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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第3話 光る文字


 北部の民は、冬の訪れを恐れなくなっていた。たった一人の令嬢が戻ってきた、それだけで。


 フリーデが辺境伯領に戻って一週間。北部五領の領主たちに宛てた備蓄の追加手配書はすでに発送を終え、最初の物資が動き始めていた。


 馬車の手配、中継地の確保、各領への配分比率。全てを三日で組み上げた。王宮にいた五年間と同じ速度で、同じ精度で。


 違うのは、書類の署名が自分の名前であること。たったそれだけだ。


「フリーデ様、北部のグラーフ領から返信です」


 使者が息を切らせて執務室に入ってきた。手には封書が五通。


「『備蓄手配に深く感謝する。フリーデ嬢が戻られたと聞き、領民ともども安堵している。我が領の冬は、貴嬢の手によって守られてきた』と」


 フリーデは小さく頷いた。安堵している、と言ったか。


(この人たちは、私が計画を立てていたことを最初から知っていたのだ)


 当たり前だ。現場の領主は紙の上の署名より、実際に誰が動いているかを見る。毎年冬の前に物資計画書を持って北部を回ったのは、クラウス殿下ではなく私だった。顔も名前も覚えられている。


 王宮だけが、紙の上の名前を信じていた。いや──信じたふりをしていた。


「他の四領からも同様の返信が来ております。中にはフリーデ様への贈り物を──」


「贈り物は辞退してください。私は辺境伯家の令嬢として当然のことをしているだけですから」


 声が硬かったかもしれない。使者が少し怯んだのがわかった。


(……感謝されるのに、慣れていない)


 五年間、一度も正面から感謝されなかった。殿下の名前で書類を出し、殿下の功績として報告され、殿下が社交界で賞賛を受けた。私はいつも書類棚の陰にいた。


 それで良かったのだ。仕事が回っていればそれで──


 使者が下がった後、フリーデは窓の外を見た。灰色の空に北風が唸っている。木々の梢がざわざわと揺れて、葉が一枚、二枚と散っていく。冬が近い。


(間に合う。この計算なら、今年の冬は越せる)


 ふと、机の隅に置かれた包みに気づいた。今朝届いたものだ。差出人の名前がない。


 開けると、保存食と厚手の毛布の束、それに暖炉用の薪炭が詰まっていた。質が良い。軍用に近い規格で、個人の商人が扱うものではない。包みの中に手紙や納品書は入っていなかった。


(出所不明の物資……。保存食に毛布に薪炭。冬支度の必需品を的確に選んでいる。品質は確か。北部への追加備蓄に回そう)


 差出人については後で調べる。今は民の命が先だ。


 ──不思議だ、とだけ思った。こんな時に、わざわざ匿名で物資を送る人間がいるなんて。


 包みの底に、小さな紙片が落ちていた。物資の目録が几帳面な字で書かれている。保存食の内訳、毛布の枚数、全て正確に。


 その字を見て、フリーデは首を傾げた。


(──この字、どこかで見た気がする)


 気のせいかもしれない。紙片を机の引き出しにしまい、フリーデは冬支度の計算に戻った。


 あのグランツ帝国の将軍から届いた手紙の返信は、まだ書いていない。返事を書くべきか。敵国の将軍の手紙に応じることが、辺境伯家の立場として正しいのかどうか。


(……でも、あの交易構想の概略図は気になる。第三中継点の配置さえ修正すれば、実現可能性がある)


 ペンが指の間で回った。癖だ。考え事をする時に、いつもこうする。


 ──迷いは、一瞬だった。


 気づいた時にはペンを取り、概略図の余白に書き込みを始めていた。第三中継点の問題点。冬季の雪封鎖による経路遮断リスク。代替案の概算。


 手が止まらなかった。


 一時間後、概略図は修正の赤字で埋め尽くされていた。あまりにも書きすぎて、もはや返信ではなく修正案になっている。


(……事務的に、一言だけ返すつもりだったのに)


 溜息をつきながら、封書にまとめた。簡潔な一文だけ添える。


『概略図の問題点を指摘します。修正案をご確認ください。──ノルトシュタイン』


 素っ気なすぎるだろうか。だが、これ以上書くと余計なことを書きそうだ。


 使者に手紙を託して、フリーデは冬支度の計算に戻った。


 窓の外で、北風が一段と強くなった。



 ──同じ頃、王宮。


 国王フリードリヒ三世は、執務室の机に積まれた書類の山と向き合っていた。


 過去五年分の政策書類。北部飢饉対策、南部交易路整備、東部鉱山利権調停。全て記録庫から引き出し、一枚一枚確認している。


 ランプの灯りに照らされた書類の上に、あるものが映った。


 光。


 淡い銀色に近い光だ。文字の一つ一つが、微かに──だが確かに光を帯びている。


 正式なインクには微量の魔力が含まれる。書いた者の意志の強さが、筆跡に宿る仕組みだ。心から信じて書いた文字は光り、形式的に書いた文字は光らない。古い魔法で、今では筆跡鑑定の補助に使われている。


 フリードリヒが手にしているのは、北部飢饉対策の第三次備蓄計画書。


 クラウスの署名がある。


 だが──署名だけが光っていない。


 本文は全て光っている。国を思う強い意志で書かれた文字。数字の一つ一つまで、淡い銀色を帯びている。


「……この字は」


 筆跡を凝視する。流れるような、だが極めて正確な字。数字の「7」に必ず長い横棒を引く癖がある。


 クラウスの字ではない。


 次の書類。南部交易路の最適化計画。やはりクラウスの署名があり、本文は光っている。署名だけが暗い。


 三枚目。四枚目。五枚目。


 全て──同じだった。


 五年分の重要政策書類が、同じ筆跡で、同じ光を帯びていた。


「ゲルハルト」


 隣に控える宰相を、静かに呼んだ。低い声で。


「は……陛下」


「この筆跡が誰のものか。わしに言えるか」


 老宰相ゲルハルトの顔から、血の気が引いた。目が泳ぐ。


「陛下、それは──」


「書類の本文が全て光を帯びている。国を想って書かれた文字だ。だが署名だけが暗い」


 フリードリヒは書類を持ち上げ、宰相の目の前に差し出した。


「つまり──署名だけが別人だ。本文を書いた者と、名前を書いた者が違うのだ」


 沈黙。


「お前は知っていたな。これが太子の字ではないことを」


 ゲルハルトの額に汗が浮いた。唇が開いては閉じるのを、フリードリヒは黙って見つめた。


「陛下……フリーデ嬢は太子殿下の補佐として──」


「補佐、か」


 声が一段低くなった。


「本文を全て書き、署名だけ太子に譲った者を、お前は補佐と呼ぶのか。それは補佐ではない、ゲルハルト。影武者だ」


 宰相が目を伏せた。


「五年だ」


 フリードリヒの手が、書類の束を机に戻す。紙が擦れる乾いた音が、静かな執務室に響いた。


「五年間、この国の北部も南部も東部も、あの娘一人が支えていた。お前はそれを知りながら黙っていた」


「……後任を育てれば問題はないと考えておりました」


「育ったか?」


 返答はなかった。


 フリードリヒは深く息を吐いた。怒りだけではない。それよりもっと深い場所にある感情──悔恨だ。自分もまた遅かった。あの大広間で婚約破棄を止められなかった。気づくのが、遅すぎた。


「……クラウスを呼べ」


「陛下──」


「後でよい。だが、必ずだ。逃がすなよ」


 ゲルハルトが頭を下げ、震える足で退室していった。


 一人になった執務室で、フリードリヒは光る書類をもう一度手に取った。


 淡い銀の光がランプの灯に溶けている。この光を灯した人間は、今、辺境の寒空の下にいる。


(フリーデ嬢──お前は、この国のためにどれだけのものを書いてくれたのだ)


 老王の目に、覚悟の色が宿った。


 遅すぎた、と。──だが、遅すぎることなどない、と。

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