第6話 三年ぶりの眼差し
グランツ帝国の空気は、硬かった。冬と鉄の匂いがする。
フリーデが国境を越えたのは、婚約破棄から一ヶ月半後のことだった。父の許可は意外なほどすんなり下りた。「お前の判断だ」と、いつものように短い言葉で。
帝国の首都ノイシュタットは、ヴァイセン王国の王都とは全く空気が違った。石造りの建物が隙間なく並び、通りには軍服姿の人間が目立つ。市場の声も王都より低く、太い。笑い声が少ない代わりに、鍛冶屋の槌音があちこちから響いている。
軍事国家。その印象は三年前と変わらない。だが──嫌いではなかった。無駄が少ない街だ。装飾にかける金を実用に回す合理性は、数字を愛する人間には居心地がいい。
(……何を考えているの、私は。敵国に来て居心地がいいなんて)
帝国宮殿の門前で、案内役の兵士に導かれた。回廊は王宮より幅が広く、天井が低い。壁の装飾は少なく、代わりに軍旗と精密な地図が掛かっている。地図の等高線が正確なのを見て、思わず足を止めそうになった。
(この地図、測量精度が高い。王国の官製地図より正確だ)
実用的な国だ。飾りより機能を重視する。将軍の手紙と同じ。
謁見の間に通された。
玉座に座っていたのは、帝国皇帝アウグスト二世。五十代半ばの、鷹のように鋭い目をした男だった。王冠ではなく軍帽を被っている。
「ノルトシュタイン嬢。遠路はるばるよく来た」
「お招きに感謝いたします、陛下」
一礼する。皇帝の視線が値踏みするように動くのを感じた。実利主義者だと聞いている。礼節より結果を重んじる男。
「あなたの交渉力は、我が国の将軍が保証している」
(──将軍が保証?)
ということは、私を帝国に招いたのはヴォルフの推薦か。手紙のやり取りから皇帝への上申まで、全て計算の上だったということだ。
少し──ほんの少しだけ、気に入らなかった。利用されているような感覚がある。
「将軍の保証がなくとも、私の能力は数字で証明します」
皇帝が一瞬目を見開き──そして、笑った。声を出して。
「なるほど。将軍が手放したがらない理由がわかった」
手放したがらない? 意味がわからなかった。が、追及する間もなく、皇帝が右手を振った。
「では、当人に案内させよう。──ヴォルフ」
謁見の間の柱の影から、一人の男が歩み出た。
三年前は鎧姿だった。今は帝国の軍服。黒い上着に銀のモール。背が高い。肩幅が広い。顎の線が鋭く、目の色は──灰色だ。鉄の色。この国の空気と同じ色。
ヴォルフ・フォン・アイゼンシュタイン。
三年ぶりの再会。
「ノルトシュタイン嬢」
低い声。記憶の中の声と同じだ。抑揚が少なく、淡々としている。
だが──一瞬だけ、表情が動いた。目元が僅かに緩んだ。唇の端が、ほんの数ミリだけ持ち上がった。
見間違いかもしれない。ランプの灯りの加減かもしれない。
(……気のせいだ)
「アイゼンシュタイン将軍。お久しぶりです」
声が硬くなったのは自覚していた。敵国の将軍だ。三年前に交渉で対峙した男だ。手紙で図面のやり取りをしていたからといって、警戒を緩める理由はない。
「国境の交易構想について話がしたい。──一つ頼みがある」
将軍は皇帝に一礼してから、フリーデに向き直った。
「この計画を、あなたと一緒に完成させたい」
一緒に。
──五年間、その言葉を一度も聞いたことがなかった。王宮では、全て私一人で書き、殿下の名前で提出していた。「一緒に」などと言う人間はいなかった。
(利害の一致、それだけだ。帝国の利益のために私の能力を使いたい──それ以上の意味はない)
そう自分に言い聞かせて、フリーデは答えた。
「条件次第です」
三年前と同じ言葉。あの交渉の席で、ヴォルフの提案に最初に返した一言。
将軍の目が、かすかに──本当にかすかに光った。覚えているのだ。三年前のやり取りを。
「条件を聞こう」
「まず、この計画に関する全ての情報を開示していただきます。帝国側の意図──軍事利用の可能性を含めて。次に、計画の修正権は対等であること。私の提案を帝国の都合で無断で変更しないこと」
指を一本、二本と立てながら条件を述べた。交渉の基本だ。最初に枠組みを決める。
「三つ目。──この計画の成果は、両国の共同名義とすること。どちらか一方の功績にはしない」
最後の条件を言った時、自分の声が少しだけ震えたのに気づいた。
(功績を独占されたくない。もう二度と、名前を消されたくない)
それは五年間の王宮での経験が、喉から絞り出させた言葉だった。
ヴォルフは数秒の間を置いて、頷いた。
「全て承諾する」
あっさりと。交渉にすらならなかった。
◇
宮殿の廊下を、将軍と並んで歩いた。
無言だった。将軍は寡黙で、必要のない会話をしない人間だと手紙のやり取りでわかっていた。だが、隣を歩く沈黙は、不快ではなかった。
足音だけが響く。二人分の、規則正しい足音。
「交易構想の詳細資料を用意してある。明日から会議を始めたい」
「わかりました」
将軍が不意に足を止めた。フリーデも立ち止まる。
「……あの交渉の席で、あなたの提案の欠陥を指摘したことがある」
「ええ。補給線が弱い、と」
「あの時──あなたが数字で反論してきたのを覚えている」
フリーデは頷いた。覚えている。三日間の交渉で最も緊張した瞬間だ。
「あの反論は、見事だった」
それだけ言って、将軍は再び歩き始めた。
フリーデは一瞬、その場に立ち尽くした。
(……見事だった?)
三年前の交渉を覚えていて、しかも相手の反論を「見事だった」と評する人間が、どれだけいるだろう。普通は負けた交渉など忘れたいはずだ。少なくともクラウス殿下なら──いや、殿下なら交渉の中身すら覚えていないだろう。
負けを認めた上で相手を称える。それは──ある種の誠実さだ。あるいは自信。自分の実力に揺るぎない確信があるから、相手の優れた点を認める余裕がある。
(……気のせいだ。敵将に情をかけてどうする。協力を引き出すための手管に決まっている)
そう言い聞かせて、フリーデは将軍の背中を追いかけた。
広い背中だ。軍服の肩章が歩くたびに揺れる。手紙では饒舌だった男が、対面ではこんなに寡黙だとは思わなかった。
宮殿の客室に案内された。窓の外にはノイシュタットの街並みが広がり、遠くに雪を被った山脈が見える。
「明日の朝、会議室に来てくれ。資料は揃えてある」
「わかりました」
将軍が踵を返す。去り際に──一度だけ、こちらを振り返った。
「……長旅だった。今日は休め」
それだけ言って、扉を閉めた。
一人になった部屋で、フリーデは窓辺に立った。帝国の冬の太陽が低く差し込んでいる。息を吐くと白くなった。
(「休め」、か。……あの人にしては、柔らかい言葉だ)
手紙では事務的だった男が、最後に「休め」と言った。
部下に対する当然の配慮だ。きっとそうだ。
──きっと。
フリーデは荷物を解きながら、明日の会議で使う計算を頭の中で組み立て始めた。




