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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第2話 空白の書類棚


 辺境伯領の空は、王都よりずっと広かった。


 馬車が領地の門を潜ったのは、王都を発って三日目の昼過ぎだった。石畳ではなく土の道。車輪が轍を踏むたび、柔らかい振動が体に伝わる。


 久しぶりの感覚だった。


 屋敷の前に、父が立っていた。ノルトシュタイン辺境伯ヘルマン。五十を過ぎても背筋の真っ直ぐな、北部の冬のように寡黙な人だ。


 馬車を降りたフリーデを見て、父は一言だけ言った。


「おかえり」


(……やっぱり)


 予想通りすぎて、少しだけ笑ってしまった。


「ただいま戻りました、お父様」


 婚約破棄のことは聞いているはずだ。伝書鳩はこちらの方が早い。でも父は何も聞かなかった。ただ「おかえり」と言って、先に立って屋敷に入っていった。


 その背中が、少しだけ、以前より小さく見えた。


 屋敷に入ると、使用人たちが並んで頭を下げた。「おかえりなさいませ、フリーデ様」。口々にそう言って、泣いている者までいる。


(……泣くことはないでしょう。私が婚約を破棄されただけなんだから)


 慰められるのは居心地が悪かった。自分が可哀想な人間だと思われるのが、どうにも性に合わない。


 案内された部屋は、五年前と同じだった。窓から北の山脈が見える、北向きの部屋。机の上に花が活けてあった。父の指示だろうか。


 荷物を置いて、窓を開けた。冷たい風が頬を撫でる。


 王都の空気とは違う。土と、木と、遠くの雪山の匂い。



 翌日から、フリーデは動き始めた。


 五年ぶりの辺境伯領は、記憶より少し荒れていた。父は軍事と統治に長けているが、民政の細かい計算は得意ではない。


 執務室の机に着き、領地の帳簿を開いた瞬間、体が勝手に動いた。指が数字を追い、頭が計算を始める。


(……北部の冬支度が、遅れている)


 ページをめくるたびに眉が寄る。備蓄量が足りない。昨年の収穫記録と照合すると、このままでは北部五領全体の食糧が冬の半ばで底をつく。


(これは、私が王宮にいた頃に仕込んでおいた備蓄計画の──)


 引き継ぎ。されていない。


 当然だ。あの計画を立てたのは私で、書類には殿下の名前しかない。殿下はそもそも計画の中身を理解していなかった。


 溜息が出た。深く、長い溜息。


「フリーデ」


 振り返ると、父が扉の前に立っていた。


「領地の帳簿を見ているのか」


「ええ。……北部の冬支度が遅れています。至急、備蓄の追加手配を」


 父は少し目を細めた。娘の顔ではなく、有能な実務家の顔を見たのだろう。


「任せる」


 短い言葉。だが、その三文字には「お前の判断を信じている」という意味が詰まっていた。


(……ああ。やっぱり、数字を追っている時が一番落ち着く)


 ペンを取り、計算を始めた。インクの匂いが鼻をくすぐる。王宮の書類室と同じ匂い。だが、ここには私の名前を消す人がいない。


 備蓄穀物の量、輸送に必要な馬車の台数、各領への配分比率──数字が頭の中で組み上がっていく。この感覚だけは、何年経っても変わらない。


 数字は嘘をつかない。数字だけが、いつも正直だった。



 ──同じ頃、王宮では。


 政策局の書記官、マティアスは途方に暮れていた。


 フリーデ嬢がいなくなって三日。書類棚に新しい政策書が一枚もない。北部五領への冬季物資輸送計画、南部交易路の更新申請、東部鉱山の採掘権調停案──全てが、止まっている。


「……フリーデ様がいつも、ここに書類を入れてくださっていたんです」


 マティアスは上司にそう報告した。声が震えていたのは、恐怖からだ。


 上司──政策局長は書類棚の前で立ち尽くした。空っぽの棚を見つめ、ゆっくりと目を閉じた。


「……太子殿下に報告を」


「殿下は、本日は聖女様と庭園にいらっしゃると……」


 沈黙が降りた。


 政策局の窓から見える中庭で、クラウス殿下とマリエル様が並んで歩いているのが見えた。笑い声が風に乗って聞こえる。


 マティアスは、空の書類棚にそっと手を置いた。フリーデ嬢がいつもここに書類を差し入れていた棚。指に触れた木の感触が、やけに冷たかった。


 誰も、この空白を埋められない。埋め方を、誰も知らなかった。



 辺境伯邸の書斎で、フリーデが冬支度の計算に没頭していた夕刻のこと。


 使用人がノックもそこそこに飛び込んできた。


「フリーデ様、お手紙です。──グランツ帝国の紋章が」


 差し出された封筒を見て、手が止まった。


 深紅の封蝋に刻まれた鉄鷲の紋章。グランツ帝国──隣国であり、国境を挟んで幾度も衝突してきた国。


 封を切る。中には簡潔な文面。


『ノルトシュタイン嬢


 三年前の国境交渉におけるあなたの交渉力を、私は高く評価している。

 一度、話がしたい。

 国境地帯の交易に関して、あなたに相談したい件がある。


  ヴォルフ・フォン・アイゼンシュタイン』


 ──この名前を、忘れるはずがなかった。


 三年前。国境紛争の交渉の席。ヴァイセン王国の代表団に随行した私の目の前に座っていた男。グランツ帝国の北方軍将軍。


 鋭い目。低い声。こちらの提案を黙って聞いた後、一言「補給線が弱い」と指摘してきた男。寡黙で、無愛想で、交渉の席では一切笑わなかった。


 ──その指摘は正しかった。悔しいほど、正確だった。だからこちらも彼の案の欠陥を数字で返した。彼の軍事輸送計画の第二中継点が地形的に脆弱だと、地図と数値を広げて証明した。


 あの交渉は三日間続いた。最終的に両国とも妥協した。


 三日目の最後に「見事だった」と、あの男は言った。低い声で、こちらを見ずに。外交辞令だと思った。たぶん、そうだろう。


(でも、なぜ今? 婚約破棄の噂はもう帝国にも届いているのか)


 帝国が弱みにつけ込んでくる可能性は十分にある。敵国の将軍からの手紙を、安易に信用するわけにはいかない。外交の基本だ。


 だが──封筒の中に、もう一枚の紙が入っていたことに気づいた。


 交易構想の概略図。国境地帯に商業拠点を設ける計画。粗い図面だが、発想は面白い。軍事的な要衝を商業拠点に転用するという逆転の発想──これは武人の視点ならではだ。


(この補給線の設計は……悪くない。でも第三中継点の配置が甘い。ここだと冬季に雪で封鎖される)


 指が、無意識にペンを探していた。


 ──返事を書くかどうかは、明日考えよう。


 そう思いながら、フリーデはその概略図を机の引き出しにしまった。


 鉄鷲の紋章が、ランプの灯に赤く光っていた。

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