第5話 空っぽの備蓄庫
備蓄庫の扉を開けた領主の顔が、一瞬で青ざめた。
北部五領のうち最も北に位置するヴィンター領。その備蓄庫に残った穀物は、底が見える量だった。
報告書がフリーデの元に届いたのは、婚約破棄から一ヶ月後の朝だった。
「フリーデ様、ヴィンター領のケスラー領主から緊急の使者が」
使者は馬を乗り潰してきたのだろう、泥だらけの外套のまま執務室に入ってきた。
「ヴィンター領の備蓄が底をつきかけています。先月まで王宮から来ていた物資輸送が完全に止まりました。このままでは冬を越せません」
フリーデは帳簿を開いた。指が数字の列を辿る。
(やはり──。私が作った備蓄計画の引き継ぎが、されていなかった)
あの計画は複雑だった。五領の収穫量、気候データ、人口動態、輸送経路──全てを連動させた季節別のモデルだ。殿下の名前で提出したが、中身を理解していた人間は私しかいなかった。
引き継ぎ書類は王宮に置いてきた。だが、書類があっても読む人間がいなければ紙の束にすぎない。
「ケスラー領主に伝えてください。辺境伯家の備蓄から緊急に三百石を融通します。輸送は明日の朝に開始、三日後に届く計算です」
「三百石──よろしいのですか」
「他の四領への配分を再計算して、全体の均衡を保ちます。数字は合わせます」
使者が飛び出していった後、フリーデは机に向かって計算を始めた。辺境伯家の備蓄を五領に再配分する。全体量は減るが、均等に分ければ全領が冬を越せるギリギリのラインだ。
(──元の国の民が飢えているのに、見捨てるわけにはいかない)
婚約を破棄されたのは私の問題だ。北部の民に罪はない。
◇
──同じ頃、王宮の大会議室。
「北部五領の備蓄が限界に達しています。至急の対策が必要です」
臣下の報告に、クラウスは眉をひそめた。
「備蓄計画はどうなっている。毎年提出していたはずだ」
沈黙。
臣下たちは互いに目を見交わした。「毎年提出していた」のは、殿下ではなくフリーデ嬢だ。全員がそれを知っていた。だが、言えなかった。
「……殿下、計画書はございますが、内容が高度すぎて──」
「高度? ただの備蓄計画だろう。誰か読める者はいないのか」
いない。フリーデ以外に、あの計算モデルを読める人間は王宮にいなかった。季節変動係数、人口動態の補正、輸送経路の分岐条件──一つ一つは単純な数字だが、それらを連動させた全体設計は、フリーデの頭の中にしか存在しなかった。
書類はある。だが設計思想がわからなければ、書類はただの数字の羅列だ。
隣に座っていたマリエルが、穏やかな声で言った。
「殿下、私の治癒魔法で民の体力を回復させることはできます。聖女の力で──」
「治癒魔法で穀物は増えない」
それは臣下の誰かが呟いた声だった。誰が言ったのかわからないほど小さな声だったが、会議室の空気が凍った。
マリエルの表情が一瞬だけ強張った。すぐに微笑みを取り繕ったが、目の奥の温度が下がったのをクラウスは見逃した。
「とにかく対策を立てろ。北部が飢えれば王家の責任になる」
会議は一時間続いたが、具体的な対策は何も出なかった。
◇
辺境伯邸の書斎。深夜。
フリーデは再配分の計算を終え、使者への指示書を書き上げた。蝋燭の炎が揺れる中、最後の数字を確認する。
ギリギリだ。だが、全領が冬を越せる。
疲れた体を椅子にもたせかけた時、机の上の封筒に気づいた。夕方届いた三通目の手紙。深紅の封蝋。鉄鷲の紋章。
『ノルトシュタイン嬢
あなたの修正案を精査した。谷間の合流地点を中継点に選んだ判断は正しい。特に等高線分析は見事だった。私の参謀にも見せたが、誰も気づかなかった角度からの指摘だ。
ところで、北部の飢饉について耳にした。以下は私案だが──軍事物流の手法を民間輸送に転用すれば、備蓄の不足を一部補える可能性がある。
要点は三つ。第一に、輸送ルートの複線化。軍では主要補給線が断たれた場合に備え、常に迂回路を確保する。民間交易にも同じ考え方を適用できる。第二に、中継点ごとの分散備蓄。一箇所に集中させず、輸送経路上の三点に分散させることで、どの地点からでも即座に供給が可能になる。第三に──
長くなった。詳細は別紙の図面を参照してほしい。
ヴォルフ・フォン・アイゼンシュタイン』
別紙を広げた。軍事物流の概念図に、北部五領の地図を重ねた図面。
(……この人、ただの武人ではない)
補給線の複線化。分散備蓄。いずれも軍事の概念だが、民間物流に転用する発想は──正直に言って、私にはなかった。軍事と民政を横断できる知識。それは珍しい才能だ。
三年前の交渉で補給線の欠陥を一言で指摘した男。あの時から気づくべきだった。この人の頭の中には、戦場と政策の両方が入っている。
(……面白い)
その感想が、純粋な知的好奇心だと気づいて少し安堵した。敵国の将軍に感心するのは、外交上はまずい。だが、優れた計算には素直に敬意を払いたい。
返信の紙を取り出した。今度は事務的な一文ではなく、少しだけ──ほんの少しだけ、個人的な言葉を添えた。
『アイゼンシュタイン将軍
分散備蓄の概念は有用です。北部五領への適用可能性を検討します。ただし、第二中継点の備蓄容量に問題があります。詳細は添付の計算書をご確認ください。
一つお聞きしたい。軍事物流を民間に転用する発想は、将軍ご自身の考えですか。それとも帝国ではこうした横断的な計画が一般的なのでしょうか。
──率直に言って、興味があります。一度、直接お話を伺いたい。
フリーデ・フォン・ノルトシュタイン』
書き終えて、ペンを置いた。
(「直接お話を伺いたい」──これは、踏み込みすぎだろうか)
迷った。だが書き直さなかった。中途半端な探りを入れるより、直接会って話す方がずっと効率がいい。
──効率。そう、これは効率の問題だ。それ以外の理由はない。
ないはずだ。
蝋燭の炎が揺れた。机の上に広げられた二人分の図面が、微かに光っているように見えた。──いや、それは蝋燭の灯りの加減だ。
フリーデは封蝋を押して、手紙を使者に託した。
深夜の辺境伯領に、北風が唸っていた。冬が来る。だが──この冬は、一人で迎えるのではないかもしれない。
そんな考えを振り払って、フリーデは次の計算に取りかかった。




