まった。
『国境交易構想の経済設計について、ノルトシュタイン嬢の計算が間違っていたことは一度もない。本構想は彼女の参画なくして成立しない。──北方軍将軍ヴォルフ・フォン・アイゼンシュタイン』
公式の軍議記録に、名前を。
フリーデの手が、議事録の紙の上で止まった。
(……公式記録に、私の名前を残したのか)
五年間、一度も起きなかったことだ。王宮では全て殿下の名前だった。政策局の記録にも、宰相府の報告書にも、私の名前は一度も登場しない。ノルトシュタインの「ノ」の字も。
あの五年間が、なかったことになっている。そう思うたびに、胸の底が冷たくなった。
それが──ここでは。帝国の公式軍議記録に、「ノルトシュタイン嬢の計算が間違っていたことは一度もない」と。
ヴォルフがこの一文を入れた意味を、フリーデは理解していた。公式記録は消えない。この先何年経っても、この構想にフリーデの名前が残る。
目の奥が熱くなった。唇を噛んだ。泣くようなことではない。ただ名前が記録に残った、それだけのことだ。
(それだけのことが、こんなに──)
議事録を机に伏せて、深く、長く息を吸った。
◇
王宮。
国庫の収支報告書がクラウスの元に届いた。
南部交易路の断絶による収入減。前年比四割の落ち込み。商人たちの離反は加速しており、回復の見込みはない。
「……どうすればいい」
クラウスは報告書を机に投げた。周囲の臣下は黙っている。
「代替案はないのか。誰か──誰か、交易路を立て直せる人間はいないのか」
臣下の一人が口を開きかけ、閉じた。別の一人が書類を繰り、首を横に振った。三人目は最初から目を伏せていた。
──誰もが、答えを知っていた。だがその名前を口にすることは、王太子の前では許されなかった。
マリエルがそっと手を伸ばした。
「殿下。私の治癒魔法で──」
「加護では交易路は戻らない。商人は聖女の祝福では動かない」
クラウスの声が、いつになく荒かった。マリエルの手が、そっと引っ込んだ。
長い沈黙が降りた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
全員が同じことを考えていた。
あの人がいれば。
沈黙を破ったのは、クラウス自身だった。婚約破棄の日以来──あの大広間で「そなたとの婚約を破棄する」と告げて以来、一度も口にしなかった名前を。
「……フリーデは。フリーデは今、どこにいる」
臣下の一人が答えた。
「グランツ帝国です。帝国の将軍と、国境交易構想を──」
クラウスの顔が強張った。
帝国。敵国だ。フリーデが──自分が手放した女が、敵国の将軍と仕事をしている。
彼女の能力を一番近くで見ていたのは、自分のはずだった。五年間、毎朝書類棚に新しい政策書が入っていた。あれを書いていたのがフリーデだと、本当は──知っていた。知っていて、見ないふりをしていた。
(あいつは……あいつは、俺がいなくても──)
いなくても。
その先の言葉を、クラウスは呑み込んだ。呑み込んだが、喉の奥に残った。棘のように。
◇
帝国の夕暮れ。
フリーデは執務室の窓から、ノイシュタットの街並みを見下ろしていた。屋根に雪が積もり始めている。帝国の冬は故郷よりさらに厳しいが、窓のこちら側は暖炉の熱で温かかった。
手元には、今日の成果物。国境交易構想の第二次修正案。ヴォルフの戦略設計とフリーデの経済計算が、一つの図面の上で重なっている。二人分の筆跡。二人分の数字。
(ここでは、私の仕事が正しく評価される)
評価。その言葉を、頭の中で転がした。
正しく評価される。名前が記録に残る。計算が「信じる」と言われる。
──五年間欲しかったものが、全部ここにある。
(だったら、なぜ──なぜ、まだ足りないような気がするのだろう)
答えは出なかった。
窓の外で、帝国の旗が冬風に翻っている。鉄鷲の紋章。
ふと──軍議の議事録が目に入った。ヴォルフの名前と、自分の名前が並んでいる一文。
二つの名前が、同じ文の中にある。同じ計画の上に並んでいる。
それだけのことなのに、不思議と温かかった。
フリーデは窓を閉めて、計算に戻った。




