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あの方を手放して国が傾かないと思っているのですか?  作者: 秋月 もみじ


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第13話 光と影


 外交会議の大広間は、婚約破棄のあの日と同じ造りだった。


 高い天井。シャンデリアの灯。居並ぶ貴族たちの顔。──ただし今日は、二つの国の紋章が並んでいる。ヴァイセン王国の銀の獅子と、グランツ帝国の鉄鷲。


 年に一度の両国外交会議。今年は帝国の宮殿で開催された。


 フリーデは帝国側の顧問席に座っていた。ヴァイセン王国の席ではなく──帝国の席に。


 その事実が、大広間にざわめきを生んだ。王国の貴族たちがこちらを見ている。驚き、困惑、そして──後ろめたさ。あの大広間で婚約破棄を見守っていた者たちだ。


(……久しぶりね。この視線は)


 だが、もう何も感じなかった。あの日と同じ視線。だが今の私は、あの日の私ではない。


 フリーデの隣に、ヴォルフが立っていた。軍服姿。腕を組んで壁に背を預けている。表情は普段通り──無愛想で、寡黙で、鉄のような顔だ。


 だが、その立ち位置が──フリーデの右隣。半歩だけ前に。


(……守っている。私の横に立って、守っているのだ)


 無言の行動。この人はいつもそうだ。言葉ではなく、行動で。



 会議が始まった。


 通常であれば、両国の外交官が交渉条件を読み上げ、形式的な挨拶が続く。だが今日は──国王フリードリヒ三世が、冒頭で異例の発言を行った。


「──両国の外交官に、王家として一つ報告がある」


 大広間が静まった。


 フリードリヒは玉座から立ち上がった。老齢の体を支えて、真っ直ぐに立った。その手に──淡い光を帯びた書類の束が握られていた。


「過去五年間、ヴァイセン王国の北部飢饉対策、南部交易路整備、東部鉱山利権調停──これらの政策は、全て王太子クラウスの功績として報告されてきた」


 クラウスの表情が強張った。隣に座っていたマリエルの手が、そっとテーブルの下に引っ込んだ。


「だが──」


 国王が書類を高く掲げた。大広間の灯りに照らされて、書類の文字が淡い銀色の光を帯びているのが、遠くからでも見えた。


「これらの書類の本文は、全てが光を帯びている。国を想う強い意志で書かれた文字だ。──だが、クラウスの署名だけが光っていない」


 ざわめきが大きくなった。


「筆跡鑑定の結果を報告する。五年分の全ての重要政策書類の本文は、同一人物の筆跡である。そしてその人物は──クラウスではない」


 沈黙。大広間の空気が張り詰めた。


 フリードリヒは書類を机に戻し、次の紙を取った。


「さらに──宮廷記録係の調書がある。政策局の書記官マティアスの証言によれば、毎朝書類棚に新しい政策書を入れていたのは太子ではなく、一人の令嬢だった。北部五領の領主全員が、同じ証言をしている」


 王国側の貴族席から、北部の領主たちが頷いた。彼らは知っていたのだ。最初から。


 大広間の全ての目が、クラウスに集まった。


 クラウスが立ち上がった。椅子が後ろに滑る音が響いた。


「父上──それは──」


「北部五領の領主たちの証言も取った。毎年冬の前に物資計画書を持って北部を回っていたのは、太子ではなく、一人の令嬢だった」


 フリードリヒの目が、帝国側の席を見た。フリーデを。


「フリーデ・フォン・ノルトシュタイン嬢」


 名前を呼ばれた。両国の貴族が列席する場で。国王の声で。


「五年間のあなたの功績を、ヴァイセン王国は正式に認める。北部飢饉対策、南部交易路整備、東部鉱山利権調停──全ては、あなたの手によるものだった」


 大広間が揺れた。ざわめきではない。衝撃だった。


 帝国側の席から、皇帝アウグストが軽く頷くのが見えた。知っていたのだろう。最初から──ヴォルフから聞いていたのかもしれない。


 フリーデは立ち上がった。足は震えていない。


「──陛下。ありがたきお言葉です」


 声も震えていない。背筋を伸ばして、真っ直ぐに国王の目を見た。


 五年間の全てが、今この瞬間に報われたわけではない。失った時間は戻らない。消された名前は、元には戻らない。あの書類棚の前で迎えた朝も、インクで染まった指を隠した夜も、なかったことにはならない。


 だが──認められた。


 公の場で。二つの国の貴族が列席する場で。国王の声で。


 フリードリヒの目に、あの日と同じ光があった。婚約破棄の日、玉座の上で拳を握りしめていた老王の目。あの時すでに、この人は気づいていたのだ。


(──遅かった。でも、来てくれた)


 胸の奥にあった氷の塊が、少しだけ溶けた。



「王太子クラウス・ライゼンベルクの王位継承順位を、第二位に降格する」


 フリードリヒの声は静かだった。だが、大広間の隅々まで届いた。


 クラウスが──崩れた。椅子の肘掛けを掴んだ手が白くなっている。膝が折れ、椅子に崩れ落ちた。


 弁明の言葉が口から漏れた。「違う」「あれは」──だが、形になる前に消えた。何を言っても、光らない署名が全てを物語っている。言い逃れのしようがない証拠だった。


 マリエルが、静かに席を立った。クラウスの方を一度も見ることなく。背筋を伸ばし、完璧な微笑みを浮かべたまま、大広間の隅に退いた。


(……あの人は、「王太子の婚約者」という地位が欲しかっただけだったのだ。王位継承第二位の男に、もう用はないということか)


 清楚な聖女の、静かな離反。誰も驚かなかった。


 フリーデはそれを見て──不思議と、何も感じなかった。怒りも、喜びも。ただ、事実として受け止めた。


 自業自得。誰も手を下していない。クラウスが自分の手で積み上げた虚構が、自分の重みで崩れただけだ。



 会議が再開される前の休憩。


 フリーデが大広間の隅で一人立っていた時、ヴォルフが近づいてきた。


 何も言わない。ただ、フリーデの横に立った。右隣。半歩前。──さっきと同じ位置に。


 そしてほんの僅かに──一歩、近づいた。


 肩と肩の距離が、拳一つ分縮まった。


(……一歩)


 たった一歩。だが、その一歩の意味を──フリーデは、もう誤解しなかった。


 守っている。私の隣に立って。言葉ではなく、体で。


 俯いて、唇を噛んだ。泣きそうだった。ここで泣くわけにはいかない。両国の貴族が見ている。


 ──だから、代わりに小さく笑った。


「……将軍。近いです」


「すまない」


 離れなかった。


 フリーデは笑いを噛み殺して、窓の外を見た。帝国の冬空。灰色の空に、薄い陽光が差している。


(──残ろう)


 決めた。ここに残ろう。この人の隣に。


 理由は──もう、計算では出せない。

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