第12話 選択
三年ぶりに会った元婚約者は、少しだけ痩せていた。
帝国宮殿の応接室。暖炉の火が静かに燃えている。窓の外は雪。その白い光を背に、クラウス・ライゼンベルクが立っていた。
帝国側の配慮で、この面会は完全に非公式とされた。ヴォルフが「彼女の判断に任せる」と言い、皇帝が「好きにさせてやれ」と言った。帝国は干渉しない。あくまでフリーデ個人とクラウス個人の対話だ。
部屋に入った瞬間、フリーデの目は自然とクラウスの姿を分析していた。計算する癖だ。相手の状態を、数値化する癖。
王太子の威厳は──まだ残っていた。背筋は伸び、顎は上がり、目は真っ直ぐにこちらを見ている。社交の場で培った姿勢は、骨に染みついているのだろう。だがその目の下に以前はなかった隈がある。頬の肉が落ちて、顎の線がより鋭くなっている。指先が微かに震えていた。
(……眠れていないのだ。この人も。国が傾いている重圧は、さすがにこたえているのか)
意外だった。クラウスが苦しんでいるとは思わなかった。聖女マリエルに寄り添われ、社交界で笑っていると思っていた。
「フリーデ」
呼び捨てだった。婚約中と同じ呼び方。まるで何も変わっていないかのように。
「……クラウス殿下」
フリーデは敬称をつけて返した。もう婚約者ではない。対等な貴族同士の呼び方だ。その一語の距離を、クラウスは感じ取ったのだろう。僅かに眉が動いた。
「国のために戻ってくれ。──お前の力が必要だ」
予想通りの言葉だった。予想通りすぎて、何の感情も湧かなかった。
「必要。──私の、何が必要なのですか」
「交易路の再建。北部の飢饉対策。東部の鉱山利権。全てだ。お前がいなければ回らない」
「それは──殿下が五年間、ご自分の功績として報告されていた政策のことですか」
空気が凍った。
クラウスの表情が強張る。唇が開いて、閉じて、また開いた。
「……それは」
「あなたは、私の名前を政策書類に書いたことがありましたか?」
静かな声だった。怒りではない。非難でもない。ただ、事実を確認しているだけだ。
五年間。何百枚もの政策書類。全てクラウスの署名。本文を書いたのは私。クラウスはそれを知っていた。知っていて、一度も──一度も、私の名前を書かなかった。
クラウスが沈黙した。長い沈黙。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
「……書かなかった」
認めた。目を伏せて。声が──震えていた。王太子の声ではなく、一人の男の声で。
「王太子としてのプライドが邪魔をした。お前が優秀であればあるほど、俺が何もしていない人間に見えた。それが──耐えられなかった。お前の計算書を見るたびに、自分の無力さを突きつけられている気がした」
暖炉の火が爆ぜた。橙色の光がクラウスの顔を照らす。
「マリエルは──俺を必要としてくれた。お前はしなかった。お前は俺ではなく、書類を必要としていた」
(……それは。それは──否定できない)
フリーデは唇を噛んだ。クラウスの言葉には、一片の真実があった。確かに私は殿下の自尊心を満たすことをしなかった。書類の方が大事だった。殿下の言葉より数字を信じた。
だがそれは──理由にはならない。
(殿下が私の名前を消す理由にはならない。私が評価されない理由にはならない。殿下のプライドのために、私の五年間が透明にされていい理由にはならない)
「殿下。あなたの苦しみはわかります」
嘘ではなかった。
「でも──わかることと、許すことは違うのです」
クラウスが顔を上げた。
「殿下。私はもう、あなたの裏方には戻りません」
「フリーデ──」
「名前を消される場所には、もう戻れないのです。──殿下が私の名前を書かなかった五年間を、なかったことにはできません」
それだけ言って、フリーデは立ち上がった。足が震えていないことを確認した。震えてはいけない。ここで震えたら、五年間の自分を裏切ることになる。
クラウスは何も言わなかった。言えなかったのだろう。椅子に座ったまま、暖炉の火を見つめていた。その横顔が──初めて、王太子ではなく、ただの男に見えた。
◇
応接室を出た廊下で、ヴォルフが待っていた。
壁に背を預けて腕を組んでいる。会話は聞こえていなかっただろうが、フリーデが出てくるのを待っていた──それは確かだった。
「……将軍」
「終わったか」
「ええ」
短いやり取り。ヴォルフはそれ以上何も聞かなかった。クラウスが何を言ったかも、フリーデが何を答えたかも。
代わりに、別のことを言った。
「フリーデ嬢。──王国が正式に帰還を求めている以上、あなたにはその選択肢がある」
(……何を言い出すの、この人は)
「帰るべきだと思うなら──止めはしない。あなたの意志を、誰かが決めてはならない」
止めはしない。
その言葉が、クラウスの「戻ってくれ」よりもずっと深く刺さった。
(行けと言うの? この人は──私を手放す気なのか)
違う、とどこかでわかっていた。ヴォルフは私を手放したいのではない。私に「自分で選んでほしい」と言っているのだ。命令ではなく。懇願でもなく。ただ──選択を渡している。
クラウスは「戻れ」と言った。自分の都合で。国の都合で。
ヴォルフは「行けるぞ」と言った。私の都合を、最優先にして。
その違いが──今のフリーデには、辛かった。辛すぎた。「戻れ」と言われた方がまだ楽だ。反発できる。「行け」と言われると──反発できない。反発する相手がいないのだから。
「……わかりました」
声が掠れた。
ヴォルフの横を通り過ぎる時、将軍の手が僅かに動いたのを見た。伸ばしかけて──止めた。何かを掴もうとして、やめたのだ。
(掴んでくれれば──いいのに)
その思いを、フリーデは飲み込んだ。
自分の部屋に戻って、扉を閉めた。鍵をかけた。
窓の外は雪だった。白い、白い、何もかもを覆い隠す雪。
(「戻れ」と言った男と、「行け」と言った男)
どちらが本当に私を想っているのか。
答えは──もう出ている。出ているのに。認めるのが怖い。認めたら最後、「仕事のパートナー」という安全な言葉の裏に隠れていられなくなる。
暖炉の火が弱まっていく。薪を足す気力がなかった。
フリーデは暖炉の前に座り込んで、膝を抱えた。
今夜は、計算をする気になれなかった。頭の中で回っているのは数字ではなく、ヴォルフが伸ばしかけて止めた──あの手のことだった。




