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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第14話 裏方の卒業


 朝の光が、昨日までとは違って見えた。


 外交会議の翌日。フリーデは帝国宮殿の客室で目を覚ました。窓から差し込む冬の陽光が、白い壁を淡く照らしている。


 昨日の出来事が、まだ夢のように感じられた。


 国王が、両国の貴族の前で、私の名前を呼んだ。五年分の功績を認めた。クラウスの虚偽を暴いた。──それはもう、現実として起きたことだ。


 だが──それで全てが解決したわけではない。


 まだ、一つだけ決めていないことがある。



 午前中。帝国宮殿の中庭で、クラウスと再び会った。


 今度は会議室ではなく、雪の積もった庭の東屋だ。二人きり。護衛は離れた場所に。


 クラウスの顔は、昨日よりさらに憔悴していた。目の焦点が定まらない。一夜にして──王太子の仮面が完全に剥がれ落ちたのだ。


「……すまなかった」


 最初の一言がそれだった。


 婚約破棄の日には言わなかった言葉。「戻れ」と言った日にも言わなかった言葉。あの時は「お前の力が必要だ」と言った。自分の都合で。


 今日は──ただ、「すまなかった」と。


「五年間、お前の名前を消し続けた。お前の仕事を盗み続けた。──全部、わかっていた」


 声が震えている。


「わかっていて……止められなかった。お前が有能であるほど、俺の無力さが際立つのが怖かった。お前の計算書を見るたびに、俺は──何もできない人間だと思い知らされた」


 フリーデは黙って聞いていた。


 雪が、音もなく降っている。東屋の屋根を白く染めていく。


「殿下」


「……ああ」


「あなたの謝罪を、受け取ります」


 クラウスが顔を上げた。


「ですが──許すかどうかは、別の話です。それは時間が決めることで、今の私には判断できません」


 冷たい言葉だっただろうか。だがこれが、今のフリーデに言える精一杯の誠実だった。許すと嘘をつくより、許せないと正直に言う方がいい。


「……そうだな」


 クラウスは小さく笑った。力のない笑みだった。だが──初めて見る、嘘のない笑みだった。社交の仮面ではない。ただの男の、疲れた笑み。


「お前は──帝国に残るのか」


「はい」


「そうか」


 それ以上は聞かなかった。聞く権利がないことを、ようやく理解したのだろう。


 クラウスが立ち上がり、一礼して去っていった。雪の中を歩く背中が、小さかった。来た時より──ずっと小さく見えた。


(……さようなら、殿下)


 不思議なほど穏やかだった。怒りはとうに消えている。哀れみでもない。ただ──終わったのだ。五年間の透明な日々が。名前を消された日々が。全てが。


(あなたの苦しみは、あなた自身が乗り越えるしかない。でも──レオンハルト殿下が隣にいる。一人ではないはずです)


 雪が少しだけ強くなった。東屋の屋根を叩く微かな音。冬は、もうすぐ終わる。



 昼過ぎ。国王フリードリヒ三世との面会。


 皇帝の好意で用意された応接室。国王は椅子に深く座っていた。老齢の体が──昨日の会議で消耗したのだろう、少しだけ小さく見えた。


「フリーデ嬢。……改めて、礼を言いたい」


「陛下こそ、ご無理をなさったのでは」


「老人の最後の仕事だ。これくらいはさせてくれ」


 小さく笑った。国王の笑みは──温かかった。


「帝国に残るのだな」


「はい。──申し訳ございません」


「謝ることはない。お前の人生は、お前のものだ。わしが言えるのは──遅くなって、すまなかったということだけだ」


 フリーデは、頭を下げた。深く。


(この人もまた──後悔を抱えて生きてきたのだ。気づくのが遅かったという後悔を)


「レオンハルト殿下に期待しています。あの方なら──書類を自分で読みます」


 国王が目を細めた。それは──どこか寂しげで、だが安堵した表情だった。


「……お前らしい評価だ。──ありがとう、フリーデ嬢。お前に出会えたことは、この老いぼれにとって──いや、この国にとって、幸運だった」


 フリーデは頭を下げたまま、しばらく動けなかった。


(幸運だった、と言ってくれるのか。この人は)


 五年間で初めて──王家の人間から、「ありがとう」ではなく「幸運だった」と言われた。感謝ではなく、出会いそのものを肯定する言葉。


 目の奥が熱くなった。だが──泣かなかった。泣くのは、もう少し後でいい。



 夕刻。


 帝国宮殿の廊下で、ヴォルフを見つけた。


 いつもの場所。いつもの姿勢。壁に背を預けて、腕を組んで。通りかかるのを待っていたのか、偶然か。──きっと、待っていたのだろう。この人は偶然のふりをして、いつも近くにいた。


「将軍」


「ああ」


 いつもの短い応答。だが──今日のフリーデは、いつもと違った。


「私は、帝国に残ります」


 ヴォルフの目が、僅かに見開かれた。


「あなたのためではありません」


 一瞬、将軍の表情が──凍った。


「私の意志で、ここにいます。誰かの裏方としてではなく。誰かに求められたからでもなく。──私が、ここにいたいから」


 言い切った。声が、思ったより大きかった。廊下に反響した。


「私は、もう誰の裏方でもありません」


 ヴォルフの表情が──崩れた。


 あの鉄の顔が。寡黙で、無愛想で、感情を外に出さない男の顔が。


 目元が歪んだ。唇が震えた。顎の線が──緩んだ。


「……よかった」


 たった四文字。声が掠れていた。それ以上の言葉が出てこないのだろう。この人は──こういう時こそ、言葉を持たない人なのだ。


 目を伏せた。長い睫毛が、冬の陽光に影を落としている。


(──泣いているのか。この人が?)


 涙は見えなかった。だが、目を伏せたまま動かないその姿は──フリーデがこれまで見た中で、最も感情的なヴォルフの姿だった。


「……将軍」


「ああ」


「泣いても、いいのですよ」


「泣いていない」


 嘘だ。声が詰まっている。


 フリーデは──笑った。自然に。嬉しくて。


(この人は、私がいなくなることを──本気で恐れていたのだ。言葉にしなかっただけで。止めなかっただけで。ずっと)


 窓から差し込む夕陽が、廊下を橙色に染めていた。二人の影が、長く伸びている。


 並んだ影。同じ方を向いている。


 フリーデは、隣に立つ男の横顔を見た。鉄の色の瞳。今は──少しだけ、潤んでいる。


(私は、この人の隣にいたい)


 計算ではなく。利害でもなく。ただ──そう思った。


 初めて、数字以外のもので、自分の居場所を選んだ。


 ──それは、五年間の裏方を卒業した瞬間だった。

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