第14話 裏方の卒業
朝の光が、昨日までとは違って見えた。
外交会議の翌日。フリーデは帝国宮殿の客室で目を覚ました。窓から差し込む冬の陽光が、白い壁を淡く照らしている。
昨日の出来事が、まだ夢のように感じられた。
国王が、両国の貴族の前で、私の名前を呼んだ。五年分の功績を認めた。クラウスの虚偽を暴いた。──それはもう、現実として起きたことだ。
だが──それで全てが解決したわけではない。
まだ、一つだけ決めていないことがある。
◇
午前中。帝国宮殿の中庭で、クラウスと再び会った。
今度は会議室ではなく、雪の積もった庭の東屋だ。二人きり。護衛は離れた場所に。
クラウスの顔は、昨日よりさらに憔悴していた。目の焦点が定まらない。一夜にして──王太子の仮面が完全に剥がれ落ちたのだ。
「……すまなかった」
最初の一言がそれだった。
婚約破棄の日には言わなかった言葉。「戻れ」と言った日にも言わなかった言葉。あの時は「お前の力が必要だ」と言った。自分の都合で。
今日は──ただ、「すまなかった」と。
「五年間、お前の名前を消し続けた。お前の仕事を盗み続けた。──全部、わかっていた」
声が震えている。
「わかっていて……止められなかった。お前が有能であるほど、俺の無力さが際立つのが怖かった。お前の計算書を見るたびに、俺は──何もできない人間だと思い知らされた」
フリーデは黙って聞いていた。
雪が、音もなく降っている。東屋の屋根を白く染めていく。
「殿下」
「……ああ」
「あなたの謝罪を、受け取ります」
クラウスが顔を上げた。
「ですが──許すかどうかは、別の話です。それは時間が決めることで、今の私には判断できません」
冷たい言葉だっただろうか。だがこれが、今のフリーデに言える精一杯の誠実だった。許すと嘘をつくより、許せないと正直に言う方がいい。
「……そうだな」
クラウスは小さく笑った。力のない笑みだった。だが──初めて見る、嘘のない笑みだった。社交の仮面ではない。ただの男の、疲れた笑み。
「お前は──帝国に残るのか」
「はい」
「そうか」
それ以上は聞かなかった。聞く権利がないことを、ようやく理解したのだろう。
クラウスが立ち上がり、一礼して去っていった。雪の中を歩く背中が、小さかった。来た時より──ずっと小さく見えた。
(……さようなら、殿下)
不思議なほど穏やかだった。怒りはとうに消えている。哀れみでもない。ただ──終わったのだ。五年間の透明な日々が。名前を消された日々が。全てが。
(あなたの苦しみは、あなた自身が乗り越えるしかない。でも──レオンハルト殿下が隣にいる。一人ではないはずです)
雪が少しだけ強くなった。東屋の屋根を叩く微かな音。冬は、もうすぐ終わる。
◇
昼過ぎ。国王フリードリヒ三世との面会。
皇帝の好意で用意された応接室。国王は椅子に深く座っていた。老齢の体が──昨日の会議で消耗したのだろう、少しだけ小さく見えた。
「フリーデ嬢。……改めて、礼を言いたい」
「陛下こそ、ご無理をなさったのでは」
「老人の最後の仕事だ。これくらいはさせてくれ」
小さく笑った。国王の笑みは──温かかった。
「帝国に残るのだな」
「はい。──申し訳ございません」
「謝ることはない。お前の人生は、お前のものだ。わしが言えるのは──遅くなって、すまなかったということだけだ」
フリーデは、頭を下げた。深く。
(この人もまた──後悔を抱えて生きてきたのだ。気づくのが遅かったという後悔を)
「レオンハルト殿下に期待しています。あの方なら──書類を自分で読みます」
国王が目を細めた。それは──どこか寂しげで、だが安堵した表情だった。
「……お前らしい評価だ。──ありがとう、フリーデ嬢。お前に出会えたことは、この老いぼれにとって──いや、この国にとって、幸運だった」
フリーデは頭を下げたまま、しばらく動けなかった。
(幸運だった、と言ってくれるのか。この人は)
五年間で初めて──王家の人間から、「ありがとう」ではなく「幸運だった」と言われた。感謝ではなく、出会いそのものを肯定する言葉。
目の奥が熱くなった。だが──泣かなかった。泣くのは、もう少し後でいい。
◇
夕刻。
帝国宮殿の廊下で、ヴォルフを見つけた。
いつもの場所。いつもの姿勢。壁に背を預けて、腕を組んで。通りかかるのを待っていたのか、偶然か。──きっと、待っていたのだろう。この人は偶然のふりをして、いつも近くにいた。
「将軍」
「ああ」
いつもの短い応答。だが──今日のフリーデは、いつもと違った。
「私は、帝国に残ります」
ヴォルフの目が、僅かに見開かれた。
「あなたのためではありません」
一瞬、将軍の表情が──凍った。
「私の意志で、ここにいます。誰かの裏方としてではなく。誰かに求められたからでもなく。──私が、ここにいたいから」
言い切った。声が、思ったより大きかった。廊下に反響した。
「私は、もう誰の裏方でもありません」
ヴォルフの表情が──崩れた。
あの鉄の顔が。寡黙で、無愛想で、感情を外に出さない男の顔が。
目元が歪んだ。唇が震えた。顎の線が──緩んだ。
「……よかった」
たった四文字。声が掠れていた。それ以上の言葉が出てこないのだろう。この人は──こういう時こそ、言葉を持たない人なのだ。
目を伏せた。長い睫毛が、冬の陽光に影を落としている。
(──泣いているのか。この人が?)
涙は見えなかった。だが、目を伏せたまま動かないその姿は──フリーデがこれまで見た中で、最も感情的なヴォルフの姿だった。
「……将軍」
「ああ」
「泣いても、いいのですよ」
「泣いていない」
嘘だ。声が詰まっている。
フリーデは──笑った。自然に。嬉しくて。
(この人は、私がいなくなることを──本気で恐れていたのだ。言葉にしなかっただけで。止めなかっただけで。ずっと)
窓から差し込む夕陽が、廊下を橙色に染めていた。二人の影が、長く伸びている。
並んだ影。同じ方を向いている。
フリーデは、隣に立つ男の横顔を見た。鉄の色の瞳。今は──少しだけ、潤んでいる。
(私は、この人の隣にいたい)
計算ではなく。利害でもなく。ただ──そう思った。
初めて、数字以外のもので、自分の居場所を選んだ。
──それは、五年間の裏方を卒業した瞬間だった。




