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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第7話 花と数字


 数字は嘘をつかない。だからフリーデは数字が好きだった。


 帝国に来て一週間。毎朝、会議室に向かう。宮殿の東棟にある小さな部屋で、窓から冬の日差しが斜めに差し込む。長い机の片側にフリーデ、向かい側にヴォルフ。間に図面と計算書が広がり、二人の間を数字が行き来する。


 言葉より数字の方が多い会議だった。他の国なら退屈だろう。だがフリーデにとって、これほど居心地の良い会議はなかった。


「この区間の輸送量、日量で四十石を想定しているが──」


「冬季は二十五石が限界です。積雪による経路狭窄を考慮すると」


「根拠は」


「過去三年分の降雪データと、道幅の実測値から。計算書はこちらに」


 フリーデが紙を差し出す。ヴォルフが黙って受け取り、目を通す。


 この男は、計算書を読むのが速い。数字の誤りを見つけるのも速い。軍事畑の人間とは思えない正確さで、フリーデの計算をなぞっていく。


(……この人相手に数字で手を抜いたら、即座にバレる)


 それが、不思議と心地よかった。手加減が要らない相手。対等に数字で会話できる相手。


 五年間の王宮では、計算書を提出しても殿下は数字を読まなかった。「わかった」と一言で済ませ、署名だけした。私の計算が正しいかどうかを検証する人間は、一人もいなかった。


 ここは違う。


 ヴォルフは計算書の三行目を指で叩いた。


「この補正係数。冬季の風速を加味しているか」


「……していません」


 見落としだった。風速による荷馬車の減速効果。軍事輸送では考慮する項目だが、民間輸送の計算では盲点になりやすい。フリーデは自分の計算書を見返し、唇を噛んだ。


(こんな基本的な──いや、基本的ではない。これは軍事物流を知らなければ出てこない視点だ)


 悔しさと、それを上回る感心が同居していた。


「私の落ち度です。風速データを入手して修正します」


「明日でいい。帝国の気象記録を渡す」


 短い言葉。だが、責めるニュアンスはなかった。ミスを指摘し、修正の手段と時間を同時に与える。この男の指摘には、常に解決策が付いてくる。


 ──殿下なら「こんな初歩的なミスを」と眉をひそめただろう。計算の中身は読めないくせに。



 三日後の会議で、帝国側の文官が異を唱えた。


「ノルトシュタイン嬢の経路案は、帝国の内陸部を通過します。安全保障上の懸念が──」


 文官の声に、会議室の空気が張り詰めた。


 フリーデが反論を組み立てようとした瞬間、ヴォルフが口を開いた。


「彼女の計算を信じる」


 短い一言。だが、将軍の声は会議室の隅まで届いた。


 文官が口を閉じた。反論はなかった。北方軍将軍が「信じる」と言った計算に、文官風情が異を唱えることはできない。会議室の空気が、一瞬で変わった。


(……信じる、と言ったのか。この人は)


 計算を「確認した」でも「問題ない」でもなく、「信じる」と言った。自分の将軍としての信用を賭けて、私の計算を保証した。


 その一語の重さが、胸の奥に落ちた。ずしん、と。


 ──五年間、一度も聞いたことのない言葉だ。


 俯いて、手元の計算書に目を落とした。顔が熱い。


(何を動揺しているの。ただの実務上の評価でしょう)



 会議が終わった後、フリーデは席を立つ前にヴォルフのメモ帳が目に入った。


 計算のメモがびっしりと書かれている。フリーデの提案をなぞった数字。修正案の検算。──几帳面な字だ。


 その端に、小さな落書きがあった。


 花。


 五枚の花弁を持つ、素朴な花の絵。無意識に描いたのだろう。線が緩い。計算のメモとは明らかに筆圧が違う。


(……将軍が、花の落書き?)


 奇妙だった。この鉄と数字の男が、メモの端に花を描く。無意識に、何かを考えながら──あるいは、誰かを考えながら。


 フリーデはその落書きを見なかったことにした。意味はない。誰だってメモの端に落書きくらいする。


 ──ただ、一つだけ気になった。あの花は、北部に咲く花に似ていた。雪解けの季節に辺境伯領の野原を埋め尽くす、白い五弁の花。


 ヴォルフがその花を知っているはずはない。偶然だ。


 ──気のせいだ。



 夕刻。フリーデが執務室で翌日の資料を整えていると、使者が訪れた。王国からの非公式な連絡だった。


 手紙には簡潔に、こう書かれていた。


『フリーデ嬢。そろそろ帰国してはどうか。王宮もあなたを必要としている──宰相府より』


(宰相府? ゲルハルト宰相の個人名ではなく、「宰相府」の名義……?)


 匿名に近い打診。王家の名前を使えない程度の、非公式な呼び戻し。つまり、正式な帰還命令を出す覚悟はないが、なんとかして私を引き戻したいということだ。


(……いまさら、何を)


 フリーデは手紙を畳んで引き出しにしまった。返信は書かない。ここでの仕事の方が、よほど意味がある。



 夜。計算の続きをしていた時、扉がノックされた。


「入ってください」


 ヴォルフだった。手に木の盆を持っている。湯気の立つカップが二つ。


「……差し入れか」


 ヴォルフは何も言わず、フリーデの机の端にカップを置いた。温かい飲み物。蜂蜜と生姜の香りがする。北部の冬に飲む、体を温めるための飲み物だ。


「体を壊すな」


 それだけ言って、もう一つのカップを自分の分として持ち、踵を返した。


「……将軍」


 呼び止めた。ヴォルフが振り返る。


「なぜ、北部の飲み物を知っているのですか。これはヴァイセン王国の──」


「あなたの故郷の飲み物だと聞いた」


 それだけ答えて、扉を閉めた。足音が廊下の奥に消えていく。規則正しい、軍人の足音。


 一人残されたフリーデは、カップを両手で包んだ。じんわりと温かい。蜂蜜の甘さが、鼻の奥を通る。


(私の故郷の飲み物を、わざわざ調べて用意した? 帝国では手に入らないはず。商人に特注でもしたのか)


 ──実務上の配慮だ。協力者が倒れたら計画が遅れる。効率の問題。それだけだ。


 そう言い聞かせて、一口飲んだ。


 故郷の味がした。辺境伯邸の台所で、使用人が冬になると作ってくれた、あの味だ。


 目の奥が、少しだけ熱くなった。


(泣くようなことではない。ただの飲み物だ)


 ただの飲み物。ただの配慮。ただの──


 カップの底が見えるまで飲み干して、フリーデは計算に戻った。


 ペンを持つ手が、少しだけ震えていた。


(……数字だけ見ていればいい。数字だけ見ていれば、余計なことを感じなくて済む)


 だが今夜は、数字がなかなか頭に入ってこなかった。

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