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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第4話 敵将の手紙


 敵将の手紙は、想像よりもずっと几帳面な字だった。


 辺境伯邸の書斎で、フリーデは二通目の封書を開いた。深紅の封蝋を割ると、折り畳まれた紙が二枚。一枚は国境交易構想の修正案、もう一枚は──手紙本文。


『ノルトシュタイン嬢


 先日の概略図に対する指摘を受けた。第三中継点の配置は確かに甘い。冬季の雪封鎖を計算に入れていなかった。軍事輸送では雪中行軍が前提だが、民間交易では話が違う。的確な指摘だった。


 修正案を添付する。あなたの指摘を反映し、中継点を峠の南側に移動させた。ただし、この場合の経路変更に伴う輸送コストの再計算が必要になる。あなたの見解を聞きたい。


 追伸──北部の冬は厳しいと聞いた。暖炉用の薪炭を二十束手配した。届いていなければ申し出てほしい。領地の冬支度に使ってくれ。


  ヴォルフ・フォン・アイゼンシュタイン』


 修正案を先に読んだ。これは性格だ。手紙本文より図面を先に見てしまう。人の言葉より数字を信じる──殿下に「冷たい女だ」と言われた理由の一つ。


 中継点の移動は理に適っている。峠の南側なら雪の影響は最小限だ。しかし等高線を見ると勾配がきつい。荷馬車の重量制限を考慮すると、そのまま通過は難しい。


(……ここは馬車ではなく、小型の荷車に分割して中継するのが正解だ。二回の積み替えで輸送効率は落ちるけれど、冬季の安全性が段違いに上がる。人の命は数字で測れない──いや、正確には数字で測ってはいけない、か)


 ペンを取った。修正案の余白に計算を書き始める。数字が流れるように並んでいく。これだ。この感覚。敵の計画に穴を見つけ、より良い案を返す──三年前の交渉と同じだ。


 気づけば、返信用の紙に長々と修正案を書き連ねていた。輸送コストの再計算、冬季と夏季の二段階計画、中継点ごとの人員配置案まで。


「……やりすぎた」


 ペンを置いて、自分の書いた紙の量に呆れた。事務的な返信のつもりが、完全に実務計画書になっている。


(これでは『ぜひ一緒にやりたい』と言っているようなものでは……)


 少し迷った。が、書き直す気にはなれなかった。中途半端な修正案を返す方が、よほど気持ち悪い。


 手紙の追伸に目が戻った。


『北部の冬は厳しいと聞いた。暖炉用の薪炭を二十束手配した』


(……薪炭?)


 手が止まった。先日届いた匿名の物資にも、薪炭が入っていた。あの匿名物資と、この追伸──繋がるのか。


 グランツ帝国の将軍が、わざわざ敵国の辺境伯令嬢に物資を送る。外交的な意味があるとすれば──恩を売る。こちらが困っている時に手を差し伸べ、後で返済を求める。常套手段だ。


(あるいは、先日の匿名物資もこの人が……?)


 引き出しから、先日の匿名物資に添えられていた紙片を取り出した。几帳面な字で書かれた目録。ヴォルフの手紙と並べる。


 字が──似ている。「7」の横棒が長い。筆圧が均一。


(やっぱり。あの匿名物資も、この将軍が送ったものだ)


 確証はない。だが直感はほぼ確信に近い。字の癖というのは隠しようがない。特に数字の書き方──計算に慣れた人間は数字に独特の癖が出る。軍の補給計画を何百枚も書いた男なら、なおさらだ。


 なぜ匿名にしたのか。敵国の将軍から物資が届けば政治的に面倒になるからだ。辺境伯家の名誉を汚さないための配慮と解釈することもできる。だが──それは好意的すぎる解釈だ。


(外交戦略にしては手が込みすぎている。薪炭の二十束程度で辺境伯家が恩に着るわけがない。こんな非効率な手は、外交のプロは打たない)


 では、なぜ。


 答えが出ないまま、フリーデは追伸への返答を書かないことに決めた。恩を売られたなら、無視が最も「借りを作らない」回答だ。感謝もしない。非難もしない。なかったことにする。


 それが一番、安全な距離だ。


 修正案の計算書だけを封筒に入れ、封蝋を押した。



 夕食の席で、父が言った。


「フリーデ。最近、楽しそうだな」


 スープを匙で掬う手が止まった。


「……楽しそう、ですか」


「ああ。王宮にいた頃より、ずっといい顔をしている」


(いい顔? 私が?)


 自覚がなかった。ただ帳簿を計算し、冬支度を手配し、帝国の将軍の修正案にいちゃもんをつけていただけだ。


「お父様。グランツ帝国の将軍から手紙が来ています」


 父の眉が動いた。だが、驚きはしなかった。


「アイゼンシュタイン将軍か。あの男は、三年前の交渉でお前に感心していた」


「……ご存知だったのですか」


「交渉後に、帝国の外交官を通じて『あの交渉官の名を教えてほしい』と打診があった。わしが断った」


 初耳だった。


「なぜ断ったのですか」


「王太子殿下の婚約者の名前を、敵国の将軍に教えるわけにはいかなかった。政治的に危険だ」


 父はスープに目を落とし、一口飲んでから言葉を続けた。


「──今は、違うがな」


 その言葉の意味を、フリーデは数秒かけて理解した。


(つまり今の私は自由だと。誰の婚約者でもない、独立した辺境伯家の令嬢だと。そういうことですか、お父様)


 父の顔を見た。寡黙な人は、表情で語る。目元に浮かんだ僅かな皺は──たぶん、笑っているのだ。


 返事の代わりに、スープを一口飲んだ。北部の野菜と骨で取った出汁。王宮の洗練された味とは違う。だが、温かかった。


 書斎に戻ったフリーデは、机に向かい──封筒に入れるつもりだった修正案の封書を、もう一度開いた。


 自分の書いた計算書を見返す。冬季・夏季の二段階運用案。中継点ごとの人員配置。馬車の重量制限から逆算した積載量。


(……我ながら、よくもまあこれだけ書いたものだ)


 こんなに細かい計算書を送ったら、あの将軍はどう思うだろう。「この女は仕事に飢えている」と笑うだろうか。


 笑わせておけばいい。計算が正しければ、それでいい。


 修正案の計算書に、もう一枚紙を足した。返信の手紙。


『アイゼンシュタイン将軍


 修正案を添付します。中継点の移動に伴う輸送コスト再計算と、冬季・夏季の二段階運用案を含みます。なお第三中継点は峠の南斜面ではなく、谷間の合流地点を推奨します。理由は添付の等高線分析をご確認ください。


 追伸のお心遣いについては、外交辞令としてありがたく承りますが、辺境伯家の冬支度に不足はございません。


  フリーデ・フォン・ノルトシュタイン』


 外交辞令。そう書いた。


 封蝋を押す手が、少しだけ迷った。この手紙を送れば、敵国の将軍と文通していることになる。辺境伯家の立場として──


(お父様は「今は違う」と言った。私は自由だ)


 迷いを振り切るように封蝋を押し、使者に渡した。


 書斎の窓から見える北の空に、星が出ていた。冷たい光。だが、澄んでいる。


(──あの将軍の字は、この星みたいだ。冷たいけれど、真っ直ぐで)


 何を考えているのだ、と首を横に振った。字の感想を述べている場合ではない。


 机の上には、まだ計算すべき数字が山ほどある。

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