第13話 光と影
外交会議の大広間は、婚約破棄のあの日と同じ造りだった。
高い天井。シャンデリアの灯。居並ぶ貴族たちの顔。──ただし今日は、二つの国の紋章が並んでいる。ヴァイセン王国の銀の獅子と、グランツ帝国の鉄鷲。
年に一度の両国外交会議。今年は帝国の宮殿で開催された。
フリーデは帝国側の顧問席に座っていた。ヴァイセン王国の席ではなく──帝国の席に。
その事実が、大広間にざわめきを生んだ。王国の貴族たちがこちらを見ている。驚き、困惑、そして──後ろめたさ。あの大広間で婚約破棄を見守っていた者たちだ。
(……久しぶりね。この視線は)
だが、もう何も感じなかった。あの日と同じ視線。だが今の私は、あの日の私ではない。
フリーデの隣に、ヴォルフが立っていた。軍服姿。腕を組んで壁に背を預けている。表情は普段通り──無愛想で、寡黙で、鉄のような顔だ。
だが、その立ち位置が──フリーデの右隣。半歩だけ前に。
(……守っている。私の横に立って、守っているのだ)
無言の行動。この人はいつもそうだ。言葉ではなく、行動で。
◇
会議が始まった。
通常であれば、両国の外交官が交渉条件を読み上げ、形式的な挨拶が続く。だが今日は──国王フリードリヒ三世が、冒頭で異例の発言を行った。
「──両国の外交官に、王家として一つ報告がある」
大広間が静まった。
フリードリヒは玉座から立ち上がった。老齢の体を支えて、真っ直ぐに立った。その手に──淡い光を帯びた書類の束が握られていた。
「過去五年間、ヴァイセン王国の北部飢饉対策、南部交易路整備、東部鉱山利権調停──これらの政策は、全て王太子クラウスの功績として報告されてきた」
クラウスの表情が強張った。隣に座っていたマリエルの手が、そっとテーブルの下に引っ込んだ。
「だが──」
国王が書類を高く掲げた。大広間の灯りに照らされて、書類の文字が淡い銀色の光を帯びているのが、遠くからでも見えた。
「これらの書類の本文は、全てが光を帯びている。国を想う強い意志で書かれた文字だ。──だが、クラウスの署名だけが光っていない」
ざわめきが大きくなった。
「筆跡鑑定の結果を報告する。五年分の全ての重要政策書類の本文は、同一人物の筆跡である。そしてその人物は──クラウスではない」
沈黙。大広間の空気が張り詰めた。
フリードリヒは書類を机に戻し、次の紙を取った。
「さらに──宮廷記録係の調書がある。政策局の書記官マティアスの証言によれば、毎朝書類棚に新しい政策書を入れていたのは太子ではなく、一人の令嬢だった。北部五領の領主全員が、同じ証言をしている」
王国側の貴族席から、北部の領主たちが頷いた。彼らは知っていたのだ。最初から。
大広間の全ての目が、クラウスに集まった。
クラウスが立ち上がった。椅子が後ろに滑る音が響いた。
「父上──それは──」
「北部五領の領主たちの証言も取った。毎年冬の前に物資計画書を持って北部を回っていたのは、太子ではなく、一人の令嬢だった」
フリードリヒの目が、帝国側の席を見た。フリーデを。
「フリーデ・フォン・ノルトシュタイン嬢」
名前を呼ばれた。両国の貴族が列席する場で。国王の声で。
「五年間のあなたの功績を、ヴァイセン王国は正式に認める。北部飢饉対策、南部交易路整備、東部鉱山利権調停──全ては、あなたの手によるものだった」
大広間が揺れた。ざわめきではない。衝撃だった。
帝国側の席から、皇帝アウグストが軽く頷くのが見えた。知っていたのだろう。最初から──ヴォルフから聞いていたのかもしれない。
フリーデは立ち上がった。足は震えていない。
「──陛下。ありがたきお言葉です」
声も震えていない。背筋を伸ばして、真っ直ぐに国王の目を見た。
五年間の全てが、今この瞬間に報われたわけではない。失った時間は戻らない。消された名前は、元には戻らない。あの書類棚の前で迎えた朝も、インクで染まった指を隠した夜も、なかったことにはならない。
だが──認められた。
公の場で。二つの国の貴族が列席する場で。国王の声で。
フリードリヒの目に、あの日と同じ光があった。婚約破棄の日、玉座の上で拳を握りしめていた老王の目。あの時すでに、この人は気づいていたのだ。
(──遅かった。でも、来てくれた)
胸の奥にあった氷の塊が、少しだけ溶けた。
◇
「王太子クラウス・ライゼンベルクの王位継承順位を、第二位に降格する」
フリードリヒの声は静かだった。だが、大広間の隅々まで届いた。
クラウスが──崩れた。椅子の肘掛けを掴んだ手が白くなっている。膝が折れ、椅子に崩れ落ちた。
弁明の言葉が口から漏れた。「違う」「あれは」──だが、形になる前に消えた。何を言っても、光らない署名が全てを物語っている。言い逃れのしようがない証拠だった。
マリエルが、静かに席を立った。クラウスの方を一度も見ることなく。背筋を伸ばし、完璧な微笑みを浮かべたまま、大広間の隅に退いた。
(……あの人は、「王太子の婚約者」という地位が欲しかっただけだったのだ。王位継承第二位の男に、もう用はないということか)
清楚な聖女の、静かな離反。誰も驚かなかった。
フリーデはそれを見て──不思議と、何も感じなかった。怒りも、喜びも。ただ、事実として受け止めた。
自業自得。誰も手を下していない。クラウスが自分の手で積み上げた虚構が、自分の重みで崩れただけだ。
◇
会議が再開される前の休憩。
フリーデが大広間の隅で一人立っていた時、ヴォルフが近づいてきた。
何も言わない。ただ、フリーデの横に立った。右隣。半歩前。──さっきと同じ位置に。
そしてほんの僅かに──一歩、近づいた。
肩と肩の距離が、拳一つ分縮まった。
(……一歩)
たった一歩。だが、その一歩の意味を──フリーデは、もう誤解しなかった。
守っている。私の隣に立って。言葉ではなく、体で。
俯いて、唇を噛んだ。泣きそうだった。ここで泣くわけにはいかない。両国の貴族が見ている。
──だから、代わりに小さく笑った。
「……将軍。近いです」
「すまない」
離れなかった。
フリーデは笑いを噛み殺して、窓の外を見た。帝国の冬空。灰色の空に、薄い陽光が差している。
(──残ろう)
決めた。ここに残ろう。この人の隣に。
理由は──もう、計算では出せない。




